第52話 獄炎の憎悪
司馬章、孫操備、李光が天理と相対した時、他の乱晶の面々は既に東遊寺の思超家との戦いを始めていた。
東遊寺北西側・玄武堂
無機質な髑髏を首にぶら下げた小柄な男が、矛を持った大柄な男と睨み合っている。ここでは乱晶の左五席・楚器が、東遊寺の思超家・猪解と衝突していた。
「“岩喰いの猪解”か」
「如何にもってなあ……アンタは確か、“釘刺しの楚器”」
「御名答」
楚器が不敵に口角を上げると、指の間に挟んだ八本の釘が、冷たく光った。対する猪解は、大振りの矛を構え、低く重い沈黙で応じる。
「ハアッ!!」
気合とともに、楚器の手から八本の釘が放たれた。猪解は即座に矛を旋回させ、飛来する釘を叩き落とす。だが、 弾き落とされたはずの釘は、地面に落ちる前に真っ赤に融解した。それは意志を持つ生き物のように猪解の足元から這い上がり、爆発的な速度で膨張。抗う暇もなく、彼の首から下を分厚い鉄の塊へと変え、封じ込めた。
「参ったな。俺の思超は、ただの“万金典”のはずなのだが。東遊寺も、この程度の芸に敗れるほど堕ちたのか?」
中華を代表する学問・道教の根幹をなす「五行説」。万物の祖を火水木金土とする思想。多くの思超家はこの五行説から思超を生み出した。 火を祖とする「世炎論」、水を祖とする「総水伝」、万物の祖を木とする「木道」、万物の祖を土とする「土界論」、そして楚器が操る、金属を祖とする「万金典」。個人により思超の細かい差異はあるものの、多くの思超家が使用する一般的な思超とも言われている。これらはあまりに一般的であるがゆえに対策も容易であり、本来、東遊寺の精鋭が不覚を取るはずのない代物であった。
(…いや、違う。この鉄の硬度、そして変質の精度……! こいつ、並の万金典使いとは格が違いすぎる…!)
必死に鉄を砕こうと抗う猪解の額に、じわりと冷や汗が滲む。絶望的な拘束の中で、彼が見たのは…
「さて。豚を捌くには、どの包丁がいいと思う……?」
楚器の背後に、十本の刃が浮遊する。 長短、曲直。獲物を切り刻むための曲刀から、彼を嘲笑うかのように鈍く光る「肉切り包丁」まで。
死神のような笑みを浮かべた楚器が、一歩、また一歩と、動けぬ獲物へ歩み寄った。
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東遊寺南東・朱雀塔
「……チッ、湿気てやがる。酒が不味くなるぜ」
ぶっきらぼうに吐き捨て、首の骨を鳴らしたのは東遊寺の荒くれ者、沙悟潮だ。
着崩した紺碧の法衣からは、潮風に晒されたような肌と、岩のように硬い胸筋が覗いている。逆立った濡れ羽色の短髪を乱暴に掻き上げ、彼は眼前の男を睨みつけた。
対するは、乱晶右四席・姜疫。
骨が浮き出るほど痩せこけた体躯を、毒々しい紫のボロ布で包み、その隙間からは無数の錆びた長針が覗いている。影のようにゆらゆらと揺れるその姿は、生きながらにして腐り落ちた死人のようだ。
「私の毒で、内側から苦しみ朽ち果てろ……!! 沙悟潮!!」
姜疫が不気味な引き笑いと共に、袖から黒ずんだ長針を振り抜く。刹那、針の先から墨汁のような毒の粒が、雨あられと吹き出した。だが、沙悟潮は一歩も引かない。
「死ぬのはテメェだよ」
沙悟潮が重い足取りで地面を蹴ると、大気が一瞬で乾燥し、周囲の水分が爆発的に奪われた。彼の背後から、真っ白な塩の結晶が猛烈な渦を巻いて競り上がる。
漆黒の毒粒は、その浄化の塩嵐に飲み込まれ、雪の中に落ちた墨のように色を失い、次々と地面へ叩き落とされた。
「毒だろうが病だろうが、塩で清めりゃお終いだ。―さあ、消毒の時間だぜェ!!」
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東遊寺北東・青龍塔
水面を滑るような静寂。乱晶・左三席の二刀剣士、徐刀が踏み込む。
流れるような薄紫色の髪をなびかせ、白磁の仮面のように整った美貌に冷徹な殺意を宿す。その身を包むのは、風の抵抗を極限まで削ぎ落とした漆黒の軽装束だ。
対するは、呼吸さえも自然に溶け込ませた闘士、子兎魯。
その体躯は、節くれ立ち、数多の死線を潜り抜けた傷痕が刻まれている。
空気を切り裂く微かな風切り音。一撃目は喉笛、二撃目は心臓、三撃目は翻った剣先が子兎魯の側頭部を狙う。しかし、子兎魯は、わずかに半身を引くだけですべてを空振らせる。焦燥を殺し、徐刀の剣速がさらに一段階上がった。蒼髪が激しく舞い、二振りの剣は銀の円環と化して子兎魯を包囲する。一秒間に十数回。刃の嵐。
だが、子兎魯の足運びは円を描き、まるで水面に浮く木の葉のように、剣の旋風が生み出す「風圧の隙間」をすり抜けていく。
切っ先が彼の服を切り裂くが、その下の肌には傷一つ付けられない。剣戟の音すら響かない異常な空間。徐刀の額に一筋の汗が流れる。
その瞬間、子兎魯の呼吸が止まった。回避の動きが一点、攻撃の予備動作へと反転する。流れるような円の動きから、最短距離を突き抜ける直線の一拳。徐刀は反射的に二本の剣を交差させ、胸の前で防壁を築いた。
「……無駄だ。貴様の速度では、私を捉えることはできない」
徐刀の放つ二振りの細剣が、視認不可能な速度で子兎魯の頸動脈を捉える。だが、子兎魯は動かない。いや、刃が肌に触れる寸前、ひらりと木の葉が舞うような微細な動きで、すべての斬撃を紙一重で躱していた。
(……この男、嗅覚、聴覚、肌で感じる振動……五感のすべてが、飢えた獣の如く研ぎ澄まされているというのか!?)
徐刀の背筋に戦慄が走る。「無為自然」を体現し、完全に気配を消した子兎魯の構えは、もはや攻防の境界すら消し去っていた。
「……お前の剣には、迷いがある。風の音が乱れたぞ」
静かに語る子兎魯の、岩のように硬く握り込まれた拳が、徐刀の懐へ吸い込まれるように放たれた。
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東遊寺南西・白虎塔
南からの脱出を目指し、白虎塔の重厚な影を縫うように駆けていた竜隋と鄭回の二人は、突如として横合いから放たれた数本の矢に阻まれ、足を止めた。鋭利な矢尻が石畳をえぐる。
「無念の死……とまではいかないようだな」
静かな、そして冷ややかな声が響いた。二人が左を向けば、そこには透き通るような白い肌に、八の字の髭を蓄えた冷徹な弓使いが悠然と立ちはだかっていた。彼の足元には、すでに血塗れとなって力なく折り重なる男たちが六人。その鮮血は石畳の目地を伝い、不気味な模様を描いている。
「……嘘……だろ……」
竜隋は思わず、血の気が引いた顔で目元を覆った。倒れた男たちの一人、泥に汚れながらも輝きを失わない鮮やかな緑の長髪は、見間違えるはずがない。紛れもなく、弟の竜宋であった。
「竜宋……!」
他の男たちにも見覚えがあった。彼らの服に刻まれた荘厳な龍の紋章、そして地に転がる龍の意匠を施した剣や槍。彼らは皆、竜家の一族だ。弓使いは、その一族の精鋭たちをたった一人で圧倒してみせたのだ。
「これ全部……お前がやったのか……?」
鄭回が、怒りに震える声を絞り出す。
「あぁ。だが、まだ誰も殺してはいない。これから刻む”悲劇”を完成させるには、もう一人必要だからだ」
男は淡々と返すと、瞬きの合間に矢を番え、竜隋の頬をかすめるように射抜いた。わずかに裂けた肌から、一筋の血が滴る。
「お前も竜家の者だろう……?」
その神業とも言える射撃の速さに、鄭回は本能的な恐怖で身震いしたが、竜隋は微動だにしない。瞳に暗い焔を宿し、男を射貫くように睨みつけたまま、重々しく口を開いた。
「何者だ」
「私か? 私は公孫雨。乱晶右三席・悲哀の公孫雨だ」
男が告げると同時に、空が急激に色を変えた。彼の前髪からは、どこからともなく染み出した雫が滴り落ちる。
「これから始めるのは”惨劇”。竜家の哀しき最期を、美しく飾り立てようではないか」
彼の背後の空間に、湿り気を帯びた黒い雨雲が不気味な円陣を形成していく。その渦中から、透き通った雨水の弓矢がゆっくりと姿を現し、彼の指先へと吸い込まれた。公孫雨は冷ややかな笑みを浮かべ、その水矢を竜隋の心臓へと向ける。
「行くぞ、鄭回」
「あぁ」
竜隋は愛槍を固く握り直し、鄭回は自らの血を凝固させて紅い剣を生成する。白虎塔の麓に、嵐を呼ぶ殺気が満ち満ちていった。
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そして、東遊寺北・名もなき道の上
金縛りに遭い、指一本動かせぬ司馬章。その目前に、死神のような静寂を纏った天理が立ち塞がった。天理は無機質な瞳で司馬章を見下ろすと、慈悲を与えるかのように、ゆっくりとその頭部へ手を伸ばす。
「半年ぶりだな」
再会の言葉が落ちるのと同時、天理の掌から漆黒の衝撃波が爆ぜた。負の感情を煮詰めたような真っ黒な空気の波動が、司馬章の体を容赦なく飲み込み、後方の瓦礫へと叩き飛ばす。
凄まじい衝撃音と共に土煙が舞い上がる。だが、その視界の先で、天理は微かに眉を動かした。そこにいたのは、かつて洛陽の地でなす術なく地に伏した司馬章ではなかった。叩きつけられた直後だというのに、彼は力強く地面を蹴り、立ち上がっていたのだ。揺るがぬ意志を宿した瞳で、じっと天理を見据えて。
(……常人ならば即死。並の思超家であっても再起不能。今の攻撃をこうも容易く耐えてみせるとは。魏匠を討ち、楊国忠の最期の足掻きを粉砕したというのは……どうやら、見間違いではなかったようだな)
司馬章は一歩、また一歩と、地を踏みしめる度に重圧を撥ね退け、天理の目の前まで歩み寄る。その右拳には、周囲の酸素を食いつぶすほどの烈火が渦巻いていた。
「華朱牙燃!!」
咆哮と共に放たれた一撃は、先ほどの天理の波動を遥かに凌駕する熱量と質量を伴っていた。紅蓮の炎が天理の体を引き裂くように直撃し、その細身の体躯を遥か遠方の壁際まで一気に吹き飛ばした。
「……ッ!?」
(手応えが…ない…)
その場に居合わせた者たちは、息を呑み戦慄した。司馬章の切り札とはいえ、あの底知れぬ天理を、文字通り「力」で圧倒し、壁まで押し流したのだ。
「天理……今の俺は、まだお前には敵わねぇ。それは分かってる。だが、お前の手からは……絶対に、逃げ延びてやるッ!!」
司馬章の叫びが一面に響き渡る。 一方、吹き飛ばされた先で静かに立ち上がった天理は、服の煤を払うことさえせず、静かに口を開いた。
「お前の華朱牙燃……想像以上に穏やかだったな。まるで、祖父のことなど綺麗さっぱり忘れてしまったかのように」
その言葉に、司馬章の表情が険しく歪む。
「……何が言いたい」
「魏匠が死ぬ間際、お前に甘い戯言を吹き込んだのは知っている。それはお前の純粋な怒りを鈍らせ、復讐を妨げる……反吐が出るほどに呆れた感情だ」
「黙れ…!!」
「『たとえ相手がどんな極悪人だろうが、復讐しちまったら、ソイツはそれ以上の悪魔になる』か。結局ヤツは中途半端な偽善を抱えたまま、私たちと同じ道を歩むのを、心の奥では拒んでいた…虚しい限りの男だった」
「魏匠はお前らの味方だろうが!!!」
「違う。塵にも満たない愚かな人間だ」
天理は闇の手足を伸ばして再び司馬章の動きを止める。
「復讐を止めるな。偽善に酔いしれるな。怒れ。憤れ。強くなれ。お前の全てを奪った私から全てを奪うために戦え。今のお前は、友を作り、孤独を紛らわせ、私を倒す建前で戦いと旅に享楽的に明け暮れる愚かな青二才に過ぎない」
「…!」
「炎とは、怒りの寓意である。お前の華朱牙燃は確かに強かったが、私を倒すに至らなかった。お前の意志が、思超と反しているからではないのか?」
天理は孫操備と李光にかけた金縛りを強める。二人は苦しみの声をあげて目を閉じた。
「私の経験で得た知識を一つ与えよう。思超は、人の意志に反したとき、その効力を弱め、やがて失われる」
司馬章は左手で胸をぐっと掴んだ。確かかは分からないが、天理へ華朱牙燃を放ったときの手応えのなさ、そして、洛陽から長安へ向かう道中、祖父の思超書を書き写しただけで思超をあっさりと覚えてしまったことがその証明になっていた。抑えきれない天理への憎しみ。祖父を失った世界は、今にも消えかけようとする火の粉のようで、油を注ぎ続けなければならない。そんな複雑な感情の中にいたからこそ、火炎を起こす憎悪が内在しており、点火が容易だったのだ。
旅の中で、別の憧れや正義のために動くようなことが増えてしまっていた。天理を倒すため、なんて建前で。祖父のいう仙人やら、魏匠の望む人間像やら、楊貴妃に誓った「すべてを超越する賢者」やらと、御託を浮かべていたのかも知れない。
そうだ。俺は、この男を殺すために、燃え盛る故郷を捨てて旅に出たのだ。たった一人の家族だった祖父を奪ったこの男から、全てを奪うために。
この世は火炎で、俺もまた火炎。熱意のままに動くから正しいのだ。衝動のままに果たすから幸せなのだ。焼かれたまま、灰になって死に果てるのは耐えられない。焼き返せ。燃やし返せ。今を蝕む虫どもを、余すこと無く炭にしろ。そうでなければ、この闇を永遠に背負ったまま、悔やみながら生きていくだろう。
天理を焼く。天理を燃やす。天理を斃す。天理を殺す。地獄の業火に送る前に、この世の業火で焼き尽くす。右手を燃やせ。左手を熾せ。立ち上がり、今すぐ奴の首を掴み、憤怒の限りを尽くせ。
司馬章は何かが吹っ切れた。いや、何かが帰還したような気がした。解放。爽快。自由。天翔。とても心地よい。
四方八方に火炎を撒き散らし、天理が動きを止めた隙を衝き、石が歪むような大炎を引き起こして天理を殴り飛ばす。
天理は即座に回復し、彼の背後に回る。
「そうだ。ようやく有るべき意志に舞い戻ったか、司馬章」
天理は闇の鉄槌で彼を地に叩きつけると、空中へ引き上げ、闇の球体を連続してぶつける。
「そうだ。それでいい。お前は私に仇なす価値がある」
孫操備と李光は、司馬章の表情を見て不安を覚えた。天理への復讐。その目的に彼らは賛同して旅に同行したが、今の司馬章の姿は、望ましいとは言えなかった。天理に攻撃されては噛みついて、反撃されてはまた噛みつく。
「もうやめろ司馬章!!死んでしまうぞ!!」
孫操備が叫ぶ。だが、その声は届かない。
「そうだ司馬章!無謀すぎる!!」
李光の声も届かない。司馬章の目には、天理しか見えていなかった。




