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BEYOND SOUL  作者: 史邦ヒスト
東章 東遊寺編
53/62

第53話 真の炎

「本―の炎は―う。本―の炎と―、情―と、―望。憧れ―い――の、―り――もの、超―たい壁――に――る―情。――て、誰―から奪―た―、苦し―――りする――を望む――で―ない」


 また、あの言葉が怒れる司馬章(しばしょう)の頭の片隅に顕れた。だが、今はもうどうでもいい。頭を抱えることもなくなった。たった今、その祖父の敵を討てるかもしれないからだ。


 憤怒に全てを委ね、司馬章はなお火を出し続ける。だが、その全てが天理(てんり)にあっさりと受け止められて消えてゆく。天理の放った衝撃波は司馬章にすべて必中し、彼を昏倒させる。その繰り返しであった。


「いい加減にしろ!!司馬章!!」


 李光(りこう)の声がついに司馬章に届く。彼はようやく振り向いた。


「邪魔だ!」


 彼はそう叫ぶと、天理の生み出した巨大な闇の手に叩き落とされ、また土煙が上がった。


 金縛りの状態が続く2人は、自分たちのことなどどうでも良いかのように、彼らの戦いに目を向けていた。


「司馬章…どうして、こんなに狂っちまったんだ…」


「いや、これが正常だよ」


 孫操備(そんそうび)の言葉に李光は思わず、彼を睨む。


「天理への復讐が旅の目的だった。僕らはそれを生半可な気持ちで手を貸していたのかもしれない。今のアイツが…本当の司馬章で、僕らは今のアイツに協力すべき…なんだよ…」


「それは違う」なんて言えなかった。司馬章は天理に復讐するために力を求めていて、自分たちは確かにそれに応じていたのだから。


「でも!!今の司馬章がああだったら、昨日の思超会での発言も、今までの僕らの関係も、全部台無しになってしまうじゃないか!!!!」


「!?」


「確かに、アイツが復讐目的で旅をしているのは変わらなかった。でも!!僕らのことを…そして何より、旅をする自分自身を決して復讐の道具みたいに扱わなかった!!僕らと共にいる司馬章は希望に渇望する、そんなヤツだった!!」


 孫操備の言葉が、天理のことしか考えていなかった司馬章の脳に強烈な矢尻を飛ばした。


 これの言葉が、脳内で再度頭をよぎった瞬間——胸の奥で、何かが砕ける音がした。


「はは…はははっ」


 笑いが漏れる。

 乾いた、壊れた笑い。


「本―の炎は―う。本―の炎と―、情―と、―望。憧れ―い――の、―り――もの、超―たい壁――に――る―情。――て、誰―から奪―た―、苦し―――りする――を望む――で―ない」


 ようやく、あの言葉が何なのか、そのすべてを思い出した。記憶を封じ込めていた真っ黒な何かが、するすると解けていく。


――――――――――――――――――――――――


 あれは今から七年前、まだ十歳になったばかりの頃。司馬章は夏の夕暮れ、近所の悪童たちと喧嘩をした。


 発端は野良犬のいじめだった。悪童たちが石を投げ、棒で叩き、笑いながら追い回す。章は我慢できず飛び出して犬を庇った。


 一対四。当然、勝てるはずもなく、左顎(ひだりあご)火傷痕(やけどあと)を散々つねられ、腹を蹴られ、頭にいくつものたんこぶをこしらえて、泣きながら逃げ帰った。


 その夜、章はなかなか眠れなかった。 疼く痛みと、堪えきれない怒りが胸を焼く。布団を抜け出し、蝋燭(ろうそく)を手に母屋隣の鍛冶場へ忍び込んだ。


 司馬典は調理具鍛冶を生業としていた。鍛冶場の戸棚には、鋭い小刀がずらりと並んでいる。

 司馬章は震える手で一本を抜き取った。


(これなら……あいつらなんて……)


 心臓が早鐘のように鳴る。ワクワクと、怖さが混じった、暗い興奮。


 その瞬間、扉が軋んだ。


「あ……」


 祖父・司馬典(しばてん)が立っていた。

 険しい表情で、彼の元へズカズカと近づき、小刀を奪い取る。


「これで何をするつもりじゃ」


「そ、その……」


「なんじゃ」


「……あいつらに、めちゃくちゃにされたのが……悔しくて……」


 章は俯いて、声が震える。


 司馬典は小さく溜め息をつき、小刀を戸棚に戻した。


 それから、司馬章は四人の悪童と喧嘩したときのことを正直に話した。


「喧嘩の時、そいつらは何と言っておった」


「俺んちの肉を盗んだ犬を殴って何が悪い。あのバカ犬は俺の父ちゃんの墓にションベンかけたんだ、とか……」


「ふむ。結局、お前もそいつらも、同じような小僧じゃな」


「え……!?」


「やり返しだ。怒り任せの報復じゃろ」


 司馬章の目が見開く。


 司馬典は炉の前に座り、司馬章を手招きした。

 彼は恐る恐る近づき、祖父の隣に腰を下ろす。


「章。お前、今、心が熱くなっておるな」


「……?」


「でもそれは炎ではない。ただの憎悪じゃ。どんなに熱くなっても、昇ることなく地を這いずり回る。残るのは虚しさだけじゃ」


 司馬典は炉の残り火を指さした。

 赤く、静かに息づく炎。


「本当の炎は違う。本当の炎とは、情熱と、渇望。憧れているもの、守りたいもの、超えたい壁のために燃える感情。決して、誰かから奪ったり、苦しませたりすることを望むものではない」


 司馬章は唇を噛んだ。

 まだ疼く顎の傷が、熱を持つ。


「……でも、悔しいんだ。……俺が弱くて……」


 司馬典は章の頭に、煤だらけの大きな手を置いた。


「悔しがるのは、悪いことではない。だが、復讐を燃料にするな。燃料にするのは"強くなりたい"という渇望じゃ。"犬を守りたい"という願いじゃ。それで燃え上がれ」


 章は炉の火を見つめた。今まで怖かった炎が、少し違う色に見えた。

 熱いけど、優しい。

 壊すためじゃなく、守るための熱。


「……俺、強くなりたい。じぃちゃんみたいに、誰かを守れるくらいに」


 司馬典は珍しく、柔らかく笑った。


「なら、そのために燃やせ。憎しみのためだけに、心の炎を燃やしてはいけない」


 その言葉は、幼い章の胸に小さな炎を灯した。

 まだ揺らめくだけの、純粋な熱だった。


 それから数ヶ月後、よそから引っ越してきたという腕っぷしの強い悪童に、かつて司馬章を袋叩きにしていた四人子どもたちは完膚なきまでに叩きのめされ、酷い扱いを受けるようになってしまった。そんな中、それを許さない と、腕っぷしの強い悪童に立ち向かい、四人の子どもたち以上に怪我をしながら根勝ちした少年がいた。自らを傷つけた四人を守った少年がいた。


――――――――――――――――――――――――


「本当の炎は違う。本当の炎とは、情熱と、渇望。憧れているもの、守りたいもの、超えたい壁のために燃える感情。決して、誰かから奪ったり、苦しませたりすることを望むものではない」


 一度、その言葉を口ずさむ。祖父は、「敵を討て」とも、「儂のために復讐を成し遂げろ」とも言い残さなかった。いや、あの世からこちらへ言葉を送れたとしても、そんなことは言わないだろう。


 司馬章は顔を上げ、天理の方向を睨む。

 でも、その瞳にあるのはもう、純粋な憎しみじゃない。

 そこにあるのは、後悔。

 そして、天理に怒りを抱く前の"本当の自分"が抱いていた渇望。


「李光……操備」


 二人の名前を呼ぶ。

 声は小さくて、風にかき消されそうだ。


「俺は……本当は意志が弱いから、すぐに流されてしまう」


 司馬章は髪を留める冠をゆっくりと外して捨てた。黒髪が乱れて、顔にかかる。まるで、復讐の仮面を剥ぎ取るように。


「だから…今度の選択も、正しくないのかもしれない」


 彼は拳を握りしめる。

 爪が掌に食い込んで、血が滴る。


「だけど!!俺はもう、復讐の道は絶対に歩まない!!」


 心の奥底で、別の声が囁く。


(天理を焼き尽くしたくはないのか?)


 司馬章は目を閉じる。

 一瞬だけ。

 そして、開いた瞳は、迷いを捨てたように、熱く燃えていた。


「俺はッ!!世界一の仙人…"智の盤古(ち ばんこ)"になるために旅をする!!!!」


 司馬章の叫びは、その場にいた天理と孫操備、李光のみならず、東遊寺(とうゆうじ)全体に響いた。


 公孫雨(こうそんう)に苦戦を敷いられていた竜隋(りゅうずい)鄭回(ていかい)は、彼の叫びに燃え、自信と力を取り戻す。


 その声の大きさが天理の心を揺さぶったのか、突然二人の金縛りも解かれた。


「「司馬章…!」」


 司馬章は二人の顔を見ると、笑顔で言った。


「ごめんな。旅の目的は変わってしまった」


「気にすんじゃねぇよ。変に憎しみを残したまま一緒にいるのも居心地が悪い。てめぇの好きにしやがれってんだ」


「司馬章…!僕らは仲間だ。友だ!どこまでもついていく!!」


 天理は、少し不服そうな顔をした。

 飛ばすつもりだった闇の球体を、ゆっくりと消す。


「そんなものなのか。結局お前は、過去の因縁を忘れ、今の偽りの仲間とともに生きてゆくのか」


 司馬章は天理を真っ直ぐ見据え、静かに、だがはっきりと言った。


「勘違いすんじゃねぇよ、天理。俺はお前を許さねぇし、お前が俺の夢を阻止するなら、俺も全力でお前を倒すまでだ。でも……それはもう、憎しみじゃねぇ。俺が"仙人"になるための、ただの壁だ」


 天理の表情が、初めて歪んだ。嘲笑か、驚きか、それとも、わずかな動揺か。


「……面白い。ならば、試してみるがいい。お前のその『渇望』が、本当に炎として燃え続けるのか。それとも、また黒く染まって、私への怒りに飲み込まれるのか」


 言葉の最後が消えると同時に、東遊寺の空気が変わった。


 司馬章は一歩前に出た。捨てた冠の代わりに、乱れた黒髪が風もないのに揺れる。


 胸の奥で、かつての黒い炎が疼く。でも、今は違う。それは抑えつけられ、別の色を帯び始めていた。


「来いよ、天理」


 静かな声。だが、その一言で、周囲の空気が震えた。


 李光が隣に並ぶ。拳を握りしめ、歯を食いしばりながら、いつもの軽口は封印されている。ただ、目だけが燃えている。


「てめぇがどれだけ昔の因縁を掘り返そうが、俺はもうお前を信じてる。だから……ここで終わらせてやる」


 孫操備は少し後ろに下がり、両手を軽く広げて構える。普段の穏やかな表情は消え、代わりに静かな決意が宿る。


「天理、お前が何故司馬章に復讐させたがってるのかは分からないが、僕たちは、"お前の思うような"復讐の道具じゃない。司馬章の夢を、僕らの夢を、ただ守るためにここにいる」


 三人の間に、無言の絆が一本の線のように張り詰めた。

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