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BEYOND SOUL  作者: 史邦ヒスト
東章 東遊寺編
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第61話 宮呂鄒の祆教

「お目覚めかの? 若いの」


 その声に揺り起こされるように、司馬章(しばしょう)は重い瞼を開いた。視界に飛び込んできたのは、古びた東遊寺(とうゆうじ)の一堂、その高い天井と、自分を覗き込む老人の顔だった。格子の隙間から差し込む陽光が、堂内に舞う微かな埃を白く照らし出す。司馬章の全身は白々とした包帯で幾重にも巻かれ、寝台に横たわっている。


「ん……じいさん、ここの人だったんだ」


 弱めの声で漏らすと、老人は穏やかに目を細めた。


「そうじゃな。儂の名は宮呂鄒(きゅうろすう)。ここの思超家(しちょうか)じゃ」


司馬章は挨拶代わりに薄っすらと、力のない微笑を浮かべた。


「……よくぞ生きて戻ったな。乱晶との戦いの果て、最後に擬似東遊寺の境界を越えて脱出してきた時、その姿は死人と見紛うほどであったぞ」


「……皆は、どうなったんだ」


「案ずるな。東遊寺の人間は、一人残らず無事に元の寺へと帰還を果たした。皆、お前をはじめとする戦った思超家たちの働きに感謝しておるわい。今のその体も、鄭回(ていかい)とやらの血をその身に受けたことで、ようやく癒え始めておるのじゃ。奴の血が脈打つたび、死にかけていた骨や肉が驚異的な速さで繋ぎ合わされていく……。こうして話ができるまでになったのは、まさにその血のおかげよ」


「鄭回の血…。アイツはいつも窮地の時に、必ず助けてくれる…」


 意識がはっきりするにつれ、胸の内にあった疑問が鎖を切って溢れ出す。


「そうだ、宮呂鄒さん。……さっき、俺の剣に向かって、俺の技である『華朱牙燃(かしゅがねん)』の名を口にしただろう? どうして、あれだけで俺の剣は燃え上がったんだ。そもそも、あれは俺の……」


「さっき、とな? 先週のことか?」


「……え?」


 司馬章が戸惑いながら格子の外に目を向けると、そこには抜けるような青空が広がっていた。庭先の木々が風に揺れ、乾いた葉の擦れる音が静寂をなぞる。


「朝……」


「言い忘れておったが、お前は一週間も眠り続けておったのじゃよ」


「そんなに……」


 司馬章は己の右手を見つめた。無数の小さな傷を覆うように、包帯が厚く巻かれている。指先を僅かに動かそうとするだけで、痺れを伴う鈍い痛みが神経を走り、己の体がまだ深い眠りから完全に解けていないことを自覚させた。


「そんなに、寝ていたのか……」


「……で、剣のことじゃな」


「ああ、そうだった」


 宮呂鄒は静かに目を閉じ、語り始めた。


「あの剣は、刻まれた文字通り『天地開闢(てんちかいびゃく)』といってな。伝説の思超家・袁静(えんせい)が若かりし頃、盤古山(ばんこざん)で掘り当てたものじゃ」


 その剣が袁静の持ち物であることは、司馬章も知っていた。行方知れずとなった彼を捜し出し、この宝剣を返すことこそが司馬章が剣を持つ理由でもあったからだ。


「盤古山……」


「山脈を挟んだ長安(ちょうあん)の東南にある、中原(ちゅうげん)の山じゃ。混沌から天と地を切り分けた原初神・盤古(ばんこ)が、そこに住んでいたという伝承もあってな」


 司馬章は寝台の傍らにある机を見た。そこには、あの重厚な剣が静かに横たわっている。鞘に納まってなお、そこだけ空気が張り詰めたような威圧感を放っていた。


「もしかしたら、盤古様は……その山に、天地を切り開いた愛剣を遺したのかもしれんのう」


 宮呂鄒は面白そうに、フォッフォッフォッと声を震わせて笑った。


「盤古の愛剣……か。って、そうじゃなくて!」


 司馬章は慌てて首を振った。激しい動きに、全身の包帯が擦れる乾いた音が響く。


「なんで呂鄒さんが俺の技の名を知っていて、それを呟いただけで、あの剣は炎を出したんだ!」


「んー、それは儂にも分からん」


「分からないのかよッ!」


 思わず寝台の上でずっこける司馬章に、宮呂鄒は何気ない顔で付け加えた。


「しかしの。その剣。言葉を発しておったぞ」


「え……?」


「それも、お前が物部苦死羅(もののべくじら)とかいう倭人(わじん)に追い詰められた時じゃ。お前には聞こえなかったかの?『華朱牙燃』と叫べ、とな」



「……」


線香の煙が、音もなく空に溶けていく。





 しばらく、重苦しい沈黙が部屋を支配した。剣が意志を持ち、持ち主に呼びかけたというのか。 章は、背筋を這い上がるような得体の知れない畏怖を感じ、机の上の剣を凝視した。


宮呂鄒は、よっこらしょと腰を上げた。


「それにしても、運命とは面白いのう……。一つ一つの日常が積み重なっただけの歳月を、一編の物語に変えてくれる」


 その言葉に含まれた深い感慨を、司馬章は敏感に感じ取った。


「まさか……呂鄒さんも、じいちゃんと関係が……!」


司馬典(しばてん)もそうだし、袁静もそうじゃ。儂らは五十余年も前、仙人や菩薩(ぼさつ)といった神仏の境地に近づくことを夢見て、天竺(てんじく)を目指して旅をした仲間での」


 章は顎が外れんばかりに口を開けた。


「……本当かよ」


「本当じゃとも」


 宮呂鄒は少しうつむき、遠い目をした。その瞳には、かつて見たであろう果てしない荒野の色彩が宿っているようだった。


「じゃがのう、天竺からの帰路で我々は生き別れてしまった……」


「……異役思超家(いえきしちょうか)、か」


 司馬章は、深刻な面持ちで彼の心情を察した。老人の背中は、背負ってきた年月の重みで僅かに丸まり、その輪郭は逆光の中で淡く滲んでいた。どこか寂しそうな、そんな目をしていた。


「全員の…………迷子じゃ」


「迷子かよ!」


 あまりに締まらない告白に、司馬章の突っ込みが飛ぶ。宮呂鄒は愉快そうに笑い飛ばした。その笑い声は、かつての苦難さえも慈しむような響きを帯びている。


「まず、好奇心に負けて天竺の川に飛び込んだ袁静がそのまま流されて行方不明。呉秦(ごしん)は現地の遊女を見つけて一目散に追いかけていき行方不明。荘千(そうせん)は……何だったかのう?そして、儂と司馬典のみが残された」


「それで、二人は無事に帰れたのか……」


「そう……無事に……」


「無事に!」


 司馬章の口角が期待に上がる。


「無事に……西の平原に着きましたとさ」


「帰れてないじゃないか!」


 再びの突っ込みに、老人は豪快に笑う。司馬章は面倒なじーさんだ、と思いながら溜め息を吐く。


「いやぁ、大変じゃった。じゃが、あの出来事がなければ、儂も司馬典も、思想の高みに辿り着くことはできなかった」


「……どういうことだ?」


「儂らは、西方の亚兹徳(ヤズド)という街に流れ着いた。そこには火炎の神が祀られており、その神を崇拝する者たちと交流を深めたのじゃ」


「亚兹徳……火炎の神……。もしかして、祆教(けんきょう)のことか!」


 司馬章が膝を打つ。


祆教…それは西方世界の地より生まれた、光と闇、善と悪の戦いを説く教え。かの地の人々は炎を、不浄を焼き払う神聖なる象徴として崇める。だが、それは単に火を拝むのではない。心の奥底に灯る真理の光を絶やさぬための儀式である。


東方世界にもソグド人の隊商が主に唐の西部を中心に宣教しており、司馬章も、祖父からその存在を聞いたことがあった。脳裏に、かつて祖父が悠々と語った「善と炎の神」の伝承が鮮明に蘇る。


宮呂鄒は頷いた。


「そうじゃ。そこで祆教の教えに触れ、我らの世界は一変した。それは思想の進化……思超(しちょう)の進化にも繋がったのじゃ」


「……ってことは、呂鄒さんもじいちゃんと同じ【世炎論】の思超家なのか?」


「いや、違う。祆教は炎のみを崇拝するものではない。万物の祖を五行とするのが儂の思想であったが、彼の地では水、木、金、土にも神が宿っておった」


 宮呂鄒は懐から、赤、青、黄、黒、白の五色に彩られた本を取り出した。思超書(しちょうしょ)である。


「これが儂の思超、【五行一象(ごぎょういっしょう)】。火・水・木・金・土の五大要素を司る力じゃ」


 五行説(ごぎょうせつ)…万物は五つの要素から成るという、中華を代表する自然思想。多くの思想家がこれの極致を追い求めるが、大抵はどこかの要素に偏ってしまう。五要素全てを操る思超家が極めて稀なのは、そのためだ。


 章の瞳が輝き、差し出された【五行一象】をめくった。その熱心な様子を見て、宮呂鄒が問いかける。


「お前の【世炎論】も見せてみい」


 老人は、それを思超書ではなく、あえて著作の名で呼んだ。


「え……」


「盗みはせん。安心して見せてみい」


「ええと、その……」


 章は視線を泳がせ、天井の木のひびを数えるふりをして誤魔化した。額には、じわりと冷や汗が滲んでいる。


(まずい……あれは……)


「司馬典が、どんな傑物を世に残したのか。さあ!」


 宮呂鄒の視線が、寝台の脇の机に向けられた。そこには、表紙を裏返して置かれた一冊の思超書がある。節くれた、しかし確かな意志を感じさせる老人の指先が、その煤けた背表紙を捉えようとしていた。


(ああああああああああ!!!!!)


 章の叫びは、喉の奥で悲鳴となって渦巻いた。老人の指先が触れる瞬間、司馬章の心臓は早鐘を打ち、時間の流れが酷く緩慢になったように感じられた。

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