第59話 閉門の刻
人物解説
【東遊寺】・・・思超の悪用、思超による秩序崩壊を阻止するために、玄奘(三蔵法師)によって作られた揚州の大寺院及び思超家組織。中華の思超家のほとんどはここに所属しており、ここに所属することで正式な思超家として認められる。年に一度、思超の様々な問題について議論し、寺の方針を決める「思超会」が設けられている。
⚪︎司馬章・・・万物の祖は炎とする思想を持ち、炎を操る「世炎論」の思超家。祖父を天理に殺され、復讐のために旅を始めるが、旅をする内に、その本質が復讐ではなく「超越」であることに気づく。
⚪︎孫操備・・・世界は等しい三つの要素で成り立つとする思想を持ち、事象の度数や作用を三方向へ分散する「三分の計」の思超家。司馬章の旅の目的に感銘を受け、彼の旅に同行する。
⚪︎李光・・・万象の中で最も人が恐れるものは雷とする思想を持ち、雷を操る「恐雷説」の思超家。司馬章との決闘で彼の力を認め、彼の旅に同行する。
⚪︎鄭回・・・血を知ることは生の全てを知るとする思想を持ち、血の性質を操る「血医学」の思超家。「思超大樹」(別名:智の大樹)を探し出す目的で、司馬章の旅に同行する。
⚪︎竜隋・・・ 龍への憧れと崇拝心を持ち、空像の龍を操る「使龍道」の思超家。司馬章の祖父・司馬典の弟子であり、彼の意志を継ぐために、司馬章の旅に同行する。
⚪︎玄黒・・・東遊寺の住職で、全思超家の事実上の代表。寛大な性格で、司馬章ら五人を快く受け入れる。
⚪︎韓美詠・・・玄黒の養娘。偉大な詩人になることを目指し、李白にも師事していた。かつて女性であることを理由に他の弟子たちに馬鹿にされた経験があり、一人称は「ボク」。水色の男装に桃色の帯を合わせた独特な服装を好んでいる。
【乱晶】・・・12人の異役思超家たちで構成された組織。思超を悪用した略奪や、非思超家の虐殺、対立する思超家の殺害などを行っていた。毎晩、必ず構成員の全員が集まって、中央の席を開けたまま食事をする。構成員には「右◯席」「左◯席」といったように、食事の際に座る席の位置と同じ番号名を与えられている。訳あって、天上王真理公子と史思明の加入後は、安禄山軍(反乱軍)の傘下となっている。長安の前襲撃戦で、魏匠と孟寧の二名を失い、現在十名。
⚪︎天上王真理公子(天理)・・・司馬章の祖父を殺し、彼に自身への復讐を促す謎の思超家。楊国忠や安禄山に取り入って、「安史の乱」を引き起こした黒幕。あらゆる学問を修めており、全知全能の思超「万智万能万象」を有する。
⚪︎楚器・・・万物は鉄を祖とする思想を持ち、金属を操る「万金典」の思超家。東遊寺の猪解と戦闘中、王明の奇襲を受けて、猪解に逃げられる。その後、重傷の韓美詠を襲うも、助けに現れた司馬章に敗北する。
【その他】
⚪︎王明・・・「思超家殺し」の異名を持つ謎の男。全ての生物に変身する「最大進化論」の異役思超家。思超の撲滅を目的に、東遊寺・異役思超家の区別なく思超家を殺し続ける。目的の障害であっても非思超家に危害を加えることはなく、乱晶の孟寧を倒した件以来、非思超家からの人気は高い。
疑似東遊寺朱雀塔。
先刻まで王明の一撃で意識を失っていた沙悟潮と姜疫が、ほぼ同時に意識を取り戻した。
「……死んだかと思ったぜ」
沙悟潮が泥を吐き出しながら呟く。不思議なことに、あれほど彼を苦しめていた全身の痺れは消えていた。姜疫の方も、自身の肉体を蝕んでいた塩の浸食が霧散している。王明の一撃による衝撃で意識を絶たれた際、互いの発動していた思超が解除され、仕掛けられていた「毒」と「塩」が分解されたのだ。
両者は無言で立ち上がり、再び殺気をぶつけ合おうとした。しかし、沙悟潮の脳裏にタムガの声が響く。
(“複製した東遊寺”にいる皆!!くれぐれも死ぬことなく、無事に脱出してくれ!!!!全員の脱出を確認次第、乱晶をあの空間に閉じ込める!!!!)
「……潮時か」
沙悟潮は不敵に笑うと、瞬時に手のひらから無数の塩の結晶を生成した。
「喰らっとけ!」
結晶が散弾のように連射される。姜疫は舌打ちしながら懐から長針を取り出し、旋風のような速度でそれらを叩き落とした。その視界が遮られた刹那、沙悟潮は空中に向かって塩の粉末を凝固させ、白濁色に輝く「道」を架ける。
「あばよ、毒使い!」
沙悟潮がその上を疾走する。姜疫が即座に追おうと足を踏み出した瞬間、彼の目の前で塩の道が音を立てて崩落した。物理的な追跡を完全に断たれた姜疫は、冷徹な瞳で遠ざかる背中を見送った。
「深追いは無用か……まずはこの肉体を整えるのが先決」
姜疫は追撃を諦め、懐から数十本の極細の針を取り出した。それを自身の太腿や腕、腹部の経絡に迷いなく刺し通していく。自身の筋肉を直接刺激し、癒やしを促進する思超の技法だ。
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朱雀塔から北に離れた青龍塔。 そこには、地を這うような沈黙があった。乱晶・左三席の女剣士徐刀は左腕を、子兎魯は右腕を、それぞれ深い切り傷から溢れる血を抑えるために強く握りしめ、抑えたまま動けずにいた。
「徐刀……とか言ったな……貴様の……思超は……何と言う……」
子兎魯が、途切れ途切れの息で問いかける。
「言うはずが……なかろうが……」
徐刀は青白い顔をしながらも、毅然と拒絶した。
「俺の思超を開示する……と言ったら?」
「……いいだろう。お前から言え」
沈黙の末、徐刀が応じた。死線を共にした者同士の、奇妙な対話だった。
「俺の思超は【無為自然】。複雑な思考を排除し、五感のみで戦う成体式の思超だ…お前は…」
その言葉が終わるや否や、徐刀の輪郭が揺れた。彼女は驚異的な速度で立ち上がり、一歩で子兎魯の間合いに踏み込んだ。
「しまった……」
子兎魯が反応しようとした時には、冷たい刃がその首筋に当てられていた。
「莫迦者。お前の思超だけ、訊いておくぞ」
徐刀の声は冷え切っていた。子兎魯の首の皮が一筋裂け、赤い雫が滴る。しかし、彼女はそれ以上、刃を沈めることはなかった。刀を収め、背を向けて歩き出す。
「おい、俺を斬るんじゃなかったのか」
背後からの問いに、徐刀は振り返らずに答えた。
「約束を破る代わりだ。命だけは残しておく」
歩き去る徐刀の胸中には、子兎魯に明かさなかった真実があった。
(しかし、私の思超【我乗数】を知ったところで、奴は私には勝てないがな…【我乗数】は事象や行動を繰り返す度に、その精度や効果が四倍、九倍、十六倍と……回数の自乗分、上昇していく力。あれ以上戦いを続けていれば、飛んでいたのは確実に奴の首だ)
彼女は中華全土でも極めて稀な「数学式」の思超家であった。歩みを進めるごとに、その計算は次の戦いへの精度を高めていく。
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白虎塔では、竜隋と乱晶の右三席の弓使い・公孫雨が熾烈な攻防を繰り広げていた。 だが、一瞬の隙を公孫雨が突く。放たれた雨水の矢が竜隋の頬を浅く削り、その衝撃で竜隋は体勢を崩して倒れ込んだ。
「終わりだ、竜家の残り者よ」
公孫雨が軽く髭を撫でると、次の瞬間、冷酷に弓を引き絞り、竜隋の心臓を狙う。
その時だった。
「巨根一衝!!!!」
大地を割って、人間七人分の直径をもつ巨大な木の根が飛び出してきた。凄まじい質量の衝撃が公孫雨を横から薙ぎ払い、彼を塔の外壁へと弾き飛ばす。
「貴方は……“木道の達人”平隆万……!!」
竜隋の瞳に安堵の色が浮かぶ。現れたのは、東遊寺が誇る思超家、平隆万であった。
「そこの二人は今すぐ逃げるんだ!!もう東遊寺の人間のほとんどがここを脱出した!この擬似東遊寺が閉じるのも近い!!」
平隆万の叱咤に、竜隋は覚悟を決める。
「……承知した」
彼は傍らで傷を癒やしていた鄭回に声をかけた。
「走れるか、鄭回」
「あぁ、なんとかね。で、どうするんだ?」
「一つお願いがあるのだが」
二人が擬似東遊寺の出口へ向かう道すがら、彼らは一台の荷車を必死に引いていた。その荷台には、戦闘で傷つき動けなくなった竜家の者たちが積み重なっている。竜隋をこれまで虐げ、傷つけてきた一族の人間たちだ。
「しっかし竜隋はお人よしだな!!自分を虐げた一家、普通助けるか?」
鄭回が呆れたように笑う。竜隋は前を見据えたまま静かに言った。
「……鄭回、思ってもないことを訊くのはよせ」
「……え?」
「もし鄭回が俺でも、同じ行動にきっと出たはずだ」
鄭回の胸元から、ふとした拍子に真っ赤な櫛が覗いた。それは彼が故郷に残した家族へ、再会を誓って持ち歩いているもののようにも見えた。鄭回はそれを見られると少し寂しそうに、しかし強く前へ足を踏み出した。
背後では平隆万が、「巨根連衝」で公孫雨をさらに遠くへ突き飛ばし、自らの足元から天を突くほどの大樹を生やしていた。
「今回はここまでだ」
平隆万はぐんぐんと伸びる枝を跳び渡り、擬似空間の脱出を目指して南へと消えていった。
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疑似東遊寺の中央地下。そこでは、東遊寺の誇る戦士・孫遊と乱晶右二席の男・呂辛が、王明の襲撃を生き延びた後も、互いの武をもう一度確かめ合うように拳を交わし続けていた。
「こんなに骨のある相手はお前が初めてだ!!孫遊!!!」
呂辛の叫びに、孫遊もまた興奮気味に応える。
「俺もだ!!!武術家としての血が沸る!!!!」
孫遊が右足を高く振り上げる。
「だ・が!」
一閃。強烈な蹴りが呂辛の防御を突き破り、その巨体を後方へ吹き飛ばした。孫遊は着地と同時に、持っていた棍棒を頭上で凄まじい速度で回転させ始める。
「これ以上戦うのは、いろいろマズくてな!悪いけどここで引き分けに終わらせてもらう!」
回転によって生まれた巨大な上昇気流が地下室に渦巻く。孫遊はその気流に軽々と身を預け、文字通り飛び上がった。
「何ッ!?」
呂辛が手を伸ばすが、孫遊は天井を突き抜け、雲の彼方へと消えていく。
「孫遊……次戦う時を楽しみにしているぜ……!!!」
地下に残された呂辛の声には、物足りなさよりも再戦を望む歓喜が混じっていた。
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現実の東遊寺。 擬似空間を閉じ込めた透明な球体…不思議な入れ物の周囲には、すでに避難を完了した二百人近い人々が集まっていた。僧侶、思超家、そして震える子供たち。
「玄黒さん!もう閉めなければ!!」
空間を維持する限界を感じた僧侶たちが住職の玄黒に迫る。
「まだ……まだ孫遊が……みんながいるんだってな!!!」
猪解がその巨体で周囲を制止し、入れ物を見守る。
その時、入れ物が一軒の民家ほどに膨張し、内部から凄まじい勢いで一人の男が飛び出してきた。
「うおおおお!!!!」
「孫遊だ!」
空中で三回転して着地した孫遊に歓声が上がる。
続いて、入れ物の表面が波打ち、二人の青年が姿を現した。剣を抱えた孫操備と、気を失った韓美詠を背負った李光だ。 玄黒は弾かれたように駆け寄り、娘の手を握りしめる。
「美詠!!!」
玄黒は涙を流さなかった。しかし、その顔は、どこから見ても泣き顔にしか見えなかった。
「俺の服をちぎった布で止血したから、安全とは言えない。綺麗な布で止血し直しといてください」
李光は疲れ切った表情で、しかし優しく彼女を玄黒に引き渡した。 玄黒は、眠るように穏やかな寝息を立てていた娘を抱きしめ、何度も感謝の言葉を呟いた。
「……李光、悪いな」
孫操備がそっと声をかける。
「気にするな。お前が率先して動いてくれたおかげで、俺もあいつの望みを果たすことができた」
「ああ……あいつは…絶対に戻ってくるはずだ」
二人は短く言葉を交わし、戦友としての絆を確かめ合うように肩を叩き合った。
さらに、竜隋と鄭回が瀕死の竜家の人々を乗せた荷車を引いて帰還した。僧たちが即座に竜家の者たちの医療措置を開始する中、竜隋は一人の女性と目が合った。かつて彼を欠陥品を扱うかのように見つめ、冷遇し続けた実の母である。
「母上……」
竜隋が声をかける。母親の瞳には、かつての冷酷さはなかった。そこにあるのは、自分たちを救った息子への申し訳なさと、自身の情けなさへの悔恨だった。
「竜隋……その……」
竜隋はその言葉を遮るように、温かみのある声で微笑んだ。
「そんな顔をなさらないでください。宋は、きっと素晴らしい竜家の当主になれます」
母を赦す。一族を赦す。冷静だが、温かみのある声だった。その一言だけを告げると、竜隋は鄭回と共に、孫操備たちの待つ輪の中へと歩んでいった。
その後、子兎魯、沙悟潮と脱出が続き、広場は再会の喜びと安堵に包まれた。だが、入れ物の前で指揮を執る玄黒の表情は、また険しくなる。
「残るは、司馬章くんと平先生のみか……」
擬似東遊寺の内部では、平隆万が乱晶の二人の猛者に追われていた。 右五席・空凶、そして右六席・史思明。 龍へと姿を変えた空凶が天から炎の息を吐き、平隆万が生成した森を次々と炭にしていく。
「てめぇの愛する木々ごと死ね!!」
「俺の思超…眠獅子の力…年獣の姿となった俺は誰にも止められないぞ…!!」
一方、史思明は思超【眠獅子】によって獅子の怪物「年獣」へと変貌し、木々を紙細工のように破壊して迫る。
「これは……なかなか手強い……」
平隆万は額に汗を浮かべながらも、懐から一粒の“種”を取り出した。彼は地上へ降り立つと、すべての力を込めてそれを大地へと植え付けた。
「天蓋青樹」
種が大地に触れた瞬間、爆発的な勢いで幹が天へ突き抜けた。枝は幾重にも分岐し、葉は擬似空間の空を覆い尽くす。史思明と空凶を、そして擬似空間の隅々に至るまで、この巨大樹の幹はすべてを呑み込んでいった。
「おそらく、残っているのは私だけ。私が最後だろう。この秘技を残しておいて正解だった」
平隆万は荒れ狂う乱晶たちを巨大樹の幹に閉じ込めると、現実との狭間に漂う黒い霧の中へと消えた。
現実世界。 入れ物から平隆万が転がり出た。
「平先生! 脱出者は……」
「私で、最後だと思っていたが……」
平隆万が周囲を見渡す。そこには司馬章の姿だけがなかった。
(しまった!!!)
玄黒は数珠を強く握り、最後の手順を開始する。擬似空間を外部から完全に遮断し、乱晶を永遠の間へ封印する準備だ。
「げ、玄黒住職!!」
平隆万は慌てて玄黒の元へ走る。
「「間に合え……司馬章……!!!!」」
孫操備、李光、鄭回、竜隋が、祈るように叫ぶ。
その瞬間、入れ物から一つの影が夜空に向かって飛び出した。
「今です!! 玄黒住職!!!」
「ハッ!!!!」
玄黒の掛け声と共に、数珠を持った手が入れ物に触れる。入れ物の縮小が始まり、擬似空間では、黒い空気が渦を巻いて中心へと吸い込まれていく。
「やったのか……?」
李光が呟く。しかし、影の正体をいち早く察知した竜隋が、絶望に顔を歪めた。
「司馬章が……いない……」
空を見上げると、そこにあったのは鷹の姿に変身した王明だった。彼は地上の人間たちを攻撃することもなく、優雅に羽ばたいて西の空へと消えていった。
「そんな……司馬章が、中に……!」
入れ物はすでに人一人の大きさにまで縮んでいる。封印が完了すれば、中に残された者は二度と現実へは戻れない。 全員が絶望に沈み、膝をつこうとしたその時…
入れ物の黒い霧を割り、ボロボロの衣服を纏った一人の人間が、前のめりに倒れ込んできた。
「全く……心配させやがって……!!!!」
李光が叫び、真っ先に駆け寄る。 泥と血にまみれ、疲れ果ててはいたが、その顔には確かな生命の輝きがあった。
それは、紛れもなく司馬章であった。
東遊寺の境内に、朝日が差し込み始める。 激闘の夜は明け、司馬章は仲間の腕の中で、ようやく深く重い眠りに落ちていった。




