第54話 万智万能万象の万学者
紅蓮の火炎が渦を巻き、鋭い電撃が闇を裂く。そこに幾何学的な三角形の波紋が重なり合い、天理が放つ漆黒の衝撃波と幾度も激突した。大気は震え、閃光と轟音が戦場を支配する。三人の思超が絡み合う連撃と、それを迎え撃つ絶対的な力。熾烈な撃ち合いが繰り返され、周囲の空間はひび割れんばかりの緊張に包まれていた。
荒れ狂う衝撃の合間を縫い、黒い波を鮮やかにかわした司馬章が、一気に間合いを詰める。
「華朱牙燃!!」
叫びと共に放たれた右手の炎が渦を巻き、天理の胸へと拳と共に深く流れ込んだ。 天理は防ぐ間もなく、無言のまま後方へと殴り飛ばされる。瓦礫に背を打ちつけながら、彼は内心で疑問を抱えていた。
(先ほどの攻撃よりも更に威力を増している。復讐心をなくしたのに、何故そこまで強さを発揮出来るのだ。司馬章、お前の強さの原動力はなんなのだ……)
その問いを見透かしたように、司馬章が不敵に口角を上げる。
「強いて言うなら、“超越欲”かな」
天理の眉が動く。聞き慣れぬ言葉に、わずかに動揺が走った。
「お前はどうせ俺の強さの理由を探ろうとしてるんだろう?はっきりと答えてやる。今の俺は、燃え上がる“超越欲”に駆られてここに居る!!」
「超越……欲……」
司馬章の瞳には、かつての憎悪ではなく、遥か先を見据える純粋な熱が宿っていた。
「じぃちゃんを超えたい。だから、もっと旅がしたい。じぃちゃんの残した思想を受け継ぐだけじゃ物足りない。万物の真理をもっと追いかけていたい!!」
司馬章は炎を鞭のように細長く伸ばし、逃げ場を失った天理を捕らえて空へと高く振り上げた。
「その旅を邪魔するお前のような奴がいるなら、そいつらにも勝てるように強くなりたい!!そいつらを超えていきたい!!!」
さらに指先から火の糸を噴き出すと、それは巨大な炎の網となって、宙を舞う天理を飲み込まんと迫る。 網が直撃し、天理の身体は激しい火炎に包まれた。
「盤古は、無を切り開いて有を創った。俺は、虚無の壁を切り開いてその先に行く!!!!」
黒い煙を上げながら、天理の身体が力なく地上へと落下していく。 凄まじい衝撃と共に地に倒れた天理に、司馬章は静かに、だが確固たる足取りで歩み寄った。
「天理。お前のことは、一生許さない。だが、お前には俺が見たような絶望は返さない」
炎を纏った左手を天に掲げ、地に伏せた天理を見下ろす。
「選べ!今ここで、これまでの罪を改めるか、俺の業火で贖うか!」
静寂が流れる中、天理の肩が小さく震えた。
「絶望は返さない……だと……?私にとっての絶望を知らないお前が、随分と傲慢になったものだな」
司馬章が怪訝そうに眉をひそめる。
「私の絶望も……私の忌むべき力も知らないお前が!」
その瞬間、天理の負っていた重傷が、まるで時間を巻き戻したかのように一瞬で癒えた。彼は凄まじい衝撃波を全方位に放ち、三人をもろとも吹き飛ばしながら悠然と立ち上がる。
三人が砂塵の中で目を開けると、そこには絶句する光景が広がっていた。 天理の頭上には不気味に黒光りする光輪が浮かび、両肩には大蛇の頭、そして背中には暗黒の翼が羽ばたいている。
「なんだよ……その姿……」
「羽……?」
困惑する李光と孫操備の声を余所に、天理が冷徹に告げる。
「見よ。私の本来の姿を。お前たちが禍々しく、恐ろしいと感じる存在を体現したかのような、醜い化物の身体を」
天理は頭上の黒い光輪の中から、一冊の古びた書を取り出した。
「酒池肉林」
その言葉が引き金となり、世界が変質する。 辺り一面が赤く染まり、鼻を突くような血生臭さと、吐き気を催すほどの酒臭い空気が充満する。天理の足下からは、まるで人肉を練り固めたかのような醜悪な樹、「肉樹」が、瞬く間に二十本以上も生い茂った。
「おい……これって……」
司馬章が何かを思い出したように呟く。
「間違いない。楊国忠が使っていた思超だ」
「で、でもおかしいだろ!アイツの思超は、闇みたいな黒いものを操るのじゃなかったのかよ!」
「うん、本当に妙だ。さっきのは、ぱっと見司質式の思超かと思っていたけど、急に環境式に変わるなんて……あり得ないはず……」
異様な姿となった天理は、巨大な翼を下ろし、ゆっくりと地に降り立つ。
「驚くのも無理はない。私の思超は、最も異質な思超と言われている」
司馬章の問いに、天理は淡々と答えた。
「私の思超は……【万智万能万象】。式はない。万象を転変し、全てを意のままにする、理そのものだ」
「万象……そのもの……」
「それって、全知全能じゃねえか!」
「そんな思超……この世に存在して……良いはずがない……!!」
絶望的な現実を前に、三人の声が震える。
「私は、この世の原理は言葉にあると信じた。故に、あらゆる真理を追求するために、万学の探求に人生を注いだ。あらゆる書を読み解き、あらゆる地に足を運び、あらゆる理を身に刻んできた。思超とは、不思議なもので、ただ真理を追い求めていただけの“鯉”を、いつのまにか神に近しい力を持った“龍”にしてしまった」
天理の意思に応じ、無数の肉樹が触手のようにしなり、鋭い先端で三人を見事に突き刺した。
「どうだ?楊国忠の肉樹に比べて、どう感じる?」
三人は貫かれた痛みに苦悶の表情を浮かべ、うめき声を上げる。だが、その瞳の光はまだ潰えていない。
「「「どうってことない!!」」」
孫操備は三角形の波紋を多重に展開して肉樹の力を分散させ、李光は突き刺さった肉樹を伝わせるように青白い雷を流し込む。そして司馬章は、全身から溢れ出る炎で肉樹をじりじりと焼き尽くし始めていた。
立ち並ぶ「肉樹」が、粘りつくような音を立てて蠢く。その異様な光景と、鼻を突く血と酒の混じり合った悪臭は、まさに現世に顕現した地獄そのものだった。突き刺された傷口からじわじわと体力が奪われていく中、司馬章の奥底で何かが弾けた。
「……こんな場所で、俺の旅が終わるわけがないだろうが!」
全身の毛穴から、これまでとは比べ物にならない密度の火炎が噴き出す。それはもはや単なる「火」ではなく、彼の内に燃え盛る「超越欲」そのものだった。紅蓮の炎は津波となって押し寄せ、人肉を模した醜悪な樹々を、その根源から根こそぎ焼き払っていく。
空間を覆っていた赤黒い霧が晴れ、灰だけが舞う白の世界へと変わる。司馬章は肩で息をしながら、炎の中で立ち尽くしていた。だが、目の前の神のごとき男は、眉一つ動かさない。
「その程度の熱量で、私の理を凌駕したつもりか」
天理は冷徹な眼差しを天に向ける。その唇が、死を宣告する言霊を紡いだ。
「 覇罹火 」
黒い光輪は点滅し、空が割れた。 雲を突き抜け、天空の彼方から燃え盛る巨大な流星群が降り注ぐ。それは広範囲を無差別に破壊する、邪神の鉄槌だった。
「しまっ……! 李光、操備!」
司馬章の叫びも虚しく、大地を揺るがす轟音と共に爆炎が荒れ狂う。防壁として展開された三角形の波紋も、抗おうとした雷光も、圧倒的な質量と熱量の前には無力だった。煙が晴れた時、そこには無残に砕かれた石畳と、意識を失い瓦礫の底へと沈んだ仲間の姿があった。
「ああ……あああああッ!」
膝を突き、絶望に染まりかけた司馬章だったが、その指先はなおも土を掴んでいた。全身を焼かれ、骨が砕けるような衝撃を受けながらも、彼はかろうじて這い上がる。視界は真っ赤に染まり、意識は混濁している。それでも、彼を動かすのは純粋な、あまりに純粋な「超えたい」という渇望だった。
「……まだだ。まだ、終わらせない……!」
司馬章は残された命のすべてを、右拳の一点へと注ぎ込む。それは彼の生涯で最も熱く、最も眩い輝きを放つ、究極の炎だった。
「華朱牙燃!!!!!!!」
放たれた大炎は、巨大な火龍となって天理を飲み込まんと突き進む。迫り来る絶望的な熱波。だが、天理はそれを見つめながら、退屈そうに一息ついた。
「 阿睿朱魔 」
その名が唱えられた瞬間、世界から音が消えた。 空間そのものが歪み、光すら届かぬ巨大な暗黒の波動が顕現する。それは迫り来る火龍を無慈悲に飲み込み、司馬章の存在ごと「無」へと帰さんばかりの勢いで爆散した。
司馬章の視界は、そこで完全に途切れた。
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…ふと、意識が浮上する。 死の深淵にいたはずの彼は、頬を撫でる風の感覚に目を開けた。
「……? 俺は、死んだはずじゃ……」
よろよろと立ち上がり、彼は自分の手を見つめて絶句した。 先ほどまで骨が露出するほどの重傷を負っていたはずの腕が、今は透き通るような肌を取り戻している。内臓を灼かれた激痛も、肺を潰された苦しさも、跡形もなく消え去っていた。
体力が、完全に回復している。
「どういうことだ……? 夢でも見ていたのか?」
困惑に震えながらも、視界の先には変わらず天理が立っている。理由など後だ。今はただ、こいつを倒さなければならない。司馬章は再び闘志を燃やし、その身に炎を纏って地を蹴った。
「炎打!」
だが、結果は変わらない。 再び放たれた「阿睿朱魔」の暗黒が、彼の身体を蹂躙し、意識を闇へ叩き落とす。
そして、また目覚める。 傷一つない、完璧な状態で。
「……っ、ハァ……ハァ……! 何だ、これは……何のつもりだ!」
三度、四度と繰り返される死と再生。司馬章の精神は、終わりのない地獄に削られていく。倒れるたびに「死」の恐怖を味わい、目覚めるたびに「生」を押し付けられる。その不自然な循環の中で、彼はようやく気づいてしまった。
自分が倒れる寸前、天理がその指先を微かに動かしていることを。天理の光輪が点滅していることを。
「気づいたか。お前が死を迎えようとするその刹那、私が因果を歪め、お前の肉体を“戦闘前”へと戻していたことを…」
天理は冷ややかな声で告げた。そこには慈悲など微塵も存在しない。
「お前を復讐心で創り上げることができないのなら、“超越欲”で創り上げればよい。お前の言う『超越欲』。それは絶望の淵でこそ最も激しく燃える。私はお前を殺したいわけではない。何度も、何度も砕き、その度に修復する。そうして限界を塗り替え続け……お前を、私の手で完成された『最強の怪物』へと仕立て上げてやるのだ」
それは、神による最悪の「育成」だった。 司馬章の瞳に、初めて底知れぬ戦慄が走る。彼が求めていた「超越」は、誰かに与えられるような、歪んだ強さではなかったはずだ。
「……ふざけるな。俺を、お前の人形にするつもりか!」
「人形ではない。私を超える可能性を秘めた、被造物だろう?さあ、立て。次の敗北を用意してある」
天理の影が、地に伏した司馬章を覆い尽くす。終わりのない再生が、再び始まろうとしていた。
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その透明な器は、絶望を閉じ込めた小宇宙だった。 中には真黒な霧が渦巻き、その中心に精巧な寺の模型がひとつ、静かに鎮座している。器を囲む十数人の僧侶と、逃げ惑うなかで傷を負った数十人の老若男女は、祈るような、あるいは縋るような眼差しでその中を覗き込んでいた。
沈黙を破ったのは、一人の僧侶の悲痛な叫びだった。
「玄黒法師!!急がねば、乱晶の敵どもも異変に気付きますぞ!!」
促された玄黒は、苦渋に満ちた表情で模型を見つめる。その瞳には、未だ戦い続ける仲間たちの姿が映っていた。
「分かっていますよ…ただ、何も知らない彼らまで見捨てることは出来ない…!!」
仲間の中には、激戦の末に逃げ延び、血を流している者もいる。彼らは今、救いの手の中にいるという安堵と、いつこの平穏が壊れるかという不安の狭間で、震えながら息を潜めていた。
その時、一人の若い男が動いた。 色鮮やかな刺繍が施された遊牧民風の装束を纏った男。タムガ・エスだ。彼は吸い寄せられるように器の前まで歩み寄ると、そのまま地べたに座り込んだ。
「僕の思超なら、もしかしたら…“中の彼ら”に言葉を送ることが出来るかもしれません」
その言葉に、僧侶たちは一筋の光を見た。彼を見る眼差しには、確かな信頼が宿る。玄黒は深く頷き、タムガの背中に声をかけた。
「頼んだよ…タムガ」
タムガは懐から一枚の鏡を取り出した。それを器にかざし、念じるように強く目を瞑る。
(頼む…繋がれ…!!)
精神の糸が器の境界を超え、霧の向こう側へと伸びていく。タムガの意識は、東遊寺の各所、死地を彷徨う司馬章、孫操備、李光、鄭回、竜隋の五人がいる場所へと正確に繋がった。
「皆、タムガだ。落ち着いて聞いてくれ。我らが僧正・玄黒さんの思超は【大千世界】。黒色に包んだ世界を、無数に複製できる力がある。今君たちがいる東遊寺は、乱晶の襲撃前に玄黒さんが“複製した空間”だ。君たちが東遊寺の外へ脱出した時、こちら側の“本当の東遊寺”に行き着く仕組みになっている」
タムガの額に汗が滲む。彼は全精神を絞り出すように、空間の向こう側へ叫んだ。
「そして、“複製した東遊寺”にいる皆!!くれぐれも死ぬことなく脱出してくれ!!!!全員の脱出を確認次第、乱晶をあの空間に閉じ込める!!!!」
だが、希望が灯ったのも束の間だった。 不吉な風が巻き起こり、上空からひとつの影が猛スピードで降りてくる。その姿を捉えた瞬間、その場の全員が血の気を失った。
「お前はッ…」
空を舞うのは、一羽の鷹。 中華の思超家が最も忌み嫌い、恐怖の象徴として語り継ぐ生き物。彼らの周囲を飛ぶ鷹など、世界にただ一匹を除いて存在しない。
「王明!?!?」
着地と同時に、鷹の輪郭が歪み、人の姿へと変貌を遂げた。あらゆる鳥獣に姿を変え、その力で同胞を屠ってきた「思超家殺し」の異名を持つ男。 王明は冷徹な動きでタムガから入れ物を奪い取った。彼はそれを握りつぶさんばかりに強く掴むと、嘲笑うかのように、自らその霧の中へと吸い込まれて消えた。
「助かったのか…?」
脅威が消えたかに見え、何人かの思超家が安堵の声を漏らす。だが、タムガと玄黒の震えは止まらない。彼らは、王明が消えた入れ物を絶望の眼差しで見つめ続けていた。
「マズい…乱晶のみならず、王明までやって来たか…!!」
最悪の刺客が、閉ざされた複製世界へと放たれた。東遊寺の運命は、今や混沌の渦中にあった。




