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大戦後の東南亜細亜1

東南アジアに領土を持っている以上、避けられないと思います。史実に比べて遥かに独立心が強くなっているはずです。しかも、早くから。お約束のベトナム戦争は起こるかわかりませんが、興してみました。

 一九五○年の中国共産勢力によるチベット侵攻において皇国軍は積極介入し、これを阻止している。その後、チベットは中華民国に属することとなったが、一九五九年の動乱により、一九六〇年には独立を宣言、中華民国側もこれを受け入れている。その影には皇国の暗躍もあったとされるが、双方ともこれを否定している。現在、チベット国軍は皇国製兵器で装備を固めているという事実があるだけであった。


 一九五九年の中印国境紛争(中国共産勢力とインド)では、皇国軍は消極介入、アクサイチン地区の大半はインドの領土となって終結、現在でもインドと中華人民共和国との間で問題となっている。


 一九五五年のマリアナ事変以来、米国は中華民国以外には軍事介入は行っていなかった。しかし、一九六〇年に勃発したベトナム戦争は違った。皇国や仏蘭西を差し置いて積極的に介入している。理由は中越国境において多くの米陸軍兵が死傷する戦闘が起こっていたからだといわれる。中越国境での戦闘において米兵を攻撃した彼らはソ連製の武器を使用していたのである。


 このベトナム戦争、皇国軍は一切の介入をしていない。介入したのは一九七六年の米軍撤退作戦から戦後の一年間であった。その多くは治安維持と残されていた米兵の保護であったといわれる。以後、ベトナムは共産主義国家として統一されることとなった。


 このベトナム戦争は米ソの代理戦争であったが、米国は空陸とも完敗することとなる。その結果、米国は亜細亜地域から撤退することとなり、その多くは中華民国海南島、フィリピン、グアムへの駐留はするが、紛争に介入することはなかった。


 このベトナム戦争勃発一〇年後に皇国軍が積極介入した国があった。それはカンボジア王国であった。皇国軍はベトナムとの国境を封鎖、ベトナムからの避難民のみ受け入れ、軍事的関与を拒絶している。人道的見解から医薬品などに限って双方に供与していた。王政を拒否していた勢力には議会を開くことを約束し、当時の王であったノロドム・シハヌーク国王には皇国や英国、当時のタイ王国のように立憲君主制議会主義国家への移行を提示している。


 王政反対派のクメール・ルージュはこれを拒否した。そのため、内戦が勃発、皇国陸軍との戦闘も起きていた。皇国軍はクメール・ルージュ上層部を壊滅させ、改めて立憲君主制議会主義国家への移行を強行している。以後、五年間日本軍は駐留し、一九七七年に日本軍は撤退している。その後、幾つかの国内紛争は起こったものの、現在は安定した国家が存在する。


 一九七七年一二月、在ラオス日本皇国大使館杉江清一書記官夫妻殺害事件をきっかけに皇国軍が進駐、徹底的な調査が行われるも原因や犯人は不明であった。以後一〇年間に渡り、皇国軍が駐留することとなるが、その間に政治形態が二度変わっている。皇国軍が駐留した際には共産主義国家であったが、三年後には王政が復古、その二年後には民主共和制となって現在まで続いている。


 ソ連はこれには皇国軍が関与しているとしているが、皇国政府および皇国軍は否定している。このとき、皇国軍がとったのは万単位におよぶラオス政府関係者を自国領へ短期留生としての派遣であったといわれる。その多くは瑞穂州や秋津州であり、皇国本国へはわずか数人しか渡航していないとされている。これはカンボジアでも取られていたが、ラオスほど大掛かりなものではなかった。いずれにしても皇国の関与があったのは事実であろう。


 ともあれ、軍事目的がなく皇国軍が相手国に駐留したこの事件は国連でも問題とされたが、外交官の殺害という事件であるから皇国政府は譲らなかった。最終的に法的に見て時効が成立したとして、一九八七年に同国から撤退している。以後、国交が結ばれ、親日国家として東南亜細亜に存在する国家である。


 一九四八年に英国から独立したミャンマー(旧ビルマ王国)は国内で紛争が多発していた。一九六二年には軍事クーデターが起こり、以後安定するかに思えた。一九八〇年に皇国人記者が殺害されるに及んで、ラオスに進駐していた皇国軍の一部がミャンマーに進駐、ミャンマー国軍との衝突が起こる。これがきっかけとして皇国軍がミャンマーに正式に駐屯することになった。このとき、皇国軍には二〇名の死者が発生していたからである。


 皇国政府は軍人であれ、民間人であれ、自国国民の死傷者がでた事件には黙っているつもりはなかった。即刻軍派遣というわけではないが、政治的も軍事力的にも圧力をかける政策を採っていたのである。この政策は以後も継続されることとなる。


 この皇国軍の駐留がミャンマーの民主化の動きを加速させることとなる。一九八二年、総選挙が実施され、民主化勢力の圧勝を受けて一九八五年議会が設置され、八八年にはミャンマー連邦国が誕生することとなった。議会が設置されて以後も民族紛争が多発するも、皇国軍は時には強権発動も行い、積極的に治安に関与していたとされる。ミャンマーから皇国軍が撤退するのは九〇年になってからであった。


 この二国に対する軍派遣は国連での反発も多く、一時皇国の評価を落とすこととなるが、短期間(といっても一〇年は長いという国も存在する)であったこと、皇国軍の撤退以後は大きな紛争が起きていないこと、比較的国内が安定していたことから評価が回復することになった。


 これ以後、東南亜細亜では内情はともかくとしても外交的には紛争がなくなることになる。次に皇国軍が介入するのは一九九八年のインドネシアとティモール島の紛争であった。二〇〇二年、この紛争はティモール共和国として新しい国家の誕生をもって終結することとなった。


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