第40話 緋翼の残り羽
盤古は、何もない世界で、すべてを持っていた。だから、すべてを生み出し、朽ち果てた。
人は盤古の欠片を享受しながら、今日に至るまで生きており、そのすべてを知り得ることができない。
無知 其れ故に人は生きる。
西暦756年 戌月の初め
薄曇りの空の下、時折吹く冷風が秋の訪れを告げる中、東の城門前に向かって一台の馬車が静かに進み出た。ガラガラと音を立てながら引き上がる城門。その背後には、かつての栄華を誇っていた長安の街並みが、今もどこか誇り高く佇んでいる。馬車の中には思超家の旅禍が乗っていた。
思超堂を創設した思超家で、楊国忠に反旗を翻した秀才"諸葛允"。思超堂内に多くの弟子を抱え、同じく楊国忠に反旗を翻した思超家"子兎魯"。楊国忠を相手に奮戦した血の医学者"鄭回"。複雑な思超を用いて、凶悪な肉樹から彼らを守った"孫操備"。雷を纏いながら戦い、襲撃者から長安を守った"李光"。楊国忠を討ち果たした龍使いの槍戦士"竜隋"。そして、長安を襲撃した魏匠を倒し、楊国忠の最期の悪足掻きを防いで長安の安寧に貢献した炎の思超家"司馬章"。
馬車の隣には、兵士たちが並んでいた。彼らもまた、楊国忠に立ち向かうために命を懸けて戦った者たち。周囲の雰囲気は、華やかな凱旋とはかけ離れていたが、見送る兵士たちの瞳には揺るぎない決意が映し出されていた。
司馬章は、仲間たちに向かって笑顔を浮かべ、手を振った。振り返ったとき、ふと目に入った一人の男。彼は必死な表情で馬車を追っているように見えた。その眼差しには、何か強い思いが込められているのだろう。司馬章の心に一瞬の疑念が過ぎったが、彼はその思いを振り払うように馬車から飛び降りた。
「後で歩いてここを出る」
彼は仲間たちに告げ、男の方へと足を向けた。彼は鄭回に同行していた兵士の一人であった。その男の顔は、恐れと後悔に満ちていた。司馬章はその表情を見つめ、何があったのかを知りたかった。
「一体、どうしたんだ?」
男は地面に額を擦り付けながら叫んだ。
「俺は!弱い!!!!」
その声は悲痛であり、彼の内面に渦巻く葛藤がひしひしと伝わってくる。彼の顔には、悔しさのシワが深く刻まれていた。何かが彼を追い詰めている。司馬章はその声に心を揺さぶられた。
彼はさらに続けた。
「楊国忠に恐怖して、罪の無い子どもを殺してしまったんだ!アンタらに味方することも躊躇ってしまった。でも、教えてくれ!俺は、どうしたらアンタらみたいに強くなれる!?どうしたら過ちを犯さずにすむんだ!?」
司馬章は無言のまま、彼の言葉を受け止めた。何も言えなかった。時間が止まるかのように過ぎ、兵士の苦悩の表情は次第に強まっていく。
その時、彼は鄭回から聞いた話を思い出した。彼は、その兵士が楊国忠の命令によって無実の子どもを奪ってしまったことを。罪悪感に苛まれ、彼は毎年その子の墓に訪れ、村人たちから石を投げられても弔い続けていたという。しかし、その傷は癒えることなく、彼の心に深い影を落としていたのである。
「なァ!俺はアンタらみたいに成れないのかァァァ!?」
その叫びが司馬章の心に響いた。彼は言葉を口にすることができなかった。
だから、司馬章は何も言わず、兵士の腕を取り、起立させた。彼の目は優しくも力強く、少し震えるその腕をしっかりと支えた。周囲の空気は静まり返り、彼らの心の中にある苦悩と痛みが少しずつ少しずつ浮き上がってくるようだった。そして、司馬章はゆっくりと左顎の火傷痕を見せた。
「これは、俺が幼い頃に負った火傷痕。すっごく気持ち悪い痕だ。だが、どんな薬を使っても消えることはない。俺は、これが凄く嫌だ」
彼は淡々と語り始めた。彼の声には、過去の痛みと現在の強さが交錯していた。
火傷痕は深いもので、彼が幼い頃の不運な事故によってできたものであった。焼けた木材の破片が彼の顔に飛び、無邪気な笑顔を一瞬で奪った…司馬典はそう話していたらしい。
彼は続けて言った。
「俺は、醜い男なのか?否。俺の仲間たちは、俺の火傷痕をからかうどころか、話題にもしなかった。皆、俺の魅力に夢中で、燃えカスみたいな火傷痕を気にしなかったんだ」
彼は手で火傷痕を隠した。隠すことで、自らの汚点を消し去りたかったのだろうが、心のどこかでは、自身の弱さを受け入れてくれる仲間の存在に感謝していた。
「人って皆、何かしらの魅力が有るんだよ。それも、伸ばすことや擦り減らすこと、使い果たしてしまうことさえできる、蝋燭のような魅力がさ。それに比べて汚点なんて、加工なんてできない燃えカスと変わらない。要は、一生消えない燃えカスみたいな過ちを覆い被せるくらいに、アンタの魅力はまだまだ大きくなるってこと」
彼の言葉は、兵士の心を揺さぶった。物語のように思えたその教えは、どこか人生観的であり、自己を省みる瞬間を与えた。火傷痕が彼の過去を象徴する一方で、その魅力的な部分は今まさに仲間を支え、鼓舞しているのだ。そして、彼は再び手を離し、火傷痕を顕にする。
「登ろう。なんのための蝋燭だよ」
彼の言葉には、叡智と暖かさがあり、周囲の誰もがその意味を感じ取ることができた。兵士は涙塗れの顔を上げ、朝日に照らされた司馬章の顔を見た。彼の瞳には決意が宿り、これからの旅路への期待感が満ちていた。
この瞬間、兵士は自分自身の過去を振り返り、司馬章の言葉を叶えるために、前に進む勇気を持とうとしていた。彼もまた、失ったものや過去の過ちを背負いながら、新たな道を見出そうとしていた。
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司馬章たちを連れた馬車が、空いた城門を擦り抜ける。馬の鳴き声や車輪の音が、周囲の静けさを破っていく。民による大きな歓迎もなく、少数の兵士たちによる静かな見送り。遠くには、未だ整っていない城の残骸と、戦によって傷ついた街並みが見えた。彼らは無言で立ち尽くし、司馬章たちの姿を追う。
司馬章は歌を謳っていた。幼き日に、誰かがよく謳っていた歌を。
〈なにも ない ところには 何を求めるだろう
淋 しさ を 嫌うのなら 人は火を求めるのだろう
苦 しい とき には 何を欲しがるだろう
希望 を 味わうため 人は水を欲しがるだろう
しあ わせ になったら 人は何をするだろう
しあ わせ を残すため 土で家を 残す
我 らは 一体 何がしたかったのだろう
我 らは それを知らない だから歩くのだろう〉
「いい歌だな」
孫操備が青空を見上げながら呟いた。
「ありがとう。幼い頃から頭に流れる歌なんだ」
「へぇ。一体誰に習ったんだ?」
返事がなかった。孫操備は悪いと思った。亡くなった祖父から教わっていたら、答えるときに祖父のことを思い出してしまうだろう。
しかし、司馬章はキョトンとしていた。まるで、祖父のことなど関係ないように。
「…誰なんだろ、あれ?誰だっけ」
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ときは、中世…唐の時代。栄華を誇った大国は、大いなる繁栄の果実を享受していたが、繁栄の刻は反乱で終わりを迎えた。
たった一つの反乱で、すべてを奪われた賢者がいた。たった一つの反乱で、すべてを手に入れる道に進んだ賢者がいた。たった一つの反乱で、真理へのカギを得た賢者がいた。
賢者は、先代の賢者が築いた哲学や知識を引き継ごうとはしなかった。それは、彼が彼自身の独自の道を歩みたいという強い意志の表れであった。彼の目指すところは、先代の意志を超越することだった。賢者の思索は、時として復讐心すらも掻き消すほどに洗練され、彼は「人生の大きな指針」を見出していく。それは、無知と無関心から抜け出し、知恵の光で周囲を照らそうとする試みだった。
彼は東の都で、仲間たちとともに悪を討つために立ち上がった。彼の周囲に集まった者たちは、彼の理念に賛同し、共に行動することを選んだ。彼らの力は、東の都に巣食う真の悪を打倒するために必要だった。賢者は、思超を携えて悪党たちとの戦いに挑み、かつての栄華を取り戻すために尽力した。そして、悪の元凶を討ち、東の都に平和をもたらした。
勝利の後、賢者は静かに都を後にした。民は英雄の姿を知らなかった。兵士たちによる称賛や感謝の声が響く中で、賢者は背を向け、静かに歩み去った。ともに戦った兵士たちは、彼を密かに讃え、語り草にすることを望んだ。彼は英雄という名誉を求めていたわけではない。
旅は始まった。ただ真理を追い求め、自己を超越することを目指して。
_____これは、すべてを失ったものが、すべてを取り戻す物語。




