欧州での戦い1
いくら昔書いたものとはいえ、ちょっと都合主義かもしれませんね。おそらく、ソ連と中国問題に刺激されていたと思いますが・・・ちなみに加筆してますんでおかしいところがあるかもしれません。
一九四二年一二月、史実ではフランス領北アフリカへ米英連合軍が上陸している時期であるが、この世界では米国が参戦していないため、未だ行われていなかった。当時の米国大統領は孤立主義のロバート・タフトであったため、参戦の意思表示はなされていなかった。この当時、ナチス独逸軍は東部戦線において快進撃を続けており、スターリングラードは陥落し、ソ連軍はヴォルガ川東岸へと追いやられていた。エジプトに進撃してきたナチス独逸軍であったが、エル・アラメインの戦いで英国軍に敗れ、撤退することになる。これには皇国海軍機動部隊が関与し、史実以上の損害を与えていた。
海上ではUボートの脅威が続き、英国の艦船の被害が増え、建造数を上回る被害が出ていたのである。そこで皇国政府は稼動していた「鴻」型海防艦二五隻、「択捉」型海防艦五隻の供与を決定し、シンガポールへと送り出したのである。合わせて三〇隻はシンガポール近海でオーストラリア軍人やニュージーランド軍人の乗員を乗せ、一ヶ月間の習熟訓練の後に英国へと出撃していった。彼らは航海中も訓練に励み、英国につくころにはそれなりに艦の性能を発揮できるまでになっていた。彼らANZAC部隊は船団護衛において高い評価を得、英国は四四年末までには「鴻」型海防艦五○隻、「択捉」型海防艦五〇隻を追加で購入している。
これ以外にも、「最上」型重巡洋艦四隻、「朝潮」型駆逐艦一〇隻、「千歳」型水上機母艦四隻を購入していた(しかし、その代金は戦後払いとされていた)。遣欧艦隊護衛部隊の水上機母艦運用の有効性を認めた英国海軍が真っ先に目を付けたのが、皇国海軍の持つ「千歳」型水上機母艦であった。水上機母艦というよりも水上偵察機<瑞雲>に目を付けた、といってもいいだろう。艦載機(英国海軍から見れば立派な艦載機であった)でありながら、三〇〇〇kmを超える航続距離があり、しかも機上電探とMADを搭載していたからである。
「最上」型重巡洋艦四隻の購入は、遣欧艦隊の旗艦として運用されている「青葉」型重巡洋艦に触発されたものと思われた。連絡武官として遣欧艦隊に乗り込んだ英国海軍将校から上層部に具申されたといわれる。さらに、通商破壊に使用され、英国に多大な被害をもたらしていた「ドイッチュランド」型装甲艦(ポケット戦艦)に対する戦力として考えられていたのかもしれない。
このころ、独逸海軍は「シャルンホルスト」型巡洋戦艦、『シャルンホルスト』『グナイゼナウ』、「ビスマルク」型戦艦『ティルピッツ』(『ビスマルク』はすでに撃沈していた)「ドイッチュランド」型装甲艦『ドイッチュランド』、『アドミラル・シェーア』(『アドミラル・グラフ・シュペー』は沈没)「シュレーヘン」型巡洋戦艦(史実の「O」型巡洋戦艦)『シュレーヘン』『ケーニヒス』、仏蘭西海軍は「リシュリュー」型戦艦『ジャン・バール』、伊太利亜海軍は「イオ・デュイリオ」型戦艦『カイオ・デュイリオ』『アンドレア・ドリア』、「リットリオ」型戦艦『リットリオ』『ヴィットリオ・ヴェネト』『インペロ』『ローマ』などがまだ残っており、英国はまだ危機にあった。
遣欧艦隊主力部隊がその実力を欧州に知らしめたのは一九四三年九月のことである。皇国陸軍部隊三個師団六万人を乗せた輸送船を護衛してジブラルタルへ向かっていたとき、「リットリオ」型戦艦『リットリオ』『ヴィットリオ・ヴェネト』『インペロ』『ローマ』を主力とした伊太利亜艦隊が現れたのである。ジブラルタルに潜入していた枢軸側スパイからの情報により、輸送船団を阻止するために現れたものと思われた。
先に相手を発見したのは枢軸軍側であったとされている。枢軸軍側の大型機一機と接触、発信を確認したからであった。後にドルニエDo217爆撃機と判明する機体は安易に艦隊に近づきすぎ、緊急発進した<零式>艦上戦闘機二機によって撃墜された。機動部隊司令官塚原中将は<彩雲>艦上偵察機を東、東北、北、北西、西の五線に向けて発進させる。このとき、船団は輸送船を囲むように「択捉」型海防艦、「鴻」型海防艦、前後に水上機母艦、その右舷側に機動部隊の輪形陣、その後ろに打撃部隊の輪形陣と続いていた。
四〇分後、北西に向かった<彩雲>四番と西に向かった<彩雲>五番から連絡が入る。大型艦四中型艦四の艦隊東南に向かう、というものである。もちろん、両<彩雲>とも目視しているわけではなく、機上電探によるものであった。ちなみに、この当時の皇国のレーダーは、艦載の五号電探では海上捜索一二〇km(五号一型)、対空捜索では一八〇km(五号二型)、機載の四号電探では一〇〇kmほどであった。駆逐艦や海防艦に搭載の七号電探では海上捜索一○〇km(七号一型)、対空捜索では一二〇km(七号二型)であったとされる。
ともあれ、塚原中将は直ちに発艦準備を命じる。実はスエズを出てすぐ、作戦参謀の松永丈一中佐が言ったものである。こんな大船団、察知されずにジブラルタルまで行けるとは思えません。途中、伊太利亜や仏蘭西の打撃部隊が出てくるのは確実です。艦爆や艦攻は雷爆装しておくことを具申します。航空攻撃は心配しなくてもいいと思います。枢軸側の攻撃機は足(航続距離)が短いですし、大型機は少数しか配備されていないようです。各空母に四機の戦闘機のみ発艦準備させておくだけでいいかと思います。塚原中将はこれを受け入れていたのである。
塚原中将が発艦させたのは戦雷爆合わせて一九二機であった。第一二航空戦隊の角田少将は全力出撃を具申していたが、それは却下されていた。敵艦隊に航空戦力は無い。だが、左舷側、北アフリカには独逸空軍勢力があるが、その数は正確にはわかっていないからであった。<零式>艦上戦闘機四八機、<彗星>艦爆四八機、<流星>改艦攻九六機からなる部隊であった。彼らはまだ敵艦隊と接触している<彩雲>四番機の誘導を受けて一直線に向かったのである。
伊太利亜艦隊上空には<Re.2000>戦闘機(「リットリオ」型戦艦は各艦二機搭載していた)が四機上がっていたが、<零式>艦戦が蹴散らしていた。そして、攻撃は戦艦一隻に艦爆一個小隊四機と艦攻四個小隊一六機ずつの雷爆同時攻撃であった。伊太利亜艦隊は輪形陣は組んでおらず、戦艦および巡洋艦が一列縦隊で、駆逐艦が巡洋艦をはさむように二列縦隊で航行していた。
先頭の『リットリオ』と最後尾の『ローマ』が最初に狙われた。『リットリオ』は五〇〇kg爆弾を艦橋前部と煙突付近に、八〇〇kg魚雷を右舷艦首と艦中央部に受けて隊列を離れた。『ローマ』は艦尾に五〇〇kg爆弾の至近弾を受け、八〇〇kg魚雷を右厳艦首と中央部、艦尾に受けて隊列を離れた。二番艦『ヴィットリオ・ヴェネト』、三番艦『インペロ』はともに五〇〇kg爆弾を煙突付近と艦尾に受けたが魚雷は回避していた。
『リットリオ』は機関室に損傷を受け、さらに浸水が激しく沈没、『ローマ』は機関室と舵機破損、停止漂流中に二機の艦爆と二機の艦攻から再度攻撃を受け、五〇〇kg爆弾を艦橋と後部砲塔にあたり、さらに損傷していた、右舷に八〇〇kg魚雷を二本受けて横転沈没した。『ヴィットリオ・ヴェネト』は速度の落ちたところを再び二機ずつの攻撃を受けて大破漂流、夜になって沈没した。『インペロ』は以後攻撃を受けることなく、なんとか帰還している。
その他、巡洋艦二隻、駆逐艦四隻が撃沈されている。結局、第二波攻撃は行われなかった。損害は<彗星>艦爆四機、<流星>改艦攻六機で、いずれも帰還後のものであった。それほど防弾性能が優れていたことと伊太利亜側の対空攻撃がお粗末だったといえるだろう。