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嘘から始まった同居生活は、いつしか本物の家族になった  作者: ひろボ


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第75話:大人の防波堤

 生徒指導室。

 先ほどまでの、大人たちが振りかざす「正論」によって完全に制圧されていた空間の空気が、たった一枚の紙切れによって無音のまま凍りついていた。


 父親が学年主任の机に滑らせた『未成年者居住・身上監護に関する同意及び委任状』。

 学年主任は、その書類を手に取ることもせず、まるで触れてはいけない劇物でも見るかのように、じっと見下ろしていた。


 実印。署名。市役所が発行した、偽造のしようがない印鑑証明書のコピー。

 形式上は、完全に整っている。法的な親権者が、阿久津湊の住居に娘を居住させることを公式に同意し、日常生活の監護を委任する。その事実が、法的効力を持った一枚の紙としてそこに存在していた。


 主任は、書類の文面を二度、三度と目でなぞった後、ひどく険しい、威圧感を孕んだ声で問い詰めた。


「……あなた、本当にこの内容を理解した上で署名しているんですか」


 父親は、学年主任の厳しい視線を正面から受け止めることができず、ひどく居心地悪そうに視線を床へと逸らした。

 体型に合っていない安物のスーツ。そのヨレた袖口を落ち着きなく引っ張りながら、蚊の鳴くような、ひどく掠れた声で小さく答える。


「……はい」


 その返事には、親としての威厳も、大人としての説得力も微塵もなかった。

 だが逆に、それが“取り繕うことのできない本物の生活感と疲弊”として、この男がどういう人生を歩んできたかを残酷なまでに物語っていた。


 学年主任は、なおも追及の手を緩めない。


「未成年の、それも高校生の娘を、同級生である男子生徒の家に居住させることを、親として認める、と? ……正気の沙汰ではない。普通ではありませんよ」


 父親は沈黙する。その沈黙が、彼自身も「これが普通じゃない」と痛いほど理解していることを物語っていた。自分の不甲斐なさが、娘をこんな異常な状況に追いやっているのだという事実から、目を背けられずにいる。


 だが。


「……でも」

 父親は、床を見つめたまま、地を這うような声で言った。

「うちに戻すよりは、マシなんで」


 部屋の空気が、完全に止まった。

 詩織が、弾かれたように顔を上げる。湊も、息を呑んでその背中を見つめた。


 完璧な父親ではない。むしろ、親としては最低の、失格に近い人間だ。

 それでもこれは、彼なりの完全な敗北宣言であり、親として最後に絞り出した、最低限の責任の取り方だった。自分が娘を不幸にする泥沼であると自覚しているからこそ、他人に頭を下げてでも、娘の「今の安全な居場所」を壊さないことを選んだのだ。


 学年主任が、深く、重いため息を吐きながら額を押さえる。道徳的、倫理的には到底容認できるものではない。だが、親権者が公式にそれを認めた以上、学校という組織が「誘拐」や「保護責任者遺棄」を盾にして警察や児童相談所を強権的に動かす法的根拠は、完全に失われた。


「……矢島先生」

 学年主任は、怒りと疲労が入り混じった声で、背後に立つ矢島を睨みつけた。

「これは、一体どういうことですか」


 そこで初めて。これまで学年主任の正論の前にずっと沈黙を守っていた矢島が、ゆっくりと前へ出た。


「……彼を呼んだのは、私です」


 静かな、だがはっきりとした声だった。


「以前、阿久津から父親の連絡先を共有されていました。緊急時用として」


 その瞬間、湊の目がわずかに見開かれた。頭の奥で、カチリと何かが噛み合う音がした。


 ◇


 詩織が高熱を出した翌日、矢島が差し入れを持ってアパートを訪れたあの夕暮れ。湊は、父親からの接触があったことを報告し、学校からの情報漏洩を防ぐために、父親の電話番号を書いたメモを矢島に渡した。

 あの時、矢島は手帳に番号を書き写し、こう言ったのだ。

『今度何かあったら、絶対に一人で動くな。必ず俺を呼べ』


 あの言葉は、単なる教師としての建前ではなかった。

 湊は驚愕のあまり動けなかった。「俺はこんな手回しをしていない。金を積んだわけでもない。じゃあ誰が……」という疑問の答えが、今、目の前で明かされたのだ。


 矢島は、学年主任へ真っ直ぐに向き直った。


「先ほど、自習時間に生徒たちから噂の報告を受け、事態が学校の管理下を超える可能性が高いと判断しました。そのため、私が直接この連絡先に電話をしました。娘さんが行政介入になる可能性があること、このままだと学校側で強制的な居住分離措置を取らざるを得ないことを説明した上で――」


 矢島は一度言葉を切り、父親の丸まった背中を一瞥してから、続けた。


「“父親として責任を取るなら、今しかない”と伝えました」


 学年主任の声が、地鳴りのように低くなる。

「独断ですか」

「はい」

「あなた、自分が何をしているか分かっているのか。教師が、生徒の異常な同棲状態を裏で手引きするような真似をして、ただで済むと思っているのか!」

「分かっています」


 矢島は、深く、静かに頭を下げた。


「この件に関する一切の責任は、私が負います。処分も受けます。……ですが主任。これで、法的な問題はクリアされました。彼らを今すぐ引き離す根拠は、もうどこにもありません」


 沈黙。学年主任は激怒している。だが、同時に大人として理解してしまっているのだ。ここで父親の同意が出た以上、学校側は強制介入の正当性を失う。もし無理に引き離せば、逆に越権行為として親権者から訴えられるリスクすら生じる。


 完全に詰み切る寸前だった盤面を。湊の計算も論理も及ばなかった圧倒的な「社会の暴力」を。矢島が、一人の大人として泥を被り、ギリギリのところでひっくり返したのだ。


 学年主任は、こめかみに青筋を立てながら、長い、本当に長い沈黙の後、深く息を吐き捨てた。


「……本件は、一時保留とする」


 その言葉が落ちた瞬間。床に座り込んでいた詩織の肩が、ビクッと大きく震えた。

 助かった。最悪の事態は、免れた。

 だが、この部屋にいる誰一人として、素直に安堵の息をつくことなどできなかった。支払った代償と、これから直面する現実の重さが、あまりにも大きすぎたからだ。


 *


 生徒指導室を出た後。詩織は「少し、顔を洗ってきます」とだけ言い残し、フラフラとした足取りで女子トイレへと向かって行った。湊だけが、薄暗い廊下に残された。


 夕焼けはもう完全に消え、窓の外はインクを零したような群青色に沈み始めている。湊は、冷たいコンクリートの壁に背中を預け、天井を仰ぎ見た。心臓が、まだ嫌なリズムで警鐘を鳴らし続けている。自分の無力さと、ギリギリで足元をすくわれかけた恐怖が、全身の筋肉を硬直させていた。


 そこへ、学年主任との後処理を終えた矢島が、重い足音を響かせて歩いてきた。


「……なんで」


 湊は、壁にもたれたまま、ひどく低い声で問うた。


「なんで、あんな真似を……」


 矢島は何も答えず、自販機で買ったらしい缶コーヒーを一本、湊に向かって無造作に放り投げた。だが、今の湊にはそれを受け取るだけの反射神経すら残っていなかった。手から滑り落ちたスチール缶が、ガコンッ、と鈍い音を立ててリノリウムの床に落ち、コロコロと転がっていく。


 矢島は、足元に転がった缶を拾い上げると、苦く、自嘲するように笑った。


「……ほんと、不器用だなお前は」


 そして、矢島は手元の缶コーヒーのプルタブを開け、少しだけ真顔になった。


「阿久津」

「……」

「お前、今回マジで危なかったぞ。あと十分遅ければ、主任は本当に警察と児相に連絡を入れていた」


 湊は何も答えない。答えられなかった。矢島の言う通りだ。俺の論理は、すでに完全に破綻していた。


 矢島は、コーヒーを一口飲み、静かに続ける。


「お前は頭がいい。大人顔負けの計算もできるし、リスク管理も徹底してる。だから、“自分だけで全部守れる”って錯覚するんだよ」

「……」

「でもな、阿久津。未成年が一人で社会のルールと戦うと、最後は絶対に潰されるんだよ。どれだけ正しくても、どれだけ覚悟があっても、大人の正論とシステムには勝てない」


 それは、静かな声だった。教師としての説教ではない。一人の不完全な大人としての、痛みを伴う実感だった。


「だからあの時言ったんだ。“一人で動くな”ってな。……お前が俺にあの番号を渡してくれたから、俺は動けた。お前が俺を、少しでも頼ってくれたからだ」


 湊の喉が、熱く詰まった。これまで、これまで、大人は敵か、あるいは利用価値でしか測れない存在だと思っていた。だが、目の前にいるこのヨレたスーツの男は、自分の保身すら投げ打って、俺たちの歪な日常を守るための防波堤になってくれたのだ。


 矢島は、湊の隣で壁に寄りかかり、疲れ切った顔で薄暗い天井を見上げた。


「……子供が、勝手に大人になる時ってのはな」


 一拍。矢島の声が、少しだけ震えた気がした。


「大抵、周りの大人が間に合わなかった時だ。……お前らに、そんな思いはさせたくないんだよ」


 その言葉だけ残して。矢島は空になった缶コーヒーをゴミ箱に捨て、振り返ることなく職員室へと歩き去っていった。湊は、その後ろ姿を、ただ無言で見送ることしかできなかった。


 *


 学校を出て、マンションではなく、二人が暮らすあの一軒家への帰路。


 夜道。初夏の湿気を帯びた風が、二人の間をすり抜けていく。街灯が、昨夜の雨の名残で微かに濡れたアスファルトを、白く、冷たく照らしていた。


 詩織は、学校を出てからずっと俯いたまま、湊の半歩後ろを歩いている。沈黙が、重くのしかかる。生徒指導室での出来事が、彼女の心にどれほどの傷を残したか。湊には痛いほど分かっていた。


 やがて、住宅街の暗がりに差し掛かった時。詩織の足が、ピタリと止まった。


「……ごめんなさい」


 風の音に消えそうなほど、小さな呟きだった。湊は振り返らず、ただ立ち止まった。


「また、湊くんに……あんな人にまで、何かさせて……」


 誤解だった。詩織は、湊が裏で父親に接触し、必死に頭を下げてこの書類を用意させたのだと思い込んでいた。

 自分が湊に、そんな底辺の泥水をすするような真似をさせてしまったのだと。


 湊が否定の言葉を口にしようと振り返った瞬間、詩織の言葉が重なった。


「私がいなければ、湊くんは普通に生きられたのに……」


 声が、激しく震えていた。街灯の光に照らされた彼女の顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。


「学校でも、あんな風に怒られなくて済んだし、先生に庇わせて、責任を取らせることもなくて……私のせいで、湊くんの未来も、誇りも、全部汚しちゃった……っ」


 彼女は、両手で顔を覆い、しゃくり上げながらついに決定的な言葉を口にする。


「……今夜、出ていきます」


 湊の呼吸が、完全に止まった。


「施設なら、多分……お父さんのところに戻らなくても……っ、だから」

「やめろ」


 低い、地の底から響くような声だった。だが、自己嫌悪の底に沈んだ詩織は、首を横に振る。


「だって私、もう、これ以上湊くんの重荷に……」

「やめろって言ってるだろ!!」


 静かな住宅街に、湊の怒声が響き渡った。初めて、彼女に対して明確な怒りを込めて、感情を露出させた。詩織がビクッと肩を揺らし、怯えたように湊を見上げる。


 湊は、自分でも抑えきれない苛立ちと、彼女を永遠に失ってしまうかもしれないという焦燥を抱えたまま、大股で距離を詰め、彼女の細い腕を強く掴んだ。


「お前がいなくなって、俺が元に戻れる?」


 詩織が、痛みに息を呑む。だが、湊は掴んだ腕を離さない。


「冗談言うな」


 湊の声は、怒りだけでなく、ひどく震えていた。冷静な計算も、論理も、もう何一つ残っていなかった。


「勘違いするな。親父を呼んだのは俺じゃない。矢島だ。あの人が裏で手を回して、俺たちの代わりに泥を被ってくれたんだ」

「え……っ?」

「でもな」


 湊は、詩織の腕を引いて、自分の顔を近づけた。掴む力が、さらに強くなる。


「もし矢島が動いていなかったら。もし必要だったなら、俺はあいつに土下座でも何でもしてやった」


 詩織の瞳が、驚愕に激しく揺れる。


「お前がここにいられるなら、金でも何でも積んでやる。泥水だってすすってやる。お前の父親がクズだろうが、社会が俺たちを異常だと言おうが、そんなことはどうでもいい!」


 それは、優等生・阿久津湊の完全な崩壊だった。体裁も。合理性も。大人の目を欺くためのプライドも。全部、アスファルトの上に投げ捨てていた。


「お前がいなくなった部屋で」

 湊の声が、掠れる。喉の奥から、血を吐くような本音が漏れ出す。

「俺が、平気な顔で、昨日までと同じように息をして生きられると思うな」


 詩織の瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ落ちる。湊はもう、止まれなかった。自分の中に押し込めていた、真っ黒で、熱を帯びた感情のすべてを、彼女の前にぶちまける。


「俺はもう、“保護者”なんかじゃない」


 学年主任と矢島から突きつけられた核心。保護責任と、恋愛感情の混同。その否定を、彼はもう完全にやめた。


「義務感で匿ってるわけじゃない。お前が可哀想だから隣にいるわけじゃない……っ」


 湊は、掴んでいた彼女の腕を引き寄せ、その小さな体を、自分の胸の中に強く抱き込んだ。一度は詩織が小さく抵抗し、身をよじって彼を拒もうとしたが、湊の抱擁があまりにも切実で、飢えた獣のように必死だったため、彼女は観念するように力が抜けていく。


「……俺は、お前を手放したくない」


 静かな告白。それは、甘い愛情というよりも、自分の一部を切り離されるような、喪失への極限の恐怖に近かった。彼女がいなければ、自分の世界はもう成り立たない。その痛切な依存の自覚。


「勝手にいなくなるな。俺を、一人にするな……っ」


 詩織は、湊の腕の中で、わっと声を上げて泣き崩れた。自分が「邪魔な重荷」ではなく、彼にとって「どうしても失いたくない存在」なのだと、その痛いほどの抱擁から理解したからだ。彼女の細い腕が、湊の背中に回り、そのシャツを強く、絶対に離さないとばかりに握りしめた。


 もう、戻れない。

 ただのクラスメイトには。誰にも秘密にしない、普通の青春には。

 二人は互いの人生に、深く、致命的に踏み込みすぎていた。

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