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日本皇国誕生

今話に限らず若干の変更は加えております。全五〇話ほどになりますが、例によって戦闘シーンはほとんどないです。ジャンルを歴史にしたほうが良かったかもしれません。


 こうして一八九○年二月に公布された日本皇国憲法により、世界に目を向けた皇国であったが、当時の皇国に対する欧米列強の認識は、史実のものとそう変わるものではなかったといわれている。極東の島国が何をしても問題にならないだろう、というのが多くの欧州諸国の認識であったとされる。少なくとも、欧州では日本皇国、というよりも瑞穂国、秋津国と称するほうが通りが良かったのは事実であった。欧州諸国と瑞穂州との関係は一八○○年の独立、同じく、秋津州との関係は一八四〇年の独立以降、続いていたからである。


 とはいえ、欧州列強の一部には日本皇国に対する認識を改める国も少ないながら存在した。それは英国と和蘭であった。かの国の認識が多少変わっていた理由は、瑞穂州は英国から、秋津州は和蘭および英国からそれぞれ独立を勝ち取っていたからである。これがその後の日本皇国の進む方向を多少なりとも変えていくことになった。日本本土が率先していくよりも、瑞穂州や秋津州がその方向を率先していくこととなったからである。


 瑞穂州はその立地条件から日本皇国内ではもっとも工業化が進んでおり、欧州の技術導入が進んでいたといわれる。この当時、瑞穂州では蒸気機関や備砲など製造できていたとされる。工業規格は当初、英国の影響を強く受けていたといわれるが、後に独逸工業規格(いわゆるDIN規格)に準拠した工業規格を採用し、精密工業なども発達していたといわれる。この瑞穂州で採用されていた工業規格は後に日本の工業規格として採用され、工業立国日本の礎となった。


 あまり知られていないが、国産初の鋼鉄製軍艦を建造したのは瑞穂州(当時は瑞穂国と称していた)であったとされる。これは独立後、西欧列強の艦船修理を五○年以上、木造船建造三〇年以上も行っていた経験のある瑞穂州だからこそ成せるものであったといえるだろう。そして、皇国が本土(扶桑州や瑞穂州、秋津州、琉球州以外の国土を呼称することが多い)で最初に建造した巡洋艦『海門』(起工一八七七年九月、進水一八七九年八月、竣工一八八一年三月)であった。この巡洋艦『海門』は瑞穂州から見れば欠陥だらけの艦であったといわれている。瑞穂州や秋津州が軍艦建造に関与するのは一八九五年以降のことであった。


 ともあれ、憲法施行により、日本皇国は近代国家へと歩み始めることとなった。しかし、史実とは異なる道を歩むこととなる。なぜなら、南シナ海と南太平洋に人口一二〇〇万人を超える新たな領土が確定したからである。このことが、後に皇国が陸軍力の整備よりも海軍力の整備増強に傾いていくことになるからである。


 ではあったが、皇国は憲法施行後、国際的にその国力を試されるときがすぐにもやってきたのである。その当時、朝鮮半島を巡る皇国と清帝国の関係が悪化しており、清帝国海軍が国威をかけて独逸で建造した新鋭戦艦 『鎮遠』と『定遠』に恐怖感を抱いていた皇国海軍は彼女たちに対抗できる強力な砲を装備した戦艦を欲していた。しかし、予算の都合上、重装甲の戦艦を購入することができなかったため、強力な砲を備えた巡洋艦の数を揃えることとされた。


 一八九一年から九四年にかけて完成したのが「松島」型防護巡洋艦であった。防護巡洋艦と謳ってはいたが、その実は巡洋艦に過ぎなかったといわれている。「松島」型防護巡洋艦の要目は次のようになっていた。排水量四五〇〇トン、全長九二m、全幅一五.五m、吃水六.五m、ボイラー円罐・石炭焚×六基、主機横置式往復動蒸気機関(三気筒三段膨張式)×二基、二軸推進、出力五五〇〇馬力、武装三○口径三○.五cm単装砲二基、三〇口径一五.二cm単装砲二基、三〇口径一二.七cm単装砲八基、四七mm単装砲八基、最大速力一七kt、航続距離一○ktで四〇〇〇浬、乗員定数三九○名というものであった。


 この「松島」型防護巡洋艦は本来、四隻建造予定であったが、三隻となった。理由は予算の都合によるものとされているが、実は非常に扱いにくい艦であり、三隻の建造で撃ち止めたというのが本当のところであった。このときの四隻目の予算を使って瑞穂州で建造されたのが巡洋艦『畝傍』であった。この巡洋艦『畝傍』建造には、瑞穂州から編入された海軍軍人および造船会社が関与していたといわれている。


 巡洋艦『畝傍』の要目は次の通りであった。排水量三七五〇トン、全長九八m、全幅一四.五m、吃水五.八m、ボイラー円罐・石炭焚×六基、主機直立斜動型往復動蒸気機関(三気筒三段膨張式)×二基、二軸推進、出力九九〇○馬力、武装三五口径二四cm単装砲四基、四〇口径一五.二cm単装砲六基、四七mm単装砲六基、二五mm四連装砲八基、一一mm一〇連装ガトリング砲四基、三六cm魚雷発射管四門、最大速力二一.五kt、航続距離一三ktで八五〇〇浬、乗員定数三九○名というものであった。『畝傍』は「浪速」型防護巡洋艦を参考にし、当時の瑞穂州の技術のすべてを投入して建造された軍艦であり、皇国海軍で最初に二〇ktを超えた軍艦であった。


 こうして海軍力も近代化を進めた日本皇国は後に魔の三〇年、と言われる期間を迎えることとなる。


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