太平洋戦争
ここはもっと突っ込んで書くべきなんでしょうけど・・・・・ 何で書いてないのか忘れました。結局、戦記ではなく、戦史のつもりで書いていたのだと思います。状況によっては追加で書いてみたいと考えています。確約はできませんが・・・・・
一九三一年八月一五日から三二年九月一五日まで続いた太平洋戦争は日英側の勝利で終結する。とはいっても英国は緒戦の南シナ海海戦とフィリピン占領作戦のみで、残る小笠原沖海戦、南鳥島沖海戦、北太平洋海戦、グアム占領作戦などは日本皇国単独で行われている。
発端は東シナ海における米海軍潜水艦による皇国海軍戦艦『扶桑』と『山城』への雷撃であったといわれている。このとき、英国海軍巡洋艦『ケント』が巻き添えで沈没している。『扶桑』は魚雷二発を受けて大破、『山城』は魚雷一発を受けて中破するも両艦とも沈没は免れていた。
謝罪と賠償を求める日英両国に対し、米国は日本の謀略であるとして逆に謝罪と賠償、そして中国(旧独逸領および関東州)からの撤兵を要求している。日英は謝罪と賠償、原因究明を求めたが、米国はグアム島にあった太平洋艦隊一個任務部隊による小笠原諸島への攻撃でこれに答えた。これによって日英は米国に宣戦布告、本格的な戦闘行動へと移行することとなる。
同年九月二〇日、英東洋艦隊(戦艦二隻、巡洋艦二隻、駆逐艦一二隻)皇国海軍南部艦隊(軽巡二隻、駆逐艦一二隻)の日英連合艦隊が、南シナ海で米太平洋艦隊第一〇任務部隊(戦艦二隻、巡洋艦四隻、駆逐艦一六隻)との艦隊戦が起こるにおよび、皇国軍はようやく戦争準備が整うこととなった。この海戦では日英側は沈没艦(英国駆逐艦一隻、日本駆逐艦四隻)を出したが、海戦劈頭の皇国海軍二個水雷戦隊による雷撃で戦艦一隻、巡洋艦二隻、駆逐艦二隻を撃沈、英国打撃部隊による巡洋艦一隻、駆逐艦四隻を撃沈に至らしめている。
同年一〇月二日、小笠原沖で皇国海軍第一艦隊(戦艦二隻、重巡二隻、軽巡二隻、駆逐艦一二隻)が、米太平洋艦隊第一一任務部隊(戦艦二隻、重巡二隻、駆逐艦一六隻)と接触、海戦が起こった。小笠原沖海戦である。ここでも二個水雷戦隊が突撃、重巡二隻、軽巡一隻、駆逐艦六隻を撃沈、打撃部隊による艦隊戦で戦艦二隻、軽巡一隻、駆逐艦六隻を撃沈している。損害は戦艦一隻大破、一隻中破、重巡一隻中破、軽巡二隻大破、駆逐艦六隻沈没であった。
この二度の海戦で米太平洋艦隊の被害が多いのは驚くに値しない。いずれの艦艇も旧式であり、対して日英は新鋭艦あるいは戦力向上のための改装済艦艇が多かったためである。米国はそれで十分だと考えていたのかもしれないが、そうではなかったのである。以後、米国は新鋭艦建造に邁進することとなる。また、このどちらの海戦においても航空母艦は参加していない。
そして同年一二月八日、皇国海軍部隊および陸軍二個師団によるグアム島占領作戦が実施される。参加艦艇は第一戦隊『長門』『陸奥』、第五戦隊『妙高』『那智』、第六戦隊『足柄』『羽黒』第一航空戦隊『龍驤』『龍鳳』、第三航空戦隊『翔鳳』『翔龍』、軽巡二隻、駆逐艦二四隻、海防艦二七隻(輸送船護衛)であった。陸軍は精鋭部隊といわれる第四師団と第六師団であった。
まず艦載機による航空攻撃からグアム占領作戦は始まった。四隻の空母から延べ五破八八○機に及ぶ攻撃により、制空権と制海権を経た後、艦砲射撃で上陸地点を制圧、第四師団の上陸が始まった。そして二ヶ月後の一九三二年二月一〇日、米軍守備隊の降伏により、グアム島占領作戦は終了した。皇国軍の被害は死者三〇〇〇人弱、負傷者八〇〇〇人に及んだ。対する米軍は死者八〇〇〇人弱、負傷者一万人であった。
一週間遅れて日英連合艦隊(英国側戦艦一隻、巡洋艦一隻、駆逐艦四隻、皇国側戦艦一隻、空母二隻、重巡二隻、駆逐艦六隻、海防艦二七隻)と英豪新連合陸軍一個師団、皇国陸軍三個師団によるフィリピン占領作戦が実施される。
こちらも航空攻撃から始まった。二隻の空母から三波合計三二四機による攻撃、そして台湾から二波、延べ二四○機の渡洋爆撃が加わっている。フィリピン全島の占領ではなく、米軍が配備している主要島だけの占領とされていた。グアムと異なり、広い範囲での占領となったために時間を要したが、四ヶ月後の一九三二年四月二〇日、米軍降伏により戦闘が終わっている。皇国側死者六〇〇〇人、負傷者二万人、英側死者一〇〇人、負傷者一二〇〇人であった。米側死者一万人、負傷者三万人という犠牲者が出ていた。
この間、三二年三月八日、択捉島沖の北太平洋で世界初の空母機動戦が行われている。皇国側は『天城』『赤城』『龍驤』『龍鳳』、軽巡二隻、駆逐艦二四隻、米側は空母『レキシントン』『サラトガ』『ラングレー』、軽巡四隻、駆逐艦一二隻であった。本来であれば皇国側が隻数からいって断然有利であった。さらに、両部隊が接触したとき、米側艦載機は択捉島空爆からの帰途であったため、皇国側が圧倒的に有利であった。結局、『レキシントン』『サラトガ』が沈没、他に軽巡二隻、駆逐艦四隻が沈没という大損害を受ける。皇国側は『天城』『赤城』が大破、駆逐艦一〇隻が中破で沈没艦なしという日本海海戦以来の完勝であった。皇国側空母の損害は撤退する米海軍艦艇の砲雷撃によるものであった。
ついで、三二年五月一一日、南鳥島沖で艦隊決戦が行われている。皇国側は『長門』『陸奥』『扶桑』『山城』の戦艦群、空母『翔鳳』『翔龍』、軽巡二隻、駆逐艦二四隻であり、米側は『コロラド』『メリーランド』『ウェストバージニア』『テネシー』『カリフォルニア』『ニュー・メキシコ』の戦艦群、空母『ラングレー』、軽巡六隻、駆逐艦二四隻であった。そもそも、この海戦は双方とも予期していなかった不時遭遇戦であったとされる。
結果からいえば、皇国側は『扶桑』『山城』沈没、『長門』『陸奥』大破、『翔鳳』『翔龍』大破、軽巡二隻沈没、駆逐艦六隻沈没という損害を出しているが、米側の『ウェストバージニア』『テネシー』『カリフォルニア』『ニュー・メキシコ』を撃沈、『コロラド』『メリーランド』大破、『ラングレー』撃沈、軽巡四隻撃沈、駆逐艦一二隻撃沈している。戦艦はともかくとして軽快艦艇のほとんどは航空攻撃によるものであり、航空攻撃での戦艦撃沈は達成されていない。
当然であるが、この戦争の間大西洋では英国本国艦隊による米大西洋艦隊の牽制が行われている。そのため、米国としてもうかつに艦隊を動かすことができなかったのである。結果的に当時太平洋にあった艦隊だけを相手にすればよく、これが日英に有利に働いたといえる。対英米比六割五分の艦艇すべてを太平洋につぎ込むことのできた皇国と戦力の五割強しか太平洋につぎ込めなかった米国との差が出ていたといえる。これが米国のすべての艦隊が太平洋にあればまた違ったであろうし、長期化すれば皇国は負けていたといえるだろう。
三二年八月五日に双方による会談が持たれ、九月一五日停戦が成立する。仲介を買って出たのは布哇王国であり、布哇オアフ島ホノルルで停戦会議が行われた。この会議において、最初に攻撃を加えた潜水艦『エンゼルフィッシュ』の反乱事件が白日の下に晒され、第九任務部隊司令官による小笠原攻撃の真相が晒される。これは英国情報部と日本皇国内閣情報調査室が調べ上げたもので、コミンテルンの関与が認められる、というものであった。これを聞いた米国側は調査のための時間を要求している。
九月一日の第二回会議での日英の要求は、米国は日英両国に謝罪すること、日英ともに領土は求めないこと、戦時賠償金の要求は行うこと、グアム島およびフィリピンの米国への返還は一一月末日とすることを条件としている。結局、共産主義の米国軍汚染を恐れた米国が日英の条件を飲むことで決着している。
さらに、第二回ロンドン軍縮条約の事前交渉も行われ、皇国の保有率はそのままとし、空母保有率のみ七割、巡洋艦の最低排水量を二〇〇〇トンに引き上げること、駆逐艦の最大排水量を二〇〇〇トンに引き上げること、一五〇〇トンを超える駆逐艦の割合を二○パーセントとすることで合意した。英米は未だ空母の有用性を半信半疑としていたが、皇国はこれからの主役は空母であることを確信していた。
こうして日英対米という構図で始まった太平洋戦争は終結することとなる。しかし、グアム島が存在することにより、海軍の仮想敵は米国であることを再確認したこと、そして皇国の対共産姿勢をより強めていく結果となる。米国は国内政策の失敗と日英への賠償金の支払いもあってモンロー主義に回帰することとなる。また、グアム島以外に太平洋にあった米領東サモアの開発に着手し、太平洋への戦力配備を進めている。その周辺域は英国領が多く、英連邦国である豪州や新西蘭が存在したからである。