東南亜細亜
通院でおそくなりました。とりあえず中国とロシアはぼろぼろになるし、東南亜細亜では史実以上に分裂するでしょう。特に和蘭領が・・・・・ おそらく、和蘭女王の発言の影響だと思います。
一九四一年一二月八日に始まった南遣艦体による攻撃により、親独和蘭軍とビシー仏蘭西軍は水上艦艇をほぼ消失し、陸上部隊も松平兼道中将率いる第一三師団二万名がジャワ島に、山下奉文大将指揮下の第五軍二個師団四万名がスマトラ島に展開、シンガポールにある英軍とともに仏領インドシナ以外の東南亜細亜一帯を掌握していた。
以後、特に戦闘もなく日英により同地域は安定していたといえる。 一九四三年の英陸軍の北アフリカ上陸作戦が発動して以後、大隊規模の駐留軍を残して英軍は欧州へ転進、その肩代わりを皇国軍が行うようになった。一九四六年六月一七日、第二次世界大戦終結とともに皇国軍はこれら地域から撤退することになり、英軍は陸軍一個師団、空海軍も植民地維持のための最低の軍が派遣されてきた。オランダ領スマトラ島やジャワ島にはそれまで捕虜として処遇されていた和蘭軍、陸軍のみが再びこれら地域を掌握する。そして最後の皇国軍が撤退を完了したのが四七年初頭のことであった。
その後、英領マレーやビルマ、シンガポール、仏領インドシナ、蘭領スマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島で独立運動が激化する。特にジャワ島やボルネオ島で激しい運動が起こり、武力衝突すら起こるようになる。英国はうすうすながら気づいていたのかもしれない。だが、和蘭は寝耳に水だったようである。
そもそも、これら地域では史実よりも早い段階で独立運動が起こっている。理由は明白で、瑞穂州や秋津州が存在し、彼らは宗主国である英国人や仏蘭西人、和蘭人などと対等に接しているのを見ていたからであろう。とりわけ、ボルネオ島ではそれが強かったとされる。同じ島の上に彼らが存在したからである。
瑞穂州や秋津州でも英国や和蘭から独立する際には多大な犠牲を払っていたのである。前にも触れたように、彼らは国を追われて落ち延びてきた日本人である。それを手助けしたのが和蘭人であり英国人であった。棄民という名の移住が続いたことにより、人口も増え、それなりの教養を持っていたからこそ、支配されることを良しとせず、自らによって国を興すことを選んだのが彼らの独立のきっかけであったといえる。
瑞穂州は一八○○年の独立までは和蘭人や英国人、西班牙人、葡萄牙人に搾取されていたといわれる。彼らは支配されながらも知識を得てそれを自分たちのものにしていったのである。船を造り、航海術を学び、彼ら支配者と同じく海に乗り出していったのである。独立戦争、それを勝ち抜いたからこそ、今の瑞穂州があった。
秋津州は一八四〇年の独立であるが、彼らは瑞穂州ほど自立の意識がなかったとされる。かの地に最初に降り立った日本人は確かに国を追われた武将であったかもしれないが、安住の地を得ることにより、満足していたのかもしれない。しかし、一八○二年に瑞穂州の日本人と接触したことが彼らの意識を変えていったといえる。瑞穂州からの人口の流入もあり、二〇年後には自力で船を建造し、荒海へと乗り出していった。搾取を逃れるための戦いを経て独立を果たす。
むろん、彼らとて自分たちの住む島の統一を考えたはずである。しかし人口がそれをおしとどめ、また先住人たちや和蘭人の抵抗が強かったこともあり、成し遂げることが適わなかったというのが本当のところであろう。瑞穂州はボルネオ島の北一/四と東側二/三を有している。秋津州はニューギニア島島の西半分有している。
当然ながら明治維新後の日本とは相容れない部分もあった。そのための瑞穂日本戦争も幾度か起きている。秋津日本戦争も起きているのである。明治維新後の皇国は日清戦争、日露戦争と単独で戦い、勝利している。しかし、内戦日本本土は彼らに負けているのである。日本海軍は瑞穂海軍、秋津海軍に完膚なきまで負けている。日本陸軍はこの二国とは戦ってはいないが、彼らとて扶桑州陸軍に二度と歯向かえないほどに負けている。
そんな彼らがなぜ日本の属州となることを選択したのであろうか、それは望郷の念にあったといわれている。明治憲法も彼らを受け入れるためには当初のものから内容を変更せざるを得なかっただろう。当然ながら、それは教育、とりわけ軍人教育にも大きな影響を及ぼしたとされている。
そのような状況を知りえていた列強植民地はどうであったか。当然何がしかの情報はあったであろうし、直接触れてもいるはずである。同じ黄色人種が白色人種に対等に渡り合うのを見ては自分たちも、と考えない方がおかしいというものであろう。ましてや、ジャワ島やスマトラ島では、親独政府軍を追い落とす場面すら見ている。
英国はインドのこともあり、植民地経営はすでに成り立たないことを理解していたといえる。史実ほどもめることもなく、自国の影響下での独立を認めることとなる。マレーシアやビルマ、シンガポールは早々に独立を果たす。元宗主国としての意地は見せ、不平等条約を結んでしまう。これら地域が純然たる独立国として認められるのは一九六○年に入ってからである。
仏蘭西は仏領インドシナの独立を早々に認めることになる。ナチス独逸に蹂躙された国土を持つ仏蘭西では、植民地よりも自国の復興が第一とされため、植民地経営を続けることができなかったのである。が、これら地域は後々、多くの問題が発生することとなった。南北に分かれてあるいは国王派と共和派、政府軍と共産勢力に分かれての内戦が長く続くことになる。
和蘭は蘭領スマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島の植民地経営を続けようとするが、これら地域では独立運動が激しいものとなり、植民地維持すら困難になる。そして彼らは悟ったのである。親独逸政権に属した植民地軍が皇国軍に負けたことが理由であると、彼らと同じ有色人種が白色人種である彼らを負かし、あまつさえ捕虜としていたことが現地住民の考えを変えたのだということに気づく。あわてて英国に習って自国の影響下で独立、不平等条約を結ぼうとするが、国際連合がそれを認めず、独立が認められてしまい、影響力を残すことすらできなかった。
結局のところ、有色人種である皇国人が白色人種である宗主国人たちと対等に付き合ってるということがこれら地域の独立を早めたということであろう。史実でも日本は亜細亜唯一の先進国たりえたのかもしれない。内戦にあけくれた中国を除いて日本は国際社会にその名を知られることになったのであろう、と思われる。日本の方針がほんの少し方向が違っていればまた別の世界が起こっていたのかもしれない。ともあれ、この世界では早くから東南亜細亜進出していた日本人は、大きな影響をこれら地域の人たちに与えていたと思われる。
いま少し触れておかなければならないのは英国や和蘭に成り代わって管理していた皇国軍の行動についてであろう。欧米から見ればなぜそんなことを、と思われる行動をとっている。英国人や和蘭人ほど強欲でなかったということであろう。この当時、皇国は瑞穂州や秋津州、扶桑州の開発に力を注がざるを得なかった。石油が産出する瑞穂州や扶桑州の開発には人手が足りなかったといえるだろう。また、そのためにも軍による地域の安全確保が優先され、そのため、これら地域には最低限の軍しか派遣していなかった。しかも、工作兵などが多数を占め、陸軍主力(歩兵や砲兵)は少なかったといわれる。
ある程度の自由は認め、旧宗主国たる英国や和蘭の統治に比べれば、かなりの自由があった数年間を経た後の旧宗主国の厳しい政策、それに耐えられない現地住民が自由を求めて行動を起こすのは当然のことであると思われる。皇国にとってその数年間は預かり物をそのまま英国に返すそれだけであったかもしれない。
他方、和蘭の支配下においては陸軍主力部隊が配備されるも、捕虜収容所を除けば治安維持任務が主であったようだ。というのは、現地住民による和蘭兵に対する暴行や暴動が起こっていたからである。皇国軍から逃げおおせて島内に潜んでいた和蘭兵が殺害されたりしていたのも事実であったようで、わざわざ出頭してくる兵までいたとされる。その多くは飢餓や病気あるいは負傷していたといわれ、皇国軍による救出で命が助かった兵も数一〇〇人はくだらなかったと記録されている。
そうして一九六○年までにはシンガポール、マレーシア、ビルマ、ベトナム、ラオス、カンボジア、アチェ王国、インドネシア、フィリピンが相次いで独立を果たす。だが、この地は内戦が多発することになり、安定するのは二〇世紀末のことになる。
この地域で唯一独立国であったタイ王国は第二次世界大戦の期間を皇国に同調していた。皇国から旧式艦艇を購入、海軍を立ち上げ、南シナ海やアンダマン海の哨戒任務につき、皇国軍には主食である米など食料を提供していた。大戦末期には多くの艦艇(主に「択捉」型海防艦、「鴻」型海防艦)を購入、近代海軍を編成しており、東南亜細亜では一、二を争うほどの海軍力を有する。後に編成される東南亜細亜条約機構軍においては皇国海軍に次ぐ戦力を供出している。