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世界大戦直後の日本軍

東欧を影響下に置くことが可能かどうか考えますが、善悪はともかくとして、大日本帝国時代の日本なら可能だったかもしれません。前作でも同様の作戦がありましたが、どうなるか・・・・ もっとも、ソ連と直接国境を接するのは避けなければならないでしょう。

 第二次世界大戦終結後、皇国陸軍は独逸に三顧師団、東欧のバルカン半島に四個師団が駐留する。独逸への駐留は一九五〇年まで続くが、四八年には二個師団、四九年には一個師団に減じられ、最後の一年間は一個旅団と段階的に減らされる。日本軍の独逸駐留は独逸占領ではなく、ソ連軍に対する備えといえた。その証拠に、三個師団のうち機甲師団を含む二個師団は北独逸に駐留している。当然、それらの部隊にはポーランドを含めた北欧の監視も任務に入っていたとされる。


 東欧であるが、皇国軍の駐留は一九五二年まで続くこととなる。こちらの部隊はバルカン半島の治安維持もあるが、主任務はやはりソ連軍の監視とされていた。一九五〇年に起きた牟田口事件により、もともとの遣欧派遣部隊と入れ替わる形で三個個師団に部隊数が減じられている。部隊の多くはソ連と国境を接する国の各地に駐留していた。


 一九五〇年に起きた牟田口事件が欧米から非難を浴び、一時皇国陸軍の撤収まで取りざたされたが、結局は国際連合の要請という形で一個師団を減じて継続されることとなった事件である。それは、単一民族国家(この世界では必ずしもそうとはいえないが)である日本人的な考えを持つ第二八師団師団長牟田口廉也中将が民族紛争に業を煮やした結果、同一民族を国替えするように強引に移動させ、その結果、混血児は除いて民族別にまとまることになった事件である。しかし、この一連の民族移動は非難も多く、実行命令を出した牟田口廉也中将は後に第二八師団師団長を解任、軍歴剥奪の処分を受けている。


 もっとも、この事件の後、少なくとも一国内における民族間による紛争は少なくなったとされる。結果的に紛争を防ぐことになったと後年いわれるが、牟田口中将の名誉は回復されることはなかったといわれている。もっともこういった事件は皇国軍の駐留する場所では規模はともかくとして何度か起きているのも事実であった。これはほぼ単一民族国家で単一言語を有する皇国軍であるが、彼ら自身も多民族国家の状況を理解していたからこその事件でもあったといわれる。


 戦後一年を経た四八年、世界は一応の平和を得たと思われた。欧州中原では主な戦争当事国は勝者であれ、敗者であれ、一応の安定化を取り戻しているといえた。独逸は多くを制限されたが、国として存続する。監視部隊として駐留していたのはなにも皇国軍だけではない。英国軍も二個師団が駐留し、オーストラリア軍やニュージーランド軍も多くはないが駐留し、英国連邦軍としては三個個師団に相当する軍が駐留していた。


 皇国軍の独逸駐留軍には戦後新たに編成された部隊が混じっていた。皇国で新たに編成された駐留軍には多くの技術将校が含まれ、歩兵部隊は通常の半分に過ぎない。それが意味するところは独逸軍の技術の調査にあったとされている。それはなにも皇国軍だけではなく、英国軍においても同様のことが成されていたとされる。一九四九年には米国やソ連軍も少数であるが軍を派遣している。しかし、それまでに独逸軍が有していた兵器や試作段階の兵器のデータの多くが日英によって持ち去られていたといわれる。それほど日英は独逸軍の新兵器や技術獲得に真剣だったのである。


 皇国の場合は徹底しており、資料だけではなく、現物や技術者も含めた人材も条件付ながら自国に連れ帰っている。彼らは五年を経て帰国を許されるが、その多くは皇国本土や皇国領に残留していたといわれる。それほど皇国政府や皇国軍は彼らを厚遇したのである。有名なところではV-2号を開発したフォン・ブラウン博士、フォッケウルフTa152戦闘機の開発者であるクルト・タンク博士などがいた。


 独逸は史実のような東西分割を逃れ、独逸共和国として存続し、ポーランドもソ連支配下ではなく、資本主義国家として存在する。北欧ではフィンランドは皇国軍の援助もあって冬戦争以前の国土を回復、資本主義国家として対ソ包囲網の先陣を切る形となった。バルト三国は独立を宣言するが、国内において共産主義勢力と資本主義勢力の内戦が勃発して最終的にソ連邦入りしている。結局のところ、これら地域ではソ連による共産主義輸出と援助があり、それがソ連邦にとどまるとされている。


 戦後、ソ連による共産主義輸出は行われているが、それは何も北欧やソ連周辺国だけではなく、東欧や中東、亜細亜にも及ぶことになる。亜細亜では中国共産党やベトナムホーチミンが現時点で表に現れ、内戦状態であり、東欧でも共産主義の浸透があり、内戦状態の国も存在する。また、アフリカ、中南米、中東、西亜細亜でも起こっており、独立紛争や民族紛争が多発する。


 それとは別に宗教戦争も多発することになる。特に中東における宗教戦争や民族紛争は後を絶たなくなっていたとされる。これが史実でイスラエル建国が成されたが、この世界では頓挫している理由であったとされる。中東には英軍および米軍が国連軍として派遣されており、皇国軍は連絡士官は派遣しているが、軍としてまとまった戦力は配備していない。


 皇国にとっては北欧や東欧のソ連軍の方が重要であったのである。第二次世界大戦終結当時、皇国はソ連と国境を接しており、極東へのソ連軍の増強を防ぐためにも北欧や東欧でソ連と国境を接する地域への軍派遣は避けられないものであったとされる。それは一九四八年一月の第三次日ソ戦争終結まで続くことになる。


 一九四七年五月の第三次日ソ戦争勃発時、皇国陸軍一〇個師団二○万人、皇国海軍は戦艦四隻、空母四隻を含む八〇隻の艦隊が欧州各地に在った。残りの陸軍二五個師団、海軍艦艇四〇隻あまりが帰国の途についていたといわれる。もっとも、第三次日ソ戦争は陸空の戦いであり、主力部隊としてソ連軍に応戦したのは露西亜帝国亡命政府軍であって、皇国陸軍は航空機を用いた後方支援に徹していたことから大幅な戦力は必要なかったといわれる。


 皇国政府がかっての宿敵である露西亜帝国皇帝が亡命してきたとはいえ、受け入れたことに当時の欧州列強は奇異な目で見ていたと言われる。欧州では血縁関係などあって複雑な状況であったが、皇国とは何のつながりもないのである。つながりといえば、第四皇女アナスタシアがニコラエフスクに滞在していたことくらいであった。ではあるが、東露西亜国が建国されるに及んで欧州では皇国の狙いを初めて理解したといえるだろう。


 それは欧州でもあったことである。独自作戦としてポーランドへの三個師団の上陸作戦、独逸国内に進撃した連合軍の中で、皇国軍三個師団がわき目も振らず北独逸地方に進軍したこと、アレキサンドリアやマルタ島、シチリアに在った陸軍部隊のほとんどの東欧のバルカン半島への進撃など、連合軍部隊として外れた一部独断での行動、それらすべての行動の真相が誰の目にも明らかになったのが東露西亜国の建国が宣言されたことによるものであった。


 そう、一九四八年一月の時点で、ソ連はユーラシア大陸に東西から封印される形になっていたのである。環境が劣悪な東シベリア、中央亜細亜と中東での包囲が不完全であったことが、後にこれら地域で宗教戦争と民族戦争が多発する原因となりえたといわれる。バルカン半島は史実に比べれば格段に紛争が少ない地域となっていたのである。


 しかし、国際連盟の欠点を補う形で新たに設立された国際連合常任理事国たる皇国は以後、莫大な経済負担と軍事費負担から逃れることはできなかったといわれる。それは皇国の周辺事情も関係していた。中国問題や東南亜細亜問題、さらには布哇以東の東部太平洋を除く地域が皇国にゆだねられていたからである。


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