髪の長い女
この街には、大人から子どもまで知っている、昔話がある。
髪の長い女の話だ。
むかしむかし、この土地に、1人の女が住んでいた。
黒髪の、若く、美しい女だった。
その女の漆黒の髪は、地面についてしまうほど長く、美しかった。
女自身も長い髪に引けを取ることなく美しい。
女性でさえも、思わず歩みを止め、見惚れてしまうほど美しいその女は、いつ見ても若く、いつ見ても美しかった。
若さと美貌に惹かれ、何人もの男が、その女に求婚した。
そしてその全員が、神隠しにあったように姿を消していったのである。髪の毛一本、残すことなく。
この土地に唯一ある寺の和尚は、消えた男たちの家族から、真相を確かめてほしいと頼まれた。死んでいるのならせめて、埋葬だけでもしたいというのだ。
そのため、和尚は、消えた男たちの唯一の接点である女に話を聞こうした。
そして、女の家を訪ねたのである。
家の玄関を開け、女の名を呼ぼうとした時だった。
「あぁ―!」
短く、低い男の叫び声が、和尚の耳に入る。
家の裏からだ。
和尚は、急いで向かった。
そこで和尚が見たものは、長い髪を持ち上げている、美しい女の後ろ姿だった。
背中の真ん中に、大きな醜い口がある、女の後ろ姿である。
その口は、何かを必死で食べていた。
よく見てみると、それは男の足のようである。
和尚は、それを見て、女が、妖怪に取り憑かれているのだ、と思った。
和尚は、露わになったその醜い大きな口に向かって、妖怪退治の念仏を唱え始めた。
美しい女を救うために。
すると、女の背中にある大きな口が、苦しみ始めた。
そして、奇声を発しながら和尚に襲いかかってきたのである。
和尚をも喰らおうとしたのだ。
和尚は、念仏を唱えながら、それを避け、さらに念を込める。
大きな口は、もう襲ってはこなかった。
この世のものではない叫びをあげ、苦しみながら、女の背中から消えていった。
大きな口から解放された女は、そのまま、地面に座り込む。
和尚は、すぐにその女に駆け寄り、顔を覗き込んだ。
そして、絶句した。
目の前にいる、美しいはずの女が醜かったから。
顔には無数の皺が見える。漆黒の髪はすべて白髪に変わっていた。
女は、地面を見つめたまま、和尚に問う。
譫言のように何回も。
「どうして?…どうして?…どうして?」
そのしゃがれた声を聞き、和尚は、悟った。
女は、妖怪に取り憑かれていたのではない。
女は、妖怪に自分を売ったのだ。
若さと美貌を保つために。
今度は、和尚が尋ねた。
「どうして?」
と。
女は、小さな声で言った。
「大切な人に、もう一度、会うために…。」
数十年前に、戦に出向き、帰らぬ人となった恋人が、再び生まれ変わった時、どうしてももう一度、会いたかった、のだと。
そして、もう一度、愛して欲しかった、のだと。
そのために、妖怪と取引をし、定期的に生贄を捧げていた、のだと。
話終わると、女は静かに泣き始めた。
声は出さず、しかし涙は止まることなく流れている。
乾ききった大きな瞳は、何年ぶりに、水を得たのだろうか。
和尚は、先ほどまで、大きな口があった、女の背中に手をそっと乗せた。
背中は暖かく、確かに女は人間だった。
そして、言った。
何年もの間、女が待ち望んでいた言葉を。
「もういいのだ。」
もう、苦しまなくてもいい、のだ。
もう、眠ってもいい、のだ。
「この世で、再び出会わずとも、あの世できっと出会えるだろう。」
女は和尚の眼を見つめる。そして、尋ねた。
「本当に?」
「ああ。きっと。だから、もう眠りなさい。」
「…ありがとう。」
女は、笑った。
皺が何本も入り、骨と皮だけになってしまった顔で、美しく。
そして自然の摂理に従い、土に返っていった。
和尚は、女がかつて、愛した男と住んでいた家の前に、小さな祠を建てて、女を祀った。
愛する気持ちが大きすぎたために、涙を流すことさえ忘れた、悲しい女を。
この悲恋の昔話のせいだろう。
街の中心にある小学校から、2キロほど離れた場ところにあるマンションの405号室に住む、髪の長い女性が、この時代に、“妖怪”と呼ばれているのは。
「翔太、頼む。」
修業式の後、翔太は、友人3人にそう言われ、頭を下げられた。
「でも…。」
「頼むよ。退治しろなんて言わないから。あの女が本当に妖怪かどうかだけ確かめてくれよ。」
「でも…。」
先ほどから、この繰り返しである。
今日は一学期最後の登校日であり、午前中だけで学校が終わる日であった。だから、本来ならば、家が学校からそう遠くない場所にある翔太は、もう家に居てもおかしくはなかった。
しかし、翔太はまだ、教室の中にいる。
教室を出て帰ろうとした翔太を、目の前の3人が引き止めたからだ。
「頼みごとがあるんだ」そう言われ、現在の状況に至る。
自称、探偵の翔太は、この小学生の間で妖怪『長髪』という、ネーミングセンスのない名前で呼ばれている、髪の長い女性が、本当に妖怪なのか確かめてほしいとの依頼を受けているところだ。
長髪は、この頃、小学校の目の前にあるバス停を毎日利用している。
しかも、その時間は、多くの生徒が登校してくる時間と同じだ。
そのため、あの昔話を知る小学生の多くが、毎朝ビクビクしている。
『後ろに立てば、大きな口に食べられてしまう』
そんな噂まで広がっており、長髪の背後2メートルには、誰も近づこうとしないのだ。
「翔太は長髪の家から近いから調べやすいだろう?」
友人の1人が言った。
そうなのだ。
翔太は、長髪と同じマンションに住んでいる。
しかも、翔太の家族が住んでいるのは、407号室。
長髪が住んでいる405号室の隣の隣だ。
「でも…。」
「翔太は探偵なんだろう?頼むよ。」
そう言って再び3人が、頭を下げた。小学生ながら、最敬礼の深さまで頭を下げている。
3人の視線が向けられている状態では、「妖怪は、探偵の範囲外だと思うけど…」
などと言えるわけがない。
「…わかった。今日から夏休みだから、…調べてみるよ。」
「本当か?ありがとう。」
友人たちは、「やったな」と手を叩きあった。
そして「ありがとう」ともう一度頭を下げる。
もうすでに問題が解決したとでもいうような、輝いた笑顔で、教室から出て行った。
「あ~あ。探偵と妖怪は関係ないからね。」
1人残された教室で、翔太は、言えなかったセリフを口に出す。
その声は彼らには届いていない。
いつもなら何かと物が置いてある教室が、夏休みに入るため、今は、茶色い机と椅子しかなった。
天井も、床も茶色である。
一色しかない教室。
その風景は、妙に淋しかった。
そのせいだろうか。
翔太は、怖さを実感しはじめていた。
翔太も、他の小学生同様、長髪が怖いのである。
あの長い髪を見ると、どうしても思い浮かべてしまうのだ。昔話の紙芝居で見た、醜い口を。大きな白い歯と赤い歯茎が頭から離れなくなる。
自分で「探偵だ」と言っているが、結局はただの小学5年生だ。
翔太も、長髪の後ろに立てば、地面についてしまいそうなほどの長い髪の間から、醜い口が出てくるのではないかと思えてならない。
翔太も、今まで、長髪の後ろに立ったことはなかった。
しかも、翔太は長髪と家が近い。だから、余計に友人の依頼を受けたくはなかったのだ。
他の人より、恐怖を長い時間感じているから。405号室で音が聞こえれば、長髪が誰かを食べているのではないか、と想像してしまう。
それに加え、もし、長髪が本当に妖怪で、自分が調べていることがばれたら、すぐに捕まって、食べられてしまうかもしれない。
その可能性を考えたからこそ、翔太は依頼を断りたかった。
でも、翔太には、プライドがある。
皆は、いつも、自称、探偵をバカにする。それなのに、頼みごとをする時ばかり、「探偵」という言葉を使う友人を卑怯だと思った。
しかし、「探偵なんだろ?」と言われれば、断るわけにはいかない。
初めての探偵依頼ならば、もっと格好いい仕事がよかった…。
翔太は、そう思った。
しかし引き受けてしまったからには、やらないわけにはいかない。
なぜ、変にプライドが高いのだろう…。
思わず、自分を悲観してしまう。
外を見れば、大きな太陽の下をカラスが悠々と飛んでいる。
「カァー」
カラスが、上から翔太をバカにした。
「わかっているよ。でも、…僕は探偵だ。」
聞こえるはずもないが、翔太は、カラスに言い返す。
案の定、カラスは、翔太を無視して、高く舞い上がった。
小さくなったカラスの黒が、翔太の眼に映る。青い空に小さな黒い点が浮かんでいた。
なんだか無性に、悲しくなった。
そして、次の日から、翔太の探偵としての仕事が始まった。
翔太は、7時ちょうどに起こす目覚まし時計を止めた。
今は、待ちに待った夏休みである。
本来ならば、あと2、3時間寝ていても、誰も文句は言わない。
それなのに、翔太は、重い瞼をこじ開けた。
服を着替え、部屋から出て、ダイニングキッチンへ向かう。母親の佳代子はもうすでに起きていた。
「おぁようぉ。」
欠伸をしながら翔太が言う。その声に、佳代子は少し驚いた顔を見せた。
「何?夏休みなのに早いじゃない。」
「うん。ちょっとね。」
「…今度は何をするつもりなの?またお父さんの真似?」
「教えない。それより、ご飯。」
佳代子は小さくため息をついたが、それ以上何も言わずに、翔太の分の朝食を用意してくれた。
それを平らげると、
「ちょっと出てくる。」
と、佳代子に告げた。
自称、探偵である翔太が、1人で出かけることは多い。
それに佳代子もすでに慣れていた。
そのため、朝早くに出かける息子を詮索することはしない。
部屋に戻り、荷物を手にして玄関で靴を履いている翔太の背中に、
「行ってらっしゃい。」
とだけ言い、息子を見送った。
空は、薄い青色をしている。浮かんでいる白い雲は、風に吹かれ流されていた。
耳を澄まさずとも、蝉の大声が聞こえる。
外の空気はまだ涼しかった。それでも、蝉の声を聞くと少し、気温が上がる気がする。
翔太は、蝉の声を防ぐようにお気に入りの青い帽子をかぶった。
家から出た翔太は、小学校へ向かう。
しかし、目的地は、小学校ではない。
翔太は、小学校に到着すると、すぐ目の前にあるバス停のベンチに座った。
そこで、長髪が来るのを待つことにしたのだ。
ちょうど朝の出勤時間ということもあり、バス停には数本のバスが絶え間なく停まる。
何本かのバスが、目の前で停まり、そして出発して行った後に、長い髪を左右に揺らしながら歩いてくる、スーツ姿の女性を見つけた。
長髪だ。
黒髪を高めの位置で結っているにもかかわらず、その髪の先はくるぶしところにある。
おそらく髪を下ろせば、地面についてしまうだろう。
翔太は、去年の誕生日に買ってもらった腕時計を見た。
針は、8時少し前を指している。
長髪は、バス停に着くと、立ったままバスを待つ。
すると間もなくして、1台のバスがちょうど長髪の目の前に停まった。
長髪は、一番にそのバスに乗り込む。
それを見ていた翔太も慌てて立ち上がり、同じように乗り込んだ。
バスは仕事に向かうらしい大人たちであふれていた。
席はすべて埋まっている。
翔太は仕方なく、立ったままバスに揺られることにした。
頭の上にある吊革は、かろうじて手の届くところにある。
しかし、吊革に掴まる方が危険だと判断したため、乗客が座っている椅子に掴まり、揺れに耐えることにした。
斜め後ろには、長髪がいる。
こちらも同様に立っていた。翔太とは違い、吊革に掴まっていたが。
バスが揺れるたび、長い黒髪も揺れた。
本来、後から乗車した翔太が、長髪の後ろにいるのが普通だろう。
しかし、翔太は、怖くて長髪の後ろには立てなかった。
そのため、小さい体を利用し、長髪の前に行ったのだ。
立っている人の間をすり行ける時、少し嫌な顔をされた。
それでも、翔太は、謝りながら、必死で長髪の前に向かったのだった。
他の大人に怒られるより、長髪の後ろの方が怖かった。
そしてそのまま30分、その状態が続いた。
その間に、数人が下車したが、ほとんどの人はずっと乗ったままだった。
そのため、結局、翔太が椅子に座ることはなかった。
時計の針が8時30分を指すと、バスはゆっくりと徐行し始めた。
そして停まる。
今まで仲良く左右に揺られていた人々が、一斉にバスから降り始めた。
その中には、長髪の姿もある。
翔太は、その姿を確認すると、すぐ、後に続いた。
小学生の翔太は、子ども料金であるため、バスの運賃が、大人の半分で済む。
正月に大量に貰ったはずのお年玉があと少しで底についてしまう翔太にとって、嬉しい誤算だった。
下車する時、礼儀正しく運転手に、
「ありがとうございました。」
と告げ、長い髪を探した。
ひと際目立つその髪は、すぐに見つかる。
長髪は、今降りたばかりのバス停の目の前にある、大きな建物の中に入って行った。
バスから降りた大半の人も、長髪の後に続いている。
翔太は、なんとかその建物の中に潜り込もうとした。
しかし、部外者であり、なおかつ小学生の翔太が入れるはずもない。
というか、制服を着た、背の大きい男性が怖くて、チャレンジすることもできなかったのだが…。
結局、会社の中に入れない翔太は、その建物の前にいることにした。
7月下旬の太陽は、驚くほどの熱を発している。
朝、8時台でこの暑さだ。
これからどんどん暑くなるに違いない。
翔太は、手をかざしながら一度、太陽を睨んでみた。
それでも、気温は下がらない。
「どうしたの?迷子?」
昼間から、子どもには不似合いな建物の前に立っている小学5年生に、1人の初老の女性が声をかけた。
彼女でもう3人目である。
「いえ…。別に…。」
適当に交わしていた翔太だが、さすがにここには居づらくってきた。
左腕の時計が今、10時30分だと教えている。
2時間粘った。
暇で、なおかつ暑い中で、汗をかきながら、人眼を気にしながら、よく2時間も会社の前に立っていた。
そう、自分に言い聞かせ、翔太は、一度自宅に戻ることにした。
本当は、ただ根負けしただけなのだが、プライドが高い翔太は認めない。
しかし、よく考えてみれば、仕事が終わるまで、長髪はあのビルから出てこないのだ。
翔太が、あそこで暑さと戦いながら立っていることに、さほど意味はない。
翔太がそれに気づくのは、数人しか乗客のいない帰りのバスで座っている時だった。
思わず、声を出して苦笑いしてしまう。
大きな荷物を持つ年老いた女性が、その声に気づき、翔太を見た。
翔太の顔は、自然に赤くなっていく。
冷房が効き過ぎている、と言っても過言ではない車内の中にいるにもかかわらず、1人だけ暑さを感じていた。
家に帰った翔太は、少し早めの昼食を済ませる。
今日のメニューは、大好きなカレーだった。
その好物を十分に味わうと、夏休みのアニメスペシャルを見るために、テレビの前に座る。
アニメを堪能した後は、大量に出された夏の課題をやりながら、15時ごろまで、時間を潰した。
そして時計が15時を回ったところで、再び暑い外に出る。
マンション近くの公園のベンチに座った。
そこで、長髪が帰ってくるのを待つことにしたのだ。
ベンチの横には大きな木が立っている。それが日陰をつくってくれていた。
蝉が何匹も止まっているらしく、木の傍に立つと耳に入る鳴き声が大きくなる。
しかし、太陽から防いでくれる木の傍を離れる気はなかった。
公園では、翔太より1、2歳若い子どもたちが遊具で遊んでいる。
この暑い中、走り回り、汗をかいていた。
笑い声が公園中に響いている。
自分に依頼した友人は、今頃プールで涼んでいるのかもしれない。
そう思うと、少しだけ腹立たしくなった。
公園の中にある花壇で、背の高いヒマワリが太陽を見ている。
翔太と同じくらいの背丈まで伸びていた。
綺麗な黄色い花は、大きく、太陽に似ている。
その姿が翔太には、笑っているように見えた。
今年の自由研究は、あのヒマワリの観察にしようかな、と暇すぎる時間の中で考えていた。
太陽が徐々に沈み始めていた。
色がオレンジに変化し、翔太の目に映る景色が、すべてその色に染まっていく。
大きな声で騒いでいた子どもたちの高い声が、次第になくなっていった。
気温が下がり、やっと夏の暑さから解放され、過ごしやすくなってきた。
時計の針は、18時の少し手前を指している。
翔太は時計を見ながら、長髪が帰ってくると思われる方向を見つめた。
すると、遠くに黒い服を着た人の姿が目に映る。
髪の長さから、その人が長髪であることがわかった。翔太は意識をそちらに向ける。
翔太の視界に入る長髪の姿が大きくなってきた。
そして、次の瞬間、翔太は、全速力で駆けて出していた。
あれほど待っていた長髪がやって来たのだ。
家は目の前だとしても、その間だけでも観察をしてやろう、と思うところだろう。
いや、翔太も、実際は、そのつもりだった。
しかし、気のせいかもしれないが、一瞬長髪と眼が合ってしまった。
長髪が笑みを浮かべているように見えてしまった。
それはすべて長髪への恐怖心が、そう思わせているものかもしれない。
しかし、翔太にはそう見えた。
見えてしまった。
押しこめていた長髪への怖さが、再び翔太の中に戻って来たのだ。
顔を覚えられたかもしれない。
食べられるかもしれない。
そんな不安が頭をよぎる。
だから、翔太は逃げるように、家の中に入った。
勢いよくドアを閉めたため、マンションの4階に大きな音が響く。
「静かに閉めなさい。」
佳代子が怒鳴りながら玄関まで出てきた。
しかし、翔太には、怒っているはずの佳代子の声が、妙に優しく聞こえる。
そして、思わず佳代子に抱きついていた。
身長も伸びはじめ、佳代子との差は、頭1つ分くらいにまで縮まっていた。
「どうしたの?」
翔太の顔を覗き込み、問いかける。その声には心配の色が見えた。
「なんでもない。」
翔太は、首を振ってそう答える。
けれど、しばらくの間、佳代子に抱きついていた。
佳代子はそれ以上何も聞かず、そっと髪を撫でてくれた。その手の感触がなんだかすごく懐かしく、翔太はゆっくり瞼を閉じた。
夕食の準備をしていた佳代子からはおいしい匂いがする。
しかし、何の匂いかはわからなかった。
「ほら、もうご飯よ。」
どのくらい経った後だろうか、佳代子がそう言った。
「うん。」
甘えてしまったことが恥ずかしく、声が小さくなる。佳代子もそれに気づいたようで、翔太に見えないように小さく笑うと、ダイニングキッチンへ向かった。
照れた顔をしたまま、翔太もその後に続く。
テーブルの上には2人分の夕食の用意がされていた。翔太は椅子に座り、「いただきます」と言い、食べ始める。
佳代子も翔太の前に座り、食事を始めた。
「そう言えば、父さんは?」
「今日から、お仕事で帰って来ないんだって。」
「今度は何を調査するの?」
「…なんだったかな?お母さん、探偵の仕事に興味がないから忘れちゃったわよ。」
翔太の父親の真澄は探偵をしている。それも、その世界では名が知れ渡っているほど有名な探偵だ。
翔太が探偵を自称している理由もそこにある。
佳代子と一緒にいる父親としての真澄は、佳代子の尻に敷かれるダメ親父だ。けれど探偵としての真澄の背中は、いつも遠かった。
翔太には決して届かないほど。
その遠い背中を見て、いつか追いついてやりたい、と翔太は考えていたのだ。だから同じ道を歩もうと心決めたのである。
「どのくらいで帰ってくる?」
「1ヶ月くらいかかるって言っていたかな。」
「1ヶ月も…か。」
翔太は肩を落とし、考え込むように呟いた。
探偵である真澄が家を開けることは珍しくない。そのことは翔太も承知し、受け入れていることである。
だからこそ佳代子は翔太の落胆ぶりに疑問を持った。
「真澄さんに何か用があったの?」
「…。」
翔太が気まずそうに顔を伏せる。
真澄は、有名な探偵だ。しかし、翔太のことに限れば、佳代子も立派な探偵である。
「何か買ってもらおうとしてた…訳じゃないみたいね。…何をしてもらいたかったの?」
「…。」
「言えないこと?」
「違うよ。…ただ、ちょっと、助けてもらおうかなって思った…だけだよ。」
最後の方は声が小さくなっていた。
自分で言っていて情けなくなったのである。
翔太は長髪の件で真澄の力を借りようとしたのだ。
「妖怪」など、大人はバカにするかも知れない。それでも、どうしても怖いのだ。
真澄はいつも忙しいため、手伝ってはくれないかもしれない。
しかし、頼んでみることだけでもしようと考えていたのである。アドバイスだけでも貰えたらいいなと思っていた。
「…お母さんは、翔太が今、何をしているのか知らないわ。」
そう言いながら佳代子は箸を置いた。それに翔太も従う。
目の前にいる佳代子の眼が真剣だったから。
「でもね、翔太にとっては、大切なことなんでしょ?」
「…うん。」
「なら、自分の力でやりなさい。真澄さんの力を借りずに、自分の力でやってみなさい。」
「…。」
「お母さんはね、探偵なんて大嫌いよ。」
「え?」
翔太は視線を佳代子に戻す。
佳代子は、静かに笑っていた。
「だって、私たちのことなんか放っておいてどっかに行っちゃうんだもん。…でもね、探偵をしている真澄さんはいつも真剣で、すごく格好いいの。そんな真澄さんは大好きよ。…だからね、翔太。翔太が探偵になるの、お母さんは本当は嫌なの。でもね、格好いい探偵なら、許してあげる。…自分の力でやってみなさい。できないなら、諦めなさい。すぐ誰かに頼るなんて格好悪い大人にならないで。」
「…。」
翔太は黙っていた。けれど、視線を逸らすことはしなかった。
その目が真澄に似ているな、と佳代子は思い、嬉しくなった。
「わかった?」
静かに翔太に問うてみる。
「…わかった。でも、僕は諦めないからね。父さんの力何か借りなくても、1人でやれるよ。…諦めないから。」
その真っ直ぐな翔太に、佳代子は一瞬困ったように笑った。しかしすぐに、一度だけ頷いた。
そして置いていた箸を持ち、食事を再開する。翔太もそれを見ると、再び箸を持った。
夕食のメニューはハンバーグだった。
それから10日間、同じことを繰り返した。
朝、7時に起き、長髪を尾行した。
家に帰ってくる時間を見計らって、調査を続けた。
長髪への恐怖心は徐々に薄れていったため、全速力で逃げる、ということはなくなった。
まだ、後ろには立てないが…。
とりあえず、翔太は懸命に尾行を続けた。
そして、わかったことがある。
長髪は、8時のバスに乗り、会社に向かうこと。
18時に、家に着くこと。
そして土日は休みらしく、家からほとんど出ないということだ。
しかし、尾行しただけでわかることは、そのくらいだ。
だから、翔太は、強行突破をしようと決めた。
子どもだから、中途半端な尾行しかできない。
子どもだから、会社の中での長髪の様子を、探ることができない。
でも、子どもだから、できることがある。
翔太は、ズボンのポケットに、ニンニクと、十字架を入れた。妖怪退治グッズのつもりである。
夏休みに入って2回目の土曜日だった。
太陽は相も変わらず、熱を発している。夏、にふさわしい暑さであった。
風は、静かに翔太の短い髪を揺らす。そんなさわやかな日だった。
翔太は、気合いを入れ、玄関を出る。
そして一度、深く息を吸った。
耳を澄ませると、いろんな音が聞こえる。
蝉の必死な声。マンションの下の道路を、車が通り過ぎる音。人の話し声。
それを背に、翔太は、隣の部屋を越え、405号室の前に立った。
遊びに行くことにしたのだ。
長髪の家に。
いや、遊べなくてもいい。というか、怖くて遊びたくはない。
そうではなく、家の中を見てやろうと思ったのだ。
インターフォンを押して、ドアが開いたところで、中に入ってやろうと。
後で、怒られるかもしれない。
でも、怒られるだけだ。
大人なら、それだけじゃ済まない。
子どもだからこそ、できるのだ。
そんなことをしたところで、何が、わかるかなんて、わからない。
でも、翔太は、何か「やった」と言えるものが欲しいのだ。
尾行だけではなく、自信を持って、「探偵」というセリフが言えるようなことをしたいと思ったのだ。
初めて依頼を引き受けた「仕事」なのだから。
翔太は、405号室のインターフォンを押そうと手を伸ばす。
しかし、ボタンに触れることはできても、そこから力を込めることができない。
さっきまでの威勢はどうした。
翔太は自分に言い聞かせるが、足がガタガタ震えてくる。
諦めて帰ろうか。
佳代子には偉そうに諦めないと宣言しておきながら、そんな考えが真っ先に浮かぶ。
気を落ち着かせるために、インターフォンから手を離す。
諦めるのではなく、もう一度作戦を練り直そう。
そう考えた時だった。
「どうしたの?」
女性の声が耳に入る。
翔太の見ている世界が、一瞬止まった気がした。
恐る恐る振り返ると、家の中にいるはずの長髪が真後ろにいる。
暑さのせいで出てくる汗とは別の汗が、大量に吹き出た。
夏なのになぜだろう。
翔太は、寒さを感じた。
太陽が高い位置にある。
直視できない太陽は、白い光を発していた。
太陽の暑さをかき消すように、風が優しく、翔太の汗を拭き取って行く。
そんな心地よい夏の午後。
それなのに、翔太は、肝試しをしている気分になった。
風が触れるたび、汗が冷やされ、さらに寒さを感じた。
すっかり固まってしまった翔太を無視し、長髪は鞄から鍵を出す。
鍵穴に入れてそれを回した。
翔太が住む407号室と全く同じ造りのドアがゆっくり開く。
長髪がドアを開けたまま言った。
「どうぞ、入って。」
「…はい。」
翔太は、思わず、そう返事をしていた。
長髪は薄っすらと笑みを浮かべる。
そして、返事をしたにもかかわらず、固まったままの翔太の肩に軽く触れた。
「さっ、どうぞ。」
翔太を中に促す。
翔太は、言われたまま、405号室の中に入った。
「ここに座って。」
通されたのは、リビングだった。薄い緑色のカーペットが敷かれている。
足に触れるその感触は柔らかく、気持ちがよかった。
「ちょっと待っていてね。」
そう言うと、長髪は姿を消した。
長い髪を揺らしながら去っていく。
リビングに1人で残された翔太は辺りを見渡した。
翔太の家と全く同じ間取りであるはずのこの家は、殺風景だった。
リビングには、机が1つ、椅子が2つ置いてある。
そして少し離れたところに、テレビも1台あった。しかしそれだけだった。
生活感がない空間である。
テレビは、黒いテレビ台の上に乗っていた。
その台の上には、写真立てが1つ置いてある。縁が薄い青色のシンプルなものだ。
翔太は、椅子から離れ、写真に近づく。
写真には、2人の人間が写っていた。
若い男性と女性だ。
その男女の後ろには、綺麗な海が映っている。
2人は腕を組み、幸せそうな顔で笑っていた。女性の方は、長髪、だと思われた。
しかし、翔太は確信が持てない。
女性の髪が、長くなかったからだ。
写真に写る女性の髪は、背中の半分ほどの長さである。
普通なら、「長い髪」に区分されるだろう。
しかし、今の長髪と比べれば、「短い髪」に思えてしまう。
そして、翔太が写真の女性が長髪だという確信を持てない理由はもう1つあった。
それは、写真に写る女性が幸せそうな顔をしていたからだ。
翔太は、これまでに何度も長髪を見たことがある。
しかも、最近は、尾行までした。
しかし、長髪はいつもどこか、悲しそうな顔をしている気がした。
だから、幸せそうに笑う女性が、長髪だと考えることができなかったのである。
しばらく写真を見ていると、翔太の耳にかすかに音が入った。
足音だ。
翔太は慌てて先ほどの席に座る。
その席に座ると、少し顔を動かさないとテレビが見えなかった。
足音に耳を傾けていると、やはりこっちに向かってくる。
音が大きくなったと思ったら、長髪が現れた。
手にはお盆を持っている。そこにはケーキとコーヒーカップが2つずつ乗っていた。
「これ、どうぞ。食べて。」
そう言って、ケーキとコーヒーカップを翔太の前に置く。
コーヒーカップの中身は、コーヒーではなく紅茶のようだ。
苦いコーヒーが飲めない翔太は、少しだけほっとする。
「砂糖、ここに置いておくね。好みで入れて。」
そう言って、角砂糖の入った瓶を、前に出す。
「ありがとうございます。」
翔太は、かろうじてそう言った。
しかし、内心、訳がわからない。
なぜ、自分はここにいるのか。
もしかしたら、長髪は、自分を太らせてから食べるつもりなのかもしれない。童話に出てくる魔女のように。
そんな考えが翔太の頭の中に浮かぶ。
しかし、目の前の女性は、柔らかい笑みを向けてくる。
「おいしい?」
ケーキを少しだけ口に運んだ翔太に、少し首を傾げて聞いてきた。
「あ、はい。」
「まだあるから、好きなだけ食べてね。」
「あ、はい。」
小さい声で答える。
それを聞いた彼女は、再び、優しい顔を翔太に向けた。
翔太は終始うつむき、緊張していたが、視界の入ったその笑みを見て、少しだけ落ち着いた。
そして思った。
もしかしたら、この人は妖怪なんかではないかもしれない。
そもそも、妖怪なんていないのだ。
妖怪などは、子どもを怖がらせるための作り話なのだ、と。
そう納得し、安堵のため息をつこうとした時だった。
「そういえば、この頃私の後をつけていたよね?」
そんな台詞が、翔太の耳に入る。低い声だった。
翔太は、紅茶に伸ばしかけていた手を思わず引っ込める。
そして再び固まった。
「…私って、『長髪』って呼ばれているんだよね?」
長髪は翔太に笑顔を向ける。
しかし、笑顔が怖い。
同じ顔なのに、先ほどの笑顔とはかなりの温度差があるように感じた。
何か言わなければならない。
翔太の中で、誰かが翔太に告げる。
わかっている、そんなこと。翔太がその誰かに反論した。
でも、何も言えない。
怖くて口が動かない。口の中の水分が一気に蒸発した。
今は、暑い夏である。
しかも、その夏の中でも、一番暑い時期だ。
それなのに、なぜこんなにも肌に触れる空気が冷たいのだろうか。
翔太の額から、汗が驚くほど出てくる。
しかし、再び、翔太の耳に、予想外の声が聞こえた。
笑い声だ。
童話に出てくる魔女が、窯の前で、「イッヒッヒ」と笑う感じではない。
その笑いは、口元に手をあてて、「ふふふ」と笑う柔らかな笑いだった。
母親の笑いに少し似ているかもしれない、と混乱している頭の中で、翔太はそう思った。
「ごめんね。」
少し首を傾げ、舌を出して、翔太の目の前に座る女性が言った。
何歳も年が離れているのに、思わずかわいいと思ってしまう。
「怖い思いさせちゃったかな?少しからかおうとしただけなんだけど。…悪ふざけが過ぎちゃったかな?ごめんね。」
そう言う彼女は、目の前で手を合わせ、もう一度謝った。
「私、妖怪じゃないから大丈夫だよ。」
そう告げると、翔太に背を向ける。
そして、長い髪を持ち上げた。
髪で覆われていた背中が翔太の眼に映る。大きな口があるはずだと思っていた場所には、何もなかった。
ただの背中だった。
何もない、ただの背中である。
翔太は、混乱した。
うまく整理がつかない。
しかし、先ほどまで翔太の眼に、白黒に映っていた世界が、急にカラフルになった気がした。
思わず気が抜ける。
「はぁ~。」
翔太の口から自然にそんな声が出た。
目の前の彼女は安堵した翔太を見て、また笑った。
「安心していいよ。食べたりしないから。…ただ、髪が長いだけで妖怪扱いされたらかなわないよ。」
愚痴めいたことを笑って言う。
思っていたイメージより、ずっと明るい。
もっとも、思っていたイメージ=妖怪なのだから、比較するまでもないが。
「ただね、…髪を切りたくなかったの。」
小さい声で呟く彼女は、どこか淋しそうだった。
翔太は、何も言わずに、耳を傾ける。
「…生きているんだって実感したかったの。大丈夫、私はここにいるよ。ちゃんとやっているよって、伝えたかったんだ。」
彼女はテレビを見ていた。
いや、正確には、テレビの前にある写真だ。
翔太は、何も言わなかった。
何を言えばいいか、わからなかったからだ。
そもそも、何を言っても、彼女の耳に声は届かなかっただろう。
彼女の眼に翔太は映っていなかったのだから。
彼女の眼は、遠くを見ていた。
そして彼女は、翔太にではなく、ここにいない人に、語り始めた。
静かに、ゆっくりと。
「彼がね、誰よりも愛していた彼が、事故にあったの。何年も前に。この部屋を借りて、4月に結婚しようって言っていたのに。…彼がいなくなって、それでも、この世界は変わらなかった。でも、私の髪は伸びていたの。それだけが、変わっていた。私は、生きているんだな、って、伸びている髪を見て実感できたの。心配症の彼だったから、長い髪になって、誰よりも目立って、私は大丈夫だよ、って伝えたかった。今でも、誰よりも、あなたを愛しているよ、って伝えられたらいいなって思ったの。」
「…。」
「…伸びていく私の髪だけが、私の生きる支えだった。私が生きていて、今でも彼を愛しているっていう証だったの。」
「…。」
翔太は何も言えなかった。けれど、彼女は話すことを止めなかった。
「私もね、あの昔話知っているの。あの話に出てくる女の人と自分を、どこか重ねていたのかもしれない。髪を長くすることで、こんな気持ちを持っているのは、私だけじゃないんだって、安心したかったのかもしれない。」
それから、「弱いね」と小さく付け足した。
翔太は、遠くを見つめる彼女の顔を真っ直ぐ見る。
その姿は、もう妖怪だとは思えなかった。
とても、綺麗な女の人だった。
誰かを大切に思う、目の前の女性は、とても美しく、どこかはかない。
翔太は、彼女は昔話に出てくる女性に似ている、とも思った。けれど、全然似ていないようにも思えた。
しばらくの沈黙ができる。エアコンの音が、妙に大きく聞こえた。
「ごめんね。こんな話、聞きたくなかったよね。本当にごめんね、翔太くん。」
我に返ったように彼女は、言った。視線は再び、翔太に向いている。
彼女がこちらの世界に戻って来たような気がして、翔太は安心した。
しかし、そのことより引っかかることがあった。
「あの、…なんで僕の名前知っているんですか?」
翔太は驚いた顔を彼女に向ける。
翔太はまだ名を名乗ってはいない。翔太の方は彼女のことを前から知っていたが、彼女は翔太のことを知らないはずだ。
「知っているよ。だって、隣の隣だよ?中西翔太くんでしょ?それに、私、あなたのお母さんとも仲がいいんだよ?小さい頃の翔太くんを抱かせてもらったことだってあるんだから。」
「そうなんですか…。」
「そうだよ。それに、翔太くんが探偵だってことも知ってるんだから。」
「え?」
「翔太くんのお母さんが言ってたよ。翔太くんが探偵を目指しているって。それって翔太くんのお父さんの影響でしょう?翔太くんのお父さん、有名な探偵だもんね。…だから、今回のことも、翔太くんが探偵だから、私の尾行してるんだなって思ったんだ。それで、ちょっと悪戯しちゃったってわけ。」
「そうだったんですか…。」
「そうよ。」
そう言って、さきほどの優しい顔を翔太に向ける。
その顔は優しい。
だけど、どこか切なそうだった。
写真に写る笑みには、到底及ばない。
だから、翔太は、思いきって聞いてみた。
「あの、…もう1つ聞いてもいいですか?」
「いいよ。何?」
「…どうしてさっきの話、僕にしたんですか?」
小学生の翔太に言っても、きっと相談相手になど、なれはしないだろう。
しかし、それでも、目の前の女性は、翔太に話してくれた。
詰まっていた何かを、吐き出すように。
翔太は、先ほどの話を聞きたくなかったから、そう尋ねたのではない。
話を聞いたことで、彼女の役に立てたなら嬉しい、そう思った。
だから、尋ねた。
自分の感じた嬉しさが、自分に都合のいい空想ではなく、真実だと、確かめたくて。
彼女は、少しの間、沈黙を作った。
視線は、翔太ではなく、写真の男性を見ている。
そして、再び、翔太の目を見て、語り始めた。
「…彼が、いなくなって、すぐに翔太くんが生まれたの。私は、その時、悲しみのどん底にいた。毎日苦しくて、生きているのがつらかった。でもね、そんな私でも、中西さんの腕に抱かれていた翔太くんを、素直にかわいいって思えたの。翔太くんや、翔太くんのお父さん、お母さんの笑顔が、私に、『幸せはまだこの世界に残っているよ』って教えてくれる唯一のものだった。だから、かな。翔太くんにさっきの話をしたのは。」
「…。」
「…ううん。ごめん。本当は、そんなに立派な理由じゃないのかもしれない。ただ、誰かに聞いてもらいたかっただけ、…なんだと思う。自分の中に溜まっていたものを吐き出したかっただけなのかもしれない。」
そう、少し、申し訳なさそうに、翔太に笑いかける彼女は、顔を歪めていた。
でも、その眼は乾いている。
きっと、涙は外の世界に出たくて仕方ないのに。
それでも、彼女の眼は、一向に潤わない。
涙を堪えている、わけではないのだ、きっと。
忘れてしまったのだ。
涙の流し方を。
生まれたばかりの子どもにもできる、自分の感情を外に出す方法を。
そんな彼女に、翔太は言った。
格好良くなんて言えないかもしれない。
でも、何か言わなくてはいけない。翔太は、そう思った。
目の前の彼女が見つめている写真の男性が、自分を頼っている気がした。
「…僕には、よくわからないし、何かを言えるほど大人じゃないけど、でも、…『もういい』と思う。」
小さい頃から何回も聞かされた、この街の昔話。
今までは、人を喰らう妖怪の恐ろしさばかり見ていた。
でも、今は何となくわかる。
あの昔話が教えたいのはきっと、「前に進む」こと。
そのために、忘れるのではなく、諦めるのではなく、悲しみや苦しみを愛おしさと一緒に、受け入れなければならないのだ。
そして、後ろを気にするだけでなく、前を見なくてはいけないのだ。
「たぶん、お兄さんは、髪を切ってもお姉さんを見つけられると思う。だって、お姉さんは、こんなにお兄さんのこと、大好きなんだもん。お兄さんも、お姉さんのこと、ずっと大好きでいてくれるよ。お姉さんがどこにいたって、髪が短くたって、お兄さんにはわかっちゃうよ、きっと。」
彼女はただ、黙っていた。翔太はそれでもいいと思った。
伝わっていないかもしれない。余計な御世話かもしれない。
それでも、言わなくてはいけない気がした。
「…それにね、もしも、お姉さんが髪を切って、生きることを実感できないことが怖いなら、僕が言ってあげるよ。『ちゃんと、お姉さんは生きているよ』って教えてあげる。だから、たぶん、もういいと思う。」
翔太がそう告げると、目の前の彼女は、涙を流し始めた。
いや、違う。
涙が流れ始めた。
「…うん。…うん。」
かすかに耳に入る声で、そう繰り返している。
彼女の目から流れてくる涙は、とても美しかった。手の甲で何度も拭うが、涙の流れは止まらなかった。
翔太はポケットに手を入れる。
そこから青い色のハンカチを取り出した。
それを彼女に渡す。
彼女は「ありがとう」と小さく告げ、受け取った。
しかし、渡してしまってから気づいた。
ハンカチはニンニクと一緒に入っていたことを。
きっと、ニンニクの臭いがついてしまっているだろう。
おそらく彼女はそのことに気がついたはずだ。
それでも、そのハンカチで涙を拭きながら、さっきよりも綺麗な笑顔を向けてくれた。。
「ありがとう。」
今度は、はっきりと聞こえる声でそう告げた。
ニンニク臭いハンカチを持ちながら。
翔太は、その言葉が、嬉しかった。
「探偵」と言えるような仕事はできなかったかもしれない。父親の背中には当分届きそうもない。
それでも、翔太はその一言で、仕事を「やった」と思えたのである。
それから、彼女が泣き止むと、食べ残していたケーキを2人で食べた。
たわいない話をしながら。
太陽の光が窓から差し込んでいる。その光が、テレビの前にある写真を照らした。
空の色が青から黒に変わり始めていた。
夕飯の時刻に近づいたため、翔太は家に帰ることにする。
彼女は、玄関まで見送ってくれた。
靴を履き、彼女の方を振り向く。
「あの、僕たちもう、友だちだよね?」
「そうだね。」
「あのね、…僕、お姉さんの名前、知らないんだ。だから…。」
「聡美。…如月聡美。」
聡美は膝を曲げ、翔太の視線に合わせて、笑顔を向けた。
柔らかい笑顔だった。
「聡美さん…。」
翔太は噛みしめるように、その名を呟く。
そして微笑んだ。
「ん?」
聡美は、少し首を傾ける。長い髪が、それに従い揺れた。
「…なんでもない。」
「翔太くん、また遊びに来てね。おいしいケーキを買っておくから。」
「うん。また来るよ。」
翔太はそう言うと、新しく友だちになったばかりの聡美に手を振った。
隣の隣に帰って行く。
空を見ると、オレンジの光に照らされた黒いカラス1羽、飛んでいた。
翼を広げ、悠々としている。
「もう、バカなんて言わせないぞ。」
翔太は、空に向かって小さく言った。
カラスの耳に、聞こえていたらいいな…。
翔太は、そんなことを思いながら、407号室のドアを開ける。
「ただいま。」
「おかえりなさい。」
佳代子が優しく迎えてくれる。
翔太は、夕飯の時に、聡美と仲良くなったことを報告しようと思った。
次の日。
ようやく朝寝坊ができると思い、目覚まし時計をセットしなかった翔太は、母親に文字通りたたき起こされた。
「なんで、寝ていていい日は自分で起きて、起きなきゃいけない日に限って、自分で起きられないの?」
407号室には、朝から怒鳴り声が響いている。
それでも眠そうにして動きの遅い翔太の耳に、再び大きな声が入った。
「今日は、登校日でしょう。早く着替えて、学校に行きなさい!」
翔太の学校では、夏休みの真ん中に、1日登校日がある。
そこで、夏の課題の進み具合などを担任に報告するのだ。
翔太は、佳代子の放った「登校日」というフレーズに、敏感に反応する。
時間を確認すると、いつもより、30分押していた。
佳代子が用意していた朝食を味わうことなく胃の中に流し込む。
佳代子の怒鳴り声を背に、翔太は急いで家を出た。
走りながら左腕につけている時計を見る。
朝食の時間を大幅に削減できたため、思っていたよりも余裕ができていた。
このまま走れば、難なく間に合うだろう。
どうせなら聡美と一緒に行けばよかったかもしれない。
翔太は、そう思った。
夏休みが明けたら、一緒に行こうと、提案してみようかな。
そうすれば、聡美が妖怪だという噂を消えるかもしれないな。
しばらくそんなことを考えていると、翔太の視界に、長い髪の女性の後ろ姿が入ってきた。
10日間の尾行で、長い黒髪を見つけることが習慣づいてしまったようだ。
見つけた長い髪の女性は、間違いなく、聡美である。
聡美は、いつものバスに乗り込もうとしていた。
翔太には気づいていない。
そのまま、バスに乗り込んで行ってしまった。
しかし翔太は、聡美の姿を見つけ、そして、それと同時に、昨日までとの違いまで発見していた。
聡美の髪が、10センチほど短くなっていたのだ。
髪の先端のある場所が、くるぶしのところからふくらはぎのところに変わっている。
聡美が、髪を切ったのだ。
おそらく、翔太以外の人間は、そんな細かいことに気づかないだろう。
髪が普通の人に比べて長いということは変わらないのだから。
しかし、翔太は気がついた。
翔太は遠くから聡美の髪を見て、思った。
今日帰ったら、聡美の家に遊びに行こう、と。
そして、言ってやろう、と。
「似合うね」
そう言ってやろう、と。
翔太のできたばかりの新しい友だちは、きっと美しい笑顔を向け、言うのだろう。
「ありがとう」
と。
その笑顔は、公園のヒマワリにも、頭上の太陽にも負けることはないだろう。
そう思うと、翔太はなんだか嬉しくなった。
夏の太陽が、人々を照らしている。太陽はここに生きる人々を平等に照らしていた。
そして、暑さを軽減する心地よい風が、人々の髪を揺らす。
まだ見ぬ聡美の笑顔を想い浮かべたまま、翔太は、
「今日も、がんばろう。」
そう、声に出していた。
教室に入ったら、友人たちに、聡美のことについて、説明を迫られるだろう。
そうしたら、自信を持って、答えてやるつもりだ。
「長髪は、僕の友だちだ」
と。
昔話に出てくる、「髪の長い女」は、愛する気持ちが大きすぎたために、涙を流すことさえ忘れた、悲しい女だった。
そして、高層ビルが立ち並び、道路には車の姿が消えることのない、この時代に存在する「髪の長い女」は、優しく笑うことのできる、美しい女性だった。
『髪の長い女』はいかがだったでしょうか。
私、春樹亮は他も小説を投稿しております。もし私の文章を気に入っていただけたのなら、そちらの方も、ぜひご覧ください。