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BEYOND SOUL  作者: 史邦ヒスト
東章 長安編
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第8話 思超家殺し

 夏の湿ったような風が都を包み込んでいた頃。 唐の都・長安(ちょうあん)にある、不思議な技を操る者たちが集う場所・思超堂(しちょうどう)。その空高くを、一羽の大きな鷹が円を描くように飛んでいた。その鋭い目は、地上の様子をじっと見下ろしている。


「おや、この長安に鷹などいただろうか」


 庭先で古い書物を片付けていた学者たちが、その影を見上げて首を傾げた。人の行き来が激しいこの場所に、山の鳥である鷹がこれほど近くまで降りてくるのは、とても珍しいことであった。 鷹は急に速さを増して降りてくると、地面に触れるかというその瞬間、羽が着物へと変わり、翼が逞しい手足へと一瞬で姿を変えた。そして、一人の男となって石畳の上に降り立ったのである。


「ひっ、人……!?」


 学者たちは腰を抜かさんばかりに驚いた。鳥が人に化けるなど、夢にも思わぬ出来事であったからだ。 降り立った男は、乱れのない動きで立ち上がると、一人の学者を射抜くような強い目で見据えた。


孫操備(そんそうび)はいるか」


「な、何の用でしょうか……」


 男は顔色一つ変えず、静かに、しかし重みのある声で答えた。


「……奴を殺しに来た」


 その瞬間、周りの空気が一気に冷え込んだかのような恐ろしさが漂った。学者たちの背中に冷たい震えが走り、怖さのあまり声を上げて逃げ出す者も現れた。


「お前たちのような、技を持たぬ者に手を出すつもりはない。ただ、孫操備を引き渡してくれればよい」


 男は淡々と言葉を重ねるが、学者たちの震えが止まるはずもなかった。男から直接的な怒りは感じられないものの、その体から溢れ出る圧倒的な強者の気配が、波のように周りを包み込んでいたからだ。


「僕が、その孫操備だ」


 騒ぎを聞きつけたのか、一人の若者が建物の中から落ち着いた歩みで現れた。


「皆、本当に安心してください。こいつは『思超家(しちょうか)殺しの王明(おうめい)』。何があろうと思超を持たぬ者を殺めることはありません」


「……自ら出てくるとはな」


 王明と呼ばれた男は、迷いのない足取りで孫操備へと歩み寄った。


「待て。ここで僕とお前が争えば、力のない者たちが巻き添えになる。ついて来い」


 王明は一瞬の間を置いた後、構えていた拳を下ろし、何も持っていないことを示すように両手を挙げた。孫操備の提案を受け入れ、戦いの場を変えることに応じたのである。二人は言葉を交わすことなく、建物の奥へと進んでいった。




 思超堂、地下一階。 そこは頑丈な石の壁に囲まれた、広い修練の場であった。窓はなく、壁に掛けられた灯火が二人の影を長く伸ばしている。


「ここが戦場か。申し分ない広さだ」


 孫操備は、向かい合う王明の体を慎重に観察した。


(やはりこの男、普通の体つきからは読み取れないほど、中身が詰まった逞しい体をしている。まともに力でぶつかれば、まず敵わないな……)


 孫操備は息を整え、間合いを保ちながら問いかけた。


「一つ聞こう。なぜお前は、不思議な技を使う者ばかりを追い、命を奪う」


 王明は、岩を砕くような重みのある声で答えた。


「この世から思超(しちょう)を無くすためだ……!」


 彼は自らの内に渦巻く思いを吐き出すように続ける。


「思超を使う者たちは、その力を悪く使い、何も持たぬ人々の穏やかな暮らしを幾度となく脅かしてきた。戦、罪、脅し、洗脳……。人の心を狂わせ、平和を乱す出来事の陰には、常に力を誇る愚か者がいたのだ」


 王明の叫びが地下室に響き渡る。


「この力は、世の中の決まりも常識も、すべてを壊しかねない毒なのだ!」


 その叫びが響いた瞬間、王明の姿が歪んだ。体が膨らみ、着物を引き裂かんばかりの茶色の剛毛が全身を覆う。指先は鋭い鉤爪となり、顔は前に突き出て、恐ろしい熊の姿へと完全に変わった。


(熊になったというのか……!?)


「最後に思超を使う者となるのは、この俺だ」


 獣の唸り声のような低い声が響く。王明は巨体に見合わぬ速さで踏み込み、孫操備の目の前まで飛び込んだ。


 王明の丸太のような腕が振り下ろされる。孫操備はとっさに体を引き込めたが、熊の腕から放たれた衝撃は、よけただけでは静まらない。空気を押しつぶすような風の勢いが孫操備の顔を叩き、床の石が粉々に砕け散った。


 王明は休む間もなく攻め立てた。熊の重さを生かした突き進みである。とてつもない重みが迫る。孫操備は左右に足を運び、壁を蹴って間合いを外すが、王明は止まらない。着地の響きで床を震わせながら、再び激しく腕を振り回した。


 毛に包まれた拳が、孫操備の守りをかすめる。それだけで骨が軋み、肌を焼くような痛みが走る。人間には到底出せない凄まじい力と、野の獣そのものの重み。孫操備は守るだけで精一杯になりながらも、相手の動きの決まりを見極めようと目を凝らした。


 王明の攻めは、ただ力任せなだけではない。熊の力を持ちながら、その動きには熟練の武術家のような無駄のなさが混ざっていた。振り回される太い腕が孫操備の逃げ道を塞ぎ、逃げ場を失った背後の壁が、一撃の下に瓦礫の山となった。


(人間には出せない力だ。この肉の厚み……中身も熊そのものなのか!?)


「お前は、すべての者が悪だと言いすぎだ。すべての技使いが、お前の言うような悪人ではないはずだ」


 孫操備も反撃に出る。王明が再び放った重い組み付きに対し、自らの体を押さえつける強い重みを、自らの技によって三つに分けた。一点にかかる重荷を肋骨から遠ざけ、三つの場所に散らす。その一瞬の隙に、孫操備は捕らえられた体を引き抜き、王明の脇腹へ蹴りを放った。


 しかし、その蹴りは、厚い毛皮と肉に阻まれ、王明をひるませることすらできない。


「すべての者が悪でなくとも、思超という人の…生の障壁を根絶するためには、そうせざるを得ないのだ!」


 王明は煩わしそうに足を払いのけた。


「その技……身を変えるものか」


「そうだ……俺の思超【最大進化論(だいしんかろん)】は、いかなる生き物にも姿を変えられる。あらゆる命の頂点に立つにふさわしい力だ」


【最大進化論】


 それは王明の「すべての命の源は一つであり、すべての血は繋がっている」という考えを形にした技である。彼は多くの生き物に姿を変え、その生き物が持つ特別な性質や能力を、完全に自分のものとして使うことができた。


 王明は再び姿を変えた。熊の大きな体が瞬時に縮まり、今度は一羽の素早い鷹へと変わった。地下室の天井を蹴り、灯りの届かぬ暗がりに消える。


 死角からの急な舞い降り。王明は気配を完全に消し、孫操備の後ろから音もなく迫った。 空気が揺れたと感じたときには、すでに鷹の爪が迫っていた。孫操備はとっさに首をねじったが、鋭い爪が肩の肉を深く突き刺した。


 王明は地面に降りることなく、再び翼を動かして高いところへと舞い戻る。縦横無尽に飛び回るその道筋は読みきれず、鋭い嘴や爪が、孫操備の手足を休む間もなく削っていく。


 空からの攻めに対し、地上に留まる孫操備は反撃の手を打てない。翻弄される孫操備の背中や腕に、深い傷が増えていく。床には点々と血の跡が広がり、修練の場に血のにおいが立ち込める。王明は羽の音すら武器に変え、攻め続けた。


「どうした。そんなに戦いにくいなら、望み通り地上に降りてやろう」


 王明の声が高いところから響く。舞い降りと共に彼の姿は再び変わり、今度は地上で最も強い獣、虎の姿となって地面に降りた。


 しなやかな筋肉が盛り上がり、王明は低い構えでじりじりと距離を詰める。その目は獲物を確実に仕留める冷たい光を放っていた。


三防(さんぼう)!」


 孫操備は技を精一杯使い、守りを固めた。 しかし、王明はあざ笑うかのように喉を鳴らした。


「重みを三つに分けたところで、元の力がそれを上回っていれば意味はないぞ」


 虎の姿の王明が地を蹴った。一跳びで距離を詰め、強い前足を振り下ろす。孫操備はすべての衝撃を散らそうと試みたが、王明の力は予想を超えていた。鋭い爪が守りを突き破り、孫操備の体を勢いよく切り裂いた。


「ぐああっ!」


 血が舞い、孫操備は壁まで吹き飛ばされた。三つに分けてなお、一撃一撃が命取りになりかねない壊し。孫操備の足は深くえぐられ、左の肩は外れ、立ち上がることすらできぬほどの深手を負った。


「さあ……死ね。不思議な力が消えた世の礎となるがよい」


 王明が倒れ込む孫操備を見下ろし、その喉を砕こうと大きな顎を開いた、そのときであった。


 バチ、バチ……という不穏な火花の音と共に、一本の紫の光が走った。


「助けに来たぞ、操備。一人で格好をつけすぎだ」


「待たせたね。ここからは僕たちも相手をさせてもらうよ」


 凄まじい速さで王明の牙の前に割り込み、その攻めを押し戻したのは、駆けつけた李光(りこう)司馬章(しばしょう)であった。新たな助っ人の現れにより、地下室の空気は再び激しく揺れ動き始めた。

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