北方地帯
読者の方から指摘がありましたが、少しわかりにくかったと思うので、魔の三〇年3 を加筆しました。といっても一〇文字ほどですので、内容に変わりはありません。ご指摘ありがとうございました。これに懲りず読んでやってください。
一九二〇年以降、皇国陸軍は北に目を向けなければならなかった。日清戦争の三国干渉から皇国は露西亜を恐れており、常に北に目を向けていた。そして日露戦争、皇国は勝利するも誤った選択をしてしまうことになった。当時、良かれと思って行った行為、ニコラエフスクの割譲と皇帝の娘の移住、その目的は露西亜の東進を避けるためのものであった。しかし、まさかという形で露西亜革命が起こる。
革命後、かっての露西亜に誕生したのは世界初の社会主義国家、ソビエト連邦であった。そして、ソ連はかっての領土であったニコラエフスク地方の奪還と朝鮮半島および中国東北部の獲得を狙っていた。その表れともいえるのが、再編なった太平洋艦隊のウラジオストック駐留と極東陸軍の増強であった。皇国軍を震撼させているのが、第一次世界大戦において登場した潜水艦部隊の確認とその数であり、戦車を要した陸軍部隊であった。
皇国海軍には第一次世界大戦において第二特務部隊の苦い経験があった。派遣した艦隊が潜水艦による攻撃受け、駆逐艦一隻撃沈、一隻大破という損害を蒙っていたのである。また、皇国陸軍においても多くの観戦武官を派遣し、その戦いをつぶさに見ていた。その戦争はこれまで皇国軍が経験した戦法を覆すものであった。
皇国海軍には未だ有効な対潜水艦作戦は確立されておらず、装備も有していなかった。海軍上層部は同盟国であった英国に人材を派遣、有効な戦法の習得と装備の獲得を目指すが、英国でもまだ手探りの状態であったため、有効なものは得られなかった。皇国陸軍においても戦車の開発と対策に走ることになる。それは当然であった。ニコラエフスクの周囲はすべてソ連と接しているし、人であれ武器であれニコラエフスクに送るには海を越えなければならないからであった。
シベリア出兵以後、皇国陸軍は三個師団六万人を配していたが、十分とはいえなかった。ソ連軍は万単位でいくらでも兵力を増強できるからであった。さらに内部から切り崩される恐れもあったからである。しかし、この頃の皇国は台湾やニコラエフスクでは軍政は敷いておらず、民政であったことが後に幸いすることとなった。朝鮮半島では未だ民政に移行できず、朝鮮軍(日本軍ではない)による軍政のままであったが、史実ほどのものではなかった。朝鮮半島以前に開発に力を入れなければならない地方があったからである。
大陸において皇国を悩ませていたのは何も朝鮮半島や露西亜の南進だけではなかった。一九二九年、愛新覚羅溥儀を元首とした満州帝国が出現していたのである。満州帝国には張作霖ら奉天軍閥が属していたのである。史実では大日本帝国陸軍関東軍が関与していたが、この世界ではそうではなかった。むろん、張作霖と皇国とのつながりはあった。ではあるが、国民党に敗れた彼に皇国は奉天での再起を進言することぐらいしかできなかったとされる。
張作霖は皇国からの進言により、奉天に向かう最中、事件がおきた。爆殺未遂事件である。史実でも関東軍による爆殺事件がおきているが、この世界ではそうではなかった。南満州鉄道警察隊により犯人は逮捕された。その犯人とはコミンテルンに所属する人物とソ連人二人であった。幸いにして張作霖は重症を負うも命には別状がなかった。その一年後、張作霖は満州国国軍総司令官として表舞台に再び現れることとなる。南満州鉄道をはじめとする多くの利権を満州国に有していた皇国は満州国との関与を余儀なくされていくことになる。
張作霖はソ連が満州を侵略しようとしている可能性があることを関東軍のある軍人からこのとき知らされたという。我々関東軍が対応できればいいのだが、一個師団では南満州鉄道沿線と関東州の防衛しかできない。このままでは満州も危ないから奉天軍閥をもって守るべきだろう、といわれたそうである。そして、愛新覚羅溥儀を元首とした満州国建国の夢を聞かされたともいう。その男の名を石原莞爾といった。これは張作霖の息子であり、第二代満州国軍総司令官たる張学良が晩年に語っている。
中華中央では国民党政府と共産勢力による内戦が続いていた。皇国は欧米と歩調を合わせて中華民国との交易を続けていた。しかし、満州国が建国されると国民党政府よりも満州国に重点が置かれるようになっていく。理由は明白で、この当時、皇国の第一の懸念はソ連の東進と南進を阻止することにあったからである。とはいえ、国民党政府との交易を止めたわけではなかった。
皮肉なことに満州国建国が日ソ間の緊張をより高めることになっていったとされる。ソ連側の認識では満州国は日本の傀儡国家であるとされていたからである。ソ連だけではなく、当初は欧米諸国においても同様であったとされる。
一九二九年以降一九三七年までの間、ニコラエフスクとソ連の国境周辺では数え切れないほど、大韓帝国とソ連の国境周辺では三度、満州国とソ連の国境周辺では一度紛争が起こっている。ニコラエフスクとソ連の国境周辺で大きいものではないが、共産勢力の侵入が確認され、大韓帝国国境では大規模な武装衝突が起きていた。満州国との国境周辺では関東軍一個連隊が動くほどの大規模な紛争が起こっていたとされる。
ニコラエフスク周辺ではコムソモリスク事変があった。一九○五年のポーツマス条約で日本が割譲されたのはアムール川以北の半島ともいえる地域であった。一九三五年二月、ソ連陸軍一〇万人がニコラエフスクの西一〇〇kmで渡河し、皇国陸軍第一五師団隷下の一個連隊と戦闘になった事件である。この当時、ニコラエフスク地方には反共主義の露西亜人が各地から流れ込み、その数約五○万人ともいわれていた。日本政府は軍人経験者や志願者を募り、三個師団約六万人の防衛部隊を組織し、第一〇軍(ニコラエフスク軍)隷下に加えていた。
このとき、ニコラエフスク西方には先の一個連隊とニコラエフスク防衛軍一個旅団の合わせて二万五〇〇〇名がいた。これはソ連陸軍が同地周辺に集結していることを察知した第一〇軍司令部が急遽派遣したものであった。幸いにして装備の優秀(対ソ最前線軍ゆえに最新装備が配備されていた)さもあって撃退することができたといわれている。一九三五年三月戦闘は終了、被害は戦死一二〇〇名(皇国軍八〇〇名)、負傷六〇〇〇名(皇国軍三八〇〇名)を出し、ソ連軍兵士一万人を捕虜にしていた。
一九三六年四月、満ソ国境に近いチーリンにソ連陸軍一〇万人が越境した事件がチーリン事変である。このときは満州国軍五万人が応戦したが、戦線は膠着状態にいたり、張作霖総司令官はさらに五万人と皇国から購入していた新鋭兵器を投入、かろうじて国境まで押し返している。一九三六年一〇月に終結し、被害は戦死二万五二〇〇名、負傷四万八〇〇〇名を出していた。自主的に投降したソ連軍兵士は三一〇〇人がいたという。
一九三八年六月、朝鮮半島のウラジオストックよりにあるナチンにソ連陸軍二〇万人が侵攻した事件がナチン事変である。このときは大韓帝国陸軍一個師団と戦闘になり、後に皇国陸軍朝鮮派遣軍一個師団および大韓帝国陸軍二個師団が加わり、撃退に成功していた。一九三八年一二月に戦闘は終結し、被害は戦死一万八二〇〇名(皇国軍一〇〇名)、負傷三万一〇〇〇名(皇国軍一〇〇〇名)を出していた。ソ連軍捕虜は三万人いたという。
皇国政府および皇国軍上層部ではこの一連の局地紛争はソ連軍の本格的侵攻の前触れとしていた。一九三九年八月の独ソ不可侵条約締結後、ニコラエフスクには一個師団の増強と最新装備の配備、さらに、防衛軍の二個師団増強などの処置をとっている。満州国や大韓帝国には最新装備の配備によって余剰となった装備の供与や売却による戦力増強を図っている。
このとき更新されたのが一四式小銃、一四式軽機関銃、一五式短機関銃であり、一五式中戦車、一二式砲戦車であった。また、トラックやジープなどの車両も多数配備され、完全とはいえないが自動車化が勧められていたのである。
一四式小銃は史実の九九式小銃に相当するものであり、皇国陸軍初の七.七mm弾使用小銃であった。しかし、基礎工業力が高まっている分、より高性能であった。一四式軽機関銃は史実の九九式軽機関銃に相当するが、性能的にはかなり高性能であった。さらに、生産管理が進んでおり、多量生産が可能であった。その翌年には一四式小銃を自動化した一六式自動小銃が配備されるようになるが、この小銃は鹵獲したソ連製トカレフM1938を元に開発されたといわれる。一五式短機関銃はソ連軍のPPd34短機関銃やPPd40短機関銃に対抗するために配備されたもので、米国製M1928短機関銃を基にしており、当時皇国軍で標準であった九mm弾が使用できるよう開発されたものであった。史実のM1短機関銃に似たものであったが、ソ連製のものより優れていたとされる。
一六式自動小銃の要目は次のようになっていた。全長一二五.五cm、(着剣時 一六三.九cm)、銃身長六五.五cm、立脚標準装備、装弾数一〇発(箱形弾倉)、重量四.一〇○g、使用弾七.七ミリ口径一四式普通実包、弾頭重量約一一.八g、作動方式ガス圧動作ピストンオペレーテッド式、初速八○○m/sec、最大射程三四○○mというものであった。史実に比べて技術力や工業力が向上しているため、製造可能であった。立脚に関しては賛否両論であったとされる。
ソ連を仮想敵とする皇国陸軍は対ソ戦に対する備えとして戦車の開発を急務としていた。鹵獲したソ連製BT-7中戦車や購入した独逸製一号戦車などを参考にし、完成させたのが一五式中戦車であり、史実の四式中戦車に似ていいたが、砲塔は独逸の3号戦車に似ていた。一二式砲戦車は史実の三式砲戦車に近いものであった。