第9話 力の差
地下の間に澱む空気は、血と焦燥に満ちていた。 司馬章と李光が、窮地に立たされた孫操備を救うべく割って入り、ついに三対一の構図が出来上がる。
「三対一だ! 諦めて去れ!」
司馬章の叫びが冷たい石壁に反響する。しかし、対峙する王明は動じるどころか、うつむいたまま肩を揺らした。その口元から漏れるのは、卑屈な嘲笑だ。まるで、籠の中で出口を求めて右往左往する二十日鼠を眺めるような、冷酷な眼差しが二人を射抜く。
「三対一、か。……三対一の間違いではないのか?」
「……何を言っている」
李光が怪訝に眉をひそめ、一歩踏み出した瞬間であった。王明の姿がかき消え、細長い影が地を這う。 反応する暇もなかった。王明の体は瞬時に一匹の毒蛇へと変じ、李光の足首へ鋭い牙を突き立てる。毒は瞬く間に経絡を駆け巡り、李光は声も上げられずにその場へ崩れ落ちた。
「李光!」
司馬章の悲鳴をよそに、王明は元の人の姿へと戻る。倒れ伏す李光の背を無造作に踏みつけ、王明は冷然と言い放った。
「この俺とお前たちとの力量の比が、三対一であるということだ」
それは傲慢な宣言ではなく、動かしがたい事実としての響きを持っていた。彼ら三人が全霊を賭して挑んだとしても、王明という怪物の三分の一にも満たない。孫操備はこの絶望的な実力差を初めから悟っており、自らの命を身代わりにして二人を逃がす腹積もりであった。しかし、加勢に現れた二人のうち、一人が瞬時に無力化されるという最悪の事態を前に、その表情は驚愕に染まる。
「まずい!逃げろ、司馬章!」
孫操備の必死の制止も、今の司馬章の耳には届かない。友を傷つけられた怒りが、彼の内に眠る思超を燃え上がらせた。司馬章は自らの拳に烈火を纏わせ、王明に向かって地を蹴る。
「炎殴!」
拳が空気を焼き、王明の胸元へ迫る。だが、王明の体躯がにわかに膨張した。皮膚は灰色の岩肌のように硬質化し、鼻先からは一本の巨大な角が突き出す。 象と化した王明に対し、司馬章の炎の拳は爆ぜ、火の粉を散らす。しかし、その一撃は巨獣の皮膚を焦がすに留まり、致命の痛手を与えるには至らない。
司馬章は歯を食いしばり、我を忘れて連撃を叩き込んだ。右、左、そして渾身の正拳。炎は渦を巻き、地下室の温度を急上昇させる。 思超とは思想の具現なり。司馬章の拳には「敵を焼き尽くす」という愚直なまでの渇望が込められていた。だが、王明の変身は、その思想さえも物理的な質量で押し潰す。
「くそっ! 吹き飛べッ!」
自らの願望を叫びと共に吐き出し、司馬章はなおも殴り続ける。だが、王明は微動だにしない。象の如き剛力と堅牢さを備えたその姿は、荒れ狂う火炎の中に立つ不動の岩山のようであった。
「飛べと言われて飛ぶほど、人は甘くはないぞ……!」
王明の声が、獣の唸りとなって響く。次の瞬間、象の姿は猛進するサイへと変わった。低く構えた頭部が司馬章の腹部を捉える。
凄まじい衝撃。司馬章の体は木の葉のように舞い、背後の壁へと叩きつけられた。犀の角が司馬章の胸元を圧迫し、石壁がみしりと音を立てて砕ける。肺の中の空気が強制的に絞り出され、司馬章は視界が赤く染まるのを感じた。
「お前は何がしたい! 俺たちが、一体何をしたというんだ!」
潰されゆく苦痛の中で司馬章が絞り出した問いに、孫操備が絶望に満ちた声を重ねる。
「無駄だ、司馬章! こいつは常人だけの世界を目指す思超家殺し、王明だ。僕たちが思超の力を持つ者である以上、言葉など通じはしない!」
常人の世を成すために、思想を力に変える怪物を根絶やしにする。その矛盾した狂気に、司馬章の心は底知れぬ深淵を覗いたような戦慄に包まれた。
「クソォォォ!」
抗おうとする司馬章に対し、王明は再び毒蛇へと姿を変えた。絡みつく鱗の冷たさが肌に伝わる。
「案ずるな。楽に殺してやる」
蛇の牙が司馬章の腕に深く沈んだ。毒液が熱を奪いながら体内へ侵入する。しかし、死の際において、司馬章の思超がかつてない暴走を見せた。 傷口から溢れ出したのは血ではなく、内臓を焼き焦がさんばかりの猛烈な火炎であった。噴出した炎は王明の蛇体を包み込み、地下室を真昼のような明るさで照らし出す。
「こ、これは……!」
毒蛇の姿を維持できぬほどの激痛に、王明は司馬章の腕から弾き飛ばされた。火ダルマとなった彼は、床を転げ回りながらうめき声を上げる。だが、司馬章も無事では済まない。毒は確実に心臓を目指して巡っており、激しいめまいと共に彼の意識は闇に落ちた。
静寂が戻ったのは、それから五分後のことである。 司馬章が薄く目を開けると、視界の端で王明が肩で息をしていた。その体には、先ほどの炎が刻んだ生々しい火傷の跡が残り、焦げた臭いが鼻を突く。
「ハァ……ハァ……。この忌まわしき炎使いめ。我が身にこれほどの焼き跡を残すとは」
王明は恨みがましそうに司馬章を睨んだが、その視線はすぐに足元へと移った。そこには、未だ意識を失ったままの李光と孫操備が転がっている。 王明は腰の刀を抜き放った。冷たく光る刃先が、無防備な李光の首筋へと向けられる。
「や……やめろ……」
司馬章は必死に声を絞り出すが、四肢は鉛のように重く、指先一つ動かすことが叶わない。毒の後遺症が全身を縛り付けている。 王明は司馬章の懇願を歯牙にもかけず、ゆっくりと剣を振り上げた。友の命が、今まさに断たれようとしている。
だが、刃が振り下ろされる直前、王明の動きがぴたりと止まった。彼は不審げに首を巡らせ、地下室の天井を仰ぎ見る。その眉間に深いシワが刻まれた。
(これは……まさか、奴らか!?)
王明の脳裏を過ぎったのは、ある不穏な予感であった。彼は忌々しげに剣を収めると、地を這う司馬章を見下ろし、冷徹な伝言を投げつける。
「貴様らより優先して殺すべき奴が、この近くにいる。今回はここで退こう」
言い終えるや否や、王明の姿は一羽の峻険な鷹へと転じた。翼を大きく広げ、思超堂の吹き抜けを旋回しながら、彼は夜の闇へと消え去っていった。
後に残されたのは、重傷を負った三人と、静まり返った地下の間だけである。 司馬章は何とか体を動かし、仲間の元へ這い寄った。
「孫操備! 李光!」
二人の体を揺さぶる。幸いにも、呼吸は浅いながらも続いていた。
「頼む、目を覚ましてくれ……!」
涙混じりの叫びが虚空に消えようとしたその時。地下の間の隅、影に潜んでいた一人の男が、音もなく歩み寄ってきた。古びた着流しを纏った、博識そうな学者風の男である。
「……?」
司馬章が警戒する間もなく、学者は倒れた二人の胸元に静かに手を当てた。そして、困惑する司馬章を見据えて、穏やかな、しかし確信に満ちた声で告げた。
「この二人の意識、私が取り戻そうか?」
思超堂を抜けて、長安上空を飛ぶ王明は飛行中、杞憂をしていた。
(司馬章か…まだ未熟だが、放って置くと世の災害に成りかねない。今はまだ炎だが…いずれ…それをも越えた何かになるぞ…!)




