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大戦後の皇国軍の動き

ご指摘も受けましたが、書いている本人もご都合主義過ぎると思っています。書き直そうと思ったのですが、話の都合上、そのままとしました。英国追従政策を取っている以上、皇国が間違っていたとしても、正しいと思わせる、そのあたりを突っ込んで書けばよかったと反省しています。簡単に言えば、史実のアメリカほどではないにしても、アメリカに近くなるのではないか、そういうことで書いていたと思います。軍については次回で説明できれば、と思います。

 第二次世界大戦後新たに結成された国際連合では、日英仏米ソが常任理事国として名を連ねていた。史実のように米国主導ではなく、英国主導で結成された国際機関であった。ソ連を加えることは皇国は反対したのであるが、第二次世界大戦をというよりも独逸との戦争の勝利者であったことから加えることとなった。もっとも、政府首班がスターリンではないこと、第三次日ソ戦で多くの地域を日本に割譲したことも最終的に日本が賛成した理由でもあった。米国は終戦直前の四六年に義勇軍と称して少数の部隊、多くは空軍であった、を派遣していたことと、欧州各国の国債購入による影響からの常任理事国入りであった。


 皇国は国際連合常任理事国の中で非キリスト教国家であり、非白色人種国家であり、亜細亜唯一の国家でもあった。しかし、常任理事国であるがゆえに、それ相応の軍備を有し、発生するそれらの紛争や戦争に皇国軍が介入することも多くなっていた。それは皇国に負担を強いることになり、皇国経済にも影響を与えることとなる。


 第二次世界大戦後の世界は紛争、戦争、内戦と動乱にあふれているといえた。その原因として考えられるのが皇国であるといえた。欧州はもともとが白色人種による支配地域であった。そこに有色人種である皇国軍が当時の欧州リーダーと目されていた英国軍と共同で、しかも対等に戦っていたのである。欧州中原では独逸軍と戦い、北欧ではソ連軍と戦い、東欧でもソ連軍と戦って勝利している。


 東南亜細亜では和蘭軍や仏蘭西軍を一掃している。亜細亜でこれまで欧州列強に支配されていた被支配国民は日本人にできて自分たちにできないことはない、そう考えても不思議ではない。ましてや、東南亜細亜では古くから独立している国であった。そもそもが、日露戦争で当時の欧州最強といわれた露西亜帝国を破った、そのことが亜細亜の民族自立の目覚めであったといえるのである。


 まず皇国が最初に直面したのは、一九四八年(史実では一九四六年)、インドネシア独立戦争である。これは英国が関与しているため、皇国としてはいかんともしがたい状況であった。結局、このとき皇国がとった手段は中立、であった。このときの主力部隊は和蘭であり、一二万人の兵力を投入していた。英国は一個旅団、英印軍一個師団を投入していたため、皇国軍は中立を守ったといわれる。


 そもそも、この独立戦争のインドネシア側リーダーであるスカルノやハッタは皇国軍が和蘭を退けた際、開放していたのである。彼らが独立戦争を起こすのは当然といえただろう。また、彼らは瑞穂州の発展ぶりを直に見ており、瑞穂州にも入国していた。そして、このインドネシア独立闘争は発足したばかりの国際連合を有効に活用し、独立を勝ち取っていることは注目に値するだろう。


 同じ一九四八年(史実では一九四六年)には仏領インドシナでもベトナム民主共和国と仏蘭西との独立戦争が起こっており、こちらでも皇国は中立に徹している。大戦中、皇国はインドシナ方面には戦力を出しておらず、関与のしようがなかったこともある。もっとも瑞穂州の対岸であるから皇国としても無関係というわけではなかった。ではあるが、瑞穂州でも秋津州でも独立時には多くの血を流した戦いをしていたからこそ、安易な介入は避けたかったのも事実であった。


 一九四七年のギリシャ内戦は皇国軍がバルカン半島に駐留していたことから介入するはずであったが、ギリシャ亡命政府は英国が支援していたため、当初、皇国は介入することはなかった。しかし、ギリシャ共産党が出現したころから皇国が積極的に介入し、史実ほどの疲弊をギリシャが蒙ることはなかったとされる。


 一九四八年に起きた印パ戦争においては皇国軍が国連軍として積極的に介入し、原因となっていたカシミール地方の処遇は住民投票によって決定され、インド領であるとして停戦している。そもそも、インドもパキスタンも一九四七年に英国から分離独立したが、独立当初から争いは続いていたといわれる。


 この当時、皇国の主な輸出産業は何であったかといえば、武器輸出であった。中国では未だ内戦が収まらず、一九四〇年代から武器売却、武器供与は続いており、東露西亜国や東イスラエル国、大韓帝国、満州国、中華共和国などがあった。成立したばかりの東露西亜国や東イスラエル国、中華共和国では未だ工業は発展しておらず、どうしても近隣で世界有数の工業国である皇国に頼らざるを得ない状況が続いていた。ましてや東露西亜国は共産主義国家であるソ連と国境を接しているのである。中華共和国にしても共産党軍との戦いは続き、中華民国とも時に争いが起きている状況である。


 第二次世界大戦後、世界各国が軍縮の流れに向かっていたため、皇国は大戦時に使用した余剰兵器などは東露西亜国や東イスラエル国、満州国、中華共和国に供与あるいは売却されていたといわれる。特に東露西亜国には皇国軍の余剰兵器の七割が供与あるいは売却されていた。これは皇国政府および軍上層部がソ連軍の極東地域侵攻を予想していたといえる。結果的にソ連軍を撃退し、東露西亜国誕生に大きくかかわったことになる。


 武器輸出は何も陸上兵器だけに限らなかった。海軍艦艇にも及んでいる。その多くは駆逐艦など小型艦艇であったが、大型艦も売却されている。とはいえ、戦艦など大型艦は所有できても運用自体が難しく、維持にも莫大な費用がかかるため、売却先は限られていたが、巡洋艦は人気があったといわれている。結局、「長門」型戦艦二隻は布哇王国に、「紀伊」型戦艦の『紀伊』『尾張』は東露西亜国に、『越前』『備前』は中華共和国に売却されている。巡洋艦は「妙高」型重巡洋艦、「高雄」型重巡洋艦が布哇王国や東イスラエル国、中華共和国に売却されている。


 もっとも人気のあったのが「吹雪」型駆逐艦、「択捉」型海防艦、「鴻」型海防艦で、各地域に供与あるいは売却されている。皇国海軍としてはこうして旧式化した艦艇を効率よく処分していったといえる。しかし、「択捉」型海防艦、「鴻」型海防艦は一九六〇年まで建造が続けられ、南米や東亜細亜、東南亜細亜、地中海沿岸国など多くの国が採用していた。


 武器輸出といえばあまり良い印象は与えないが、皇国はあくまでも国対国の取引であり、いわゆる死の商人とはまた異なる。また、紛争の発生地に売却されることはなく、基本的に国防のためと規定されている。さらにいえば、皇国内では生産量で軍需だけで四割以上超える会社は存在しない。企業全体で見ても、六割以上が民需である必要が規定されている。瑞穂重工や秋津重工、扶桑重工、三菱など兵器製造会社でも兵器製造が四割を超えるところは存在しない。このあたりは国税局や外務省の監視が厳しいといえた。これが米国と異なるところであった。


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