第49話 通告
「このままでは駄目だな」
「何がだ?」
天理の左にいた史思明が問う。「牛魔王」と呼ばれる巨大な牛の妖へと変貌した安禄山は、向かってくる矢をものともせず、目の前を遮る壁を塵も残さぬ程に粉砕し、刃を向ける敵兵たちを蟻の如く踏み潰している。その圧倒的な力に、長安の兵たちは手も足も出ず、ただ彼に蹂躙されていくのみだった。この光景を見た反乱兵の誰しもが勝利を確信する中、天理がただ一人、顔を顰めていたのだ。
「安禄山どのは今回で初めて思超を使う。だから、自身の変化に慣れず、意図しない時に元の姿に戻ってしまうかもしれない。一方的にこちらが押しているとはいえ、敵に囲まれた中にいるのも事実。人の姿に戻ってしまった時、安禄山どのはすぐさま奴らに取り囲まれ、刺し殺されてしまうだろう」
「そうか…では俺たち乱晶のなかから、誰か護衛に回すか?」
「護衛ではない。安禄山どのや使えない雑兵どもに代わって、乱晶全員で長安を落とす」
「なっ…⁉︎」
史思明の顔色が変わった。ハッと何かに気づいたように天理の後方を見ると、参戦意欲に満ちた乱晶の六人が顔を並べていた。
「正気かお前ら!安禄山どのは我々乱晶の参戦は禁止と言ったはずだ!それに反するつもりか!」
「それを人語も分からなさそうな今のデカ牛にバレたところで、どうってことねぇよ」
「デカ牛⁉︎呂辛…貴様ァ…‼︎」
生意気な呂辛の態度に怒り、歯軋りをする史思明を横目に、天理ら乱晶は一歩前に出た。巨体でありながら、壁の兵士たちを一人ずつちまちまと叩き潰していた安禄山を見て、天理は彼に向かって右手を伸ばした。
彼の力、彼の思超を具現化するような何か、道家の間で「気」と呼ばれるものだろうか。そのような青白い流動的な物質が天理を包む。青白い気は真っ直ぐに、安禄山のいる方へ進んでいき、今度は安禄山も包んだ。安禄山の元に気が届いたことを悟った天理は、ゆっくりと右手を閉じた。すると、安禄山の動きが突然止まり、彼は何かに縛られているような、苦しそうなうねり声を上げた。
「この姿になってしまえば、普通の念力じゃ制御できない。少しばかり強い念力を使わせてもらうぞ」
牛魔王と化した安禄山もこの念力は天理の仕業だと気づいており、念力との押し合いになりながら天理の方を向き、必死に彼を睨みつけた。
「すまない、安禄山どの。これ以上の無駄な暴走は、貴方の命を縮めるだけだ」
天理の冷徹な声が響く。牛魔王の巨躯が、見えない鎖に縛られたように軋み、咆哮さえも空間に固定される。その隙に、天理は背後の虚空へ向かって静かに告げた。
「さて、我々も直ちに参戦したいところだが、まずはここにいない”怠け者”に他の城壁にいる兵を片付けて貰おうか。周起、連れて来い」
「……あぁ」
退屈そうに耳を掻いていた周起が、指を一つ鳴らす。刹那、彼の周囲の空間が陽炎のように歪み、次の瞬間には、天理のすぐ傍らに一つの泥人形が立っていた。倭国の装束に身を包み、倭人の上げ美豆良(天竺=インドの数字で8の形に髪を結ったもの)をした埴輪…物部苦死羅である。
「……………」
相変わらず不気味な奴だ、と他の者たちは感じた。物部苦死羅は、関節以外の全てが固まった泥に覆われており、存在そのものが人というより、まるで動く倭の泥人形…埴輪であった。そのうえ、滅多に喋らないので、中に人は居ないのではないか、思超か何かで亡き人の魂が宿った呪物なのではないかとの噂も立っている。
「クジラ…随分と単独行動がすぎるようだな」
不服そうに天理が言うと、苦死羅は場違いな程に弾みながら、懐から小さな竹製の筒を取り出した。
「たまたま屋敷から持ち出していた。俺の故郷、倭の茶葉をやる。一服どうだ?」
差し出された筒からは、戦場の焦げ臭い空気とは無縁の、清々しい香りが漂う。しかし、天理はその筒を振り払い、氷のような視線で射抜いた。
「野蛮な倭人の植えた、臭い茶は不要だ。私と茶を飲みに来たのなら、今すぐその首を撥ねてやる。……つべこべ云わず、あの城壁の上にいる兵どもを全員殺してこい。クジラ」
「……相変わらず、情の欠片もない奴だ」
苦死羅は苦笑しながら捨てられた茶を眺めると、一転して無言で城壁の方を見た。彼は音もなく地面を蹴り、崩れかけた城壁へと飛び上がる。重力など存在しないかのような軽やかな身のこなしで、彼は数多の長安兵が防衛陣を敷く壁の頂へと降り立った。
「な、なんだ!?」
「泥の…人形…?」
長安兵たちが一斉に槍を向け、その場で立ち止まる。だが、苦死羅が腰の太刀の柄に手をかけた瞬間、鞘の中から異常なまでの冷気が吹き出してきた。
抜刀。
白銀の閃光が円を描いた。斬撃の跡が冷気の奔流となり、壁の上にいた兵士たちは、叫び声を上げることさえ許されなかった。切り口から侵食した氷の結晶が、瞬く間に彼らの肉体を包み込み、血管の中の血液までをも一瞬で凝固させる。
「…………」
静寂。 城壁の上には、武器を構えたままの姿勢で凍りついた兵士たちが並び、その中心から巨大な氷柱が天に向かって突き出した。それはまるで、長安の終焉を告げる、美しくも残酷な小さな氷山であった。
壁の下でこれを見ていた反乱兵たちは、寒気と恐怖に震え上がった。安禄山の暴力とはまた違う、静謐なる「死」の現れ。
「道は開いた。あとは貴様らの好きにするといい」
苦死羅は、血の一滴も付着していない刀を鞘に収め、氷山の頂で再び不敵に微笑んだ。
「蹂躙の時間だ」
天理の冷ややかな掛け声が、焦土と化した城門に響き渡った。その言葉は、慈悲を捨て去った欲望の悪鬼たちへの解放の合図であった。
城壁の上に築かれた小さな氷山の上で、物部苦死羅が不気味に首を傾げる。関節の節々から泥がこぼれ落ちる音だけが、静寂の中に響いた。それを皮切りに、乱晶の七人が、世界一壮麗な都・長安の内部へと侵入を開始した。
一万の兵士たちは、この世のものとは思えぬ七人の異能を前に、もはや戦う術を持たなかった。彼らが手にしていた国一の精鋭という誇りは、物理的な暴力と理不尽な超常の前に、粉々に砕け散った。
「道が開いたぞ! 略奪の始まりだ!」
乱晶たちが道を切り開いた後には、飢えた狼のような反乱軍の雑兵たちが雪崩れ込んだ。彼らにとって、この都は巨大な宝箱に過ぎない。
「金だ! 金を出せ!」
「その女をこっちへ寄こせ!」
家々に押し入った兵士たちは、泣き叫ぶ民を長槍で突き殺し、家財を略奪し、抵抗する老人を踏みつぶした。今でも幾多の詩人が詩に詠む華やかな街並みは、一瞬にして地獄の縮図へと姿を変えた。不要とされた民家には次々と火が放たれ、長安の深黒の夜空に、立ち昇る黒煙と火柱によって、不吉な雲のような色に染まった。
長安の制圧は、わずか数刻のうちに完了した。 宮城の広場には、もはや生きている長安兵の姿はなく、ただ、引きずり出された官吏や民たちの死体が、無造作に積み上げられていた。
こうして今、司馬章らが見ている光景に至る。
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男の叫び声に反応した司馬章らは、すぐに駆けつけ、何があったのかを尋ねた。
「僕はタムガ・エス。自分が訪れた場所の様子をいつでも鏡に映して観ることができる思超を有する者だ」
タムガ・エスと名乗るウイグル風の男は、そういうと机上の鏡を彼らに見せた。
「詳しい話は後!これを見てくれ…」
「なんだ…これ…」
司馬章は思わず息を飲み込む。飲み込む程に息苦しさを感じる。故郷よりも栄え、憧れや希望、思い出が刻まれた自身の出発の地、黄金の第一頁は、灰と化していた。
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その凄惨な光景のただ中に、天理は静かに立っていた。 背後では、巨大な牛の怪物…安禄山が、自らの手で砕いた城壁の瓦礫を見つめ、低く唸り声を上げている。天理の念力によって動きを封じられているとはいえ、その瞳に宿る、楊貴妃を失った絶望と憎悪は未だ消えてはいない。
天理はふと、何もない空間に視線を向けた。 そこには何も存在しないように見えるが、天理の鋭敏な感覚は、遠く離れた場所からの「視線」を捉えていた。
「……東遊寺の思超家たちは、いつまで傍観を決め込んでいるつもりだ」
天理は、空に向かって声を放った。その声は遥か遠方の山中に座す東遊寺の深奥へと直接叩きつけられた。
「聞こえているのだろう。貴様らがみくびった結果が、この長安の惨状だ」
天理の冷徹な言葉が、東遊寺で鏡を眺める司馬章たちの鼓膜を震わせる。
「我々はこれより、この都を根城とし、世を統べる。だが、一つだけ喉に刺さった棘がある。……司馬章、およびその仲間たちだ。奴らは我が乱晶の同胞を二名も殺した。その報いは、奴らの命でしか贖えない」
天理は、炎上する朱雀大路を指し示し、残酷な宣告を続けた。
「東遊寺に命じる。司馬章、そして奴に着いて行く者たちの身柄を、直ちに我々へ明け渡せ。黙って彼らを差し出すのであれば、ここ暫くは非思超家の民への理不尽な殺戮、東遊寺の思超家への襲撃は控えよう。……だが」
ここで天理の口角が、凶悪なまでに吊り上がった。
「もし拒むのであれば、あるいは奴らを隠し立てするのであれば……次は乱晶の全員を引き連れ、東遊寺へ赴く。長安を焼き尽くしたこの焔で、東遊寺を根こそぎ灰にしてしまう。経典の一巻、寺で保護する親なき赤子のひとり、庭園の底に住む蟻の一匹に至るまで、終わりを与えよう」
天理の脅迫は、燃え盛る長安の地響きと共に、東遊寺の空を重く支配した。 崩壊した城壁、凍りついた兵士の死体、そして理性を失った安禄山の咆哮。 そのすべてが、司馬章たちの運命、そして東遊寺の存亡を賭けた、血塗られた招待状であった。
夜が訪れる頃、長安は沈黙した。 しかし、それは平和の訪れではなく、さらなる巨大な災厄が胎動を始める、嵐の前の静けさに過ぎなかった。




