第56話 天罰
東遊寺北側は荒れ果てていた。石畳と住居が綺麗に並ぶ道が、今は黒く焦げた土と、割れた岩の破片ばかりが転がる死の平地と化していた。
天理が両手を広げると、空気が歪んだ。黒い波動が彼の掌から広がり、王明に向かって一直線に飛ぶ。闇そのものが形を成したような奔流だ。
王明は身を翻した。体が霞むほどの速さで横に跳び、波動は彼のいた場所を抉って通り過ぎる。地面が溶けるように抉れ、蒸気が立ち上った。
即座に王明が反撃する。剣を抜き放ち、流れるような一閃。刃が空を切り裂き、天理の首を狙う。天理は首をわずかに傾け、剣先を紙一重でかわした。金属が擦れる乾いた音が響く。
二人は互いに距離を取らず、剣と波動が交錯する。一進一退。剣閃が黒い残光を散らし、闇の奔流が空を裂く。王明の剣は風を切り、天理の波動は地を焼く。どちらも決定的な一撃を与えられず、ただ互いの技を弾き、躱し、削り合う。息もつかせぬ攻防が続き、周囲の空気すら熱を帯びて震えていた。
天理の瞳が爛々と輝いた。
「終わりだ。阿睿朱魔」
彼の周囲に黒い渦が巻き上がり、大気が悲鳴を上げた。あたり一帯を更地に変える、破滅の巨大な波動。司馬章に放った時の阿睿朱魔は、彼を死の寸前に追い込むために威力が弱められていたので、被害は北側全域のみに留まったが、殺す目的で放たれれば、この戦場に立つ者すべてが…いや、揚州一帯が消し飛ぶ恐れがある。
だがその瞬間、王明の姿が消えた。
代わりに現れたのは、一頭の鹿だった。黄金の角が陽光を浴びて眩しく輝き、鋼のように引き締まった筋肉が全身を覆う巨体。体躯は常の鹿の三倍はあろうかという大きさで、四肢一本一本が岩を砕くほどの力強さを秘めている。息を潜めていた王明の変身は、瞬時に戦場の空気を変えた。
鹿は地を蹴った。土煙が舞い上がり、轟音とともにその巨体が天理の懐へ一直線に突進する。角の先端が空気を切り裂き、まるで黄金の槍のように突き出されていた。
「これは……!」
天理の瞳が大きく見開かれる。集中が一瞬で乱れた。両手に集まっていた黒い渦…阿影朱魔の膨大な力が、不安定に揺らぎ始めた。渦の縁がぼやけ、収束しかけていた闇が四散しそうになる。
「…!」
天理は歯を食いしばり、必死に精神を集中させようとする。だが鹿の突進は容赦ない。地面を抉りながら迫る巨体は、ただの獣ではなく、殺意を纏った矢そのものだった。
鹿が跳躍した。空中で体が歪み、光の粒子のように王明の姿に戻る。着地と同時に剣を抜き放ち、流れるような一閃。
ザシュッ!
鮮血が弧を描いて噴き出した。天理の両腕が、肩口から綺麗に斬り落とされる。切断面はあまりにも鮮やかで、血が一瞬遅れて溢れ出した。
「ぐ……っ!!」
天理は膝をつき、失った両腕の断面を呆然と見下ろした。痛みよりも、信じられないという感情が先に立った。事象改変の能力者たる自分が、こんなにも簡単に両腕を失うなど。
(すぐに…再生を…!)
彼は即座に念じた。失われた腕の再構築を脳裏に描き、事象改変を発動させようとする。だが、その瞬間、頭蓋の奥深くから異常な違和感が爆発した。
まるで無数の細い針が、脳の柔らかい組織を同時に突き刺すような感覚。ぞわぞわと這い回る、何かがいる。意識が白く霞み、視界が一瞬揺らぐ。
(何だこれは…!?頭の中に…何かが…)
天理は両手…いや、失った腕の代わりに、肩の断面を押さえながら呻いた。思考がねじ曲がる。集中しようとすればするほど、違和感が強くなり、念じる力が霧散していく。
王明は静かに剣を収め、ゆっくりと口を開いた。
「あの時、お前の脳内に線虫と化した俺の分身を仕込ませた」
線虫。
細長く、白色で、肉眼ではほとんど見えぬほど微小な寄生虫。土中や水中に棲み、宿主の体内に侵入しては血管や臓器を這い回り、時に脳にまで到達する恐ろしい生き物。唐の医書にもその名が記され、激しい頭痛や幻覚、発狂の原因として恐れられていた。
今、その線虫が天理の脳内で蠢いている。
数十匹に増殖したそれは、脳の柔らかい組織を手当たり次第に喰い破り、噛み千切り、穿つ。鋭い痛みではない。だが得体の知れない「違和感」が、意識の隅々まで広がり、事象改変を根源から阻害していた。
「あの時……お前は…いつ…」
天理の声が震える。憎悪と恐怖が混じり合った表情で王明を睨む。
王明は淡々と答えた。
「さっきの"百獣奔騰"だ。お前が俺の分身を殺したと思った瞬間、既に一匹が脳に潜り込んでいた。後は増えるのを待つだけだった」
「…お前…らしくない…卑怯なやり方だ…」
「卑怯?俺はお前が言うほど戦闘を好んでいるわけではない。あくまで俺の望みは"思超家の撲滅"」
王明の体が、再び変化を始めた。
筋肉が膨張し、骨が軋む音が響く。背が急速に伸び、黒い毛皮が全身を覆い尽くす。両腕は太く、長く、指先は鉤爪のように鋭く変形した。巨大な黒猿。その姿は天を覆うほどの威圧感を放っていた。
「ぐおおおおっ!!」
大猿の咆哮が戦場を震わせる。王明は両腕を振り上げ、天理の胴を鷲掴みにした。
「ぐっ……!」
天理の体が宙に浮く。次の瞬間、地面に叩きつけられた。
ドゴオオオォン!
大地が大きく陥没し、土煙が舞い上がる。衝撃波が周囲を薙ぎ払い、岩が砕け散った。
王明はすぐさま視線を移す。まだ微かに息のある司馬章の元へ。巨大な拳を高く振り上げる。
天理は血走った目で、這うようにして王明を睨んだ。
(まずい…司馬章が殺られる…)
司馬章の体力を全回復させようと、強引に事象改変を試みる。だが脳内の線虫が暴れ回り、集中が途切れる。念じた力が暴走し、意図せぬ方向へ流れ込んでしまった。
意識を失っていた孫操備と李光の体にまで、力が注ぎ込まれる。
二人が同時に目を見開いた。そして、王明の拳が落ちる寸前、孫操備が低く呟く。
「…別れろ」
彼の周囲に三角形の波紋が広がり、王明の拳の作用が三つに分かれて逸れる。
李光は雷を纏った右腕を構え、司馬章の前に立ちはだかる。
「司馬章に指一本触れさせねぇ!」
電撃の盾が展開され、青白い稲妻が王明の拳を弾き返した。司馬章はゆっくりと体を起こす。炎が全身を包み、瞳に闘志が宿る。
「……よし!いくぞ王明!!」
司馬章が立ち上がる。炎を纏った拳を握り、大猿の腹に叩き込む。
ゴオオッ!
大猿がよろめく。
天理は這うようにして起き上がり、脳内の線虫を殺そうと改変を試みる。しかし線虫は既に数十匹。殺そうと念じれば別の線虫が増え、脳を一度潰そうとすれば別の個体がそれを防ぎ、爆散させようとしても別の群れがそれを封じる。完璧に詰まされていた。
その時だった。
場の空気が、突然凍りついたように静まり返った。どこからともなく、一つの埴輪が現れたのだ。
素朴で無機質な、倭国(日本)から掘り出されたような土人形。だがその姿は常識を逸脱していた。身の丈は人より少し高く、土肌の上から青銅の鎧が輝き、全身から立ち上る冷気が周囲の空気を白く曇らせる。目に見えぬほどの威圧感が、戦場全体を押しつぶすように広がっていた。
「物部苦死羅……」
王明が、血塗れの唇を震わせて呻くように呟いた。声は低く、しかしはっきりとした喜びと不満が混じっていた。
「乱晶最強の男、"天罰"の苦死羅」
苦死羅に「天罰」の異名があるのは、その圧倒的な強さゆえだ。彼と対峙した者は、技を繰り出す間もなく、逆らうことすら許されず、一方的に、理不尽に、ただ敗北する。それがまるで天から下される罰のようであることから、誰もが自然とそう呼んだ。乱晶の歴史に残る数多の強者たちが、苦死羅の前に立った瞬間、膝を折った。剣を抜く間もなく、気迫だけで心が折れた者もいた。
まさに「天罰」…抗うことの無意味さを、身をもって思い知らせる存在。
苦死羅は、無言で一歩踏み出した。土を踏む音すらしない。ただ、存在がそこに在るだけで、重力が歪むような錯覚を覚える。
刀を構え、静かに、しかし確実に斬るように彼らを睨む。
「寒来」
刃から迸った冷気が、瞬時に戦場を覆った。青白い霧が広がり、司馬章、孫操備、李光の三人が一瞬で凍りついた。身体が透明な氷の殻に閉ざされ、動きが完全に封じられる。息さえも凍りつき、肺の中の空気が結晶化するかのようだった。
「……っ!」
司馬章の瞳が、氷の中でわずかに揺れた。次の瞬間、彼の全身から赤黒い炎が噴き出した。
ゴオオオッ!
氷が悲鳴を上げて砕け散る。溶けた水滴が蒸気となって舞い上がり、司馬章は炎を纏ったまま突きを放った。拳ではなく、炎そのものが槍のように伸び、苦死羅の胸を狙う。
苦死羅は刀を構えたまま、ゆっくりと体を回転させた。旋風のような斬撃が巻き起こり、三人を一気に吹き飛ばす。地面が抉れ、土煙が立ち上る。距離を取った苦死羅は、静かに息を整え――そして、彼らが居もしない空間に向かって、剣を一閃。
「……月詠」
刃が空を切る音だけが、遅れて響いた。
「空振り……?」
司馬章が眉を寄せる。孫操備と李光も、警戒を強めながら互いに視線を交わす。確かに剣は振られた。だが、誰もいない虚空を斬っただけだ。意味がわからない。
「何のつもりだ……?」
李光が低く呟く。だが、次の瞬間…三人の身体が、苦死羅の目前で、額から腹にかけて縦に斬られた。
ザシュッ!
鮮血が噴き出し、地面に赤い線を描く。傷は深く、骨まで達しているはずだった。だが、苦死羅は剣を振っていない。いや、そもそも振ったのは少し過去の話だ。時間そのものを斬ったかのように、三人の傷は「既にあった」ものとして現れていた。
「殺してはいない。これで良いのだろう?」
苦死羅が、初めて言葉を発した。声は低く、土の響きを帯びていた。感情のない、ただ事実を述べるような声音。
天理は王明の猛攻をかわすのに精一杯で、返事もできない。巨大な猿の拳が空を切り、地面を砕くたびに体が震える。息が上がっていた。
「まぁいい。お前が連れて行けぬというのなら、俺が連れて帰ろう」
苦死羅が、ゆっくりと司馬章に手を伸ばした。土の指が、まるで獲物を掴むように近づく。
その瞬間…殺気が、空を裂いた。鋭く、重く、老いてなお衰えぬ殺意。
苦死羅が、初めて振り向いた。そこに、一人の老人が立っていた。
白髪を風に靡かせ、ぼろぼろの袍を纏った、瘦せた老人。背は低く、腰はやや曲がっているように見える。だが、その瞳だけは、底知れぬ深さを湛えていた。
「その若造共は、ここで失うには惜しい者たちじゃからのぅ。力ずくで連れ帰らせてもらうぞ」
老人の声は、穏やかだった。だが、その穏やかさの中に、絶対的な威圧が宿っていた。
「……何者だ」
苦死羅の声に、初めてわずかな感情が混じる。警戒。
「儂は宮呂鄒。ただの老いぼれじゃ」
宮呂鄒はにやりと笑った。しわだらけの顔が、まるで子どものように無邪気に歪む。
「とは言っても、儂はへなちょこなジーサンじゃからの、ちと手加減してもらえるとありがたいのお」
彼は足元の地面に、ゆっくりと手を触れた。
大地がうねった。
四角い土の塊が、音もなく浮かび上がる。次の瞬間、その塊は瞬時に細分化され、無数の土の紐となって苦死羅の身体を絡め取った。腕、足、胴、首…すべてを締め上げ、動きを封じる。土は柔らかく見えて、鉄よりも固く、逃れる隙を与えない。
苦死羅が、初めてわずかに体を震わせた。
「……!」
「ちと大人しくしておれい」
宮呂鄒は静かに言った。苦死羅の巨体は、完全に土の牢獄に閉じ込められていた。動こうとするたび、土が締まり、骨が軋む音が響く。
老人は視線を司馬章に移した。手に持っていた一本の剣を、軽く投げてやる。剣は弧を描いて飛んでいき、司馬章の足元に落ちた。
刃に大きく刻まれている。
——天地開闢——
司馬章がかつて長安の宿で拾い、東遊寺の自室に置いていた、あの剣だ。どうしてここに? 司馬章の瞳が揺れる。
「お主の剣じゃ。……儂が、ちょっと借りてきただけじゃよ」
宮呂鄒は肩をすくめて笑った。
「使ってみたらどうじゃ? どんな効果を発揮するかは、お主次第じゃが」
司馬章はおそるおそる剣を拾い上げ、握りしめた。
柄が、手に馴染む。いや、馴染むどころか、まるで自分の延長のように感じられた。刃が、微かに震えている。まるで、これから始まる何かを予感するように。
司馬章の全身に、再び炎が熾り始めた。
今度は、先ほどよりも強く、激しく。剣の刃にまで、赤い炎が這い上がる。
「……ありがとう」
司馬章は小さく呟いた。声は低いが、確かな決意が宿っていた。
宮呂鄒は、満足げに頷いた。
「礼などいらん。……さあ、始めようではないか。若者たちよ」
戦場に、風が吹き始めた。
今度は、誰もが次の瞬間を、息を潜めて待っていた。




