米国の焦り
日米が戦っていなければ、同盟関係になければどうなるか。おそらく史実の米ソに近い関係かもしれません。ともに相手を仮想敵国とみなした準備をするのではないでしょうか。さらに、中国での影響力を考えればなおさらかもしれません。
第二次世界大戦中、米国は参戦することはなかった。大戦後半になって武器弾薬を英国を中心とする連合国へ売却することしかしていない。さらに末期になってやっと義勇軍として部隊を派遣している。この間、せっせと中華民国や南米などに兵を派遣していたに過ぎない。当時の大統領、ロバート・タフト大統領の孤立主義政策のためであった。末期になって民衆や議会の圧力に屈する形で欧州戦に関与することとなった。
その米国が再び世界に目を向けるのは第二次世界大戦後のことであった。それは第二次世界大戦に参戦することがなかったため、なんら得るものなく当時の独逸で開発されていた先端技術が英国と皇国に独占され、何も手に入れられなかった、というのがその理由であったといわれる。また、戦後新たに設立された国際連合の常任理事国となったものの、その権限は日英仏に比べて小さかったからであるともいわれている。
事実、英国はともかくとして皇国は新技術の開発と導入には積極的であった。フォン・ブラウン博士は皇国に招かれ、沖縄県嘉手納でロケット実験を繰り返していたし、この技術を応用したロケット弾が開発されていた。航空機ではクルト・タンク博士が関与して新鋭ジェット戦闘機である四八式ジェット戦闘機<疾風>(史実のノースアメリカンF-86<セイバー>に似た機体)、四九式ジェット攻撃機<新星>などが次々と正式採用されていたのである。
この四八式ジェット戦闘機<疾風>は後に多くの国に輸出され、<ハヤテ>として親しまれている。総生産機数二万機を越えるベストセラー機となっていた。後期型はレーダーを搭載した全天候型に変化してもいた。東南亜細亜やアフリカでは一九八○年代まで現役で稼動していたようである。
この当時の米国ではF80(史実のロッキードF-80<シューティングスター>)が最新鋭であり、ロケット弾も皇国のものに比べると性能が劣っていたとされる。当然として米国は焦った。自らがモンロー主義に回帰している間に英国や仏蘭西との技術格差は広がり、あろうことか、皇国にまで遅れをとっていたのである。
米国は英国からの技術導入を図り、二年後にはF86<セイバー>(史実のノースアメリカンF-86<セイバー>そのもの)を完成させている。艦艇でもそれまでの戦艦主兵論から航空主兵へと転換を図り、航空母艦においても史実の「ミッドウェー」型を建造している。それ以後、米国は世界中の紛争および戦争に介入することとなっていった。
もっともそれが現れたのが中東戦争であったといわれる。ユダヤ人国家イスラエル建国に向けて英国や米国が動くなか、周辺国家との戦争が勃発することとなる。途中からは英国を差し置いて米国が主導権を握るようになる。それは国内に多くのユダヤ民族を抱える米国としては当然の行動であったかもしれない。皮肉にもこれが米国の軍事技術向上に繋がってゆくことになった。
一九五一年一○月、英国が同地域を撤退し、ユダヤ人国家建国計画が頓挫するにおよんでも米国は居座ることとなり、米国対アラブ民族という後々まで尾を引く戦いはこのときに始まったといわれる。結局、一九五三年の国連決議で米ソの同地域撤退が三対二で可決され、一九五四年同地域は安定を取り戻すことになった。
この後、ユダヤ民族国家建国は頓挫し、極東亜細亜の東イスラエル建国へと向かい、ユダヤ民族の多くは東イスラエルに流れるようになる。結果的に、劣悪な環境にもかかわらず、かの地は発展を遂げることとなり、反比例するように米国から多くのユダヤ資本が流出することとなる。これが米国に与えた影響は大きく、一時的とはいえ、米国経済は停滞することとなった。
その後も中南米、アフリカと米国の介入は続くこととなる。結果的にそれが米国の軍事技術向上に繋がることとなる。ただし、例外的に東欧と東南亜細亜には介入することはなかった。東欧と東南亜細亜には皇国が介入していたからである。
東亜細亜でも米国は極力介入を避けているようであったが、これら地域での例外は中華中央であり、中華民国であった。中華民国の一億五〇〇〇万人という市場は米国にとって魅力的な市場だったのである。中華共和国や満州国は皇国寄りであるため、米国にとっては市場規模はそれほど大きいものではなかった。
中南米やアフリカは未発達であり、兵器以外では良好な市場とはいえなかった。しかし、中国は違った。満州国では識字率は八〇パーセント以上であり、徐々に向上しつつあった。中華共和国でも改善傾向にあり、文盲率は二〇パーセント以下であった。中華民国では若干高めの文盲率四〇パーセント台であった。年々教育程度が高くなり、GDPも上昇していることから市場としての魅力は十分であったとされる。
しかし、米国をもっとも慌てさせたのが東亜細亜条約機構の形成であったといわれている。皇国が対共産勢力包囲網としての条約締結を呼びかけたのが始まりであったとされる。参加国は日本皇国、東露西亜国、東イスラエル国、満州国、中華共和国、中華民国、大韓帝国であった。このなかには米国の介入する余地はなかったのである。
同じころ、同様の趣旨で欧州条約機構が成立している。こちらにも米国の介入する余地はなかった。確かに欧州各国の戦時国債を多数購入し、それなりの影響力はあったものの、第二次世界大戦で一滴も血を流さなかった米国には軍事的に介入する余地は残されていなかった。
この当時、欧州の北海、地中海沿岸では皇国製の小艦艇、多くは「睦月」型駆逐艦、「吹雪」型駆逐艦、「初春」型駆逐艦、「白露」型駆逐艦、「朝潮」型駆逐艦、「択捉」型海防艦、「鴻」型海防艦が供与あるいは売却され、配備されていた。航空機においても英国製や皇国製が配備されており、米国製の艦艇や航空機が配備されている地域は少なかった。つまるところ、戦後しばらくは軍需民需とも米国製品が参入する余地はほとんどなかった。これが後に日米が衝突する原因となったといえる。




