第45話 汚れた世界
「それでは、提案者は前に」
玄黒の指示で、年増の薄紫色の衣服を着た男が登壇する。男は左手に細い木の棒を何本も掴んでおり、それを手の中でかき混ぜながら歩いていた。
その男は壇上に上がると、静かに大衆の方を向いた。
「…今夜の提案者はこの私、劉詠である」
劉詠と名乗る男は、掴んでいた木の棒を卓上に放り投げた。からからと音を立てて卓上に落ちる。
「皆は、今の世界をどう感じる」
重苦しい発言から始まり、司馬章たちは息を飲む。
「我ら思超家は、それぞれの思想に基づく人智を超えた力を持つ者だ。故に、思超無き世界こそが本来の安寧であり、思超を持たぬ人々に対して思超を悪用することは安寧の崩壊を招くため、思超を持たぬ者に思超を使うことは禁忌とされた…」
彼は常識を深刻にかたる。だが、その額は常識を語るようには思えない、深いシワが寄っていた。
そして、劉詠は右拳を卓上に強く叩きつけて、怒りに溢れてこう言った。
「非常にッ‼︎愚かな禁忌であるッ!!!!!」
右拳はもう一度叩きつけられると、そのまま震え始め、徐々に血管が浮き始めてきた。
司馬章は、彼の行動は妥当だと感じた。別にあの村の夫婦に石を投げられたことを恨みに思っていた訳でない。あの夫婦のしたことも当然だと思っている。
あの人も、人々から石を投げられながら生きてきたのだろう。自分たちの経験したことよりも、ずっと。自分たちが思うものより、ずっと。彼はそんな意味を持つ言葉を力強く放っていた。
他の思超家たちも彼の主張には賛同しているようで、皆黙って頷いていた。玄黒は立場上、頷くことも、首を横に振ることもしなかったが、まるでこれから起こる何かを危惧しているかのように、慎重な目で劉詠を見つめていた。
その時、劉詠の眼がカッと開く。まるで熱を加え過ぎて勢いよく爆発する小石のように、強く語りかける。
「故にッ!我々は、我々を迫害する村を異役思超家と同様に攻撃の対象にすべきである!」
その怒声が思超家たちの争点となった瞬間だった。何か言いたげな眼をしている。咄嗟に、李光が質問した。
「そ、それって、俺たちを迫害するヤツらを…殺す…ってことか⁉︎」
「質問は手を挙げて述べよ!新参者が!」
劉詠は厳しく李光の行動を非難する。ガキめ…と軽く舌打ちをしながら彼を睨みつけた。
「さあ、異論は受け付けよう」
全員が沈黙を保つ中、茶髪の男が手を挙げて離席した。
「それでは、この孫遊がその質問を代行させてもらう。俺たちは思超の有無を問わず、迫害する者たちと戦わねばならないのか?」
「そうだ。我らの安寧を脅かす者は誰であろうとも、その報いを受けねばならない。基本は捕縛や投獄で十分だが、状況によっては殺しも…村ごと破壊しても罪には問わないことにするつもりだ」
過激だ…その一言に尽きる。だが孫遊の質問以降、誰も劉詠に意見する者はいない。結局、皆いずれはそうなって欲しいと望んでいたのだ。劉詠のみが狂っていたのではない。これは皆の望みで、認められることはこの場で当然のことであった。
またしばらく沈黙が続く。ある者は小さく頷き、ある者は腕を組み、意思を決定したかのようだ。
司馬章は恐怖を感じた。それは、劉詠の恨みや復讐心、過激な提案に対して。いや、それに密かに賛同の意思を示す多くの思超家たちに。
劉詠は溜まった怒りの中に僅かな笑みを見せ、高らかに叫んだ。
「皆、不安に思っているのだ!このままでは我々は一方的に危害を加えられたまま滅びる!私もそのような予知夢を見た!これは我々の今後のためにせざるを得ないことなのだ‼︎」
そしていよいよ決議されようとした時だった。
「ま、待ってくれ!」
一人の青年が声を挙げた。司馬章だ。周りが彼を不快な目で見る中、彼は視線に負けることなく立ち上がる。
「俺は…反対だ。いくらなんでも、思超を使えない人たちに…思超で攻撃するなんて、理不尽だろ…⁉︎」
彼は、机に置いた手を力強く握り、その不安を訴えた。
だが、彼の訴えは周囲の沈黙に押し込まれる。しばらくして、真顔で沈黙を続けていた劉詠が少しだけ笑顔を見せ、右手を前に出しながら口を開いた。
「君、壇上に来ると良い」
「…え?」
「壇上に来なさい」
二言目は、冷酷な口調だった。劉詠に言われるがまま、司馬章は離席し、大衆に囲まれた中央の壇上に向かって歩き出す。耳に届く小さな罵倒、心に投げられる精神の小石、その軌跡の左右には、禍々しい悪意の壁があった。
彼は、壇上に上がった。そうして劉詠と相見えると、劉詠は、フッと笑ったように質問した。
「歳はいくつだ?」
「…十七」
「フム。それにしても見ない顔だ。ここに来たのは初めてか?」
「…初めてd」
「新参者の無知な子供が!我らの話に安易に割り込むなアアアアアアアア!!!!!!!!!!!!!!!」
劉詠は大声で彼の答えを遮った。他の思超家たちも、顰めた顔で司馬章を睨んでいる。
「なっ…」
「彼奴は思超家になったばかりの小僧!我ら熟練の者たちの痛みを知らぬ青々とした愚か者である!」
劉詠は彼を指差して、大勢の前で罵倒を始めた。
「我らは数年、いや、数十年の者もいようか…非思超家たちにどれだけ苦しめられて来たか、思超家になったばかりの貴様に分かるのか!」
「分からない!でも違うだろ!そんなことしたら国と戦争にだってなり得るんだぞ!」
「我々が思超を使っても、凡人どもが戦争に勝つとでも?いや、我々が圧勝するに決まっているだろう!」
「んなこと分かってるよ!だから罪のない人たちがいっぱい死んでしまうんだぞ‼︎」
「当然の報いだ!それに、我々の安寧に、奴らの犠牲は必要である!貴様は敵に痛めつけられる日々を平和とでも表現するのか?」
「そうじゃないだろ!思超のない人たちとの和解の手段ならいくらでもあるのに、どうしてッ…」
そのとき、後方から一つの罵声が耳に届いた。
“帰れ”と。
その声を発したのは誰だか分からない。だが、それは司馬章に対して発せられたということだけは分かった。そして、その声を境に二つ目の罵声がやってきた。
“価値のない御託を並べるな”
次に三つ目の罵倒、“思超家を偽った怪僧の類だ”。四つめの罵倒“思超家の恥”。五つ目の罵倒“今すぐ思超書を焼き捨てろ”。六つ目の罵倒“貧しそうな家に生まれた小僧が調子に乗るな”。続々と様々な罵声が司馬章を襲う。気がつけば、その場にいた大半の者が、司馬章に指を刺して罵声を浴びせ続けていた。
「貴様は何が言いたいのだ!」
「つまらぬ問答で時間を潰して何が楽しい!」
「誰かこの男を退場させよ!」
精神の皮膚に痛みを与える、悪意の石。投げる者たちは皆、度を超えた正義感に突き動かされた光の使徒の気分であった。
だが、司馬章は全く動じなかった。まだ、これを痛みと感じなかった。俺には仲間がいる、そう確信しているからだ。背後の孫操備たちは無言を貫き、司馬章を見守っている。子兎魯や諸葛允もそうだ。彼を知る者たちは、同じ思いであろうが、そうでなかろうが、彼の思いを認めていた。
彼の視線が、壇上から静かに玄黒へと向かった。玄黒は相変わらず表情を変えず、ただじっと司馬章を見つめ返している。進行役という立場故に中立を保つ必要があり、じっと見つめるしかなかったが、その無言の視線の中に、司馬章はかすかな希望と、あるいはある種の諦めのようなものを感じ取った。
止まることなく続く罵声を自分の主張しで止めることはできない。だが、多数の重圧や立場など、様々な要因から、この状況を打破しようと動く者はなかなか現れない。
(退かない…俺は、退かねえぞ…)
司馬章は心の中で強く念じる。その念は、ぐつぐつと今にも煮えたぎりそうな火山の天辺のように熱かった。激しい怒りや苦悩で増幅された、大きな矜持が、彼の山を満たしていた。
そして、矜持は噴火した。無数の罵声の中に紛れたたった一つの
「多数派に逆らう莫迦者め」
という言葉が、何も言い返さなかった司馬章が激昂する点火剤となった。
「数で勝とうとするなんて…それでもアンタら思想家かよ!!!!!!!!!!」
散々罵ってきた観衆たちが、ピタリと息を止める。劉詠ですら口を大きく開けたまま、じっとしている。彼は噛み締めていた下唇を引き離し、静かに言葉を続ける。
「俺は長安の思超堂でいろんな学者たちと関わりを持った。それぞれ違う学問の道を進み、違う信条を持つ者たちが集うあの思超堂だ。だが、あの人たちは他の学者や思想家の考えを完全に否定しなかった‼︎議論になっても、一対一で対話するように議論した!多数で一人の意見を集中して反論したりしなかった!」
司馬章は、劉詠のように右手の握り拳を上げ、思いっきり卓上に振り下ろした。その場にいた全員がその音に肩を竦める。彼はその手で目の前の空気を力一杯に振り払った。
「俺は、それが当たり前だと思っていた!思超堂の人たちは、思想家のあるべき姿で、思超を使える人たちの集う東遊寺にいるアンタらは、もっと思想家らしい人なんだと思ってた!」
(司馬章くん…)
玄黒は自然と俯いていた。ここ最近の自分たちの姿を意図せず想起していた。
二年前だろうか。ある異役思超家が興した、小さな宗教を国の権力に頼んで潰すか否かを議題とした年があった。多くの思超家がこれに賛同したが、一人の若い思超家だけがこれに反対した。その結果、若い思超家は大勢から必要以上に糾弾され、精神を病み、東遊寺を抜け、異役思超家となり、果てには東遊寺の思超家たちに殺されてしまった。
彼の死を大抵の思超家は「当然の死」だと厳しく言い伝える。だが、玄黒はこれを悲劇だと内心感じていた。
今の思超家の実態は、正義を盾に、思超を平然と執行する魔術の戦士と、俯瞰する貴族のような者ばかり。己が貫く道を歩み、弱者に寄り添う思超家は、最早少数となってしまった。彼らもいずれ、ああなるのかもしれない。或いは、この東遊寺の現状に絶望し、異役思超家としての道を進むのかもしれない。そう考える内に、玄黒はこの時間がとても憂鬱なものと感じざるを得なくなってしまった。
「新参者が馬鹿な真似を長々と…」
劉詠は吐き捨てるように言い、司馬章を呆れたように見る。その瞳には、侮蔑とわずかな苛立ちが宿っていた。
「そこまで引かぬなら…私も貴様に問おう。我らの安寧を脅かす者どもに対して、どうすれば良いと申すのだ?」
劉詠の言葉に、司馬章は少し考えた。そして、司馬章は一歩前に踏み出した。
「俺たちは…彼らと対話すべきだと思う。彼らがなぜ俺たちを迫害するのか、その理由は誤解だって俺たちも分かりきっていることだ。だからこそ、誤解を解くべきだ。思超の力は、争いのためにあるんじゃない。人々を助けるために、己の進む道のために使うべきだろ!」
司馬章の言葉に、再び会場がざわつく。しかし、今度は単なる罵声だけではなかった。何人かの思超家が、小さく頷いているのが見えた。彼らの中にも、司馬章の言葉に共感する者がいることを、司馬章は肌で感じ取った。
劉詠は、その光景を見てわずかに顔色を変えた。彼の瞳に、それまで見せていた怒りとは異なる、新たな感情が浮かび上がった。それは、焦燥と、そしてかすかな恐怖だった。
「戯言を!そんな悠長なことを言っている間に、我らは惨めに朽ちゆくのだぞ!」
劉詠は再び卓上を叩きつけた。しかし、その音は、もはや先ほどの怒りの響きを伴ってはいなかった。どこか空虚で、焦燥に満ちた響きだった。
司馬章は、劉詠の目の中に揺らぎを見た。そして、確信した。この男は、本当に未来が見えているわけではない。ただ、過去の経験からくる恐怖と、それに伴う焦りが、彼を突き動かしているのだと。
「ああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」
徐々に説き伏せられようとする劉詠は、大声で唸り始めた。
「事実は!理想に壊される!私の正論は、若年の理想論に侵されようとしているのだ‼︎こんなことは初めてだ。こんな理想論が罷り通る思超会になってしまえば、いずれ思超会で事実が軽視されるようになるのだぞ⁉︎皆、今回の議論に理想論しか述べられない若造を招き入れたことは非常に危機である!正しくあるべき思超会のためにも、今すぐ奴をつまみ出すべきではないか!!!!!!!」
”事実は理想に壊される”それはその通りかもしれないが、そう発言した劉詠が続けて叫んだのは事実ではなく、理想どころか暴論であった。もう誰も劉詠の言葉には納得しないだろう。追い詰められ、迷信のように放たれた劉詠の言葉に誰も同調しないと孫操備たち司馬章の仲間は確信した。
しかし、観衆のほとんどは、「そうだそうだ」と同調し、司馬章への非難を続けた。
(どうしてだよ…もう占い師のオッサンは論破されたようなもんだろ!それに…さっき司馬章に頷いてたやつらは何だったんだよ…!)
李光は唇を強く噛み締める。他の仲間たちも悔しさが顔に表れていた。かれこれ三刻ほども長引いた罵声の時間で、玄黒も含め、司馬章を攻撃しない全ての者の間で、諦めが生じようとしたときだった。
「五月蝿えぞテメェらァアアアアアァァ!!!!!!!!!!」
その時、顰めた顔で聞いていた一人の男が、雄叫びのような轟く声と共に立ち上がった。会場中の視線が、一斉に彼に集中する。
その男は、沙悟潮であった。




