第37話 我が師へ、さようなら
「その役目…俺にさせてください!」
司馬章は兵士たちの輪に入るや否や、そう叫んだ。すかさず、兵士たちの槍の刃が彼の首に添えるように動いた。
「何者だ、名を名乗れ」
「俺は司馬章、旅の者です!」
「フン、一庶民がやらせろとほざいたかと思えば、まさか旅人とはな。とにかく、兵務や政務に務めぬお前が楊貴妃の死を見届けられるワケがねぇ。帰んな」
ある兵士は槍の柄を首に添え、司馬章の首を軽く叩いた。
「ま、待て!この人はただの旅人じゃない!」
その時、別の兵士が思い出したかのように甲高く言葉を放った。
「んん?」
「こ、この人はっ、長安を襲撃した反乱軍のやつを倒し、そのまま楊国忠まで倒しちまった思超家たちの一人・司馬章どのだ!」
他の兵士たちが焦りはじめる。
「な…ってことはこの人は」
「長安の英雄だ!」
兵士たちは続々と態度をすり替え、笑い出した。
「誰かと思えば司馬章どのでしたか!この度は本当に救われた!」
「そうだそうだ、先ほど首に槍を当ててしまったが、ケガはありませんでした?」
「え、あ…まぁ」
司馬章も平然と答える。辺りが和やかになってきたところで、ついに一人の兵士がこんなことを言い出した。
「そうだ、楊貴妃の自殺の見張は司馬章どのでいいんじゃないか?国の逆賊をまとめて葬ってくれた人だ。そっちの方が民たちも安心するだろう!」
まるで司馬章を英雄のように持て扱う声々だ。皆、国の英雄が魔女を死に追い詰める夢物語のような日を楽しみにしている。
彼は知らなかった。かつての恩人が、皇帝の貴妃となっていたこと。国を奪い取り、地獄を築き上げかけた極悪人が貴妃の一族だったこと。兵士たちの怒りの矛先は極悪人だけに留まらず、貴妃にも向いていたこと。
だが彼は、兵士たちの会話でそれらを悟った。悲しげな顔をした。
罪の無い恩師が、死に絶えようとしている。
もちろん、彼やその仲間たちだけの力ではどうすることもできない。手段を間違えれば、司馬章は英雄から国賊へと信頼が堕ちてしまう。
ともかく今は、その恩師に会うことだけを考えた。
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翌日の夕方、司馬章は用事があるとだけ仲間に伝え、宿をあとにした。
真っ赤な夕日が徐々に沈んでゆく。長安の夜は、基本外出が禁止されている。市民はそれぞれの家に続々と帰る中、北に向かって歩く影が一つ。
やがて日が見えなくなると、各家にあかりが灯り、道に人影は無くなった。北には小さな屋敷があり、二人の兵士がその入口を固く守っていた。
二人の兵士は南側から司馬章が来るのを確認した。互いに目が会ったとき、兵士は司馬章に短剣と筆を渡した。
「大変長い時を待つことにはなりますが、日が登るまでに自死をされなかった場合、この短剣で楊貴妃の首を刺してください。火葬は後日、我々が執り行う故、死亡が確認されたら、早急に砂の入った木箱の中に遺体を入れるようにしてください」
「…はい」
「それでは、よろしくお願いします」
二人の兵士はそう言うと、戸の鍵を開けた。やかましい摩擦音のような音を立てて開いたさきに襖があった。真夏の夜の少し温かい風が、冷え切った処刑台に吹き注ぐ。司馬章が中に足を踏み込むと、先程とは対照的に、襖は緩やかに閉まった。
(この先に、俺の恩人…玉環様が)
司馬章は固唾を飲む。あの人は俺を覚えているのだろうか、死の直前に俺に再会したところで何になろうか、そんな不安を心に向かって述べながら、内側の襖をゆっくりと開ける。
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「」
彼は無言で部屋に入ってきた。楊貴妃は本に向けていた視線を彼に移す。彼女は自身の死を監視する者が入って来たこと、つまり死が迫って来たことを実感するも、恐怖の一つも感じさせることのない目で一点を見た。
「…楊貴妃。いや、楊玉環様…ですね」
「えぇ」
かつての優しかった楊玉環の声ではなかった。冷徹と言い表すべき程の冷静さと強さに満ちた声だ。
そうか、貴妃なんだ。貴妃になったから、このような声が出るんだ。
もちろん、彼女の声は十年前と殆ど変わらない。二つの状況に直面した司馬章だからこそ、その違いが見えるのだ。
「覚えていますか?俺、十年前に洛陽で字を教わった司馬章です」
だが、このときだけ貴妃は玉環の声を取り戻した。
「司馬…章…!」
彼女の目からは涙が出ていた。どんな人物であれ、死に際に行方が分からなくなった者との再会を嘆く者などいない。
「…はい!あの時は、俺に字を教えてくださり本当にありがとうございました!」
涙は本に落ちた。
【炎論】と書かれた本に。
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司馬章は嬉しさのあまり、多くの感謝を伝えた。字が書けなかった頃の自分は虐められていて、このまま字が書けずにいたら孤独に生きていたかも知れなかったこと。常識的な字がかけるようになってから、祖父の話が一段と楽しく聞こえたこと。あの頃から筆を握ることが幸せに感じたこと。
楊貴妃はこれらの話を嬉しそうに聞き、自らもまた司馬章の成長への喜びを語っていた。
まるで、これからも自分が生き続けるかのように。
「あれから、じぃちゃんも喜んでました!"自慢の孫がもっと自慢になった"って!」
「司馬典どのからですか?私もあの方を尊敬していましたので、光栄なことですね。ところで、司馬典どのは今もお元気で?」
楊貴妃の質問に、司馬章の表情が変わった。とは言っても、思超堂の学者たちや竜隋の前とはまだ別の顔をしていた。
「じぃちゃんは…亡くなりました。俺たち、洛陽出身だから、反乱軍が来たときに、俺だけ逃がして…」
司馬章は儚げに笑った。
「だから、俺がじぃちゃんの意志を継ぐんです。じぃちゃんは"炎論に囚われることのない自由な学問"を望んでいた。だから俺は・・・・・・・・・・」
司馬章は夢を語ろうとした、しかし語れなかった。楊貴妃が縄を手に持っていたからだ。
「な、何を!?」
「やはり私は、もう死ぬべきですね。安禄山どのが反乱を起こしたのは、私の助言で宰相に任命された親戚・楊国忠どのがそのように仕向けたから。そんなことは分かっていました…」
「あなたが原因じゃない!悪いのは全部楊国忠だった!」
「…私は、貴方の祖父であり、私の恩師であった方を…殺してしまった」
司馬章は歯を強く噛み締めた。
まだだ…まだ死なないでください。俺の恩師を二人も殺さないでください。
しかし、気づけば虎の刻を過ぎてしまっていた。これは司馬章の体内時計に過ぎないが、これ以上時間をかけてしまえば、役人やら兵士やらが楊貴妃の死を確認しにやって来るだろう。
司馬章は苦難の末に楊貴妃の奥にあった壁まで歩き、壁にそっと手を当てた。
「玉環様、これから楊貴妃の名も楊玉環の名も捨てて、これまでの自分の存在が無かったことになれば、これからも生きてくれますか」
「…え?」
その瞬間、司馬章の手から森を灼き尽くすほどの勢いで炎が発射された。熱風で触れた壁は消し飛び、更にその奥まで火炎の牙が届いている。
「この炎を見た兵士たちは慌てて眠っている他の兵士たちを起こして消火に向かう。その間に逃げて、この長安から脱出してください!そして、"楊貴妃”でも”楊玉環"でもない、新しい何かになって生きて!」
司馬章は語尾を高く言い放った。彼女は司馬章の姿が炎で揺らいでいるのが観えた。そしてゆらゆらと揺れるうちに、幼き日の彼の姿が目に映った。
「その…炎…」
「俺は炎を司る思超家・司馬章!貴方に教えて貰った字から視えた世界は、俺の想像を豊かにしてくれた!この炎も、俺が炎を強く想像したことで生まれたものです!」
楊貴妃の目が輝いた。炎に照らされた。言葉に照らされた。恩返しに照らされた。
「そして!祖父や貴方が願っていた、すべてを超越する賢者になることを本気で目指す者!」
彼は拳を高く突き上げる。拳の中では、クシャクシャに潰れて黒く焦げた紙があった。
「信じたモノの魂を操れるこの力…"思超"を使って!」
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司馬章は炎の中から現れた。ゴロゴロと地面に身体を叩きつけて回転する。必死に転んだ後に消えた炎に怯える素振りをしながら、眼の前の立ち止まって眺めていた兵士に言い放った。
「呪いだ!楊貴妃の霊が、怨念を火の玉に込めて屋敷を燃やした!」
「なんと!?」
「楊貴妃の祟りだァーっ!」
司馬章の恐怖の叫びに煽られ、その兵士も、近くにいた別の兵士たちも悲鳴を上げた。
「た、た、た、祟り!?ま、ま、まさかそんなばかなァァァ!!!!!!」
「ああ!鎮まり給えェェエ!」
「そ、僧を呼べぇ!あと思超堂の者たち、霊に明るい者たちなら誰でもいい!あとは消火だぁ!」
司馬章は反対側から、一つの影が炎の間を通っていくのが見えたことに安堵した。そして、そのまま力尽きたような顔ですやすやと眠り始めた。
(どうか、これからも…)
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「司馬章、貴方はどうしても私に生きて欲しかったのですね…」
彼女は燃え盛る屋敷の中、ライチを一かじりしていた。
___魂ねぇ…。この世には、思想をそのまま妖術に変えてしまう者たちがいることは噂には聞いていました。まさか、司馬章がそうだったなんてね。
彼女は一歩、屋敷の外へ出る。その影は、少し遠くに届いていた。
___私は、司馬典が死んだなんて思っていない。本当の魂は、文字に残っている。そうでしょ?…だから、哲学は続いてきた。
木材と紙の小さな摩擦音が鳴った。彼女の耳にしか聞こえないほどの。
___どうか、私が死んだと思わないでください。こんな理不尽なやり方で、私の魂は消えない。
小刀を握った楊貴妃は、少し宙に浮くと、震えながら頭の上に手を伸ばした。伸ばした手が、頭上の糸に届いたとき、彼女は動かなくなり、静かに落下した。
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翌朝、長安には不吉な噂が流れた。王宮内の楊貴妃が自害する小屋が突然、巨大な炎を上げて燃えた…と。
朝から僧侶や占師、霊媒師など、霊に知ってそうな者たちが呼び出され、燃えた小屋の捜索を行ったが、楊貴妃の霊がいたという証拠に繋がる物は見つからなかった。
その捜索には、思超堂を代表した諸葛允も参加した。
「…これは、手紙?」
幸運なことに、小屋の中心といえる部分は燃えずに残っており、蓋の外れた木箱と床の間に、手紙が挟まっていた。
彼はおそるおそる手紙を開く。その冒頭三字を目にした瞬間、彼はその場を離れて司馬章たちの宿へ向かった。
司馬章は、ぐっすりと眠っていた。近くで彼を見つめていた李光が諸葛允に気付いた途端、彼を起こした。
「起きろ司馬章、諸葛允が来たぞ」
「…んん、あ、諸葛允さん」
「司馬章、そのままこちらへ来てくれないか」
わけの分からぬまま、諸葛允の求めに応じ、彼は部屋を出て諸葛允と二人きりになった。
「個人の秘密だ。問う気はないが…」
諸葛允は言葉を続けるのを躊躇った。
「いや、これ以上言葉は不要か。この手紙を貰ってくれ」
諸葛允は手紙を渡すと、黙ってその場を去っていった。
司馬章は手紙を開いた。
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_____司馬章へ。
自害の時が迫る寸前、貴方が私を助けるためにあらゆる手段を講じてくれたこと、決して忘れません。
その瞬間、私はもし脱出できたらどんな道が待っているのだろうと夢見ました。新たな人間として、哲学の道に進むことも考えました。しかし、私の心の奥底にはいつも、国を滅ぼすかもしれなかった大罪が巣食っていました。
貴方が私に与えてくれた新たな希望の夢、その温もりが私の心を満たしました。しかし、私は罪のある者。あの世で貴方の祖父に謝らなければなりません。
本当にありがとう。
最後に、この言葉を残します。
〈魂は命に非ず〉
私の命は潰えど、私の魂は永遠に潰えません。貴方の祖父がそうだったように。
私の願いは、この果てしない世界で、私の魂が貴方を無限の真理に導いていくこと。どうか、すべてを超えた賢人になってください。
私の言葉を信じてくれた、貴方ならきっと____
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遺体が回収され、兵士たちだけで王宮内で火葬した後、司馬章は小屋の焼け跡を訪れた。
彼はただ、空を眺めていた。鳥が飛ぶような空でも、雲が漂う空でもない。その先をずっと見ていた。
彼の目に涙はない。楊玉環の遺した言葉は、これから始まる無限の旅の序章に過ぎず、この壮大な見えない世界を歩いて行くのに、涙は不要だった。
ここで泣かないことこそ、彼女の死に対する最大限の涙だった。
乾いた肌を手で拭いながら、南で自分を待つ仲間たちのもとへ走る。ライチの葉は、炎に灼かれて炭となり、これからも尚、その炭は炎の道標として、消えることなく残っていくだろう。
第三十七話 我が師へ、さようなら




