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中国大陸

やはりカテゴリー間違えたかなぁ。基本的に中国とソ連は分割されます。どういう形であれ、中国はまとまることはなく、一部は発展、それ以外は途上国です。現実の中国で起きていることを国にしただけですが。

 一九二七年の国共合作解消後、中華民国政府軍と中国共産党軍の武力衝突は長期にわたって続いていた。史実では対日抗争のために第二次国共合作も行われていたが、この世界では皇国は中国にそれほど深入りしていないため、第二次国共合作起こりえなかった。


 第一次世界大戦後に得た中国権益は既に英国に売却しており、皇国が中国に所有していた権益は上海租界しかない。日英同盟に準じて皇国は国民党への援助は続けていた。もっとも援助というよりはバーター取引であり、鉄鉱石などの資源と交換に武器を渡していた、というのが真相であった。当時、工業立国たるを目指していた皇国にとって必要なのは鉄であったからである。


 一九二九年の満州国出現には欧米も驚いたであろうが、関東州や南満州鉄道権益を持つ皇国の驚きも相当なものであった。さらに公表された要求の対応にも皇国は驚くことになる。満州国は皇国が得ている満州国での権益を守ることを約束するが、それには域内開発の援助を要する、というものであった。しかもご丁寧に関東州の大連、欧米列強が集まる上海租界で行われたのである。もちろん、上海租界でのそれは皇国以外の列強への告知でもあった。


 当然ながら中華民国国民党政府へも告知している。満州国の独立を認めるなら、満州国は中国共産党勢力への国民党と共闘をも考えている。また、比較的共産勢力との戦闘が少ない満州国での武器製造が可能になれば、国民党軍への武器供給も可能であろう、というものであった。これらは満州国国軍総司令官張作霖の名前で行われた。


 かって国共合作で追っていた張作霖なのである。かっての合作をなしえたコミンテルンは動きだし、中国に権益のあった欧米諸国も再び国共合作がなされるかもしれないと考えていた。しかし、国共合作のさなか、クーデターを起こした蒋介石である。新たな国共合作は拒否、あくまでも共産党軍壊滅を第一とした。当然、満州国の独立も認めなかった。史実では張学良により、抗日を第一とするが、この世界ではそうではなかった。


 そんな中、皇国だけは応じる構えを見せることになる。すでに関東州には数十万人の邦人があり、南満州鉄道は大きな利益をもたらしていたのである。また、ソ連を仮想敵第一とする皇国はソ連が南下し、半島を失い、対岸が共産化するのを最も恐れていたのである。未だ馬賊中心で戦車など近代兵器を持たない満州国軍に危惧を抱いたこともあった。


 そのような態度をとる皇国に対して欧米諸国は冷たい反応を見せ、関係が悪化していくこととなる。しかし、徹底的な亀裂を生むまでに至らなかった。その理由はすぐに明らかとなった。満州国とソ連の国境を含めて幾度かのソ連との紛争がおきたからである。もし、ソ連が南下し、満州国を手に入れたら中華中央に侵攻してくるのは間違いないであろう。そうすれば自分たちが中華中央に持つ権益も危うくなるのではないか、そんな不安があったからに違いない。


 蒋介石にしても、ソ連に手渡すくらいならと皇国の満州に対する援助を容認する。むろん、自らへの援助は続けることが条件であったが、皇国はそれに応じることとなる。そして、このことが皇国軍の兵器装備の刷新を加速することとなる。そのいい例が歩兵銃であろう。それまでの三八式小銃から一四式小銃へ、さらに一六式小銃へと短期間の間に刷新されている。国民党軍や満州国への援助や売却でも三八式小銃から始まり、一九四一年には一四式小銃へと代わっていった。


 一九三九年九月の第二次世界大戦勃発は中華中央に大きな影響を与えたといえる。ナチス独逸の快進撃が続く開戦劈頭の欧州諸国、とりわけ英国は中華中央にかかわっていることができなくなった。後に和蘭や仏蘭西もであった。両国とも親独政権が起こり、植民地軍と化した彼らはナチス独逸側にたつことになった。蒋介石を援助するのは米国のみとなるが、米国はあまりにも遠かった。結果として、最も近い連合国側に立つ皇国に頼ることとなる。しかし、当時の皇国はソ連極東軍の動きに神経を尖らせており、ニコラエフスクや満州、大韓帝国に武器弾薬を供給しなければならなくなっていた。


 幸いにして扶桑州の幾つかの工場が完成し、工場が稼動し始めたことで余裕ができ、これまでニコラエフスクに送っていた分が国民党にまわせることとなった。もっとも、日ソ戦が始まるとさすがに滞る可能性もあった。当然ではあるが、ソ連極東軍増強は共産党軍にも援助の増大が見られた。


 つまるところ、一九四〇年の皇国の工業生産力はかなりのものであった、といえる。扶桑州や瑞穂州の石油があったとはいえ、単にそれだけで生産力は上がるものでもない。皇国工業規格がしっかりと根付いており、どこの町工場でもそれなりの工業機械が設置され、資源の輸入が滞りなく続いているからであると思われた。とはいえ、米国にはとうてい及ばないものであることは誰もが認識していた。


 一九四〇年六月、第二次日ソ戦争が始まると、予想通り皇国からの武器弾薬の購入は減少する。が、停止したわけではなく、回数が減ったとはいえ、続いていた。米国からの供与は回数こそ少ないものの一回の量は日本とは比べ物にならないほど多量であった。日米の関係は良くもなく悪くもないから輸送船団だけでも必ず到着していたのである。まれに巡洋艦や駆逐艦が到着するが、多くの米国軍人は観戦武官として満州や大韓帝国、ハバロフスクなどへと渡っていった。


 この当時、中国大陸は三つに分裂していたといえる。中華民国は広東省、広西チワン族自治区、雲南省、貴州省、湖南省、安徽省、福建省、江蘇省、浙江省、江西省、湖北省、河南省を含めた地域を掌握し、満州国は黒龍江省、吉林省、遼寧省、内モンゴル自治区の一部を含めた地域を国土とし、それ以外を共産党軍が支配するという勢力分布であった。しかし、日ソ戦争が停戦で終結した一九四一年六月には中華民国側はおされ気味であった。


 原因は中華民国政府上層部の腐敗にあったことは後年明らかにされている。そして、ソ連が独逸軍にヴォルガ川以東にまで追い詰められた時点でようやく反攻がなるかというときに、中華民国は分裂したのである。汪兆銘を首班とする中華民国南京政府が新たに独立を宣言したのである。南京政府は安徽省、福建省、江蘇省、浙江省、江西省を支配地域として宣告したのである。


 この時期、汪兆銘が中華民国南京政府を立ち上げた理由は明白であった。それは宣言文の中にも盛り込まれており、当時中国にあった欧米諸国を納得させえるものであった。蒋介石総統は中華民国の掌握能力を消失している。政府上層部は腐敗し、自腹を肥やすのみで 民衆には苦しみだけを与えている。私はそんな政府を政府として認めない。よってここに新たな民のための国を立ち上げる。簡単にいえばそういうことであった。


 なぜこういうことが可能であったのか、実は皇国にもその責任はあった。日ソ戦のさなか、皇国は中華民国への武器輸出を台湾州から行っていた。このころには台北周辺にそれなりの工場が建設され、武器弾薬の製造も行っていたからである。そして最も近いのが福建省であり、ここに陸揚げしていたのである。また、九州の工業地帯からはもっとも近い江蘇省に陸揚げしていた。これら地域は汪兆銘の下でよくまとまっていたのである。そこに皇国から中華民国に対する援助としてまたは売却される武器弾薬が届いていた。


 結局、皇国から蒋介石の下に送られるはずであった武器弾薬が汪兆銘の下に集まり、それらが南京政府軍を支えることになったといわれる。後年、皇国が関与したのではないか、とされるが、皇国政府は関与を認めていない。皇国からの武器弾薬の供給が途絶えても南京政府が対共産勢力および蒋介石軍と戦いえた理由、それは満州国にあった。満州国は皇国から購入している武器弾薬の一部を南京政府に転売していたのである。この転売は関東州の皇国軍が知っていたとされるが、真相は未だ公表されていない。


 汪兆銘の南京国民党政府は当初、あまり快くは思われていなかった、否、中華中央をさらに混乱に陥れるものとして冷たい目で見られていた、というのが実情であるが、中華民国の次なる担い手として見直され始める。それは中華民国ほど政府上層部に腐敗が及んでいなかったことが明らかになるからであった。現在において中華中央に中華民国が存在するのは中華民国南京政府が存在したからこそであると称される。


 第二次世界大戦終結から一〇年後の一九五六年六月、中国大陸は一応の安定化を取り戻していた。かって、中華民国総統であった蒋介石率いる中華民国は広東省、広西チワン族自治区、海南省、湖南省、貴州省、雲南省を支配下におさめ、中華民国という国家を存続させることになっている。中国内戦に敗北したことで旧来の上流階層は一掃され、国内が安定化する傾向にある。アメリカとの結びつきが強く、海南島には太平洋ではフィリピン、グアムに次ぐ米軍基地が存在する。


 汪兆銘の率いた南京国民党政府は中華共和国と名を改めて安徽省、福建省、江蘇省、浙江省、江西省を支配下に置き、安定した国家を築いている。当初は内乱も多くおきたが、第二次大戦後の皇国軍の介入による警察機構の強化により、中華中央ではもっとも安定している。早くから開放政策を採り、皇国や東イスラエルの資本が導入され、中華中央ではもっとも工業化が進んでいる。中国東部の沿岸部を抱えていることから、皇国海軍との結びつきは強く、皇国に次ぐ海軍力を有する。


 一九五六年当時で「紀伊」型戦艦二隻、「伊吹」型重巡洋艦四隻、「上海」型軽巡洋艦(「阿賀野」型軽巡洋艦の改良型で自国建造)四隻、「吹雪」型駆逐艦一六隻、「杭州」型駆逐艦(「択捉」型海防艦の同型艦で自国建造)一六隻という海軍力を誇る。これは満州国との航路防衛、皇国との航路防衛などが重要視されたためである。この当時、中華四国で戦闘艦艇を建造できるのは中華共和国だけであったといわれる。


 それ以外の地域は中国共産党支配下にあり、国名を中華人民共和国と名を替えてソ連に続く共産主義国家として存在する。しかし、工業化はあまり進んでいない。軍備においても陸軍と空軍は充実傾向にあるが、海軍力は旧式艦艇が多い。これは太平洋に彼らを支援する先進国がなく、ソ連の黒海造船所から回航しなければならないためであると思われた。


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