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極東亜細亜

たしか、このころはロシアと中国を問題視していたころです。そでれで分割しちゃえ、と考えていたかもしれません。しかし、それはそれで今の中国より怖くなるかもしれませんね。

 一九四一年の日ソ停戦後も皇国軍は臨戦態勢を解いたわけではなかった。いつソ連が侵攻してくるかわからないからである。特に欧州戦が終結したら再び侵攻してくるであろう、と考えていた。しかし、その思惑は外れることとなる。皇国政府および皇国軍上層部では二年か三年で欧州戦は終結するであろうと考えられていたし、ソ連は二年か三年で極東に戻ってくるだろう、と考えられていたのである。


 しかし、独逸軍の進撃は速く、ソ連軍はヴォルガ川以東まで追い詰められていた。ソ連からは日ソ不可侵条約の締結と武器弾薬の援助を申し入れてくるに及び、皇国政府および軍上層部の考えが変わることとなった。日ソ不可侵条約はともかくとして、人道的な援助は国際外交的に皇国の地位を上げることになると思われた。そこで、軍と図った皇国政府は武官の派遣と亡命希望ユダヤ人の保護、シベリア鉄道を利用しての移動と引き換えに、医薬品などの人道的物資のみの援助を決定することとなった。


 四一年末からは多数のユダヤ人がシベリア鉄道を利用してウラジオストックに流れてくるようになった。中には露西亜系ユダヤ人も多数混じっていたとされている。彼らにはまず千島にあるユダヤ人移住区への移動がなされ、その後、希望する地域への渡航が許可されている。もっとも多くの亡命ユダヤ人は千島の移住区にとどまることとなった。


 千島での彼らはまったく自由であったといわれている。生活の糧を得るための仕事はいくらでもあった。皇国であるのと同じ仕事が用意されていた。元からやっていた仕事も続けることが可能で、そのために必要なものは提供されていた。簡単ではないが、手続きを踏んで北海道や扶桑州、瑞穂州、秋津州などに渡ることも可能であった。彼らの多くは知識階級の人間であり、工場での設計に携わるもの、記者として記事を投降するものが多くいたとされる。


 第二次日ソ戦において捕虜となったソ連軍兵士は半年から一年拘束されたが、ソ連への帰還が認められるようになっていた。独ソ戦において少しでも戦力を必要とするソ連政府の要望でもあったからである。彼ら捕虜の監視にあたっていたのは亡命露西亜軍将兵であった。彼らは新生露西亜がどう変わったのかを捕虜たちに語って聞かせていた。また、軍人として受け入れる用意もあるともいっていたといわれる。


 捕虜の中から残留を希望するものたちも現れたといわれる。しかし、負傷などで送還不可能なものたちを除いて多くはソ連に送還された。これに対して、亡命露西亜政府や防衛軍に返す必要があるのかと問われた皇国陸軍極東軍参謀長樋口季一郎中将は、何も戦いだけが国を造るわけではない、民衆の支持があってこそ国が成り立つのだ、と説いている。


 欧州戦の間、皇国政府は第二次日ソ戦で得たウラジオストックやハバロフスクの開発に力を入れている。それまではニコラエフスクの開発が進められていたが、新たに得たウラジオストックやハバロフスクの開発に着手し、それは街の様子が様変わりするほどの開発であったといわれる。ウラジオストックはもともと軍用都市として開発されており、一般民はそれほど多くはなかったが、それでも皇国の望む姿に再開発され始めていた。北満州からの資源の搬出に重要であることからシベリア鉄道と港湾施設の開発は急ピッチで行われていた。


 ともあれ、アムール川以南の皇国領土は急速に発展していたといえる。それには当然として亡命露西亜帝国の人間も多く関わっていた。ニコラエフスクのような狭い地域ではないからである。発展している理由はシベリアからの資源、露西亜固有の食料品などであった。彼らは亡命政府の露西亜人を通して日本の商人に物品を売りさばいていた。また、亡命政府側も彼らの取り込みを図っていたとされる。欧州で独ソ戦が始まり、しかも独逸に押されている現状ではソ連政府もシベリアの外れまで目が届いていなかったのであろうと思われた。このことが後にソ連と亡命政府との内戦の際、彼らが亡命政府側に就くこととなった。


 亡命政府というが、過去の露西亜帝国とは異なる。露西亜革命がよほどこたえたのか、ニコライ二世は以前のニコライ二世ではなかったといわれている。政治や軍には一切口を出さず、露西亜から逃れてきた政治家や新しく政治に関わる人間にすべてをゆだねているようであった。ニコラエフスクに逃れてきたのは何も旧露西亜帝国貴族だけではなく、共産主義を良しとしないもの、スターリンの粛清を逃れたい軍人などさまざまであった。


 今の亡命政府の政治にかかわっている最高位の人物がウラジーミル・フョードロフであった。もともとが第四皇女アナスタシアがニコラエフスクに来た際、皇国軍が連絡役として選んだのが彼であった。当時の彼はまだ若いが有能な商人というぐらいで、政治には興味を持っていなかったといわれる。しかし、露西亜皇帝ニコライ二世と接触が続くにつれて政治に興味を持ち出したようであり、以後独自の意見を皇国側に提示するようになる。


 第二皇女タチアナ・ニコラエヴナと第三皇女マリア・ニコラエヴナは欧州の王室に嫁ぎ、第四皇女アナスタシア・ニコラエヴナは日本の皇室入りし、現在は年老いたニコライ二世と皇后アレクサンドラ・フョードロヴナ、第一皇女オリガ・ニコラエヴナとその夫が同地にあり、皇太子アレクセイ・ニコラエヴィチは病没していた。そんな彼らに成り代わって一切の政務を司るのがウラジーミル・フョードロフであった。


 フョードロフ宰相はロシア皇帝を頂点に民衆による政治を目指していた。それは彼が皇国の天皇に接したことから始まったといわれ、現在のニコライ二世も同じ考えであったといわれる。君臨すれど統治せず、それを実践されていた天皇に感銘を受けたのだといわれるが、露西亜革命において一度は退位したことがそれを容認していたといわれる。フョードロフ宰相は当時の英国政府や日本政府での王家や皇室のあり方、政治のあり方を参考にした議会を新たに設置していた。


 今現在の亡命政府の主だった閣僚は三人、うち一人は首相であるウラジーミル・フョードロフ、軍事面をつかさどる国防大臣にはミハイル・トゥハチェフスキー元帥、外務をつかさどるのはタクミ・ゴルデーエフであった。ミハイル・トゥハチェフスキーは史実ではスターリンの大粛清で処刑されているが、この世界では一九三六年、スターリンの態度に嫌気がさし、家族でこの地に亡命してきていたのである。タクミ・ゴルデーエフは元はハバロフスクの商人であったが、フョードロフとは知己の間であったことから請われて一緒にいるうちに閣僚となっていた。彼には一/四だけ皇国人の血が混じっていたとされる。


 一九四〇年六月に始まった第二次日ソ戦争においてソ連の侵攻に立ち向かい、皇国軍の勝利の影には彼、ミハイル・トゥハチェフスキーの働きがあったからこそだともいわれている。もともとがロシア帝国軍人であったことから現在ではニコライ二世の信頼も厚く、フョードロフやゴルデーエフには可能な限り彼の手助けをしてほしい、といったといわれている。トゥハチェフスキーも現在の状況は理解しており、可能な限りにおいて軍備の増強と戦術の運用を考えていた。


 彼ら亡命政府を支えているのは皇国だけではなく、在ハバロフスクの露西亜人商人であり、シベリアの農民であり、漁民であった。また、少ないながらも欧州列強の援助もあったといわれている。もちろん、瑞穂や秋津、扶桑などからの支援もあったようである。そして、近年目立つのが米国からの支援であった。帝国制とはいえ、議会が開かれ、反共産主義を掲げていたからである。


 一九四五年一二月、皇国政府はある決断をする。欧州ではナチス独逸の敗戦が濃厚となってきたころである。皇国にとってソ連と直接国境を接するのはできるだけ少ない方がいいのである。オホーツク海という海が間に存在するシベリアとは異なり、陸続きで国境を接するのは歓迎できない。しかし、現状では国境線は陸続きで非常に長く、欧州戦が終わればソ連軍は極東に軍を増派するだろう。


 それに対するには皇国軍も増強しなければならなくなる。そうなれば軍事費が増大し、国内経済にも悪影響を生じることになる。それを嫌ったのが皇国政府であった。軍の増派には金がかかるのである。現在は大戦景気で経済は好調ではあるが、大戦終結後には軍縮の機運も高まり、日本だけがそれをしないわけにはいかない。もし、そうなってしまえば皇国は国際社会から孤立してしまうことにもなりかねないからである。


 ニコラエフスクを含む既得地域の一部放棄、である。むろん、ソ連に渡すわけではない。亡命政権に渡すのである。むろん、皇国にも旨みががった。それはニコライ二世の持つ財産であり、第二次日ソ戦終結後から一部地域の購入の意思を聞いていたからである。これら地域の開発は自由にやってください、皇国は一切関知しません、その代わり、ナホトカ周辺およびウラジオストックとハルピンまでの北満州鉄道の使用は認める、というものであった。このことはあくまで政府内での決定であり、公表されることはなかった。


 欧州での戦後処理がほぼ終わった翌年一二月、日英仏の思惑によって東欧でも北欧でもさしたる領土も手に入れられなかったスターリンはあせった。北欧のバルト三国はともかくとして、ポーランドやフィンランドから手を引かざるをえなかったソ連は、バルカン半島の東欧に侵入を図るも同地にあった遣欧部隊陸軍第一軍の手痛い反撃を受ける。結局、戦勝国となりながらも欧州での領土や権益はなにひとつ得ることができなかったのである。当然といえたが、ソ連は連合国の一員として戦っていたわけではないからである。


 北欧から遣欧部隊陸軍第二軍が帰国を果たすのは一九四九年になってからであり、東欧の遣欧部隊陸軍第一軍が帰国を果たすのは五二年になってからであった。それほど、バルカン半島は戦乱の渦に巻き込まれていたのである。彼らがこれほど長い間同地に留まったのには理由があった。それは極東での日ソ間の紛争にあった。人によっては第三次日ソ戦争とも称されるが、実情は異なっていた。


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