大韓帝国
史実のように日本が朝鮮半島に投資していなければどうなるかということです。おそらく、史実のように朝鮮半島は発展しないでしょう。また、満州国と日本領となったウラジオストックがあるので、朝鮮戦争は起きないと考えられます。善悪はともかくとして、日本の投資があればこその大韓民国の発展だと考えられます。台湾も、当時の世界最大のダムがあればこそ、その後の発展があったと思われるからです。
一八九五年四月一七日に締結された講和条約により、清の束縛から逃れることになった朝鮮は李氏が露西亜より帰国、国号を大韓と改め、ここに大韓帝国が誕生することになった。しかし、当時の皇国は大韓帝国の併合を視野に入れた政策をとることになる(後に併合ではなく、影響を残す方針へ変更される)。これによって一部では反日感情が高まることになり、日韓関係は険悪となっていった。
しかし、中には皇国の政策を支持するものも多くいたといわれている。反日感情が強かったのは李氏朝鮮による旧体制派が多く、皇国の政策を支持するのは知識人に多かったといわれている。旧体制派と知識人による改革派との争いは日露戦争終結まで続くことになった。
日露戦争に勝利した皇国はこれまでの大韓帝国重視から一転、新たに得た満州全土の権益の維持および更なる開発に力を入れ、朝鮮半島への介入は激減することになる。皇国が行ったのは自国の政治体制の押し付けであったといわれる。結果として、一進会をはじめとする知識人からなる改革路線を歩み、旧体制派の権力は大きく削がれることとなる。
第一次世界大戦終結後一年を経た一九二〇年、世界は一応の平和を迎え入れたころ、大韓帝国は騒然となる事実を突きつけられることとなる。皇国の影響下に入った満州の自ら以上の発展ぶりと、未だ政情不安から脱せない自分たちとの歴然たる差を知ることとなったのである。
遼東半島には自国とは比べ物にならないほどの工業都市が形成され、満州から皇国に輸出される鉄鉱石などの原料、皇国からの加工品が陸揚げされ、満州全土にいきわたる。かって自らよりも遅れていたといわれた満州地域がいまや自国が足元にも及ばないほど発展していたのである。このままでは満州に遅れをとることになってしまう、と焦った大韓帝国は皇国に更なる支援を要請することになる。
それに対する皇国の対応は以前ほど熱心なものではなかったといわれる。皇国の影響を受けて二五年にもなる大韓帝国とわずか一五年の満州との差がどこにあるのか、かって、同じように皇国の影響(大韓帝国内では支配といわれる)を受けていたのに、である。改革路線を歩んでいたとはいえ、未だ旧体制派による搾取やその影響は残っていたとされ、それが国内開発に影響していたとされた。
それでも皇国は半島への投資を満州に比べれば少ない(その満州ですら自国領である扶桑州や瑞穂州、秋津州、台湾州に比べれば微々たるものであったとされる)が続けられていた。その多くは軽工業といわれる繊維産業であり、満州のように重工業ではなかった。
それでも、微々たるものではあるが、大韓帝国も近代化に向かって歩むこととなっていたのは、中国大陸における国共内戦があったからだといえる。欧米や皇国が援助する中華民国は当然として、表に出せないが、共産勢力との、密貿易すら行われていたといわれる。皇国は朝鮮経由で中国の資源を入手し、共産勢力の情報を入手していたといわれる。
一九二九年、朝鮮を驚愕させる出来事が起こる。国境を接していた満州に新たな国が興る。満州国の出現であった。さらに彼らを驚かせたのが台湾の発展ぶりであった。皇国と満州に次ぐ(大韓帝国では皇国領ではなく独立した地域と認識していた)工業力を有していたのである。
こうして大韓帝国は制限していた欧米列強資本を無制限に受け入れることとなる。英国や米国、和蘭や仏蘭西などの資本導入を図るようになる。つまり、脱皇国資本を目指したのである。しかし、市場規模として満州国にはるかに及ばず、国民生産高も大してない大韓帝国に魅力を感じる国はなかったし、皇国と満州国以外の欧米列強は未だ皇国の支配下にあると認識していたといわれる。
一九三九年、第二次世界大戦が勃発する。一九四〇年六月、第二次日ソ戦争が始まる。なんだかんだといいながらも皇国が大韓帝国に投資していたのは半島がソ連の支配下に置かれては自国の安全にもかかわってくるからであった。民間への投資は少なくても軍への投資は多かったといえる。ほぼ無償で武器弾薬などを供与していたのである。
北方にあった大韓帝国軍三個師団六万人のうち、いずれの師団も上層部は皇国の将校あるいは皇国で兵教育を受けた人物が多数存在した。これら軍に対しては最新鋭とはいえないまでも新鋭兵器を供与しているが、それ以外の軍(他に三顧師団が存在した)は旧式兵器を供与されるにとどまっていた。これら北方の軍は前年に起きたナチン事変にかかわることとなり、ソ連による朝鮮半島侵入は阻止されている。
第二次日ソ戦争終結後、皇国による軍事支援は激減するようになる。この時点でソ連の半島進出はまずないと判断されたからである。東は皇国軍が支配下におき、北には満州国が広がるため、陸路によるソ連軍の半島進入は満州国が敗退しない限りあり得ないとされたのである。
第二次世界大戦中、皇国軍は一三〇万人に及ぶ軍を欧州に派遣している。このとき、大韓帝国にとって戦争景気が起きている。大戦中のため、価格の高い国産繊維よりも価格の安い大韓帝国産繊維が好まれ、加工品が皇国を経由して欧州に輸出されたのである。これまでとは比較にならない皇国との貿易高であった。皇国国内や満州国からは利益の高い武器弾薬が輸出されていくが、日常品の中でも大韓帝国で入手可能なものは皇国経由で欧州に運ばれていったのである。製品の精度よりも安さで選ばれていたのである。
大韓帝国にとって大戦中がもっとも経済に与えた影響が大きいといえただろう。大戦終了後の一九四六年以降、貿易量が減り、一九五〇年には元に戻ってしまうことになった。この時期、ようやく重工業が軌道に乗り始めた時期でもあったが、製品の競争力は低く、建国されたばかりの東露西亜国や東イスラエル国にすら劣っていたといわれる。
一九六〇年代までは中華中央や東南亜細亜、南米などへの輸出があり、一時期発展し、軌道に乗るかと思われたが、皇国資本が東南亜細亜諸国に進出し、現地の安い労働力で製造する製品に勝てなくなり、輸出が低調となる。これは厳しい皇国の工業規格に準じた製品の精度が安定しているのに対して、それほど厳格な工業規格を有していない精度がまばらな製品との差といえただろう。
中華中央が安定化して二〇年後、一九八九年、東亜細亜では大韓民国(一九七○年、国号を大韓民国と改める)は中華人民共和国についで所得の低い国となる。満州国はともかく、中華民国や中華共和国にすら劣る国内総生産高しか有しない状態に陥る。中華中央を分断する形で成立したのが中華共和国であり中華民国そして中華人民共和国であった。これらの国では未だ国境付近では小競り合いが続くもののそれなりの安定化傾向にあったとされる、
中華民国には米国が、中華共和国には皇国が主に支援し、分裂後二〇年を経てそれなりに発展していた。特に東亜細亜では皇国に次ぐ地位を争っているのが満州国と中華共和国であった。軍事力はともかく、経済的にも高成長を見せている。満州国で人口一億五〇〇〇万人、中華共和国は一億八〇〇〇万人、中華民国で一億七〇〇〇万人という巨大な市場を形成しているのである。中華人民共和国は推定で四億人とされるが実態は不明であった。
軍事力的には総合で中華共和国が皇国に次ぐものであるが、こと陸軍に限れば、東露西亜国が群を抜く規模であった。ソ連との長大な国境線を有するかの国は常設四〇個師団を有し、航空勢力も新旧合わせて一五〇〇機を有するが、海上戦力は巡洋艦を四隻、駆逐艦を二四隻有するにすぎない。中華共和国は常設陸軍が三〇個師団、航空戦力は一〇〇〇機、海上戦力は戦艦二隻、巡洋艦六隻、駆逐艦四八隻を有する。満州国は陸軍が常設二五個師団、航空戦力は一〇〇〇機、海上戦力は巡洋艦二隻、駆逐艦二〇隻を有する。中華民国は陸軍が常設三二個師団、航空戦力八〇〇機、海上戦力が戦艦二隻、巡洋艦四隻、駆逐艦三二隻を有する。それに対して大韓民国は常設四個師団、航空戦力二〇〇機、海上戦力は駆逐艦三二隻である。しかも、それぞれ自国でライセンス生産あるいは建艦できるのに対して大韓民国はそれすら適わず、完成したものを輸入するにとどまっている。