第62話 世炎論のその先へ
「思超名は…【世炎論】!やはり、祖父の意志をそのまま継いだか!ここはちょっと捻った方が面白かったのう」
宮呂鄒が賞賛的な感想をぶつぶつと呟きながら、紙面を十一枚程読み進める。司馬章は布団を頭から被りたい衝動に駆られながら、その光景を絶望の淵で見守るしかなかった。十二枚目を開くとき、宮呂鄒の動きが止まった。
「こっ、これは!?」
宮呂鄒が驚きの声を上げる。そのまま無言で司馬章と目を合わせる。その眼光は鋭く、それでいて何か得体の知れないものを発見したような困惑に満ちていた。
「そ、それは…ですね…はい…ええっと」
司馬章が冷や汗を滝のように流す。心臓の鼓動が耳元でうるさいほどに鳴り響く。
「お前さん…もしかして…」
宮呂鄒の言葉の続きを聞く前に、司馬章は意識が遠のくような感覚に襲われた。
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数日後
司馬章が東遊寺の外にある山の中を駆け巡っている。青々と茂る草木をかき分け、急峻な坂道を、息を切らしながらひたすら突き進む。
「うおおおおおおお!!!!!!!!!!!!!!」
司馬章の顔が真っ赤になっている。血管が浮き出た額から汗が飛び散り、肺が焼けるような痛みを訴えていた。
「七十四周目ェェェェェェェェェェ!!!!!!!!!!!!!!」
どうやら、山の外周を走っているようだ。一週間寝ていた体力を呼び戻すどころか、限界を遙かに超えた修練を課されているのだ。百周を終えると、呂鄒が【五行一象】の力で巨大な水流を放つ。
「ぎゃあああああああああ!!!!!!!!!!!!!!」
水流に押し飛ばされた司馬章は、隣の山まで吹っ飛ぶ。空中を舞う司馬章の視界に、山の緑と空の青が高速で入り乱れる。そのまま山の中の浅い川に落下。背中を強かに打ち、飛沫が大きく上がった。
「司馬章、見ろ!!!この滝を!!!」
そこには、滝壺の岩石が常に滝の勢いで打ち砕かれる、恐ろしい水圧の滝があった。白銀の龍が如き奔流が、轟音と共に岩を噛み砕いている。司馬章は絶望する。
「入れ!!!!」
「はい!!!」
司馬章は合唱して滝壺に入る。一歩踏み出した瞬間に足を取られそうになるのを、気合で耐える。とても冷たく、頭蓋を粉砕しそうな重さの滝が落ちてきて、悲鳴を上げる。
「ぎゃああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!」
この時間が二十四刻(六時間)続く。水の重みで肩が沈み、意識が朦朧とする中で、司馬章はただ己の根性だけを拠り所に立ち続けた。
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夜になった。あたりは深い闇に包まれ、虫の声が静かに響いている。宮呂鄒が東遊寺の広場で司馬章と立つ。
「司馬章、久々に風呂に入りたいとは思わんか?」
「あぁ。傷口に障ると言われて、昨日まで鄭回に止められてたからね」
「じゃろ?そんなお前に朗報じゃ!!見ておれーい!」
宮呂鄒は両手を前に出す。その立ち姿には、遊び心と強大な力が同居していた。
「まずは【土界論】の力で、かまどをドーンッ!!!!」
「おおおッ!!」
地面の土が生き物のように盛り上がり、瞬く間に形を変え、堅牢なかまどが生成される。
「次に【万金典】の力で鉄の桶をドーンッ!!!!」
「おおおッ!!」
虚空から鉄の輝きが現れ、それは見事な桶の形に固まり、かまどの上で完成する。
「そんで【木道】で木の枝をドーンッ!!!!」
「おおおッ!!」
周囲の空気が揺らぎ、乾燥した木の枝が次々と生成され、かまどの下にうずたかく積み上がる。
「続いて【総水伝】で桶一杯の水をドーンッ!!!!」
「おおおッ!!」
桶の中に清涼な水が溢れ出し、縁ギリギリまで溜まる。
「最後に【世炎論】で小枝に着火ァアアア!!!!!!」
「おおおッ!!!!!!!!!!!!!」
小枝についた火の粉が一気に燃え上がる。夜の闇が赤々と照らされ、爆ぜる音が響く。鉄の桶が加熱され、中の水温が急速に上がる。瞬く間に、即席の風呂が完成する。
「うおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!!!」
司馬章が大歓喜する。一週間の汚れと、今日の修練の疲れを洗い流せるのだ。
「脱げ!!司馬章!!!」
「えっ…でも、ここ寺の広場なんだけど、大丈夫なのか?」
「問題ない!!こんな時間に誰も来ないし、わしゃ司馬典と並ぶ思超家界のオオモノじゃぞ?何やっても許されるに決まっておろうが!」
こういうジジイが祖父じゃなくて良かったと、司馬章が内心呆れる。
司馬章が服を脱ぎ、全裸になる。夜風が火照った肌に心地よい。
「おお!長安の一件も然り、乱晶の一件も然り、旅がお前をいい身体にしてくれてるのォ…!」
宮呂鄒が両腕を大きく広げる。その目は少年のように輝いていた。
「さあ!入れ!!!!」
司馬章が喜びのあまり、勢いよく桶に飛び込む。
その瞬間、司馬章の肉体に激痛が走る。
「熱ッッッッッッつゥゥウウウウ!!!!!!!!!!!!!!」
宮呂鄒がその手から、目にも止まらぬ速さで高温の火炎の術を、桶の底に向けて直接放っていた。水面が激しく波打ち、蒸気が爆発的に立ち上る。 桶から飛び上がる司馬章を見て、宮呂鄒が大爆笑する。
「ギャハハハハハハハハ!!!!!!!!!!!!!!ここ一年で一番腹抱えて笑ったわい!今年で七十七じゃが、まだまだ長生きできそうじゃな!!!!」
司馬章の頭に血管が浮かび上がる。全身が真っ赤に茹で上がり、湯気を立てている。
(あんのジジィ…!!!!)
宮呂鄒の爆笑は続く。堪えきれない司馬章は、桶の中の熱湯をすくい、宮呂鄒にぶっかける。しかし、老人の姿はそこにはなかった。
「…で、儂が突然水温を上げたワケなんじゃが…」
その司馬章の背後に瞬時に回り込んだ宮呂鄒の声。あまりの速さに、司馬章の汗が冷や汗に変わる。
「お前には儂が使う火炎の技の温度に耐えて貰う。五行説…火の練磨じゃ」
「ちょっと待ってくれ呂鄒さん。俺は全身の傷が癒えたばかりだ。また熱湯で皮膚を痛めてしまうのは…」
「心配はいらないよ」
暗がりの向こうから、聞き慣れた落ち着いた声がした。鄭回が現れた。
「呂鄒さんに頼まれてね。お前の身体に、熱に強い皮膚にする血を入れたんだ」
「そういうことじゃ。ほれ、さっきの湯も、お前の肌を悪くしてはないじゃろう?」
司馬章は両腕を見つめる。確かに赤みは引いており、皮膚の腫れ等はない。
「…ホントだ」
(熱さはめちゃくちゃ感じるんだけどな…)
宮呂鄒が腕を組む。その顔から笑いが消え、真剣な師の目になる。
「じゃから、あとは根性との勝負じゃ。司馬章!お前の燃え上がる根性を見せてみよ!!そして、それを自己に、世界に刻め!!!」
「はい!!!!」
司馬章がもう一度入浴する。覚悟を決め、桶の中に身を沈める。
「行くぞ司馬章!!!」
宮呂鄒が攻撃の構えをとる。周囲の空気が一変し、灼熱の圧力が広場を支配した。
「拝火霊弓!!!!」
限界まで凝縮された火炎が、一本の矢のように、桶に向かって放たれる。
「ぐッ…!!!」
溶岩のような高温が司馬章を襲う。水が沸騰し、皮膚がジリジリと焼かれるような錯覚に陥る。司馬章の額から滴る汗が、水面に触れて蒸発する。
四刻(一時間)。それは永遠にも思える地獄のような時間だった。宮呂鄒の放つ炎は、絶え間なく桶を、そして章の肉体を攻め立てる。鄭回の血によって皮膚そのものは焼かれずとも、熱という名の暴力は脳に直接響く。
一刻が過ぎる頃、章の意識は朦朧とし、視界が真っ赤に染まった。二刻が過ぎ、指先の感覚が消えた。三刻。もはや自分が風呂に入っているのか、太陽の中にいるのかさえ分からなくなった。だが、その極限の苦しみの中で、章は感じた。己の中に眠る炎が、外からの熱に呼応し、脈打ち始めているのを。
ついに四刻が経過した。宮呂鄒が手を下ろすと、煮え繰り返っていた湯が静まり返った。
「……終わったぞ、司馬章」
呂鄒の優しい声に、司馬章はゆっくりと目を開けた。体は真っ赤に染まり、全身から凄まじい湯気が立ち上っている。だが、その瞳には、以前にはなかった鋭い輝きと、揺るぎない力が宿っていた。
「……よし」
司馬章は桶の縁に頭を預け、朝日を見つめながら、誇らしげに笑った。その横顔には、伝説の血筋を受け継ぐ者としての、確かな風格が漂い始めていた。
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東遊寺の朱雀塔から少し離れた一角に、古びた、しかし手入れの行き届いた公共浴場があった。東遊寺の僧侶・修行僧のみならず、東遊寺に属する思超家も使用することができる、とても便利な浴場だ。今夜も、白く濃い湯気がゆらゆらと立ち昇っている。
木造の天井は長年の湿気で黒ずみ、所々にシミを作っているが、それがかえって実家のような安らぎを醸し出していた。湯船に注がれる源泉の音は規則正しい音を刻み、石造りの浴槽の縁からは、溢れ出した湯が贅沢に床を濡らしている。
その温かな静寂を楽しむ男たちの中に、三人の思超家がいた。孫操備、李光、そして竜隋。彼らの肉体には、所々に治りかけの切り傷や打撲痕が刻まれており、直前まで繰り広げられていた死闘の激しさを無言で物語っている。
李光は、湯船の縁に頭を預け、大きく息を吐き出した。湯に浸かった肌が赤みを帯び、強張っていた筋肉が徐々に解きほぐされていく。その時、静かな浴場内に、遠くからひときわ高い叫び声が響き渡った。
「司馬章の悲鳴だ。酷い身体を治してすぐによくやるよ」
李光が苦笑混じりに呟いた。その声は湿った空気に溶け込み、どこか穏やかな響きを含んでいる。彼は手拭いを顔に乗せ、目を閉じたまま、友の壮絶な練磨風景を頭に浮かべていた。
その隣で、孫操備は自分の腕に巻かれた包帯をゆっくりと解いていた。湿り気を帯びた布が肌から剥がれる際、わずかに顔を顰めたが、湯の熱に触れるとその表情もすぐに和らいだ。彼は自身の掌を見つめ、指を一本ずつ折り曲げては開き、神経の戻りを確認するように動作を繰り返す。
「だな、僕らにはまだ出来ない。たいした根性だ」
孫操備が同意した。彼の視線は、立ち昇る湯気の向こう側、ぼんやりと霞む天井に向けられている。
竜隋は二人から少し離れた場所で、格子の隙間から外の世界を見つめていた。格子の外には、夕刻の薄闇が広がり始めており、冷ややかな風が時折、温まった室内に忍び込んでくる。その冷気は、火照った彼の頬を撫で、戦の熱狂を冷まそうとしているかのようだった。
彼は自身の頬に残る矢傷跡を指先で触れた。それは命を落としてもおかしくない一撃だったが、今はこうして生きて湯に浸かっている。一方で司馬章は、世界が歪む程の攻撃を何度も受けており、死と定義されてもおかしくない状況に何度も陥っていた。操備や李光が、それについて話すとき、彼が如何に必死であったのかがよく分かった。それでもなお、傷が癒えるとすぐに練磨に走る。そんな司馬章を、かつての師・司馬典の姿に重ねて見た。
「…俺も、司馬章のように頑張らなければな」
竜隋の言葉は重く、自戒を込めた誓いのように響いた。彼は湯船から立ち上がると、ざばり、と大きな音を立てて身体を洗う準備を始めた。その背中には、彼が背負うべき責務と、仲間への信頼が刻まれている。
孫操備が顔から手拭いを取り、指の隙間から竜隋を見た。
「おい、あんまり気負いすぎるなよ。今は骨を休める時だ。鄭回だって、君が湯船で倒れたら怒るだろうしな」
その言葉に、李光がふっと吹き出した。
「確かに…あいつのことだ。『せっかく費やした俺の血を無駄にするな!』って怒鳴り散らすだろうな」
浴場に、小さな笑い声が満ちた。それは死線を超えてきた者たちだけが共有できる、束の間の、しかし何よりも尊い平穏の時間であった。




