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BEYOND SOUL  作者: 史邦ヒスト
東章 東遊寺編
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第51話 激動の二日目

 その夜、韓美詠(かんびえい)が深い眠りについたことを確認した玄黒(げんこく)は、東遊寺(とうゆうじ)の本堂沿いにある、外界から切り離されたかのような小さな部屋にいた。そこでは、燈台の火が壁に映し出す影さえもが、何らかの意志を持っているかのように揺らめいていた。


 タムガは玄黒の前に片膝をつき、低く、だが水晶のように硬い視線を向けていた。


「玄黒さん。明日の思超会(しちょうかい)……議題を、変更してくれないか」


 玄黒は、タムガが持ち帰った“鏡”の報告書に目を落としていた。そこには、乱晶(らんしょう)によって蹂躙された古都の無惨な情景と、(ことわり)を失った人々の絶望が刻まれていた。玄黒は少しだけ瞳の奥に鋭い光を宿したが、手元の筆を止めることはなく、淡々と応じた。


「予定されていた議題は、今後の遊闘士(ゆうとうし)対応についてだったはずだが……理由を聞こう」


司馬章(しばしょう)ら五名の件だ」


 タムガの声に、隠しきれない焦燥が混じる。


「彼らを巡る動きが、今、乱晶に利用されつつある。現行の議題のままでは、彼らは単なる“偶発的な火種”として処理される。つまり、臭いものに蓋をする形で、彼らを組織の隅へと追いやる決定が下されるだろう。だが……それでは、思超会が真実から目を逸らし、“思考”そのものを放棄したことになる」


 玄黒の筆が、ぴたりと止まった。墨が一滴、白紙の上に黒い深淵を作った。


「突き出すか否か…そう明確に問い直し、彼らの運命を天秤にかけろと言うのか?」


「あぁ。逃げ道を塞ぎ、出席者全員が己の判断で是非を選ばねばならぬ形にしたい。たとえそれが、残酷な結論を導き出すとしてもだ」


 しばし、重苦しい沈黙が部屋を満たした。蝋燭(ろうそく)の芯が小さく爆ぜる音が、まるで誰かの心臓の鼓動のように響く。玄黒はゆっくりと顔を上げ、タムガを凝視した。その眼差しには、友を試すような冷たさと、同時に、一歩踏み出した若者への安堵にも似た色が同居していた。


「……覚悟はあるんだね、タムガ。この提案は、君自身をも窮地に追い込む。彼らを救おうとする意志が、逆に彼らを死地へ追いやる結果になるかもしれない」


「あぁ。否を唱える覚悟も、孤立する覚悟も、とうにできている」


「良いだろう。議題は変更する」


 玄黒は筆を置き、窓の外の闇を見つめた。


「だがね、タムガ。これは私の温情ではない。思超会という場所が、自らの理をどこまで貫けるのか……その極限を試される場になる」





 翌朝。東遊寺を包む空気は、刺すような冷気を孕んでいた。


「聞いたか? 今日の議題が変わるらしいぞ」


「例の五人の処遇だってな。いよいよ、乱晶への対応が決まるんだ」


 囁きは廊下の隙間から漏れ、庭園の枯山水を渡り、井戸端から古びた書庫へと、まるで疫病のように広がっていった。言葉は目に見えない形を持ち、しかし確かな重みとなって、思超家たちの胸に沈殿していく。


 そんな中、当事者である司馬章(しばしょう)孫操備(そんそうび)李光(りこう)鄭回(ていかい)竜隋(りゅうずい)の五人が連れ立って通路を歩くと、周囲の空気が一瞬で凍りついた。


 誰かが見ている。いや、誰もが見ている。

 その視線は、分かりやすい敵意でも、単純な好奇心でもなかった。それは、まだ結論を出していない天秤の眼だった。彼らが東遊寺に利益をもたらす存在なのか、それとも寺を滅ぼす災厄なのか。その価値を測り、不要とあれば切り捨てようとする、静かなる選別。


「……やけに注目されてるな。まるで処刑場へ向かう罪人だ」


 司馬章が自嘲気味に呟く。


「いつものことだろう。俺たちみたいな馬鹿な新参者は必然的に注目の的だ」


 鄭回は平然と返したが、その背中に集まる無数の視線の重圧を、感じていないはずがなかった。孫操備は黙したまま、開いていた思超書を固く閉じ、竜隋は険しい表情で周囲を見渡す。李光だけが、この異常な状況を楽しむかのように、薄く口角を上げていた。


「面白くなってきたじゃないか。こういうピリつきが、案外いい方向に向かったりするもんだろ」


 その軽口が、かえって場の緊張を研ぎ澄ませた。彼らの歩みは、そのまま地下に設けられた巨大な議場へと続いていた。


 やがて夕刻。胸に響くような重厚な鐘の音が三度鳴り響き、思超会・第二夜が幕を開けた。

 それと同時に、玄黒は密かに配置していた二十人の僧に指示を出した。寺の敷地内、風水的にも重要な意味を持つ五十箇所の要所。そこに積み上げられた特殊な木炭に、僧たちが一斉に松明をかざす。


 炎が炭に触れた瞬間、それは燃えるというよりは喘ぐような音を立て、濃厚で重い黒煙を吐き出した。煙は意思を持つ生き物のように地面を這い、石畳を舐め、四隅の塔を越えて天へと昇る。それらは空中で渦を巻き、やがて寺の中心上空へと集束していった。


 それは巨大な、そして不吉な“黒い蓋”となった。瓦も、梁も、逃げ惑う虫の影さえも呑み込み、東遊寺全体を外界から隔絶された、底知れぬ闇の胎内へと閉じ込めたのである。


「……頼むから、この煙が単なる“杞憂”として終わることを願うよ」


 玄黒は額の冷汗を拭い、隣に立つ老人の肩を叩くと、意を決して地下議場への階段を下りた。


司馬典(しばてん)が死んだ…なんて知らせが知った今、もうワシの終わりも近いのかもしれんのぉ…」


 老人はなんとも言えない表情を浮かべ、玄黒の後を追った。






 議場は、熱気と寒気が入り混じる異様な空間だった。何重もの長い机と座席を埋め尽くす数百人の思超家たち。その中央に、タムガが静かに、しかし確固たる足取りで歩み出た。


「本日の議題は、昨夜の決定を覆し、急遽変更された。諸君もご存知かと思われるが…先月、反乱軍の元であろうことか思超を用いて長安を陥落させた乱晶は、我々に“以下の五人の引き渡し”を要求した。応じなければ、東遊寺を滅ぼす…とも」


 タムガの声は、議場の壁に反響し、全員の鼓膜を震わせた。


「新たな議題は一つ。…司馬章、孫操備、李光、鄭回、竜隋。この五名を、乱晶へ突き出し、和解の条件とするか否か…だ」


 爆弾を投げ込まれたような衝撃が場を揺らした。どよめきが波のように広がり、怒号と困惑の声が入り混じる。分かってはいたが、多くの感情が一人一人の間に入り乱れる。肝心の五人も同様であった。


(まさか…とは思っていたけどな。やっぱりここの議論で決められるのか…俺たちの運命は…!)


 司馬章は通路を挟んだ反対側の席の者たちの顔を見た。こちらに視線を移す者、睨みつける者、不安と混乱の表情でタムガを見る者…引き渡しに反対しようとする者はいるとは思えなかった。


「まず、俺の意見を述べよう」


 タムガは右手を挙げ、場を制した。


「俺は、この議題に断固として反対だ。理由は三つある。第一に、彼らの行動は思超家としての正当な探求の結果であり、東遊寺全体で守るべき財産であること。第二に、敵である乱晶の要求に一度でも屈すれば、彼らは増長し、次なる犠牲を際限なく求めてくるだろう。そして第三に……」


 タムガは一度言葉を切り、議場を見渡した。


「恐怖は思考を殺す。もし、我々が“乱晶が怖いから”という理由で彼らを売るなら、この東遊寺は“正義の思超家ごっこ”をやめるべきだ」


 沈黙が訪れた。しかし、それは納得の沈黙ではなく、嵐の前の静けさだった。


「甘いな、タムガ」


 その静寂を破ったのは、意外にも長安(ちょうあん)で司馬章らと共闘したことがある子兎魯(しうろ)だった。彼はゆっくりと立ち上がり、重い足取りで中央へと進み出た。


「お前の言う“誇り”や“思考”で、乱晶から寺を守れるのか? 俺はあいつらの戦い方を知っている。奴らは理屈で動かない。不条理な暴力、ただそれだけで全てを塗り潰す」


 子兎魯の声は、実体験に基づいた重みを持っていた。


「乱晶の構成員の中には、我々の実力を持ってして討てる者もいるだろう。だがな、それを補って余りある…山を砕き、海を割るような化け物が鎮座しているのも事実。これはくだらん比喩ではない。東遊寺が積み上げてきた正しき思超の秩序が、一瞬の拳圧で無に帰す、そんな“現実”が目の前に迫っているんだ」


 議場のあちこちから、賛同の囁きが漏れ始めた。


「あるがままの現実に流れるのも、また必要な決定ではないのか?」


「五人の命と、東遊寺に属する数百人の命。どちらが重いかは明白だ」


 そこへ、温和な風貌で知られる平隆万(へいりゅうまん)が口を開いた。


「タムガ君。我々は逃げているわけではない。最悪の事態…つまり東遊寺の崩壊を避けるための、戦略的撤退を提案しているのだ。彼ら五人を差し出すことで時間を稼ぎ、その間に我々はさらなる力を得て、反撃の糧とすれば良い」


 この「時間を稼ぐ」という言葉が、多くの者の心を動かした。良心の呵責を和らげる、都合の良い逃げ道。


「そうだ! 戦うだけが思考ではない!」


「五人には気の毒だが、大義のために……」


 議論は一気に“引き渡し賛成”へと傾こうとしていた。司馬章たちは拳を握りしめ、自らの運命が自分たちの預かり知らぬ場所で決まっていく無力感に耐えていた。


 その時だった。


「……それは、思考ではなく、“計算”ですらない。ただの、自己欺瞞です」


 凛とした、しかしどこか震える声が議場を貫いた。

 視線が集中する。壇の端で立ち上がっていたのは、韓美詠(かんびえい)だった。

 彼女の参加を知る者たちは、一様に驚愕の表情を浮かべた。まだ幼さの残る少女。議論を盗み聞きすることしかできなかったはずの彼女が、この最高意思決定の場で声を上げたのだ。


「……美詠(びえい)か」


 玄黒が呟く。

 美詠は一歩、また一歩と前へ出た。その細い肩は震えていたが、瞳だけはかつてないほどに澄んでいた。


「子兎魯さんのお話は、とても恐ろしい現実です。乱晶が強いということも、分かっています。でも……だからこそ、今ここで“決め方”を間違えてはいけないんです」


 彼女は議場全体を見渡すように顔を上げた。


「力の差があるから、要求を飲む。それは、(ことわり)を追求する者の姿でしょうか? もし今日、司馬章くんたちを差し出したとして、一ヶ月後に乱晶が『次は孫遊(そんゆう)を、次は荀憲(じゅんけん)を差し出せ』と言ってきたら、皆さんはまた同じように『犠牲を最小限に』と言うのですか?」


「それは……極端な仮定だ!」


 誰かが叫んだ。


「いえ、必然です!」


 美詠の声が一段と高くなる。


「“危険そうだから”という曖昧な基準で仲間を切り捨て始めた瞬間、私たちの価値基準は崩壊します。私たちは、自分たちが理解できないもの、制御できないものを“危険”と呼び、排除するだけの集団に成り下がる。それは、思超家が最も忌むべき“無知への服従”ではありませんか!」


 美詠は掌を大きく広げた。


思超(しちょう)とは、危うい崖の上を歩くような行為です。だからこそ、その足元を支えるのは、損得勘定ではない、揺るぎない理の連帯であるはずです。それを自ら断ち切るなら、東遊寺に流れる時間は、今日この瞬間をもって止まってしまう!」


「…美詠」


「乱晶と戦うのが無謀だと言うなら、戦わずに済む方法を、命を売ること以外で考えるのが私たちの仕事です。乱晶から離れた場所で新たな秩序を作るのか……それすら考えず、ただ“差し出す”なんて安易な答えに飛びつくのは……この場にいる全員が、考えることを止めた証拠です!」


 議場に、完全な静寂が訪れた。現実を偽った幻想を見る思超家たちが、一人の少女の言葉に、己の醜悪な保身を突きつけられ、言葉を失っていた。

 美詠はそのまま席に戻り、誰にも見えないように膝の上で拳を握りしめた。


(はぁぁぁぁああ……!! めっちゃ緊張したぁぁぁぁ……! 心臓止まるかと思ったぁぁ……! ボク、変なこと言ってないよね!? 嫌われてないよね!?)


 背中を流れる冷や汗。足の震えが止まらない。だが、彼女が刻んだその言葉は、凍りついた議論の底に、熱い火種を投げ込んだのだ。


「……フッ。玄黒さんの娘とはいえ、青二才の新入りにここまで言われては、面目丸潰れだな」


 子兎魯が苦笑交じりに呟いた。しかし、それでもなお、会場の空気は割れていた。


「理想は分かる。だが、全滅しては元も子もない!」


「美詠の言う通りだ! 魂を売って生き延びて何になる!」


 賛成と反対が激しく火花を散らし、議論は膠着状態に陥った。玄黒が重い腰を上げ、決選投票の準備をしようとした、まさにその時。




 ゴゴゴゴ……ガラガラガラガラ!!




 突如として、大地が悲鳴を上げた。議場の堅牢な石造りの天井全体が、まるで見えない巨大な手に握りつぶされたかのように崩落を始めた。


「危ないッ!!」


 孫遊(そんゆう)が叫び、弾かれたように飛び出した。彼は背中に背負っていた太い金属棒を引き抜き、玄黒の頭上へと突き上げる。


 ドォォォォォン!!


 落下してきた巨石が、孫遊の一撃によって粉々に粉砕され、火花と粉塵が舞い上がった。孫遊の全身の筋肉がはち切れんばかりに膨らみ、足元の床が沈み込む。


「……何事だ! 」


 タムガが叫ぶ。天井に開いた巨大な穴から、月光と共に、漆黒の影が次々と降り注いだ。


 合計九人。

 彼らは着地と同時に、周囲の思超家(しちょうか)たちを圧倒する、禍々しい殺気を放った。


「乱晶……!」


 誰かが絶望的な声を上げる。


 九人の中心に立つのは、長身で闇夜色の髪、闇夜色の衣服を纏った男…天上王真(てんじょうおうしん)理公子(りこうし)天理(てんり))。彼は崩れた瓦礫の上に悠然と立ち、埃を払うような仕草で口を開いた。


「話し合いをいつまでに済ませておくべきか、期日を伝えていなかったようだが…」


 天理の声は、優しくさえ聞こえた。しかし、その背後に潜む暴力の気配は、議場の誰よりも濃密だった。


「あまりにも議論が長い。いつまでも答えが出ないようだから、私たちの方で『戦いの意思あり』と判断させてもらった。異論はないだろう…」


「ふざけるな! まだ議論の最中だ!」


 タムガが吠える。


「効率だ、タムガ君よぉ」


 天理の傍らで、呂辛(りょしん)が冷笑を浮かべる。


「お前たちがグズグズと条件をこねくり回している間に、こちらの忍耐は尽きた。感謝してほしいくらいだ。これでテメェらは、もう悩まなくて済むのだからな」


 呂辛が指を鳴らすと、乱晶の残りの面子が一斉に武器を構えた。

 妖しく光る曲刀、真っ青な弓、そして、何か思超(しちょう)の術を繰り出すような手の形。


 玄黒が静かに立ち上がり、真黒な衣を翻した。


「……つまり、言葉を尽くす段階は終わった、ということだね」


「察しが良い。時間切れだ」


 天理の目が、司馬章を捉えた。


「みんな! “こっちの”東遊寺なら好きに暴れていい! 戦いに不慣れな者は脱出、腕に覚えのある者は乱晶を討ってくれ!!」


 玄黒の声が地下議場に響き渡った。そして、彼は信じられない行動に出た。

 玄黒の身体がぶくぶくと異常に膨張し、皮膚が炭のように真っ黒に変色したかと思うと、次の瞬間、凄まじい衝撃波と共に爆散したのである。


「え……!? 玄黒さん……!?」


 司馬章たちが呆然とする中、彼がいた場所には黒い霧のような残滓だけが漂っていた。しかし、美詠やタムガ、子兎魯たちは、その意図を瞬時に察した。


「行け! 司馬章! ここは俺たちが食い止める!」


 子兎魯が叫び、乱晶の一人・徐刀(じょとう)へと殴りかかる。


「おお、コイツが司馬章か!」


 呂辛が司馬章を見つけ、右手に巨大な火球を生成した。火球が司馬章の顔面に迫る。

 だが、その直前、


「お前の相手は俺だ!!」


 孫遊の真っ赤な金属棒が、火球を真っ二つに叩き斬った。爆発する炎の中、孫遊は咆哮を上げ、棒を床に突き刺す。


「吹き上げろ!!!!!!」


 議場に巨大な竜巻が発生した。それは敵味方問わず、司馬章たち五人以外の全員を地上へと吹き飛ばす。


「この隙に逃げろ! 司馬章! 李光!」


「……っ、すまない!孫遊さん!」


孫遊は司馬章が上空へ放り投げられるのを確認すると、即座に呂辛との戦いを始めた。


「この風、どこから……っ!」


  空中に吹き飛ばされた乱晶の周起(しゅうき)が目を見開く。その背後に、雷光が回った。


雷・伯・撃(らい はく げき)!!」


 李光の拳が炸裂する。悲鳴と共に闇の空間に逃げる周起。一撃で仕留めることは叶わなかったようだ。


「司馬章! 着地と同時にバラけて逃げるぞ! こいつら、相当に厄介だ!!」


 司馬章は走りながら、背後で起こる阿鼻叫喚(あびきゅうかん)と無茶な雄叫びの地獄絵図を脳裏に焼き付けた。美詠の言葉が、耳の奥で復唱する。


(判断基準そのものが腐食していく過程……引き渡すのは、一番“考えなくて済む”選択……)


 自分たちのために、多くの者が傷つき、あるいは戦っている。

 司馬章は必死に脚を動かした。目指すは寺の外。鄭回と竜隋は東へ、自分と李光、孫操備は北へ。


 しばらく走り続け、ようやく寺の喧騒が遠のいたと感じた、その時だった。

 司馬章の身体が、まるで見えない糸に操られたかのように、ぴたりと静止した。


「……あ、が……っ」


 隣を走っていた孫操備と李光も、金縛りにあったように動けない。すると上空から、ゆっくりと一人の影が歩み出た。月光に照らされたその顔を見て、司馬章の全身が再び総毛立った。


「改めて、久しぶりだな……司馬典(しばてん)の孫」


 そこに立っていたのは、地下議場で爆発の中に消えたはずの天理であった。

 天理は優雅に歩み寄り、司馬章の喉元に、氷のように冷たい指先を添えた。


「忘れたはずはないと思うが…私は天上王真理公子。お前が復讐すべき敵だ」


 東遊寺の上空、黒煙の天蓋が、ゆっくりと崩れ始めていた。

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