第35話 我が師へ、ありがとう
その悲劇は、突然起こった。
楊国忠が死亡した翌日、馬嵬という地にて、皇帝の一行を乗せた馬車が長安直属の兵士たちによって襲撃されたのである。
「な、なんじゃお前達は…」
果てしなく続く大陸の東半分を要する大帝国・唐。その皇帝は、かつての威厳を失ったかのように車内で両腕を掴み震えている。
あまりの弱々しい姿に、兵士たちは溜め息をついた。
「陛下、まず我々は陛下を狙いに来たのではございません。そこは、ご安心ください」
「で、では何しに来たのだ!」
「陛下が…国が望むことを遂行しに」
兵士の一人がそう言うと、玄宗の奥にいた一人の女へ槍を突き出した。
肩の上を刃が走る。玄宗は、「ヒッ」と声を出して腰を抜かしてしまった。
後方にいる女は、目前に止まった槍先に動じることなく、一巻の書を読んでいた。
兵士は彼女の態度に関心したのか、ゆっくりと槍を下げて、頭を下げる。
「失礼。ここでは傷一つ与えてはいけない決まりでした」
女は、相変わらず読書を続けていた。兵士にも、玄宗にも目を向けることなく。
「お二人には、この反乱が起きた元凶を理解して頂きたい」
玄宗は冷や汗を流して答える。
「安禄山!あやつに決まっておろ…」
「否、奴はその元凶に左右されただけに過ぎません」
「だ、誰じゃ…」
兵士達は、口を揃えて答えた。
「楊国忠です」
玄宗はその時にすべてを悟った。彼は頻繁に安禄山のことを悪く言っており、二人が不仲であることは理解していた。
そして、楊国忠に不思議な癖があることも然り。
「ですが、国賊・楊国忠は昨夜、我々で始末しました」
「そ、それでいいではないか。何故、朕らの馬車を狙う」
状況を理解しない皇帝に、兵士たちはがっかりする。
「お分かりですか?貴妃様に理性を奪われ、政は楊貴妃様の従兄弟・楊国忠に任せるようになったことで、奴の台頭、そして反乱を招いたのですよ」
さっきは槍を突き出さなかった別の兵士は、力強く槍を地面に突き刺した。
「かつて名君と呼ばれた陛下は、この女の美貌に判断力も理性も全て奪われ、骨抜きにされたのです!いわば、この女は傾国の美女!かの紂王の妃・妲己と変わらぬ化け物でございます!」
その兵士の拳から、滲んだ血が見える。顔の血管も血が溢れそうなほどに浮き立っていた。
その後、玄宗は必死で楊貴妃を庇い、兵士たちと感情的な議論を繰り返した。
朕は貴妃を愛している、貴妃には何の罪もない、朕は貴妃がいなければ政務ができない、楊貴妃は国賊で多くの民を苦しめた女だ、彼女を殺さなければ民に示しがつかない、このまま庇うようなら陛下は皇帝の座を息子に譲るべき、貴妃を宮中に招き入れたこと自体間違いであった。と、ありとあらゆる方向で両者の意見が水を掛け合う。
玄宗は次第に苛立っていき、ついに拳を振り上げる。その時、楊貴妃が馬車からゆっくりと降りた。
「私が死ねば、宜しいのですね」
「流石は楊家の賢女と呼ばれたお方だ、物分かりが早い」
兵士たちは彼女の袖を掴み、彼らの馬車に目を向けた。
「連行しろ!」
玄宗は慌てて彼女の背に手を伸ばしたが、無抵抗な貴妃を連れて歩く兵士たちの方が僅かに早く、その背は遠のいていった。
「待て!待ってくれ!」
玄宗の願いも虚しく、馬車は彼女を乗せた瞬間、北に向かって走り出してしまった。
楊貴妃は、馬車の中で玄宗を見ることも、今後の保身を案ずることなく、ただただ一冊の書を読み続けた。
"炎論"と書かれた小さな書は、少しも彼女の手から離れなかった。
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三日後、長安にて。
「李光は字が下手だなぁ。ほんとに思想家?」
美味しそうに小麦を練った菓子を食べる司馬章の横で、孫操備が、震えて思超書に加筆する李光に対して笑う。
「うるせぇな、お前だって八つの頃まで字が書けなかったくせに」
李光が言い返した瞬間、孫操備は図星になった。
「ま、まぁ…でも司馬章だって字を書くのに苦労しただろ?」
孫操備は唐突に司馬章に話を振る。その時、司馬章の手が止まった。
落とさないように掴んでいた菓子が落下する。床にその表面が着く寸前に、我に帰った司馬章が拾い上げた。
「危ない…危うく食えなくなるところだった…」
「司馬章?どうかしたのか?」
司馬章の気が飛んだような動きに、二人は首を傾げる。
「いや、なんでもない。眠くなっただけだ…多分」
今は太陽が真南にあるほどの昼で、午前中も彼らは疲れるような仕事をしていない。ここで眠くなるのは不自然だ。
司馬章は思い出したかのように、家を飛び出し、外へ走っていった。
「どうしたんだ…アイツ」
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司馬章は、王宮周り、商店が並ぶ大通り、城壁の内側をくまなく走り回った。途中で諸葛允や竜隋に遭遇したが、走り回る理由は一切伝えなかった。
いつの間にか日は西に沈み、青黒い空が登ってくる。司馬章は、腰を下ろして涙を流した。
「あー、俺は恩返しが出来ずに生きていくのか」
彼の服の内側に入れていた思超書に挟んであった紙を取り出す。そこには、「玉環様へ、」と書かれていた。
彼は、玉環という者に届け物がしたかったのである。それが叶わず、彼は嘆いていたのである。玉環という名は、男性につけられる名前としては考えにくい。司馬章は、とある女性を探していた。
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今から十年前、洛陽のこと。
司馬章はまだ幼い少年でありながら、祖父以外の家族を既に亡くしているため、家にいるときはずっと絵を書いていた。祖父は毎年秋から冬にかけて、はるか東の方へ用事のために出かけており、その間は知り合いの男が幼い彼の面倒を見ていた。
「おじさん、じぃちゃんはいつ帰って来るの?」
「章ちゃんのじいちゃんはね、春になる前に必ず帰ってくるから、それまでに字をかけるように頑張ろうか」
司馬典は出かける際、司馬章に字を書かせるようにお願いしていた。そのため、知り合いの男は毎日字の書き方を司馬章に教えていた。
「おじさん!書けた!"山"だよ!」
そう言って司馬章が見せた紙には、大きな"川"の字が載っていた。
「…やれやれ」
男は頭を抱える。そう、筆記において彼は飲み込みがとても遅かったのだ。
そして、七つにもなって字が書けないのは非常に珍しく、同い年の子ども達からの嘲笑の対象となる。司馬章も無論、近所の子どもたちから嘲笑された。初めて字が書けないのを馬鹿にされたとき、彼は嫌な思いをすることなく一緒に笑っていたのだが、それが幾月も経つと悪化するのが世の常。いつの間にか、司馬章は石を投げられ、砂まみれになり、遊ぶ友達もいなくなった中で一人で地面に絵を描くようになった。だがそれも同い年の子ども達に見つかると、絵を踏み散らかされ、罵倒され、死んだミミズを食わされ、髪もむしり取られる。家の中でしか憩いの場を見つけることができなくなってしまった。
(ぼくがみんなからいじめられるのは、モジなんかがあるからだ!モジなんてなければ、ぼくはいじめられなかったのに!)
司馬章は、日に日に文字が嫌いになっていった。
「章ちゃん、今日も難しいかい?」
ある日の朝、男は司馬章に尋ねる。司馬章は、薄い布に全身を隠したまま、何も答えなかった。
「…そうか、そういう日も、あっていいよな」
「…しくない」
「ん?」
「楽しくない!文字なんて消えちゃえばいいんだ!文字なんか、ない方がよっぽど楽しい!」
司馬章はぐしょぐしょに泣いた顔を布から出した。首から下は布の中にあるが、外からでも分かるようにブルブルと震えていた。
「章ちゃん…」
それから一月が経過した。その時の洛陽は、近々通過してくる"楊家の宝石"と呼ばれる高貴な女性の話題に溢れていた。
どうやらその女性は、正式な皇帝の側室となるらしく、帰郷した蜀州から長安へ戻る最中に、ここ洛陽を通るという。
男は、女性の美貌を一度拝みに、と司馬章を連れて大通りに来た。
「章ちゃん、よく見ておくんだ。絶世の美女と名高い楊玉環様のお顔を」
男は、ワクワクしながら司馬章を肩車する。司馬章も、始めこそ関心がなかったものの、通過の時が近づくにつれてワクワクするようになっていた。
「見えたぞ、あれだ」
ついに視界に馬車が見える。住民たちは皆、顔を揃えて馬車の中を見つめた。
開いた戸の中に見えるは絶世の美女だ。彼女は、周囲の歓声に自惚れたように微笑むことなく、恐れることなく、凛とした視線をただただ一つの赤い書に向けていた。
その賢女の振る舞いを見た住民たちはますます歓声を大きくする。
「あれが、玉環様?」
「あぁそうだよ。美しく、賢く、強いお方だ」
その美しさに惚れたのか、はたまたその冷静さに惚れたのか、司馬章は楊玉環から視線を離さなかった。
男が彼の目を覗き込む。彼の眼玉の中心には、赤い点が一つ。その赤点は水面に映るかのように揺れていた。
一方、車内では楊玉環が従者らしき年上の男に話しかけていた。
「私がなぜ、十日も早く出発したのか。その意味はここにありました」
「…と、言いますと」
「七日ほど、この街に留めてくれないでしょうか」
従者の男は驚いた。この方は何をおっしゃるのか。と、言いたげに口をガクガクと動かすと、彼女は続けて言った。
「お願いします。ここで、お会いしたい方がいるのです」
「チッ」
「?」
「…チッ、チョッ、長安にィ間に合うなら問題ないかと」
従者の男は慌てて言葉を付け加えた。
「ありがとう楊国忠。では、ここの大通りを抜けたら下車しますね」
楊玉環は優しく微笑んだ。
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大通りを通過したあと、住民たちはバラバラに帰宅し、日常が再開した。日常とは言っても、宿屋にとっては大忙しな日になったが。
「早急に宿をとれ!」
ドタバタと慌てて宿を取る楊玉環の従者たち、それに対応する宿屋たち。そして、楊玉環は日が沈むまでの間は自由な行動が許された。
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「確か、この家だったはず」
楊玉環は一件の古びた家の前にいた。一冊の赤い書物を握りしめて、戸の前に立っていた。
(ようやく、私の心の師にお会いすることができる)
冷静な表情の裏には、燃え上がる期待に満ちていた。楊玉環は、そんな期待を留めて置きながら、戸を叩いた。
「はーい」
出てきたのは年が七つの小さな少年。眉が少しだけへの字に下がっていた。少年は昼間の女性を見るなり、ふと思い出したような顔をした。だが、特別驚くこともなかった。
「この家に、司馬典どのはいらっしゃる?」
楊玉環が優しい笑顔で声をかける。この少年…そう、司馬典の孫の司馬章は、静かに首を横に振った。
「おじいちゃんは、春になるまでは帰って来ないよ…いや、帰って来ません」
司馬章は高貴な身分の女性相手に何故かタメ口を使ってしまったことに驚き、慌てて敬語に訂正した。
「フフフ、そうですか」
彼女は、残念な事実に落胆することなく、笑顔で返した。
「失礼致しました。ではこれにて」
彼女が去ろうとしたときだった。
「あ、あの…!」
司馬章の声で、楊玉環は振り向いた。
「その書…たくさん字がありますよね!僕に見せてください!」
その後、楊玉環は彼に持っていた書を見せた。赤みがかかった書ではなく、白い表紙の道家の哲学書だ。
「え、えーと…この字は」
飛びついたは良いものの、彼は困惑している。その顔を見た楊玉環は悟った。
彼は、字が読めないのだと。
そして、彼女は決心した。憧れの思想家であり、幼い頃から心の師にしていた賢人・司馬典の孫であるこの少年が、文字を読めるように私は尽くすべきなのだ、と。
「…貴方、お名前は?」
「し、司馬章です…」
彼は一滴、涙を眉先に垂らしながら答えた。
「司馬章。明日から毎朝、ここに来てくださる?」
「ど、どうして…」
「尊敬する師への使命を果たしたい」
彼女は、恩師を見るような目で、教え子を見た。




