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第三次日ソ戦争

今回も戦闘シーンはありません。まあ、スターリンが感嘆にあきらめるとは思えませんが、ここではあきらめてもらいました。

しかし、もっと詳しく書くべきなんだろうなあ。何とか考えて見ますが・・・・

 欧州において戦勝国でありながら何の権益も得られず、かって統合していたバルト三国のみ手に入れただけであったことにより、また、過去にロマノフ王朝の財宝を得ることもかなわなかったスターリンは自己の地位保全さえ危ういと感じざるをえなかった。そして、それらを一掃するための軍事行動を起こさざるをえなかったとされる。それが、当時極東にあった三〇万人にウラジオストック奪還の準備に入らせ、シベリア鉄道を使って欧州から続々と軍勢を極東に送り込むよう指示するにいたる。もっとも、これらの動きはすぐに皇国政府および皇国軍に察知されることとなった。


 もっとも、欧州から軍勢を移動させるとはいえ、そう多くは移動させることができなかった。それは北欧の皇国陸軍三個師団と東欧の皇国陸軍五個師団にあった。ソ連軍が極東になだれ込んだ場合、これらの八個師団がソ連領に進入しないとも限らなかったからである。彼らは機甲部隊ではなかったが、自動車化された歩兵部隊であり、機動力は当時のソ連軍よりも高かったのである。


 一九四七年五月、ついにソ連軍は皇国軍支配下地域になだれ込んだ。多数の戦車を押し立てて押し入った彼らを迎えたのは皇国軍ではなかった。露西亜帝国亡命政府軍であった。彼らが装備していたのは二〇式中戦車であり、二〇式対戦車砲であった。そして、空からは露西亜国旗をマーキングした<彗星>襲撃機が殺到する。そのなかには日本軍はいなかった。


 二〇式中戦車はナチス独逸の四号戦車を元に開発された日本軍最新鋭戦車であった。七六mm長砲身戦車砲と上面一二mm、前面五五mmの装甲、二四トンの車体を五〇〇馬力ディーゼルエンジンが駆動し、最高速度五〇km、行動半径二五〇kmの性能を有する。ソ連軍極東侵攻に備えて皇国陸軍が鹵獲したナチス独逸の四号戦車の模造戦車として製造、可能な限りの改良を施したものである。あくまでも戦時急造型戦車であり、後の正式戦車である二二式戦車とはあきらかに異なるものであった。


 二〇式対戦車砲は独逸軍が使用していたパンツァーファウストを参考に開発されたもので、オリジナルに比べて多少射程が延びていること、再装填が可能なこと(独逸でも後期生産型は再装填が可能であった)が異なる。ソ連軍戦車に対する歩兵用武器を求めていた皇国陸軍が短期間で開発したものであるが、これも戦時急造型で後の二二式対戦車砲とはあきらかに異なる。


 <彗星>襲撃機は海軍の<彗星>急降下爆撃機を基にしたもので、機首に四七mm対戦車砲を装備していること、機体下部に装甲が施されていること、翼下に一二.七cm対地ロケット弾四発を装備できることが違いといえた。機体重量が増えたため、若干の機動低下が見られるが、それでも前の一四式に比べると格段の高性能機であった。


 一九四七年七月、変化は突然訪れた。カムチャッカ半島から西に向かう集団が現れたのである。彼らはソ連兵に対して襲撃を行いつつ西進する。彼らはタクミ・ゴルデーエフが用意した武器を持ち、アムール川に沿って進んでゆく。彼らは反ソ連政府軍ともいえる集団であり、タクミの要請に応じた商人や農民、元ソ連兵などからなる。後方には露西亜国旗を掲げた大型トラックが進む。それは彼らに対する補給部隊であった。


 露西亜帝国亡命政府軍は一〇月にはバイカル湖西岸に達し、そこで進軍を止め、一部部隊は北に向かって進軍する。彼らは途中、寝返ったソ連兵を加え、総勢力は三○万に達していた。一一月には日ソ間で停戦が決まった。ソ連中央で政変が起きたためであったとされる。スターリン死亡というのがその理由であった。後年、ソ連から亡命した人物によれば、欧州では独逸に勝ったものの権益は得られず、極東ではソ連内戦(ソ連共産党中央部は戦争ではなく、内戦と称している)の敗戦が濃厚なことにより、スターリンは暗殺されたということであった。


 皇国政府は中立であった英国の仲介で講和会議に臨んだ。ソ連共産党委員会からはニキータ・フルシチョフが全権として出席、皇国側は内務大臣重光葵を全権として派遣した。オブザーバーとして亡命露西亜帝国政府外務大臣タクミ・ゴルデーエフが出席していた。会議はロンドンで行われたが、会議は当初から紛糾することとなる。二ヶ月に渡る会議の結果、四八年一月、講和条約は締結された。ソ連は過去二度の戦争の責任を取り、レナ川東岸とバイカル湖西岸を含む北緯五六度線以南(カムチャッカ半島は除く)を皇国に割譲するが、賠償金は支払わない。皇国側は割譲された地域の一部を露西亜帝国亡命政府に割譲することを認めさせた。


 一九四八年四月、日露会議が行われた。出席者は露西亜側がウラジーミル・フョードロフ首相、国防大臣ミハイル・トゥハチェフスキー元帥、外務大臣タクミ・ゴルデーエフであり、皇国側は吉田茂首相、外務大臣東郷重徳、国防大臣米内光正であった。もちろん、双方とも実務を担当する官僚も出席していた。会議は特に揉めることもなく順調に進み、一週間後に共同声明文に調印された。その内容は翌五月に発表された。


 既にソ連と皇国の講和条約の内容は公表され、全世界が知るところとなっていた。当然ながら今回の日露会議には注目が集まっていたのである。そして全世界が驚くことが発表される。皇国は北緯四七度以北を露西亜帝国亡命政府に割譲する。露西亜帝国亡命政府は九月に国名を東露西亜国と改めて建国される。東露西亜国は立憲君主制議会民主国家とし、直接王政は行わない。東露西亜国は域内の資源開発権を皇国に与える。というものであった。


 既得地域の一部を亡命政府に与えるものと考えていたソ連は特に驚いていたといわれる。これでは直接日本を攻撃することは叶わず、日本を直接攻撃するには新たな地域の開発を行わなければならないことになる。加えて東シベリアに住む多くの人間が露西亜国に流れ、人口希薄地帯とされ、資源を得ることも難しいと考えられたからである。しかも、国境を接するのはかっての露西亜であり、資本主義国家なのである。


 この既得地域の割譲がある問題の発生原因となった。当時、国後島や択捉島に在住していた二〇万人のユダヤ人による暴動である。暴動といっても暴力的なものではなく、皇国政府から派遣された官僚や民間人へのデモ行為であった。皇国政府としてはあくまでも一時的な移住地と定め、彼らには渡航の自由を与えているが、定住を望むものも多くいたのである。その多くがこれまで数代続いて居住していた国を追われ、新しい場所にいってもまた追われるのではないか、そういうことが千島のユダヤ人移住区に安住させていたのかもしれない。


 皇国政府ではこの暴動を予知していた節がある。なぜなら、暴動のおきた翌月の六月には千島列島移住区を全域閉鎖、沿海地方の北緯四三度以北への強制渡航および条件付の自治権を与えているからである。自治権を与えるということはこの地域では好きにやっていいよ、ということである。この情報は翌日には全世界の知るところとなり、上海や関東州、瑞穂州や秋津州、扶桑州などからどこにこれだけいたのかと思うほどの移動が始まる。一二月にはその数四〇万人に膨れ上がっていた。


 四九年五月には九〇万人に達していたといわれる。彼らは東イスラエル地区と名乗り、完全な自治権の要求すら行ってきていた。同年六月、代表者との会談がもたれるに至る。会談は一ヶ月以上続いたが、八月に決着し、即日公表された。皇国は東イスラエルを名乗る集団に北緯四三度以北、北緯四七度以南地域を貸与する。五○年四月までに住民台帳を作成し、皇国に提出する。同年八月までに議会を開く。皇国は議会および同地域内の治安維持には関与しない。一二月には国際的手続きを行う。漁業法などの海洋法は日本に従う。日本の漁船団には無条件で寄航を許可する。というものであった。


 割譲ではなく、貸与としたのには理由があった。英国が割譲に良い顔をしなかったのである。だからこそ、住民台帳を作成して皇国に提出、海洋法は皇国に従う、皇国の漁船団には無条件で寄航を許可するなどのあくまでも皇国の一地域と思わせる事項があったのである。とはいえ、実情は割譲であり、皇国は内政にも外政にも一切の関与することはなかったとされる。この当時、英国主導で地中海沿岸の一部にユダヤ人国家の建設の動きがあったからである。


 この約定の公表後、さらに移住者が増加し、五○年一二月には一八〇万人にも達し、ユダヤ資本の流入などもあってそれなりの発展は見せていた。また、自治法が制定され、議会も開かれ、形の上では一国家の形態を取るように見えていたとされる。むろん、これは皇国が望んだことであり、それに対する支援は十分に行われていたとされる。


 一九五一年一○月、英国主導で計画されていたユダヤ人国家建国計画が頓挫するに及んで独立の気運が高まることとなった。同年一二月、皇国政府は北緯四三度以北、北緯四七度以南地域を東ユダヤ自治領に割譲、同時に提出されていた住民台帳を返還、正式に国家として承認し、国交を結んだ。翌年には日イ通商条約を結ぶ。皇国に続いて東露西亜国、満州国、大韓帝国が承認し、国交を結んだ。しかし、欧州では未だ承認されず、欧州世界的には皇国の一地域との見方をしていたようである。


 こうして皇国は北緯四三度以南を領有することとなり、これまで皇国の領土であったニコラエフスクも東露西亜国へ譲渡されることとなった。東露西亜国首都はハバロフスクであり、北緯四七度線が東イスラエル国との国境線となった。主要港はワニノとされ、開発が急ピッチで行われることとなった。北緯四三度線が皇国と東イスラエル国の国境とされ、東イスラエル国の首都はウスリースク、主要港はオルガとされた。


 ちなみに、欧州世界で唯一承認されているのが東露西亜国であり、満州国も大韓帝国も独立国として承認されていない。満州国は中華民国の一地域、大韓帝国は日本の一地域との見方が欧州世界ではなされていた。これは白人国家であること、露西亜帝国の皇帝が存命であること、欧州各王室との婚姻関係があることからの結果であろうと考えられた。


 一九五一年一二月一七日、元露西亜帝国皇帝であり、現東露西亜国王であるニコライ二世ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ崩御の報は即日世界に発信された。享年八三歳であった。国葬には未だ戦乱の傷跡が生々しい欧州から各王室国王、元首や大臣級の特使が終結する。一九一七年の露西亜革命で地位を追われ、一時は命の危険もあったとされるが、何とかニコラエフスクまで落ち延び、一九四八年八月、再び国王として国際社会に復帰、三年間新しい国を見守っていた男の死であった。


 後継者は第一皇女オリガ・ニコラエヴナ・ロマノヴァであった。一九四八年建国の際、皇国が唯一要求したのが王室法の制定であった。後継者争いを避けるためのものであったといわれる。男子長子から始まり女子長子からというシンプルなものが制定されていた。


 このとき、皇国からは今上天皇、吉田茂首相が出席、欧州各国国王や首脳と積極的に会談、この中には満州国や東イスラエル共和国、大韓民国などの件も含まれていたといわれる。そして、幾つかの条約締結や共同声明調印などが行われ、公表されていった。その多くは東欧や北欧、東南亜細亜についてのものが主だったものであったが、上記三国の承認はならなかったとされている。


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