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BEYOND SOUL  作者: 史邦ヒスト
東章 東遊寺編
58/61

第58話 我、死を畏れ、刃を畏れざる

人物解説


【東遊寺】・・・思超の悪用、思超による秩序崩壊を阻止するために、玄奘(三蔵法師)によって作られた揚州の大寺院及び思超家組織。中華の思超家のほとんどはここに所属しており、ここに所属することで正式な思超家として認められる。年に一度、思超の様々な問題について議論し、寺の方針を決める「思超会」が設けられている。


⚪︎司馬章・・・万物の祖は炎とする思想を持ち、炎を操る「世炎論」の思超家。祖父を天理に殺され、復讐のために旅を始めるが、旅をする内に、その本質が復讐ではなく「超越」であることに気づく。

⚪︎孫操備・・・世界は等しい三つの要素で成り立つとする思想を持ち、事象の度数や作用を三方向へ分散する「三分の計」の思超家。司馬章の旅の目的に感銘を受け、彼の旅に同行する。

⚪︎李光・・・万象の中で最も人が恐れるものは雷とする思想を持ち、雷を操る「恐雷説」の思超家。司馬章との決闘で彼の力を認め、彼の旅に同行する。

⚪︎鄭回・・・血を知ることは生の全てを知るとする思想を持ち、血の性質を操る「血医学」の思超家。「思超大樹」(別名:智の大樹)を探し出す目的で、司馬章の旅に同行する。

⚪︎竜隋・・・ 龍への憧れと崇拝心を持ち、空像の龍を操る「使龍道」の思超家。司馬章の祖父・司馬典の弟子であり、彼の意志を継ぐために、司馬章の旅に同行する。

⚪︎玄黒・・・東遊寺の住職で、全思超家の事実上の代表。寛大な性格で、司馬章ら五人を快く受け入れる。

⚪︎韓美詠・・・玄黒の養娘。偉大な詩人になることを目指し、李白にも師事していた。かつて女性であることを理由に他の弟子たちに馬鹿にされた経験があり、一人称は「ボク」。水色の男装に桃色の帯を合わせた独特な服装を好んでいる。


【乱晶】・・・12人の異役思超家たちで構成された組織。思超を悪用した略奪や、非思超家の虐殺、対立する思超家の殺害などを行っていた。毎晩、必ず構成員の全員が集まって、中央の席を開けたまま食事をする。構成員には「右◯席」「左◯席」といったように、食事の際に座る席の位置と同じ番号名を与えられている。訳あって、天上王真理公子と史思明の加入後は、安禄山軍(反乱軍)の傘下となっている。長安の前襲撃戦で、魏匠と孟寧の二名を失い、現在十名。


⚪︎天上王真理公子(天理)・・・司馬章の祖父を殺し、彼に自身への復讐を促す謎の思超家。楊国忠や安禄山に取り入って、「安史の乱」を引き起こした黒幕。あらゆる学問を修めており、全知全能の思超「万智万能万象」を有する。

⚪︎楚器・・・万物は鉄を祖とする思想を持ち、金属を操る「万金典」の思超家。東遊寺の猪解と戦闘中、王明の奇襲を受けて、猪解に逃げられる。その後、南へ向かって歩いていると、重傷の韓美詠を見つけ…


【その他】

⚪︎王明・・・「思超家殺し」の異名を持つ謎の男。全ての生物に変身する「最大進化論」の異役思超家。思超の撲滅を目的に、東遊寺・異役思超家の区別なく思超家を殺し続ける。目的の障害であっても非思超家に危害を加えることはなく、乱晶の孟寧を倒した件以来、非思超家からの人気は高い。

 司馬章(しばしょう)は何も言わず、その手に握っていた「天地開闢(てんちかいびゃく)」の剣を孫操備(そんそうび)に向かって投げ渡した。重い鉄の塊が宙を舞い、困惑する仲間の腕に収まるのも待たず、彼は地を蹴った。


 目指す先は、刃を振り上げる異役思超家(いえきしちょうか)楚器(そき)の足元だ。


「おい、司馬章!」


 背後から李光(りこう)の叫びが飛ぶ。無理もない。司馬章の体は、すでにとうに限界を越えていた。天理(てんり)に三度も命を奪われかけ、王明(おうめい)には深い傷を刻まれ、その後の物部苦死羅(もののべのくじら)との戦いでも全身を打撲と切り傷が覆っている。天理の事象改変によって一度癒やされたはずの肉体は、度重なる死線の記憶に悲鳴を上げ、一歩進むごとに骨が軋む音が脳裏に響く。


 今の彼にとって、次の戦闘は、確実な死を意味していた。だが、司馬章の足は止まらない。これが正義感ゆえの衝動なのか、あるいは自分を勇敢だと錯覚した愚行なのか、彼自身にも分からなかった。ただ、泥にまみれて震える韓美詠(かんびえい)を見捨てて生き延びる自分を、彼はどうしても想像できなかった。


「はあ!」


 楚器が冷酷な呼気と共に、美詠(びえい)の細い首を目掛けて刀を振り下ろす。銀光が弧を描き、死が確定したその刹那…


 司馬章の指先が、地を這う美詠の腰を強く掴んだ。 火事場の馬鹿力か、彼は少女の体を奥へと力いっぱい転がし、無理やり死線の外へと押し出した。代わりに、空いた空白へと自分の体を滑り込ませる。


 美詠を逃がし、そのまま楚器の方を振り向いた時には、もう手遅れだった。 逃げる隙も、防ぐ術もない。楚器の放った刃は、すでに司馬章の鼻先、首の皮一枚のところまで迫っている。


 至近距離で交錯する視線。 その時、司馬章の瞳に宿っていたのは、強者への敵意でも、燃え上がるような怒りでも、誇り高き勇気でもなかった。


 …底知れぬ「恐怖」であった。


「死にたくない」という本能的な震えが、見開かれた瞳の中で残酷に揺れている。だが、その恐怖を抱えたまま、彼は逃げなかった。


 直後、冷たい刃が司馬章のボロボロの肉体を縦に深く斬り裂いた。 王明の一撃とも、天理の一撃とも違う、悪意に満ちた冷たい痛み。肉が裂け、血が噴き出す生々しい衝撃が全身を貫く。


「あ、が……ああああああああッ!!!」


 司馬章は濁音の混じった、獣のような悲鳴を空へとぶちまけた。崩れ落ちる視界の中で、美詠が無事であることを祈る余裕もなく、彼の意識は真っ赤な血を散らして沈んでいく。


 司馬章の悲鳴が虚空に消え、辺りに重苦しい沈黙が降りた。


 崩れ落ちた司馬章の体からは、どくどくと鮮血が溢れ出し、冷たい地面を汚していく。その傍らで、楚器は眉ひとつ動かさず、刀に付着した血を静かに振り払った。その仕草には、人を斬った高揚も、命を奪うことへの躊躇もない。ただ、作業を終えた職人のような無機質な冷徹さが漂っていた。


「……お前が司馬章か」


 楚器は、足元で虫の息となっている司馬章を、ゴミを見るような目で見下ろした。


「勇気か、それとも自己満足か。どちらにせよ、死にゆく者の瞳に宿るのが恐怖だけとは。これほどまでに価値のない一撃は初めてだ」


 その声はどこまでも冷ややかで、感情の起伏が一切感じられない。彼にとって司馬章の決死の行動は、高潔な自己犠牲などではなく、単なる無駄な動きに過ぎなかったのだ。


 一方、突き飛ばされた美詠は、泥にまみれたまま目を見開いていた。 目の前で自分を庇い、斬り裂かれた背中。かつて李白(りはく)が語った「詩」のような世界の華々しさはそこにはない。ただ、生々しく裂けた肉と、絶え間なく溢れる血があるだけだ。


「……どう、して……」


 震える声が漏れる。自分は彼にとって、守るべき大切な誰かであったはずがない。言葉を交わしたことさえ、ほとんどなかったはずだ。なのに、なぜ彼は、死ぬほどの恐怖に瞳を揺らしながら、それでも自分の前に立ったのか。


「おい、待て……!司馬章!!」


 遠くから孫操備と李光が、なりふり構わず駆け寄ってくる。 楚器はちらりと彼らを見やり、それから再び美詠に視線を戻した。逃げようとする意志さえ奪われた少女と、物言わぬ肉塊になりかけの少年。


「司馬章は生け取り。お前たちは邪魔だ。お前たち三人を殺して、こいつを連れて帰ろう」


 楚器は再び刀を構えた。その切っ先は、また美詠の首へと向けられる。ただ、目の前の障害物を完全に除去するためだけに。


「奴を天理に売り捌いて、財を増やす。俺はその目的でここに来たんだ。だが、どのみち殺しも楽しむつもりでいた。だから、俺は女にも容赦はしない…!」


 鉄のような宣告と共に、楚器の腕が動く。 司馬章は限界状態。李光と孫操備は、駆けつけても間に合わない。残酷な刃が、再び美詠を飲み込もうとしていた。




 何かを蹴る音が一つ。




 突如、その刃は目標に到達する直前、何かに突き当たって静止した。


「……何?」


 楚器の眉が、初めて不審に動いた。切先が当たっていたのは、地面に伏していたはずの司馬章の「額」だった。唯一無傷であったその場所が、鋭い刃を受け止め、一筋の鮮血を鼻筋へと流している。司馬章は自ら頭を上げ、美詠に向けられた斬撃をその身で押し留めたのだ。


 そして、楚器は息を呑んだ。見下ろした先にある司馬章の瞳。そこには、先程まで彼を支配していた、あの無様な「恐怖」が欠片も存在しなかった。代わりに宿っているのは、灼熱の意志を秘めた、猛々しく凛々しい光。


 死線を潜り抜け、魂の芯を焼き直した者だけが持つ、圧倒的な眼光だった。


「お前……動けないはずでは……なかったのか……!?」


 楚器の声に、初めて微かな動揺が混じる。脊髄を断たんばかりの一撃を食らい、出血も致死量に近い。肉体的にも、精神的にも、彼が意識を保っていること自体が道理に合わなかった。


「さぁな」


 司馬章は短く、低く答えた。その声には震えひとつない。額に食い込む刃の痛みなど、もはや意識の外にあるかのようだった。


「なっ……何故、またこの女を庇う! お前はこの剣の恐ろしさを! 痛みを! 身を持って知ったはずだ!」


 楚器が問い詰める。多くの人間にとって、恐怖と被害は行動を抑制するための最も合理的な鎖だ。一度その味を知り、絶望的な悲鳴をあげた人間が、なぜ再びその刃の前に立てるのか。彼の理解の範疇を超えていた。


「それも……さぁな」


 司馬章は血の混じった唾を吐き捨て、楚器を睨み据えたまま、ゆっくりと、しかし確実に立ち上がろうと膝に力を込める。その姿は、傷ついた獣というよりも、不屈の武神に近い。


「まさか……この一瞬で、死の恐怖を克服したとでも言うのか……!?」


 楚器の額に、一筋の汗が流れる。


 焦り。


 常に優位を保ち、他者の命を物のように扱ってきた彼が初めて直面する、真逆の恐怖だった。


「いや、死ぬのはまだ怖いよ……」


 司馬章は静かに、自らの弱さを認めるように言った。


「けど、お前如きに斬られる怖さは、さっき越えてきた!!!」


 その言葉は、言霊となって空気を震わせた。死を恐れる心は消えていない。だが、目の前の敵がもたらす痛みへの畏怖は、すでに彼の魂を縛る鎖ではなくなっていた。韓美詠を護るという決意が、生存本能の壁を粉砕したのだ。


「後悔するなよ! そう言うのなら、お前を死の寸前までいたぶりつくす!!!!」


 楚器が叫んだ。冷静さをかなぐり捨て、怒りに任せて刀を強く握り直す。感情を見せないことが彼の強みであったはずが、今は司馬章の瞳に圧され、必死に自分の優位を誇示しようと虚勢を張っていた。


「やってみろよ!!!!!!!!!!!!」


 司馬章の怒号が響き渡る。 ボロボロの体から、再び「天地開闢」の重みを感じ取るかのように拳を握る。


 背後では、韓美詠が呆然とその背中を見つめていた。 李光と孫操備も、信じられないものを見る目で立ち尽くしている。 限界を超え、運命を捻じ曲げた男の背中。


 楚器は迷いなく、その剛腕で剣を振り下ろした。空気を力任せに押し潰すような鈍い音が鳴り響く。狙いは司馬章の右肩。鎖骨を砕き、そのまま胴体まで一気に断ち切らんとする、容赦のない一撃。


 ズガァン!


 何かが激しく裂け、強固なものが砕け散る不吉な音が周囲にこだました。楚器の手応えは確かだった。肉を断ち、骨を粉砕した際の、あの忌々しくも確実な感触が掌に伝わってきたのだ。


 だが、楚器の冷徹な瞳が驚愕に見開かれた。 剣先が当たっている場所を見ても、そこに新たな深い傷は存在しなかった。司馬章は血を流しながらも、膝を屈することなく、依然として真っ向から楚器を見つめ返している。


「何……!?」


 楚器は己の感覚を疑った。今の一撃で死なぬはずがない。彼は逆上したように、何度も連続して剣を振り下ろした。 ドカッ、バキッ、と聞くに堪えない破壊音が連発される。振り下ろされる刃の衝撃で周囲の地面がひび割れ、土煙が舞う。しかし、司馬章の肉体には、もう新しい傷がつくことはなかった。刃が肌に触れた瞬間に、まるで見えない鋼の膜に阻まれているかのように、斬撃が離散していく。


「どう……なっている……!」


 楚器の喉から、余裕の消えた掠れ声が漏れた。目の前の男は、もはや理外の存在へと変貌していた。 楚器はついに、とどめを刺すべく心臓一点を狙って鋭い刺突を繰り出す。しかし、司馬章はその白刃を素手で、平然と掴み取った。


「がっ……」


 楚器が刀を引き抜こうとするが、万力で固定されたかのようにびくともしない。司馬章はそのまま間を詰め、空いた右手を楚器の首元へ、添えるように当てた。


華朱牙燃(かしゅがねん)!!!!」


 司馬章の振り絞った叫びと共に、彼の掌から爆発的な紅蓮の炎が噴き出した。


「づゃあああああああああッ!!!」


 楚器の全身が猛烈な火炎に包まれる。先程まで冷徹を装っていた男が、太い悲鳴を上げながら無様に地面を転げ回った。業火に焼かれる楚器は死に物狂いで術を練り、生成した巨大な鉄の塊を自らの体に叩きつけるようにして押し潰し、無理やり鎮火させた。


 煙を上げ、酷く弱った様子で、息を絶え絶えに楚器は立ち上がる。火傷に苛まれながら顔を上げた彼の視界に、異常な光景が映った。


 目の前に立つ司馬章が…自分と背丈がほぼ同じはずのその少年が、見上げるほどに巨大に見えたのだ。二回りも、三回りも大きく、空を覆い尽くすような強者の圧を放っている。


 楚器の背筋を冷や汗が伝う。


(この俺が……こんな小僧に……)


 あまりの威圧感に目を擦り、もう一度司馬章を見やる。そこには、血に塗れた元の大きさの少年が立っているだけだった。


 だが、楚器の心は完全に折れていた。 自分よりも遥かに強大な存在だと、一瞬でも「錯覚」してしまったことが、彼の心に敗北の文字を刻んでしまった。


「……あり、えん……」


 楚器は膝から崩れ落ちた。悔しさに顔を歪めながら、そのまま力尽きるようにして地面に突っ伏し、深い気絶の闇へと沈んでいった。






 司馬章は倒れ伏した楚器にトドメを刺すことなく、ただ東を向いて歩きだす。 その背中は血にまみれ、もはや一刻の猶予もないほどに損壊していたが、彼の瞳にはまだ消えない光が宿っていた。


 一歩、二歩、三歩、横転。


 自分が倒れたことに気づくと、駆け寄ろうとする孫操備と李光に向け、小さな声でこう言った。


操備(そうび)、李光……お前たちは先に行ってくれないか……俺もすぐに追うから……」


 その言葉を聞いた李光が、たまらず声を荒らげる。


「無茶言うな!!俺が背負ってやる!一緒に逃げるぞ!」


 当然の叫びだった。今の司馬章をここに残すことは、見殺しにすることと同義だ。 だが、司馬章はボロボロになった左腕を、激しく震わせながらゆっくりと持ち上げた。そして、力なく左の方を指差す。 そこには、絶望と恐怖の中で意識を朦朧とさせている一人の少女、韓美詠がいた。


「操備は、その……剣を……。李光は……その人を……いや、美詠を……連れて……行って……くれ」


 司馬章のその瞳に宿る静かな決意に、李光はなおも抗議したくなった。しかし、隣にいた操備は何も言わず、ただ重く頷いた。


 操備は東に向かって走り去りながら背中で言った。


「……信じてるぞ、司馬章!」


 仲間の離脱に、李光が愕然として叫ぶ。


「おい、操備!!お前まで……」


 李光は一瞬、司馬章と走り去る操備の間で激しく葛藤した。だが、目の前で今にも消え入りそうな司馬章の、あの眼差しを無視することはできなかった。彼は渋々その頼みを受諾し、横たわる美詠を慎重に背負った。


「必ず来いよ……司馬章!!!!」


 李光は願うようにそう叫ぶと、美詠の重みを感じながら東に向かって駆け出した。 二人の姿は、擬似東遊寺を覆う不気味な黒い霧の彼方へ、瞬く間に消えていった。


 静寂が戻った荒野で、司馬章はただ一人、薄れゆく意識の中で空を見つめていた。

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