第33話 昇龍落槌
希望は滅び方に在り。ただ虚しく終わるものかと、血と混ざった土を避ける雌しべ。あの雄しべが同じように落ちたとき、果たして雄しべは避けるのだろうか。
長安王宮・紫宸殿。楊国忠は有頂天に達していた。もう、我が堕落道を阻む愚者はいない。自身に劣らぬ堕落っぷりでありながら、その立場を保つことの出来なかった無能皇帝もいない。
___私が王だ。
死ぬまで永久に貧民の血汗で出来た産物に満たされ、抗えない恐怖と絶望感を民衆に見せつけることで、悔しがる民衆の顔を見ながら王座に座れる。
人の史上、類どころか下さえ見えない高次元の堕落を極めるのだ。
死後の世界など知ったことか、地獄に落ちる?上等だ。
私は、私だけが堕落を極めるためだけに生きてきたのだから。
「今より、軽く十年かのぅ…私が死ぬ、その時まで、私の時代が始まるのだ」
楊国忠はコツコツと肉樹の床を歩く。
その高貴な服は、薄汚く傷がつき、整った髭もすっかり乱れ、靴は、真っ赤な血で塗り尽くされていた。
「お前達は、私に歯向かった最後の愚民たち。お前たちの死を持って、未堕落の時代は終わり、紂王や桀王すら越えた贅沢な時代の始まりとして、相応しい死に様を私に魅せろ」
楊国忠は右を向いた。右には、先ほど鄭回が身を挺して守った衛兵たちが、無惨にも肉樹に突き刺されており、血を吹きながら倒れていた。
その鄭回は肉樹の餌食になってはいなかったが、大きな傷ができ、そこが青く膨らんでいた。
その後、諸葛允の方へ、一本の肉樹を向けた。
「さぁ諸葛允、最後に言い残すことはあるか?」
諸葛允は楊国忠を睨みつけながら言った。
「言葉じゃない、質問だ。聞きたくないなら早く殺せ」
楊国忠も溜め息をつく。前々から面倒な人間ではあったが、死ぬ間際まで面倒な人間だ。
「…いや、言え。最後の抗いし愚民の言葉は、いくらでも聞くぞ」
許しを得ると、諸葛允はゆっくりと呼吸をする。呼吸をして、もう一度楊国忠を見ると、はっきりとした声で言った。
「楊国忠、お前は負ける。なんで負けるか、分かるか?」
そう言う彼の表情は、笑っていた。何度も敗北し、唯一の勝機と思われた鄭回も戦闘不能。言い残す言葉を聞かれることは、死を意味することであるのにも関わらず、笑っていた。
楊国忠は、そんな彼を鼻で笑うかのようにして答える。彼はどこか不快である。不快だからこそ、鼻で笑っている。
「まだ、策があるとでもいうのか?」
諸葛允は首を横に振る。
「それとも、お前に私を倒せる力がまだあるのか?」
これも違う。
「それ以外の誰かか?」
これも違った。うんざりしてきた楊国忠は、もう一度溜め息をつく。
「…もう答えを言え」
諸葛允はそれを早く言いたかったのか、何か瞳を明るくして言った。
「…お前には、"手下"はいても、"仲間"はいないからだ」
_____仲間がいない。それが何だというのだ。と、楊国忠は不快になる。だが、黙って彼の話をそのまま聞くことにした。
「手下は、大将が死んだら一目散に散らばって、戦いに負ける。誰も、死んだ大将の意志なんて知らない。そうだろう?」
その通りだ。歴史上のあらゆる戦争で、指揮する者が死んだとき、兵士たちはバラバラに逃げていくように、とある学問の大成を目指した学者が死んでも、その弟子たちが引き継ぐ例が少ないように。
縦の集団では、上の死こそが、敗北を意味する。
「だが、仲間は違う!ここで誰かが死んでも、仲間は逃げたりしない!必ず死んだ者の見えない身体を背負って、最後の一人が死ぬまで戦い、生き残り続ける!」
諸葛允は、盟友・子兎魯の肩を担いで立ち上がる。
「だから、仲間もいねぇお前に、負けるわけがねぇんだよ」
子兎魯も、小声で吐き捨てた。そして諸葛允は、慌てて突き出て来た肉樹を駒で弾くと、大声で天井に向かって言い放った。
「戦いは!最後に残った者と!その仲間たちが勝つ!」
「戯言をッ!」
急いで楊国忠は細い肉樹を五十本生やし、高速で二人に向けて飛ばした。勢いづいた肉樹は駒を容易く破壊し、弓矢のように二人の身体に突き刺さった。
「ええい、何が仲間じゃあ!人は己のことのみ考えるべき生物!仲間がどうこうほざく馬鹿が、人の世界では淘汰されゆく!そんなに仲間が好きなら、冥土で永遠に仲良くしとれ!」
全身に肉樹を喰らい、再び倒れる二人。楊国忠は、怒りの頂点に達し、肉樹を大量に生やした。
「貴様らも、この小僧どもも!まとめて串刺しにして終いじゃああああ!!!!!!!!!!!!!!」
その数、四百四十四本。楊国忠の八方を囲うように生えた肉樹が天井近くまで伸び、それぞれの攻撃対象に先端を向けたときだった。
孫操備が呟いた。
_____僕たちの、勝ちだ。
『昇龍落槌』
緑の龍が、楊国忠の背中を貫く。
そして楊国忠は倒れ、緑の龍は突如として消えた。
地に横たわるのは、胸部と腹部を綺麗に削られ、脇から上、腰から下のみ分離されて残っている老いた男。そして、龍がいたところには、一本の槍が止まっていた。
孫操備と李光は槍先から柄に向かって目で追っていく。その先に見えたのは、柄を掴む槍の持ち主らしき青年と…
司馬章の姿があった。
「待たせて済まなかった。二人とも」
司馬章が汗を拭って言った。
「ハァ、ハァ、司馬章…来てくれたんだな!」
「俺は、途中でお前たちを見捨てるなんてことはしない」
「へへっ、カッコつけんな!」
李光は苦し紛れに笑うと、その場に勢いよく倒れ込んで、力強く拳を上げた。
「司馬章…僕は、君を信じていた」
そう言って、孫操備が左手を顔に当てる。
「……………信じていて、良かった!」
左手で隠していたが、孫操備の目には僅かに涙があった。
一方、槍を持つ男・竜隋は槍先を一回転して血を払うと、楊国忠に背を向けた。
「地獄へ行って来い。お前が地下の者たちにした仕打ちよりも、酷いものが見えるぞ…」
竜隋がそう言い捨て、歩き出したときだった。
「貴様ら…これで…終わるとでも…思うなァァァ!」
王宮の紫宸殿、つまり、楊国忠の思超・酒池肉林の適用範囲内のすべての壁、床、天井から、肉樹が生えてきた。肉樹はじわじわと長さを増し、紫宸殿を埋め尽くしてしまうかのように広がった。
「貴様らも、地獄行きじゃあああァァァァァァ!」
すべての肉樹が、一度に下を向く。惨殺の刻は来たとばかりに、無慈悲な赤い肉の氷柱が降ってくる。
「おい…嘘だろ…!?」
李光は上げていた拳を下ろした。今更、起き上がったところで串刺し、逃げたところで串刺し、この場にいるだけで、串刺しは免れない。
「は、司馬章!?」
だが、司馬章は跳び上がった。跳び上がり、身に纏った炎で空気を押して更に上昇した。
『華朱牙燃』
一つの閃光が、八方に広がる。回転しながら落下する司馬章の両手から放たれた火炎が、大きな渦となり、天井の肉樹に向かって襲いかかった。
「この空間、血と酒で出来ていたから、よく燃えた!」
壁や天井に無数に広がっていた肉樹の大群は一瞬で、消し炭にされてしまった。
「馬鹿な、私は…ここで…くたばるとでも、言うのか…」
最後の手段が瓦解した楊国忠は視界が少しずつ闇に塞がれていく。
そして、死の間際に目に写ったのは、酒池肉林空間を焼き尽くす司馬章の姿でもなく、トドメを刺した竜隋でもなく、他の思超家・衛兵たちでもない。
黒く長い髪をした、部下と思われる男だった。
「貴方にはがっかりした。堕落の極みに立てなかった貴方如きに使われる"酒池肉林"は不憫でならない。」
「な…何を…言う…」
「せいぜい、地獄で一貧民として過ごしてゆけ」
「天ェェェン理ィイイイイイイイィ!!!!!!」
楊国忠の断末魔が、紫宸殿に響いた。




