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移民国家現る

今考えればかなり無理があると思います。せいぜい、東南亜細亜の大陸のどこか、マカオとか海南島とかフィリピンのどこかにしておけば無理はなかったかもしれません。なぜインドネシアなのか忘れてしまいました。プロットが残っていれば、書き直せたと思いますが、ファイルが消えていました。

 扶桑州や瑞穂州、秋津州という領土とは何であろうか、扶桑州とは樺太島全島であり、瑞穂州とはボルネオ島北部と東部をあらわし、秋津州とはニューギニア島西部と周辺の島からなる。史実ではそのような領土は有していない。第二次世界大戦中一時占領していたことはあるが、憲法に表記されるような領土ではないのである。


 扶桑州に住む彼らは何者であったかといえば、戦国時代に伊達政宗や徳川家康に敗れた武将であり、江戸時代を通じて流された人々であったといわれる。よく知られていることであるが、江戸時代、飢饉が起こると人減らしと称して移民が行われていたが、その移民も含まれていたといわれる。


 彼らは原住民であったアイヌ人と交わり、時として流れてきた露西亜人とも交わり、その勢力を拡大していったといわれる。一八五五年には江戸幕府からも露西亜帝国からも独立した勢力を築いていたのである。江戸幕府からは幾度となく支配下に入るよういわれていたが、それを是としなかったとされる。そのため、江戸幕府軍とは幾度となく紛争が起き、第一次から第三次まで江扶戦争が発生している。しかし、彼らはそれをすべて撃退し、独立を守り通したのである。


 史実では樺太島の北緯五〇度線以南の南樺太を日露戦争の勝利で露西亜より割譲されているが、この世界では樺太島に関しては日本とロシアとの国境は規定されておらず、代わりに安政元年(一八五五年)の扶露(扶桑国と露西亜帝国との間に交わされた)条約において露西亜から独立国と定められていた。しかし、日本(江戸幕府)は独立国とは承認せず、日本の支配地域であるとしていたのである。このとき、樺太島には既に二〇〇万人を超える日本人およびその混血者が住んでおり、露西亜と戦い、樺太島を自己の領土として国を興していたのである。


 扶桑国が日本の中央政権下に入ったのは一八九一年一一月二九日に日本皇国憲法が施行されてからである。が、それまでも明治政府軍との戦争が起きており、明治政府軍を撃退している。戦後の一八八〇年から独立国として日本(明治)政府との間で交渉が行われていたとされる。明治天皇の勅使が天皇の言葉、同じ日本民族として対話を望む、を伝えたことの結果として対話が始まったといわれている。しかし、彼らが本当の意味で皇国国民たりえたのは日本皇国憲法が施行されてからであり、以後は扶桑州と称されることになる。日露戦争では皇国陸軍として朝鮮半島に上陸し、扶桑州に進軍してきた露西亜軍と戦い、対岸のハバロフスク地方の一部まで占領している。


 扶桑国が明治政府軍を撃退した当時、かの国の軍備は当時の日本軍よりも勝っていたとされている。露西亜帝国との交易が盛んであったため、当時の先端技術が流れ込んでいたためである。また、技術力も当時の日本より優れており、規模は小さいながらも重工業(銃器や弾薬の製造など含む)も発展していたといわれていた。このため、発足したばかりの当時の明治政府や軍に与えた影響は大きいといわれている。


 この扶桑国と同様に日本の中央政権下に入った地域があった。それが瑞穂国、秋津国の二国である。この二国の成り立ちも扶桑国と似たものであった。織田信長や徳川家康に敗れた武将やその家臣が主体となって起こった国であった。彼らは英国人や和蘭人の手を借りて日本を脱出、南へと向かったのである。


 瑞穂国はボルネオ島北部に造られた日本人集落が元となった国であった。むろん、最初に上陸した彼らは望んでその地に来たわけではなかったが、彼らを運んだ英国人や和蘭人の仕業であったといわれている。その後、幾度となく英国人や和蘭人による移民がなされ、江戸中期には自ら船を操り、日本との交易(多くは長崎や堺、近江の商人との密貿易)すら行っていたといわれている。


 一八○○年には独立を果たし、当時の西欧列強にも瑞穂国として知られ、太平洋に乗り出すまでになり、多くの島にその足跡を残していたとされる。この時点で日本人は一五〇万人、日系人は一○○万人に達していたともいわれる。日本人が多いのは日本からの移民(多くは反徳川の武将や家臣、飢饉時における移民)が長く続いたためであろう。


 瑞穂国が日本史の表に出てくるのは幕末のことである。幕末には瑞穂国と名乗り、江戸幕府との交易、日瑞貿易すら行われていたとされる。欧米列強との交易が長かったこともあり、彼らの技術力は当時の日本をはるかに超えていたといわれる。彼らもまた日本本国とは二度の戦争(一度は馬関戦争、二度目は瑞穂秋津連合対日本)を経験しており、日本皇国国民たりえたのは一八九一年の日本皇国憲法施行後のことであった。その当時の日本人および日系人の人口は八〇〇万人にも達していたといわれている。


 最初に彼らを運んだ英国人にしてみれば、島の開拓をさせ、収奪するつもりであったのだろう。しかし、彼らは英国人の予想以上に強かだったのである。人口が増えるに従い、彼らの船に乗り込むようになり、そして知識を得ていき、ついには自分たちだけで船を建造し、航海するようになっていったのである。そうして彼らが最初に行った任務は日本からの移民であったとされる。当時の江戸幕府では飢饉のたびに人減らしと称して移民という名の棄民が行われていたとされる。そうした移民の結果、瑞穂国は人口を増やしていったとされる。もちろん、移民は日本人だけではなく、清や朝鮮からも行われていたと記録には残されている。


 秋津国はニューギニア島西部に作られた日本人集落が元となった国であった。彼らもまた和蘭人の助けによって日本から脱出してきた武将やその家臣であった。彼らのほとんどがキリシタン大名であり、豊臣秀吉のキリシタン禁止令から逃れてきた者たちであり、移民はその後も続けられた。そして、一八○二年に瑞穂国と接触、以後急速に人口が増えていくこととなる。新しい地域で一旗上げようと瑞穂国から旅立つ人間が多くいたのである。一八四〇年には独立を果たし、海洋に乗り出してゆくまでになっていた。


 秋津国も瑞穂国と同様に日本史の表に出てくるのは幕末のことである。が、彼らもまた日本との交易を行っている。しかし、秋津国と国名が出てくるのは明治維新後であり、それまでは瑞穂国の一地方だと江戸幕府では認識されていたようである。彼らもまた日本本国との戦争を経験している。日本皇国国民たりえたのは日本皇国憲法施行後のことであり、当時の人口は五〇〇万人であったとされている。


 瑞穂国にしても秋津国にしても日本民族が根付いたのは英国人や和蘭人による継続的な移民が続いたことが挙げられる。また、これほど短期間に人口が増えたのはなぜか、それはこれら地域で米が栽培可能であったからだといわれている。いうまでもないが、日本人の主食は米である。米さえあれば、生きていくことが可能であったのだ。また、非合法手段によって両国に来た民族も清国人や朝鮮人であり、米を主食とする民族であったことが大きいだろう。


 これら二国は日本(明治政府)との戦争に負けたわけではない。否、負けたのは明治政府側であった。海の戦いでは明治政府海軍は所有艦の二/三を失うことになった。清国との関係が険悪になってゆくなか、軍備を整えたい明治政府海軍は政府に一刻も早い政治解決を迫った。明治政府陸軍も扶桑国との戦闘に敗れ、政府に解決を迫っていた。そうして対話が進むこととなった。そして、この時点でほぼ固まっていた大日本帝国憲法を白紙に戻し、四ヶ国による修正が加えられ、一八九一年に公布されることになったのが日本皇国憲法であった。


 そうして一八九二年、新生日本皇国陸海軍が誕生することとなる。しかし、その最初の訓練において事件に巻き込まれることになる。それが日米による布哇事変である。


 第一聯合艦隊(日本国海軍および瑞穂州海軍、秋津州海軍、扶桑州海軍からなる)が合同訓練と称して布哇に向かったのは一八九二年一二月のことであった。途中、艦隊運動訓練や射撃訓練などを行いつつ、布哇港に到着したのは翌年の一八九三年一月一七日のことであった。


 おりしも、サンフォード・ドールとロリン・A・サーストンによるクーデターが起きており、リリウオカラニ女王は幽閉状態となっていた。瑞穂州海軍指揮官佐山啓太郎少将は陸戦隊を編成し、幽閉状態にあったリリウオカラニ女王を救出、ドールとサーストンを拘束することに成功した。秋津州海軍指揮官松平平四郎少将は艦隊をアメリカ海軍軍艦『ボストン』に相対させた。


 リリウオカラニ女王は皇国の援護の元、一八八七年のクーデターによるカラカウア王の修正憲法(銃剣憲法)の破棄を宣言、さらに首謀者であるドールとサーストンおよび過去のクーデターに関与した人物に対して国外退去を命ずる。さらに、英国に習って議会を開くことを宣言、英国に習った立憲君主制議会民主国家への移行も宣言する。


 このとき、第一聯合艦隊には英国海軍将校が三名乗艦していたことが事変で済ませることとなったといえるだろう。結果的にこれが布哇王国の独立を守り、米国の布哇領有を阻止することとなった。また、日本と米国の衝突を避けることとなる出来事であった。この結果として日本皇国海軍の練習艦(主に下仕官候補練習艦が毎年布哇を訪れることになる原因でもあった。しかし、正規軍艦艇が訪れることは逆に減少することとなる原因でもあった。


 これが黒船来航以来の近代米国海軍と新生日本皇国海軍との初の遭遇でもあったとされる。当時の日本皇国海軍にとって仮想敵国は清帝国であり、米国を印象付ける出来事ではなかったとされる。


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