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東南亜細亜の戦い

かなりご都合主義が入っています。相変わらず端折ってますし。英国戦艦の代わりにフランス戦艦となりました。オランダは戦艦を持ってませんしね。


 一九四一年一一月八日、皇国はナチス独逸に宣戦布告したものの、遣欧艦隊主力は未だインド洋にすら出ていなかった。艦隊は台湾の高雄軍港にあった。その理由は親独政権であるヴィシーフランス軍、同じく親独和蘭政権軍が対英宣戦布告、シンガポールやマレーの英軍と戦闘に入っていたからである。シンガポールとマラッカ海峡が確保できなければ、インド洋への、ひいては欧州への艦隊派遣や輸送戦の航行が不可能であったからである。英東洋艦隊はセイロンに避退していた。


 また、ニューギニア島の秋津州が戦渦に巻き込まれる可能性があるため、見過ごすことができなかったのである。この時点で、瑞穂州や秋津州に在ったのは「初春」型駆逐艦六隻、「白露」型駆逐艦一〇隻、「占守」型海防艦一〇隻、「鴻」型海防艦二〇隻に過ぎず、対水上艦戦闘はとてもできないものであった。和蘭東洋艦隊には重巡洋艦が二隻、軽巡洋艦四隻、駆逐艦が一二隻在ったのである。仏印には自由仏蘭西軍が差し向けた戦艦『リシュリュー』が到着後、ヴィシーフランス軍に加担していたのである。陸軍は瑞穂州に三個師団六万名、秋津州には二個師団四万名が在ったが、制海権を得られていない現状では派遣することも不可能であった。


 皇国海軍は急遽南遣艦隊を編成、東南亜細亜に派遣することとした。その編成は戦艦『長門』『陸奥』、重巡洋艦『高雄』『愛宕』、空母『翔鶴』『瑞鶴』、「朝潮」型駆逐艦一〇隻、これに現地に在った「初春」型駆逐艦六隻、「白露」型駆逐艦一〇隻が加わる。


 中でも厄介なのが仏印インドシナにある戦艦『リシュリュー』であった。皇国海軍において『リシュリュー』を超えるのは新造の「大和」型戦艦のみであったが、未だ習熟訓練中であるため派遣できなかったのである。『リシュリュー』の要目は次の通りであった。排水量四万七五四八トン、全長二四七.八m、全幅三三.○二m、吃水一〇.七m、ボイラーIndret罐・重油焚×六基、主機Parsons式ギヤードタービン×四基、四軸推進、出力一五万馬力、武装四五口径三八cm四連装砲二基、五五口径六インチ三連装砲三基、四五口径一○cm連装高角砲六基、五六口径四○mmボフォース機関砲六九基、最大速力三○kt、航続距離一八ktで五〇〇〇浬というものであった。


 これに対して皇国海軍は艦載機での航空攻撃を考えていた。未だ戦艦主兵論が強いが、皇国海軍は先の日米戦や日ソ戦で艦船に対する航空攻撃が有用であるとの考えを持っていたのである。航空攻撃により、ソ連海軍巡洋艦を撃沈していたからである。むろん、まだ戦艦主兵論者も多いが、聯合艦隊司令部や軍令部は航空主兵へと移っていた。そのため、現在、改「翔鶴」型航空母艦二隻を建造中であった。


 「翔鶴」型航空母艦の要目は次の通りであった。排水量三万○八〇〇トン、全長二五○m、飛行甲板長二五○m、全幅二八m、飛行甲板幅三四m、昇降機三基(一基は舷側式)、吃水九m、ボイラー瑞穂重工重油焚×八基、主機瑞穂オールギヤードタービン×四基、四軸推進、出力一六万馬力、武装五〇口径一二.七cm単装高角砲一二基、二五mm連装機銃一六基、航空機七八機(艦戦二四、艦爆二四、艦攻二四、艦偵六)+補用一○機、最大速力三二kt、航続距離一六ktで九八○○浬というものであった。特徴として完全なエンクローズドバウ(艦首部が飛行甲板と一体化した形)であることと、艦橋が大きくなり、その基部に航空管制室が設けられたことであろう。


 一九四一年一二月八日、瑞穂州(ボルネオ島)東側を通って秋津州に向かった南遣艦隊はジャワ島オランダ軍基地であるジャカルタに航空攻撃を仕掛けた。その後、本土から転進してきた松平兼道中将指揮の第一三師団を上陸させたのである。松平兼道中将は数少ない秋津州出身で、これまで関東軍参謀や台湾駐屯の第九師団参謀長などを歴任、先年第一三師団師団長を拝命、これまで長崎にいたのである。今次のジャワ島攻略作戦が立ち上がった際、真っ先にその名が挙がり、部隊派遣に承諾したものであった。


 一二月一〇日、南遣艦隊は今度はスマトラ島東部オランダ軍基地バレンバンに航空攻撃を仕掛けた。攻撃は二波一九二機に及んだ。その後、山下奉文大将指揮下の第五軍四万名が上陸する。第五軍の進撃はすさまじく、翌年一月一〇日にはスマトラ島全島を掌握するに至る。


 一二月二〇日、シンガポール沖で遊弋していた南遣艦隊は進撃してきた蘭仏艦隊を捉えると攻撃隊を発艦させた。二艦合わせて一四四機と直援機すら残さない全力攻撃であった。南遣艦隊第四航空戦隊司令官山口多聞中将は闘将と言われる人物であり、このときも迷わず総攻撃を仕掛けていた。そしてこの戦いは航空攻撃により戦闘行動中の戦艦を初めて撃沈する、という歴史に残る戦果を上げることになる。<彗星>艦爆隊の四機が五〇〇kg爆弾を艦首および第一砲塔、艦橋基部右舷、艦尾に命中させ、<流星>艦攻隊は八〇〇kg魚雷を右舷に四本命中させたのである。


 結局、この航空攻撃で戦艦一隻、重巡洋艦二隻、駆逐艦二隻を撃沈、残る駆逐艦二隻は仏印インドシナに逃げ帰っている。これにより、東南亜細亜の枢軸軍側艦艇は壊滅したといえた。セイロン島に避退していた英東洋艦隊第一部隊(軽巡洋艦二隻、駆逐艦四隻)もシンガポールに再進出、仏印に残る駆逐艦二隻に備えた。南遣艦隊は全艦皇国本土に帰還するが重巡洋艦二隻、空母一隻、駆逐艦八隻からなる第一特務艦隊が変わって進出してくることになった。


 一九四二年四月二日、遣欧艦隊がシンガポールに寄航、四月五日にはスエズに向けて出港していった。この時点で未だ米国は参戦しておらず、英国は厳しい戦いを強いられていた。オランダ王室は米国に亡命したものの政府はナチス独逸の軍門に下り、親ナチス独逸政権を立ち上げ、仏蘭西は自由フランス軍と親独政権のヴィシー仏蘭西に分かれ連合軍は苦戦を強いられていたといえるだろう。そこに東洋の小国が参戦してきた。だが、彼らは知らなかったのである。魔の三〇年を凌ぎ、米国との太平洋戦争を戦い、そのすべてにおいて勝利あるいは勝利側の属した奇跡を信用していなかったのである。皇国海軍が本格参戦したこの年六月から戦況は確実に変わり始めたのである。


 その兆候が最初に現れたのはマルタ島への輸送作戦(史実のペデスタル作戦)であったといわれる。その当時、マルタ島は枢軸軍の包囲にあい、補給は滞っていたとされる。海上にはイタリア海軍戦艦二隻および重巡洋艦四隻からなる有力な艦隊があり、空ではナチス独逸空軍爆撃部隊の猛攻を受けていたとされる。その日、イタリア海軍艦艇は緑色の機体に赤い丸を胴体と翼に描いた航空機の攻撃を受けたのである。結果、戦艦一隻大破、一隻中破、重巡洋艦二隻が沈没、二隻が大破するという損害を受けた。


 同日、マルタ島空襲に向かった五〇機からなる独逸爆撃隊のうち基地に帰還しえたのはわずかに一五機、うち一〇機は損害が著しく再使用不可能であったといわれている。彼らを迎撃したのは緑色の機体に赤い丸を胴体と翼に描いた航空機二〇機であったとされる。そしてマルタ島に久しぶりの救援物資が届いた。


 その後も北アフリカの港湾やイタリア南部港湾、コルシカ島などが緑色の機体に赤い丸を胴体と翼に描いた航空機の攻撃を受けた。いずれの場合も送り狼よろしく追撃したイタリア軍であったが、彼らの追撃隊が燃料切れで帰還するまで敵の艦隊は捕らえることができなかったとされる。彼らの機体では往復一〇〇〇kmが限度であったといわれ、攻撃や戦闘時間も入れれば往復で八〇〇kmが限度であったかもしれない。中には片道七〇〇kmしか飛べない機体もあったといわれる。それに対して、<零式>艦上戦闘機は二○〇〇km、<彗星>は軽爆装二五〇kg×一で二〇〇〇km、<流星>は軽爆装二五〇kg×一と六〇kg爆弾×二で二三〇〇kmというものであった。<彗星>は最大爆装時(五○〇kg×一)で一五〇〇km、<流星>は最大爆装時(八○〇kg×一)で一九〇〇kmであった。


 遣欧艦隊は被害こそあったものの沈没には至らず、消失艦はなかった。一ヶ月とたたないうちにマルタ島は回復、十分な戦闘能力を有するに至ったといわれている。だが、枢軸軍にとっての悲劇はまだ始まってはいなかった。彼らが本当の意味で悲劇を味わうのはこれからであった。地中海の制海権および制空権を失うという悲劇を味わうことになる。それは遣欧艦隊第二護衛部隊が地中海に入ってから起こったのである。


 遣欧艦隊第二護衛部隊とは水上機母艦を含む護衛戦隊の有用性を認めた皇国海軍が新たに編成、派遣したものであった。旗艦水上機母艦『瑞穂』、改「択捉」型海防艦二個戦隊一六隻からなる護衛部隊であった。「鴻」型海防艦は優秀艦であったが、航続距離が短いため、沿岸部での対潜水艦作戦ならともかく、海洋においての長時間に及ぶ対潜水艦作戦には不向きであった。そこで長大な航続距離を有する「択捉」型海防艦に最新の対潜兵器を搭載した改「択捉」型海防艦による編成としたのである。


 最新の対潜兵器とは前投射散布爆雷であった。それは一五kgの爆雷を一度に一六個発射するものであった。爆雷は後部に棒状の物がついており、これを十六本の筒を有する発射機に差込、発射機基部は通常の砲と同じようになっており、装薬して爆発させると十六個の爆雷が発射されるというものである。射程は二〇〇~五〇〇m、爆雷の信管は接触信管でひとつが爆発すると連鎖的に爆発するものであった。史実で英国が開発したヘッジホッグと同じような性能を有していた。


 もうひとつ、水上機母艦に搭載の新型機があった。これまでの<零式>水上偵察機に変わって搭載された水上偵察機<瑞雲>がそれであった。要目は次の通りであった。全長一二.五m、全幅一五m、全高五.五m、自重三五一五kg、最大重量五三二〇kg、最高速度四四〇km/h(高度三六○○m)、航続距離三一六○km、発動機三菱「火星」二四型空冷複列星形一四気筒、出力一六二〇馬力、乗員数三名、武装一二.七mm機銃×二、七.七mm×一、二五〇kg爆弾一か六〇kg爆弾三である。もちろん史実の<瑞雲>とは別物であった。


 特徴は大型化された機体に機上電探と開発されたばかりの磁気異常探知装置(MAD)が積まれていたことであろう。技術レベルや工業力が史実より高いこの皇国ではより精度の高いものが生産されていた。この機体は後に英国ではサブマリン・キラーと称されることになる。『瑞穂』にはこの機体が二四機搭載されていたのである。


 『瑞穂』の要目は次の通りであった(『日進』は同型艦)。排水量一万二五○○トン、全長一七五m、全幅二○m、吃水七m、主機瑞穂八式ディーゼル×六基、二軸推進、出力五万四〇〇〇馬力、武装五○口径一二.七cm連装両用砲二基、二五mm連装機銃一〇基、水上機<瑞雲>二四機搭載、昇降機一基、最大速力二九kt、航続距離一六ktで八〇〇〇浬というものであった。


 真横から見ると艦橋後部は艦尾まで甲板より一段高く平らであり、大型クレーン二基、射出機二基(油圧式)を装備していた。つまり、艦橋より前は巡洋艦、艦橋より後部は空母という形であった。簡単にいえば、史実の海上自衛隊のヘリコプター搭載護衛艦の「しらね」型に似ていたといえるだろう。ただし、こちらの方が艦の後部が長く、全長の二/三におよんでいた。


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