二次世界大戦
さて、史実では日独伊同盟が締結されていますが、この世界では英国追従政策と日英同盟継続中ということで、連合国側に付く日本皇国です。これが意外と難しく、どう転ぶかは幾千通りもあるでしょう。どうなるか、戦闘シーンは少ないですが、しばらく続きます。
一九三九年九月一日、独逸軍のポーランド侵攻により、英仏は独逸に宣戦布告し、ここに第二次世界大戦が勃発する。ソ連もポーランドに侵攻し、ポーランドは独ソに分割支配されることになる。さらにソ連軍はフィンランドに侵攻したが、翌年三月停戦することになる。この侵略においてソ連は国際連盟から除名処分を受けることになった。また、このときスターリンの粛清が行われていたが、多くの将校がニコラエフスクの亡命露西亜政府に投降してきている。
第二次世界大戦が勃発した直後、皇国海軍基地航空隊の戦闘機隊(零式艦上戦闘機装備)が六四機、小艦隊が英国に派遣されている。これは欧州各国に在った邦人保護の名目で、五〇〇〇トン級貨客船五隻、一万トン級貨物船二隻と「鴻」型海防艦八隻からなる船団であった。船団司令は三村隆海軍大佐であり、戦闘機隊指揮官は源田実中佐であった。このころ、瑞穂州や秋津州の民間人(多くは技術者)が多数英国や独逸をはじめとする西欧に滞在していたのである。
彼ら<零戦>装備の戦闘機隊はバトルオブブリテンに義勇兵として参加(そのため、機体は英国カラーに塗装されていた)、多大な戦果を挙げることとなる。それほど、<零戦>は当時の英独の戦闘機の性能を上回る戦闘機であった。速度性能は劣ったが、格闘戦能力と航続力は英独の追随を許さなかったとされる。そしてこの<零戦>の西欧での登場がその後の英独の戦闘機開発に大きな影響を与えることとなる。
一九四〇年四月、ソ連中央部は極東ソ連軍の増強を図り、極東の緊張は高まることになり、皇国政府および軍上層部も対応を迫られることとなった。シベリア鉄道を利用して総数五〇万人もの陸軍兵をウラジオストックに集結させていたのである。この当時、皇国陸軍は皇国海軍の開発した一五式偵察機(海軍名は艦上偵察機<彩雲>で史実の艦上偵察機<彩雲>と同等のものであった)の陸上仕様を飛ばして情報収集に充てていた。この偵察機は最長五〇〇〇kmもの航続力を有していたこと、当時のソ連軍戦闘機よりも速度が速かったからこそ、陸軍でも採用したのである。これにより、これらの情報を得ることができていた。
独逸軍のユンカースJu87急降下爆撃機の効果を知っていた皇国陸軍であったが、同様の機体は有していなかった。が、海軍の一四式艦上爆撃機(史実の九九式艦上爆撃機の液冷発動機搭載型)があり、陸軍では改造して一四式襲撃機として採用したのであった。改造箇所は三○mm機関砲(陸軍では三〇mm対戦車砲と称していた)を搭載することと寒冷地での使用に耐えるように空冷発動機への換装であった。運動能力は落ちるが、地上攻撃や戦車攻撃には十分な性能であった。
一九四〇年六月、ついに極東ソ連軍がニコラエフスクに侵攻を開始し、それと同時に日本海および東シナ海で潜水艦による無制限攻撃が始まった。陸上では極東陸軍五○万人と各種航空機二〇〇機がニコラエフスクに殺到し、海上では巡洋艦六隻を含む二〇隻の水上艦艇、一〇隻以上の潜水艦による攻撃であった。この潜水艦は独逸がソ連領で開発していたものの設計図を譲り受け、ソ連が建造したものであったといわれる。ウラジオストック回航は民間船舶を帯同させてのものであり、皇国ではその実数を把握していなかったといわれている。
陸軍は初動こそ遅れたものの配備された車両などをもって対応し、戦線の維持に成功していた。陸軍三個師団六万名、ニコラエフスク防衛軍二個師団四万名が応戦、さらにアムール川河口周辺に配備されていた防衛軍一個師団二万名の移動も始まっていた。配備されたばかりの一五式戦闘機<隼>(零式艦上戦闘機の陸軍仕様)三二機、一○式戦闘機三二機、海軍基地航空隊(第一四航空艦隊)の<零式艦上戦闘機>三二機の戦闘機群、一四式襲撃機<土龍>三二機、九式陸上攻撃機(陸軍呼称九式爆撃機)六四機の爆撃機群も加わり、初動の遅れは完全に取り返していたのである。
他方、海軍はどうしていたかといえば、主力艦で国内にあったのは『長門』『陸奥』の二隻のみ、空母は『隼鷹』『飛鷹』二隻のみであった。なぜかといえば、戦艦『加賀』『土佐』、空母『蒼龍』『飛龍』からなる臨編第一艦隊は布哇に在り、戦艦『金剛』『比叡』『霧島』『榛名』、空母『龍驤』と『龍鳳』からなる臨編第二艦隊はシンガポールに在ったのである。第一艦隊は布哇王国に売却された戦艦『伊勢』『日向』、重巡洋艦『古鷹』『加古』について布哇まで親善航海に向かい、第二艦隊はインド洋の哨戒と民間の輸送船団の護衛(連合国側船舶も含む)にあたっていたのである。
幸いにして聯合艦隊司令部(第二次世界大戦勃発により結成された)は広島県呉にあったため、すぐに対応策がとられたといわれている。「占守」型海防艦一隻を旗艦にして「鴻」型海防艦八隻からなる護衛戦隊を四個編成、東シナ海方面に派遣、「択捉」型海防艦一隻を旗艦にして「鴻」型海防艦八隻からなる護衛戦隊を四個編成、日本海に派遣したのである。オホーツク海方面に派遣の海防艦群は「択捉」型海防艦四隻と「鴻」型海防艦八隻からなる二個哨戒戦隊に編成し、一個をオホーツク海北部に、もう一個を南部に派遣している。さらに「択捉」型海防艦四隻からなる哨戒戦隊を二個編成し、一個は津軽海峡に、もう一隊を関門海峡において海峡哨戒にあて、戦艦『長門』『陸奥』、空母『隼鷹』『飛鷹』、軽巡洋艦『長良』『五十鈴』『名取』『由良』『鬼怒』『阿武隈』、「睦月」型駆逐艦一二隻からなる第四艦隊を編成、舞鶴へと向かわせていた。
この当時、「占守」型海防艦と「択捉」型海防艦、「鴻」型海防艦には最新の一二式聴音器と一二式探信儀、そして独自開発の一四式曳航聴音器が搭載され、日本海軍の中ではもっとも対潜能力が高いとされていた。一四式曳航聴音器は後に海上護衛総隊司令部参謀となる大井篤海軍大尉が駆逐艦の上で釣りをしていたときに思いついたとされ、多大な戦果を挙げることになる優れたものであった。
一九四〇年一二月、戦線に新たな動きが生じる。各戦線において何とか持ちこたえていた日本軍および防衛軍であったが、彼らに恐るべき知らせが舞い込む。長距離偵察に赴いた<彩雲>より、バイカル方面に新たに約三〇万の軍を確認、というものであった。ニコラエフスク軍総司令官今村均大将は新たに配備されたばかりの大型爆撃機<深山>による攻撃を決意する。
ちなみに<深山>の要目は次のようになっていた。全長二八.一五m、全高七.八m、全幅三八m、自重一万八四○○kg、最大重量三万八一○○kg、最高速度四八二km/h(高度六〇〇〇m)上昇限度八九五〇m、航続距離五九二○km、巡航速度二九三km/h、発動機瑞穂MZU液冷V型一二気筒一六五○馬力×四基、乗員数一〇名、武装二〇mm機銃×二、一二.七mm×六、爆弾最大六六○○kgというものであった。これまでの九式陸上攻撃機に比べて爆弾搭載量は五.五倍になっていた。わずか一〇機とはいえ、戦力は大幅に増強されていることになる。
さらに同じころ、海軍では舞鶴に移動した第四艦隊と佐世保と呉の聯合陸戦隊一個部隊一万名によるウラジオストック攻撃占領作戦を進めていた。聯合艦隊司令長官堀貞吉大将や海軍次官山本五十六大将は反対していたが、軍令部総長永野修身大将らは強引に推し進めることとなった。これは幸運にも恵まれて成功することとなった。しかし、軍令部および陸軍参謀本部がほぼ独断で行ったとして、後に議会から突き上げがあり、結果ほど上級司令部の人物が評価されることはなかった。
一九四一年一月一六日未明、『隼鷹』『飛鷹』航空隊によるウラジオストック攻撃から作戦が始まった。三波三二四機の攻撃により、ウラジオストックは壊滅する。次いで『加賀』『土佐』の艦砲射撃によってさらに破壊されたウラジオストック港に太田実大佐指揮下の呉陸戦隊が上陸、夜半には橋頭堡が確保され、翌一七日早朝、佐世保陸戦隊が上陸、半径一kmを確保すると、翌一八日には本間正晴中将指揮の陸軍第七師団の上陸が始まった。こうして一月二三日にはウラジオストック港を中心に半径二〇kmが日本軍占領下に置かれることとなった。
三月には南進してきたニコラエフスク軍の一個師団と合流、戦線を北西に上げていき、コムソモリスク~ハバロフスク~ゲレヤのラインまでを確保するに至った。しかし、皇国軍はそれ以上北進することは不可能であった。なぜならニコラエフスク西方では防衛軍対ソ連軍の戦闘が続いていたからである。この時点においてソ連軍はブラゴシチュンスクにまだ三〇万の兵力を用していたし、シベリア鉄道を使って続々と兵力を増強しているようであった。
しかし、一九四一年六月末、第二次日ソ戦争は突然の停戦が成立することになった。独ソ不可侵条約を反故にしたナチス独逸国防軍がソ連領に侵入したのである。停戦ラインは現状のままとされた。スターリンとしては極東よりも欧州戦に専念したかったのであろう、安易な停戦条約であったといえる。この段階で、日本海は内海となったといえるだろう。ウラジオストック艦隊は壊滅し、潜水艦も補足され、撃沈破されるか降伏していたからである。いや、カムチャッカ半島やマガダンに逃げこんだ艦もいるかもしれないが、現状では何もできないと思われた。
懸念していた皇国周辺の紛争を仮とはいえ片付けた皇国軍は、同盟国である英国からの要請により本格的に欧州戦に参戦することとなった。その理由は明白であった。独逸や仏蘭西から引き上げる日本人およびかろうじて独逸を出国したユダヤ人多数を乗せた客船『日田丸』が独逸海軍Uボートの攻撃を受けて地中海で大破、一〇〇名近い死傷者を出したこと、英国向けの医薬品や乳幼児用品を多数積んでいた民間貨物船『宝永丸』が同じく攻撃を受け、沈没したことが直接の原因であったとされている。
皇国海軍では遣欧艦隊の編成を急ぎ、大西洋および地中海に派遣することを決定していた。派遣艦隊は過去のようなおざなりのものではなく、きちんとした国際連盟常任理事国としてふさわしいものを、との考えによって編成されることとなった。皇国では次期主力航空母艦「翔鶴」型二隻(『翔鶴』および『瑞鶴』)の完成もあって大規模な機動部隊の派遣を予定していた。編成は次の通り。
遣欧艦隊主力部隊総旗艦重巡『青葉』、機動部隊旗艦重巡『衣笠』
第一一戦隊『金剛』『比叡』
第一二戦隊『霧島』『榛名』
第一六戦隊『妙高』『那智』
第一七戦隊『足柄』『羽黒』
第一一航空戦隊『蒼龍』『飛龍』
第一二航空戦隊『龍驤』『龍鳳』
第一五水雷戦隊軽巡『川内』「吹雪」型駆逐艦八隻
第一六水雷戦隊軽巡『神通』「吹雪」型駆逐艦八隻
第一七水雷戦隊軽巡『那珂』「吹雪」型駆逐艦八隻
第一一駆逐隊「睦月」型駆逐艦六隻
第一二駆逐隊「睦月」型駆逐艦六隻
遣欧艦隊護衛部隊旗艦水上機母艦『日進』
第一一護衛戦隊「鴻」型海防艦八隻
第一二護衛戦隊「鴻」型海防艦八隻
遣欧艦隊輸送部隊
第二一輸送隊
一万トン級輸送船六隻
第二二輸送隊
一万トン級タンカー四隻
の総数八三隻からなる部隊であった。
遣欧艦隊司令長官は山本五十六大将、参謀長古賀峯一中将、機動部隊司令官塚原二四三中将という布陣であり、第一二航空戦隊司令官角田覚治少将、第一五水雷戦隊司令官西村祥治少将、第一六水雷戦隊司令官梶岡定道少将、遣欧艦隊護衛部隊司令官草鹿任一中将、同参謀大井篤中佐などがいた。
これら人事も含めていかに皇国海軍が本気であったかわかるというものであっただろう。これで皇国に残るのは「長門」型戦艦二隻、新造の「加賀」型戦艦二隻、「翔鶴」型航空母艦二隻、「隼鷹」型航空母艦二隻、「高雄」型重巡洋艦四隻、「伊吹」型重巡洋艦二隻、「白露」型駆逐艦一〇隻、「朝潮」型駆逐艦一〇隻、「択捉」型海防艦多数、「鴻」型海防艦多数にとどまっていたのである。これらは米国に対する備えとされていた。
そのころ、ハバロフスクやウラジオストックではユダヤ人の受け入れ準備が進められていた。ソ連との停戦条約の中にシベリア鉄道を利用してのユダヤ人の通過を認めることが条件のひとつとして入っていたのである。露西亜帝国時代からユダヤ人に迫害を加えていた皇帝ニコライ二世がいるニコラエフスクでは不安であろうから行き先の希望があれば応じることとし、そうでなければ千島列島の国後島、択捉島、色丹島、歯舞群島に仮移住させることとしていた。