第36話 我が師へ、すべてを越えてゆけ
司馬章たちが生きていた時代の人間が知る訳が無いが、人は初めに火を使った。次に水、土、石、木々、鉱物とあらゆる自然の欠片を使った。そして武器を創り、田畑を創り、国を創った。そして、文字を創った。この後も、様々な何かが創られ続け、その過程は今を含み、未来永劫続いていく。
どんな無限にも始まりがあり、人が滅びぬ限りは無限のように思われる創造にも、始まりがあった。
十年前、洛陽に泊まることになった楊玉環は、司馬典に恩返しをすべく、彼の孫・司馬章に文字を師事することになった。
一日目のことである。司馬章は朝早く広場を囲う商店の裏に向かって走っていた。
こんなに早起きする人はいないだろう、あの人が来るまでに字の練習でもしておこう。と、司馬章は自慢気な顔をして辿り着いたが、その時には楊玉環は小さな椅子に座って本を読んでいた。
「は、早い!」
「フフっ、そんなに慌てなくても大丈夫ですよ」
楊玉環は静かに笑う。まだ日が登りきっていない薄紫色の空、カラスの鳴き声さえ聞こえない早朝に、彼女は起きて、ここまで来ている。
不思議な女性だ。司馬章は疑問に思った。高貴な身分でありながら、文字の読めない一庶民に文字を教えようとする姿勢、生まれながらの貴族なのに、読書に精魂を注ぐかのように本を見る眼差し。
「…それでは、始めましょうか」
こうして、楊貴妃の小さな講義が始まった。はじめは山や川など、簡単な字を絵にしながら仕組みを教え、自然に存在するいくつかの字を司馬章は理解することができた。
山、川、木、鳥、火…簡単な絵を描くのが大好きだった司馬章にとって、それは素敵な時間であった。これまで絵でしか魂を吹き込むことができなかった何かが、"字"というもので生を受ける。あちらこちらに散らばった魂をなぞり、複数の線にまとめていく。
あぁ、字を書くって こんなに素敵なことだったのか。と、まだ見ぬ幸福感と共に、理解できなかった魂が頭の中に吸い込まれていく。
さぁ、次は絵に表せない字を師事しようと次の段階に踏み込む前に、彼女は一息ついてこう言った。
「司馬章、目が輝いていますね」
「…え」
「何か、感じた?」
楊玉環の勘は鋭かった。その美しい瞳が、相手の心を物語るかのように透明に映る。
「なんだろ…えーと、ここには、いない…みたいな」
司馬章はうまく言い表せないようだったが、そのまま続けた。
「森の中にいる…みたいな」
司馬章が学んだ文字はすべて、自然に関する文字だ。つまり彼は、その文字が意味する世界に浸っていた。
もちろん、そのことも彼女は気付いていた。彼女の目線は急に司馬章から離れ、桃色の振り袖に移り変わる。
その淡い桃色には、彼女の記憶が照らされていた。
本を読むことで、無限に近い世界を冒険してきた幼き少女。その冒険は、所詮 象形は象形に過ぎないという教育によって潰えた。
少女は顔を捨てた。高貴な家に生まれたことの宿命だった。だが、魂までは捨ててはいなかった。そして、彼は違う。
_____今、ここで伝えたい。司馬典や袁静といった仙人と呼ばれる程の偉大な思想家、そして孔子や老子、天竺の釈迦や西方世界にいたとされるダビデやイエス、マホメットなどの先人たちは皆、他の魂を大いに感受する魂があったのだ。
だが、彼らも全てに魂を見いだせた者ではない。必ずどこかに、外界の万象に魂を見出すのを妨げる壁が存在する。しかし彼らは生まれた頃から、その壁を何枚も何枚も破壊して、魂の道を切り拓いた故に偉大であった。凡人はその道を歩んでいるに過ぎず、愚者であればあるほどその道すらも嫌い、壁を作って道を閉ざしてしまう。
私は、本当に愚かでした…
「玉環…さま?」
勝手に涙を流したことを、彼女は申し訳なく思い、慌てて涙を引っ込めた。その涙が、桃色の振り袖に落ちることなく。
「…ごめんなさい。まだ、難しかったですね」
司馬章の真っ白な頭をしているような顔から、この話を子ども相手に話すのはまだ早い、と思った。たとえ、彼が司馬典の孫であっても、だ。
「いや、僕には分かったんです」
…え?
彼女は驚愕した。と、同時に喜びの味も飲んだ。寒い中、出るはずもない汗が額から一滴垂れるほどに。
「僕、約束します。僕は、どんな壁も越える。どんなものにも、魂を感じる」
「…壁は、無限にあるものよ?」
「関係ない。僕は、じぃちゃんを超えた思想家になりたい。じぃちゃんが無限にある壁を越えられないなら、僕が越してみせる」
少年は、太陽の目をしていた。ただ単純に、陽光が瞳に当たって反射したのではない。彼には光の未来が森のように広がっていた。
「…そう」
こんなことを述べられる人間は星の数ほどいる。だが、そのほとんどは叶わずに終わる。それは努力不足が原因なのかもしれない。だが、それ以上に希望を否定する闇が、この世には多すぎたのだ。
楊玉環が、かつてそうだったように。
彼女はそんなことも考えた。だが、彼女は悲しそうな顔も、憐れむ顔もしなかった。では、彼女はどんな顔をしていたか。
ただただ、無邪気な少女のような笑顔をしていた。
「そうね…!」
輝きを失った人間は、二種類の人間に別れる。片方は、誰かの輝きを奪う人間に。もう片方は、誰かに輝きを託す人間となる。
彼女は今この瞬間、後者となった。一人の少年に輝きを託す鉱石となった。
「ところで…タマシイって、どうやって書くんですか?」
哲学的に重い話が続いたせいか、突拍子もない司馬章の発言に、楊玉環は思わずクスッと笑った。
「じゃあ、次の文字を教えますか!」
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彼女は教育者としての能が高かった。楊家という貴族の家庭に生まれたから、幼少期から楊国忠という賢い親戚が彼女の教育を担当したから、そんな理由ではない。
彼女は、読書家だったからだ。
読書…是則、紙の中にいる教授による講義を指す。彼女は、幼い頃から無数の書を読み続けていた。
「玉環様!」
だが、彼女が目を輝かせて読む書のすべては、楊家の者たちに否定された。父は儒学以外の学問をすることを一切許さず、彼女は懐に隠していた書・炎論を除いたすべての哲学書を楊国忠に没収されていた。
「御父君は貴方様を立派な皇妃にさせるために、このような物を取り上げているのです。ご理解を」
「はい…」
彼女の生家は、無数の壁で頭を閉ざされており、彼女が望む道はとことん阻まれていた。
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その後も、司馬章は毎朝、楊玉環のもとに通い続け、あらゆる字を矢のごとく早く飲み込んだ。彼が持った筆は、芸術家のように情熱的に動いた。まるで、文字が生きているかのように。
こうして、七日目…楊玉環が洛陽を去る日になった。
司馬章は商店の裏まで駆け抜けると、彼女の持っていた本を貸すように要求した。
「えぇ、どうして!?」
「やっと字が読めるようになったんです!これまでじぃちゃんが読み上げてくれないと分からなかった本が沢山あるから、今度は僕が本を読む番なんです!」
「じゃ、家にある本を読んだほうが…」
「家の本は、じぃちゃんが全部持って行っちゃったんです」
彼女は驚いた。関心しているような、呆れているような、それでも未知への喜びを見せるため息をつくと、一冊の本を差し出した。
「この本、難しいんですよ?科挙っていう、国のお偉いさんたちを決める試練を簡単に乗り越えた人が読むような儒学の本だけど…」
司馬章は太陽のような笑みをあらわにした。
「もっちろん!読ませてください!」
彼女もまた、日光に照らされる向日葵のように答えた。
「それじゃあ最後の講義は、その本を読んでみることですね!」
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少年はこの時、七つだった。七つでありながら、六十を越しても理解する者が少ない書を読み上げてしまった。
「…へぇ。この本、最高に面白かった!」
彼は読み上げた達成感と、まるで長時間にわたり行われた感動的な劇を見て、家に帰ったかのような気持ちを味わい、衝動的にぴょこぴょこと跳び回った。
「孔子!やっぱ孔子はすごい人だよ!こんな常識、作り出すの大変だったろうなあ!」
楊玉環は満足そうに微笑んだ。
__________本に夢中になりすぎた司馬章が本から目を話すと、そこに楊玉環の姿は見えなかった。
「玉環様!これ以上は無理でございます!諦めてくだされ!」
司馬章に最後の言葉を述べずに馬車に乗り込んでしまった楊玉環は、さようならの一言だけでも…と、何度も懇願したが、従者の男はすべてを拒んだ。
彼女はついに感情的に言い放った。
「なんなんですか!そもそもまだ時間は沢山ある!ほんの少しだけ何か伝えることすら許さないのですか!」
「黙れ!てめぇは無言で皇帝の嫁になって、楊家にデケェ地位と金を流し込めばいいんだよ!その顔と鍛え上げてやった知恵をいいことに、女が調子乗ってんじゃねぇ!」
従者の男の罵声が車内に響いた。彼女はあり得ないほどの冷や汗を首の裏に流し、針先のように小さくなった眼で、従者を見た。
「え…楊国忠…どの…?」
「………と、玉環様の御父君は仰っておりましたが、私はそうは思いません。私は、玉環様を心から慕ってきた身として言えます」
悪魔のような形相をしていた従者は、一刹那のうちに仏のような顔に変わり、爽快な目で空を見つめた。
「これから長安に行き、皇帝陛下の妃となるのです。そのときに立場は御父君と逆転する。御父君を見返すつもりで、どうか我慢なさってください」
「楊国忠どの…」
彼女は従者の言葉に勇気付けられ、未来への前向きな気持ちが戻って来た。
だからこそ、あの少年に一言託して向かっていきたい。それなら、楊国忠も納得してくれるだろう。
彼女はそう考え、馬車の外を見た。
そこから見えたのは、遠のいていく洛陽の景色だった。
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これは、十年前の話であった。司馬章はそんな思い出を頭に浮かばせて、楊玉環という女性を必死に探す。
きっと、あの人は長安の名家の出身で、今も洛陽のどこかで本を読んでいるのだろう。
司馬章は、そう信じていた。
「馬車が通るぞーッ!」
兵士たちの声が彼の足を止めた。左を見ると、そこには開かれた城門を潜り抜ける一台の馬車と、それを護衛する兵士たちの姿があった。
歯車はがらがらと五月蝿く夜道に跡を付けるが、車内は西の田舎村よりも静かだ。
兵士たちは話し合っている。喜んでいるようにも見え、怒っているようにも見える。おそらく、罪人を運んでいるのだろう。
「さぁ、見張りは誰が行う?皇帝も宰相も、上将もいない今、我々だけで決めなければならんぞ」
「俺にやらせてくれ。国を乱したクソ女の死に様を笑ってやりたい」
(クソ女…?)
「待て、俺がやる。楊貴妃…いや、楊玉環!そいつが首を締め付けられた苦しむザマを見て、国中にそれを伝えたい!」
司馬章はかかとから炎を噴射し、兵士たちの中に飛び込んで、こう叫んだ。
「待って!その役目…俺にさせてください!」




