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欧州での戦い6

所属するクラブで集会があり、遅れました。第二次世界大戦が集結します。ご都合主義で申し訳ないですが・・・・・ 今後は東亜細亜が燃えます。

 一九四五年六月、後に史上最大の上陸作戦といわれる作戦が実行される。英国陸軍二個師団、ANZAC陸軍一個師団、カナダ陸軍一個師団、皇国陸軍六個師団、自由仏蘭西軍、ポーランド軍、ノルウェー軍など合わせて二二万人、八〇〇〇隻以上の艦艇による一大上陸作戦が行われた。史実でも行われたノルマンディー上陸作戦である。六月六日に始まった上陸作戦は一ヶ月後の七月六日に終了する。連合国側戦死傷者一万名、ナチス独逸軍側戦死傷者一万八〇〇〇名という被害を出しての終結であった。


 以後、西部戦線は崩壊、連合軍は独逸に向かって進軍することになる。この時期、伊太利亜国内の独逸軍は降伏し、オーストラリア陸軍一個師団主体の連合軍は伊太利亜を開放する。東に向かった皇国陸軍五個師団主体の連合軍はトルコから北上し、バルカン半島のギリシア、アルバニア、ブルガリア、マケドニア共和国、セルビア、モンテネグロ、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ルーマニア、スロベニアを開放する。


 この皇国軍のバルカン半島侵攻は英国の同意は得たものの、ほぼ皇国軍単独作戦といえる。古来、この半島は民族闘争が激しく、欧州ではヨーロッパの火薬庫とも称されており、連合国は兵を派遣するのを嫌がるような地域である。そこにあえて五個師団一〇万人もの兵力を派遣している。ともあれ、このときの日本陸軍は北上してはいったが、あえて独逸軍との戦闘を避けているように見えた。


 そして、一九四六年初頭、連合軍はライン川を越えることに成功する。二月、ヒトラーが暗殺され、ロンメル元帥、カイテル元帥、グデーリアン元帥らが独逸国内軍を掌握、戦闘停止を呼びかけることになる。皇国艦隊第一分遣隊および輸送船団がバルト海に侵入、ポーランドに陸軍三個師団を上陸させることに成功する。一方、第二分遣隊はジブラルタルを抜け、バルカン半島へと向かった。


 これらは遣欧部隊総司令部海軍作戦参謀の松永丈一中佐が立案したものとされている。独逸の敗戦が濃厚な今、気がかりなのはソ連の行動である。独逸軍の撤退にかこつけて周辺国への侵略および併合が行われる可能性が高いこと、それらを防止するための監視部隊が必要であろう、ということであった。これには陸軍作戦参謀、木本良一陸軍中佐、秋山慎太郎陸軍中将、バルカン半島に進軍した遣欧部隊陸軍第一軍司令官竹中次郎大将も同様の意見を述べていたのである。ソ連を仮想敵としてきた陸軍将兵がいうのである。山本五十六大将も動いた。


 ポーランドに上陸した遣欧部隊陸軍第二軍司令官の栗林忠道大将も同様の意見を持っていたとされる。当初の計画では、機動部隊の派遣は考慮されていなかったが、栗林大将の意見により、機動部隊の派遣が決定されたといわれている。ポーランド上陸に関しては独逸軍の抵抗はあったものの皇国軍の被害は軽微であったとされている。遣欧部隊陸軍第二軍は独逸国内を北上してきた遣欧部隊第三軍三個師団と合流し、わずか一ヶ月でポーランドを開放し、第三軍三個師団は進路を東に変えて東欧に向けて進撃する。第三軍司令官の永田鉄山大将も作戦の重要性は理解していた。


 一九四六年六月、ナチス独逸は無条件降伏し、独逸軍は撤退を開始、遣欧部隊陸軍第二軍はその監視にあたるとともにソ連軍のポーランド侵入を阻止することとなった。撤退する独逸軍と追撃するソ連軍との間には戦闘が起こっていたが、それにも介入することになる。当初、監視にあたる日本軍とソ連軍の戦闘も起きている。独逸軍を追撃してきたソ連軍はバルト三国はともかくとして、フィンランドには侵入することができなかった。第二軍は一部をフィンランドにも派遣していたし、北欧諸国が連合軍を派遣していたのである。


 東欧で独逸軍と戦闘中だったソ連軍の前に独逸軍と入れ替わるように遣欧部隊陸軍第一軍が現れ、独逸軍を撤退させていく。独逸軍を追撃しようとするソ連軍にはそれを許さじと皇国軍が立ちふさがる。当然、戦闘も起きることとなる。そして皇国軍とソ連軍の戦闘はある一件から収拾することとなった。


 なぜ皇国軍が兵力で上回る彼らソ連軍を抑えることができたのか、それは極東にあった。皇国政府は停戦に応じなければ極東で再び戦乱が起こるだろう、と通達したのである。独ソ戦が始まってすぐ、日ソは停戦していた。これは停戦であって終戦ではない、それを強調したのである。事実、ウラジオストックに極東軍司令部を置いていた日本陸軍では極東軍司令官の今村均大将は軍を停戦ラインまで前進させ、停戦ラインを超えるような動きを見せていた。


 つまりは欧州での戦闘を止めなければ軍を西に向かわせるぞ、という脅しである。第二次日ソ戦終結後、ソ連極東軍は陸空ともその大半を欧州に移動させ、このときには陸軍二五万人と航空機が一〇〇機ほど、しかも装備は欧州軍に比べると旧式なものが多かったといわれる。対して日本軍は三個師団六万人と航空機二五六機、露西亜亡命政府陸軍一六万人、航空機一〇〇機、関東軍二個師団四万人と航空機一二八機、満州国軍三個師団六万人が在ったのである。


 これらの軍がソ連領に侵入すれば、現状の極東ソ連軍では阻止することは不可能であっただろう。むろん、スターリンも第二次世界大戦が終結すれば次は極東で、と考えていたはずである。しかし、この当時はまだその準備ができていなかったとされる。さらにいえば、ソ連はロマノフ王朝が有する莫大な財宝を手に入れることができず、独逸との戦いにおいても、欧州から追い出されていた。これが後に第三次日ソ戦争の原因のひとつともいえた。


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