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BEYOND SOUL  作者: 史邦ヒスト
東章 東遊寺編
50/60

第50話 激情の前夜

 天理てんりの不敵な笑い声が、冷たく、執拗に耳の奥にこびり付く。 その残響と共に、鏡の表面を覆っていた長安(ちょうあん)の情景が、まるで砂が崩れるように曖昧に溶けていった。


 ピキッ。


 静寂の中に、氷が割れるような、小さく、だが決定的な亀裂の音が響く。 鏡は通信の糸をぷつりと断ち切り、ただの冷ややかな板へと戻った。 曇りが晴れたその滑らかな表面に、今この場に立ち尽くす者たちの、青ざめ、困惑に歪んだ顔が赤裸々に映し出される。


 それを見つめていたタムガ・エスは、肺にあるすべての空気を吐き出すかのように、長く、重い溜め息を漏らした。


「はぁあああああああぁあああああ……」


 その吐息には、やり場のない憤りと、東遊寺(とうゆうじ)に厄災が持ち込まれたことへの絶望が混じっていた。


 孫操備(そんそうび)は、隣に立つタムガ(たむが)の横顔から心中を察した。 かけるべき言葉が見つからない。慰めも、言い訳も、今のこの状況ではあまりに無力だった。彼は救いを求めるように、あるいは現実逃避するように、視線を司馬章(しばしょう)へと向けた。


「……司馬章(しばしょう)


天理(てんり)は……天理(てんり)は何が目的なんだ。一体、何を考えている……」


 司馬章(しばしょう)の声は震えていた。孫操備(そんそうび)は縋り付くように言葉を重ねる。


「ああ、そうだ。天理(てんり)は僕らにまで目をつけたんだ。あいつは……あいつは、司馬章(しばしょう)だけじゃなく、僕らのことまでまとめて殺しに来たんじゃないのか……?」


天理(てんり)」が、「天理(てんり)」が…。 主語をその脅威に置き換え、繰り返し口にすることで、自分たちが今まさに突きつけられている責任から、無意識に焦点を逸らそうとする。自分たちも被害者なのだと、そう信じ込みたかった。


 だが、タムガ・エスの逃避を許さなかった。 彼は重い腰を上げる代わりに、机に深く肘をつき、組んだ指の間に険しい視線を沈めた。


「…明日の議題は、急遽変更だな」


 低く、重い決断を下すような声が室内に響く。


「…君の身柄をどうするか。それを決めなくてはならない」


――――――――――――――――――――――――


「どうしよう、李白(りはく)先生……。僕、四季の詩人どころか、恋の詩人になっちゃいそう……っ」


 真っ赤になった頭を抱えて、韓美詠(かんびえい)は寺の北にある屋敷に向かって歩く。小さな弟や妹たちは寝静まっている頃だろう。自分だけは、寝室の片隅で、朝になるまで詩を書き続けていようか。静まり返った家で、朝まで一睡もせず、この溢れる想いを言葉に閉じ込めたい。激しく打つ心臓の音を響かせながら扉を開けると、そこには待っていたかのように玄黒(げんこく)の姿があった。


玄黒(げんこく)……様?」


「お帰り。随分と遅いお帰りだね、美詠(びえい)


「ごめんなさい、その……」


「いや、いいんだ。君が遅く帰ってきてくれたおかげで、ちょうど今、君に隠れて書いていた“大事なもの”が完成したところだから」


 玄黒(げんこく)は短くそう告げると、揺れる蝋燭の灯を手に歩き出した。


「ついておいで。君の部屋で、それを見せよう」


 美詠(びえい)は言葉を失ったまま、彼の背を追った。期待でも恐怖でもない、正体不明の不安が胸をざわつかせる。二人の間に会話はなく、ただ衣の擦れる音だけが静まり返った廊下に響いていた。

 自室の前に辿り着くと、玄黒(げんこく)が静かに振り返る。


「他の子たちは皆、寝静まっている。……いいかい、驚いても大きな声を出してはいけないよ」


 彼がゆっくりと扉を開けた瞬間、美詠(びえい)は息を呑み、思わず両手で口を覆った。

 殺風景な壁に、一本の細い杭が打ち込まれている。そこに吊り下げられていたのは、彼女が片時も忘れられなかった、あの憧れの木簡(もっかん)だった。


 美詠(びえい)は、声も出せずに立ち尽くした。 目から溢れ出した涙が、止まることなく頬を伝っていく。憧れて、焦がれて、自分には一生手に入らないと思っていたその木簡(もっかん)が、今、目の前にある。それが信じられなくて、彼女はただ静かに泣き続けた。


 玄黒(げんこく)は、泣きじゃくる彼女の肩を優しく叩くこともせず、ただ穏やかな眼差しでその姿を見守っていた。そして、言い聞かせるように静かな声を出した。


美詠(びえい)。君がこれまで、どれだけ辛い思いをしてきたか知っているよ。他の弟子たちは、君が女だから、子供だから、詩の世界が解ろうかと馬鹿にしていただろう。それが悔しくて、夜も眠れない日があったはずだ」


 山深く、静謐な空気が満ちる東遊寺(とうゆうじ)。そこには、天下に名を馳せる詩仙・李白(りはく)が、ふらりと風に誘われるようにして時折姿を見せた。李白(りはく)東遊寺(とうゆうじ)に滞在するわずかな期間、美詠(びえい)はその傍らに侍り、言葉の紡ぎ方や、万物の理を詩に写し取る術を学んだ。

 しかし、その歩みは決して平坦ではなかった。李白(りはく)に付き従う他の弟子たちは、幼い美詠(びえい)を、そして何より「女」であることを理由に、公然と侮った。彼らにとって、美詠(びえい)李白(りはく)から直接教えを受ける姿は、理解しがたい異端であり、嫉妬と偏見の対象でしかなかった。自らを「僕」と称すようになったのも、男の服を着用するようになったのも、彼らからの侮辱を避けるため。勿論、余計に笑われるようになってしまったが、いつのまにか、それが定着してしまっていた。


「それでも、君は一度も逃げなかった。詩仙・李白(りはく)の教えを一つも漏らさぬよう、必死に食らいついて、誰よりも一生懸命に詩を学んできた。その努力は、決して無駄ではなかったんだよ」


 美詠(びえい)は、涙を拭うのも忘れて、玄黒(げんこく)の言葉を一つひとつ噛み締めた。自分にしか読めないであろう心の奥底にある空っぽの石に文字が刻まれた。


「それから、もう一つ……。君は、秘密裏に自分の力だけで思超(しちょう)を身につけていただろう? 隠していても、私には全てわかっていたよ」


 美詠(びえい)の心臓が、今日一番の速さで跳ねた。秘密にしていた。誰にも見せず、一人で静かに練り上げてきた、魂を詩へと昇華させるあの感覚。それさえも、この男には透けて見えていたのだ。


「読んでごらん?君の、お気に入りの詩」


「えぇっと、その…」


 韓美詠(かんびえい)は、やや上に視線を映して、手を軽く握りながら、詩を詠み上げた。



 大地熱雲蒸 万花随気昇(大地熱雲蒸じ、万花気に随って昇す。)


 抽茎凌烈日 不止欲攀登(茎を抽きて烈日を凌ぎ、止まず攀登せんと欲す。)



 詩を詠み終え、握っていた手をそっと開くと、土もないのにも関わらず、掌から種が現れ、少しだけ芽を出した。


「へへへ…まだ、不完全ですけどね…」


「いや、これで良い。思超(しちょう)家のつぼみとして、相応しいんじゃあないかな」


玄黒(げんこく)様…」


「周りの目を気にしながら、ひとりでその力を磨き上げるのは、並大抵のことではない。君のその才能と、これまで積み重ねてきた努力……それらがあるからこそ、私は確信している」

 玄黒(げんこく)は、美詠(びえい)の目を真っ直ぐに見つめて、力強く告げました。

「君には思超会(しちょうかい)へ参加する資格が、十分すぎるほどある。自信を持ちなさい。この木簡(もっかん)は、君がこれまで頑張ってきた証なんだから」

 玄黒(げんこく)から投げかけられた肯定の言葉は、美詠(びえい)がこれまで一人で抱えてきた孤独な歳月を、一瞬にして溶かしてしまった。 一度は拭ったはずの涙が、今度は堤を崩したように溢れ出す。美詠(びえい)はもはや、声を押し殺すことすらできなかった。


「……あ、……ぁ、う……っ」


 喉の奥から絞り出されるような、震える泣き声。 彼女が流したその涙には、いくつもの重みがあった。 「女子に詩が解るものか」と嘲笑われた屈辱。幼い子供だと侮られ、正当な評価すら受けられなかった憤り。そして、それらを全て飲み込み、李白(りはく)の背中だけを追い求めて、孤独な夜にたった一人で「思超(しちょう)」の深淵に触れようとした、狂気にも似た執念。

 誰にも見せることのなかった彼女の抱えたものを、玄黒(げんこく)は全て知っていた。その事実が、彼女の張り詰めていた心の糸を、優しく、しかし決定的に断ち切ったのだ。

 美詠(びえい)は膝から崩れ落ちるようにして、玄黒(げんこく)にしがみついた。 嗚咽が漏れるたびに肩が激しく波打ち、床に落ちた涙が、暗い部屋の中に小さな染みを作っていく。 それは、弱さゆえの涙ではない。 自分の存在を、積み重ねてきた時間を、初めて「本物」だと認められた魂の咆哮。

 玄黒(げんこく)は、取り乱す彼女を蔑むことも、安易に慰めることもしなかった。 ただ、夜風に揺れる蝋燭の炎を見つめながら、彼女の激情が静かに凪いでいくのを、揺るぎない沈黙とともに見守っていた。

 泣き疲れた美詠(びえい)は、その後、憑き物が落ちたように深い眠りに落ちた。

 玄黒(げんこく)が彼女を抱き上げ、寝台に横たえても、その瞼が動くことはなかった。枕元に置かれた蝋燭が、燃え尽きる寸前の微かな光を放ち、彼女の幼い面影を残す寝顔を照らし出している。頬にはまだ、先ほどまで流れていた涙の跡が白く残っていた。

 玄黒(げんこく)は、彼女の呼吸が穏やかに整ったのを見届けると、ふっと視線を落とし、独り言のように小さく呟いた。


「いつか、彼女にも真実を話さねばならない時が来るだろう…母がどうして私に預けたのか」


 その声は、夜の静寂に吸い込まれるほど低く、苦渋に満ちていた。隠し続けている真実が、いつかこの少女の心を切り裂く刃になるかもしれない。その重圧が、玄黒(げんこく)の胸を締め付ける。

 彼は立ち上がり、窓の外に広がる深い闇を見つめた。その瞳の奥に映っているのは、目の前の景色ではない。今は亡き美詠(びえい)の母、韓美刻(かんびこく)の姿だった。


美刻どの(びこくどの)…私はあの子にとって、良き父親であっただろうか」


 答えの返らぬ問いを、夜風に預ける。 美詠(びえい)が女として、子供として、孤独な戦いを続けてきたその歳月を、自分はただ見守ることしかできなかった。師として、守護者として、そして養父として、彼女に与えてきたものが正しかったのか。

 玄黒(げんこく)は、もう一度だけ眠れる美詠(びえい)を振り返り、自嘲気味に口角を上げた。そして、音を立てずに部屋を後にした。彼の背中には、親としての情愛と、それを隠し通さねばならない冷徹な覚悟が、混じり合いながら同居していた。

 美詠(びえい)は明日から始まる自身の新たな道を、玄黒(げんこく)は伝えなければならない過去の真実を。それぞれに抱えたものは刻一刻と大きくなって行く。

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