第31話 囚われのトカゲ
夜が深くなり闇も強まる。かろうじて生え残っていた李の木は、雌しべだけが落ちてゆき、残された雄しべは花弁の中で月を観ながら、老い先短い余生を送る。
鄭回たちが楊国忠と戦う一日前、楊国忠は王宮の地下にある小さな牢獄を訪れた。牢には、楊国忠と対立した官僚、宦官、武官、元節度使の者まで飢えた身体を横にしながら震えていた。その数は三十人ほど。この牢獄で餓死した者たちは皆、酒で出来た池に捨てられている。
投獄された者たちの中に、一人だけ思超家がいた。彼は、一本の槍を掴んだまま座っている。
楊国忠は、その思超家のいる牢を訪れた。彼と目があった瞬間、男は楊国忠を睨んだ。
「どうだった?目の前で人が絶望する姿は」
男は答えない。楊国忠を睨んだまま、一言も喋らなかった。
「そんな目をするな。今日は飯を与えぬぞ。それともここを出て、死んだ官僚の肉でも喰らうか?」
「…貴様!」
男は手元にあった槍を掴み、楊国忠に向けて突き出す。だが、槍先は楊国忠の鼻の先で制止した。男は、制止した槍をさらに前に突き出そうとしない。格子の隙間は意外にも広く、槍を操作するには申し分ない幅だったのにもかかわらず、男は槍を止めている。
楊国忠は槍先を掴み、少し力を入れて、へし折った。
「自慢の龍は出なかったようだな」
楊国忠が吐き捨てる。男は獄中で、槍の柄を外に向かって投げ捨てて呟いた。
「本物は、どこだ」
「…歳のせいか、よく聞こえんわ」
「俺の"龍義忽崇"はどこにある!」
楊国忠は男の罵声を無視して去ってしまった。
それから少し経過する。男は、相変わらず同じ場所に座っていた。
(ここに収監されて半年。死なないように食事を与えられ、生き延びてきたが、これ以上、生き地獄を味わう訳にはいかない)
男は、脱獄成功の可能性を模索していた。あたり一面に広がる血痕、楊国忠が極秘で飼育している虎、人の死骸でより強い異臭を放つ酒の池…どれも醜く、脱獄には役に立たないものばかり。
男は、願っていた。誰でもいいから、ここから俺を出してくれ、と。それはあまりにも贅沢で、叶う事もないのかもしれないが。
かくして彼は溜め息をついた。このまま無様に生きながらえるくらいなら食事を拒んで餓死してやろう、わざと楊国忠の怒りに触れて殺されよう、与えれた肉を腐らせてから食べて死のう、次々と生への諦めの言葉が流れてくる。
その時だった。遠くの階段の先にある扉が、大きく音を立てて開いた。開かれた扉からは、無数の光と一つの影が地下牢に差し込む。
「操備!李光!」
扉を開いたと思われる青年は、人を探していた。それにしても、とても焦っている。青年は駆け足で階段を降りると、地下牢の血と酒が放つ腐臭に顔をしかめた。
「うっ!なんだこの臭いは…」
手の内側で軽く鼻呼吸をして、目で臭いの元を探ると、そこには部屋のほとんどを占める酒の池が見えた。バラバラになった人骨が浮かび、陸地には屍を積んで木の形を作っている。
(どこも血がついている。それにしてもこの死体の量…華やかな王宮の真下には、こんな恐ろしい部屋があったのか!)
青年はゴクリと唾を飲んで、奥へと進む。この先で、操備と李光が戦っているかもしれない。場所はよく分からなかったが、直感で歩みを進めた。
(酷い…これ全部、楊国忠に殺されたのか)
今は、暴君への怒りよりも恐怖が勝っていた。ここに点在する骸の数々は、楊国忠に刃向かった者たち。この酒の池に沈んだ腐肉は、楊国忠が気に入らなかった者たちの肉体。室内に染み渡る血の香りは、楊国忠に無惨に殺された者たちの無念。
地獄とは、このような場所を指すのだろう。
寂しさと恐怖心を紛らわすために、司馬章は掌に火を灯した。
そして、彼は天井に向かって言った。
「誰か、いないのか」
その声は隅々まで響き渡る。声が消えたとき、彼の足には、冷たい何かが付着していた。
司馬章が驚いてそれを振り払うと、足元から声が聞こえた。
「ここに一人…あの池の向こうに二人…階段の側に四人、左の檻に十六人、池に浮かぶのは一人、そして1番奥の檻に一人いる…本当はもっといたが、皆、死んでしまった」
暗い部屋では声の主の顔も見ることができない。司馬章は手持ちの蝋燭に火を付け、足元に静かに置いた。明かりに照らされ、彼の目に映ったのは、役人らしき弱った男。彼こそが、先ほどの声の主だ。その役人らしき男は、下半身が血塗れになっていた。
「大丈夫か!?僅かだが布は持っている。これであなたの血を…」
「いや、いい。私はまだマシな方だ…それより、池に浮かんでるヤツを助けてくれないか」
役人らしき男は弱々しく、池に浮いている男を指差す。司馬章は急いで酒の池に飛び込み、その男を引き上げた。池は、酒とは言ったものの、実際は血の匂いも混ざっており、底には一本の鋭い槍がある。溺れた者は、あの槍で身体を貫かれて亡くなったのだろうか。いずれにせよ、楊国忠という敵は、相当趣味の悪い者だということを改めて認識した。
(気持ち悪い…この池、酒で出来ている!なんて趣味の悪い所なんだ!)
司馬章は嘔吐を我慢して、その男の胸を何度も押した。
「頼む!無事であってくれ!」
押すこと百五十回目、司馬章は一度手を放して、役人らしき男が胸を触る。
_____その胸は、冷たかった。加えて、鼓動の一つもない。役人らしき男は首を横に振った。
「そう…か…」
司馬章も悟る。だが、死の淵に立っているのは他にもいる。司馬章は、池の向こうに倒れていた男たちに声をかけた。
二人の男は目を開けて、片方は「楊国忠…呪ってやる…」と、つぶやきながら息を引き取った。もう片方の男は肩に大きな痣がついていて、それを手で抑えながら立ち上がった。
「良かった。包帯があるから、これを痣に巻いてくれ」
「恩に…着るよ」
大きな痣の男は包帯を身体に巻くと、息を引き取ったもう一人の遺体に、ゆっくりと包帯を当てた。
「その人は、もう」
「分かってる。でも、アイツが傷だらけのまま天国には言ってほしくないんだ」
痣のある男は、包帯を巻き終えると、僅かな涙を流した。
この二人は、同じ志を持った同胞だったのだろう。あるいは、投獄されてから芽生えた仲だ。司馬章は、二人の思いを汲み取って、その場で痣のある男が亡くなった男を弔うのを静かに見守った。
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残る二十一人のうち、二十人を司馬章は開放したが、そのうち階段にいた四人は既に亡くなっていた。本当はこの四人もしっかり弔いたかったが、十九人の生存者たちが残りの一人を早く開放すべきだ、と伝えたので、司馬章は残りの一人の元へと向かった。
これまで六人を眼の前で亡くしている。これ以上、犠牲が出ませんように、と祈りながら、司馬章は一番奥の檻に到着した。
檻の中には、司馬章と同じ年くらいの男が座っていた。彼だけは意識もまともに保っており、司馬章が声をかける前に、その存在に気づいたようだった。
「…楊国忠の兵か」
「違う。その楊国忠を討ちに来たんだ」
その男は、冷静な表情をしたまま立ち上がる。龍のようになびく緑の長髪は、汚れた地下牢に長く幽閉されていたとは思えない程に艶がかかっていた。
「ちょっと待ってくれ。今、この檻を壊すから」
司馬章はそう言うと、縦と横が垂直に交差する硬い木の檻を掴み、少し強く握って檻を燃やした。
檻は一瞬で灰と化し、男の脱獄への道は開かれる。しかし男は、一向に檻から出ようとせずに、キョロキョロと当たりを見渡して言った。
「槍はないか?」
「槍?」
「あぁ。俺の所有物なのだが、楊国忠に没収され、この地下牢の何処かに捨てられているはずなんだ」
司馬章は、その言葉で思い出した。そして、酒の池まで走り、勢いをつけて飛び込んだ。そう、酒の池の底に、一本の鋭い槍が立っていたのだ。
酒を飲んだことがない司馬章にとって、酒の匂いと酔いの効果はかなり大きいものだった。槍は池の底にあるため、潜れば潜るほど大きくなる水圧に身体が押し潰される。魏匠との戦いで負った痛みは、まだ癒え切っていない。全方面から喰い込む水圧が、締め付けられるような痛みを追加する。
そんな痛みに耐えながら、ついに司馬章の伸ばした手が槍先に届いた。掌にも痛みが走るのを覚悟して、司馬章は槍先を掴む。もちろん、鋭利な槍先は彼の皮膚を簡単に裂いたが、大きな傷が付く前に、彼は取っ手を柄に掴み変えた。柄は底に深く刺さっていないか心配だったが、案外柄先はグラグラと揺れていて、軽く引っ張ると簡単に抜けた。
そのまま司馬章は水上へ浮かび上がり、顔を出したところで大きな咳を込みながら、床にぐったりと這いつくばって叫んだ。
「ハァ…ハァ…あったぞ!持っていた槍はこれか!?」
男は冷静な表情を崩して喜んだ。
「それだ!感謝する!」
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「名前を教えてくれないか」
酒に塗れた服を乾かしている司馬章に、男は聞いた。
「俺は司馬章。理由あって旅をしている思超家だ」
司馬章の応えに、男は驚いた。
_____司馬?
男は驚いた自分の表情を司馬章に怪しく見られたのか、いつもの冷静な表情に戻って言った。
「俺は竜隋。俺も、思超家だ」
竜隋は短い自己紹介を終えると、軽く溜め息をついた。
「そうか、宜しく。竜隋」
「司馬…か…」
「どうしたんだ?」
やや上を向いていた竜隋は躊躇いながら答えた。
「司馬章。父か祖父、または男の親戚の名前を上げてくれないか」
司馬章は、唐突に家族の名前を聞く竜隋に戸惑いながらも、目線を上に上げて答えた。
「俺の叔父は司馬関で、父の名前は司馬卓。どっちも、俺が幼い頃に亡くなった…
そして、祖父の司馬典」
このとき、竜隋は司馬章の言葉を遮った。
「それだ!」
司馬章は、突然声を放った竜隋にまたも驚いた。さっきから、彼は何を言いたいのだろうか。竜隋の表情は、長い間投獄されていたのにも関わらず、明るさを取り戻していた。
「…やはり、司馬典の孫だったか!司馬章は!」
まるで祖父と親しかったような口ぶり。竜隋は、司馬典となにか関係があったに違いない。
「じいちゃんのこと…知ってるのか?」
「あぁ!俺は、あの司馬典を師として、思超を極めてきたんだ!」
この竜隋という男は、司馬典の弟子だったのだ。利害の一致で解放した不思議な槍使いから、祖父の弟子だった男。司馬章の竜隋に対する安心感と信頼感が僅かに膨れ上がる。
「俺は司馬典…いや、先生から、思超のイロハを教わった。司馬章がそんな恩師の孫だったなんて、こんなありがたい出来事はない。先生は元気だったか?」
司馬章は、あっ。と、言葉を詰まらせた。孫の自分にさえ、会えたことを喜ぶ弟子に、尊敬する師の死を伝えることは、余りにも酷だ。
それ故に、彼は言葉を必死に選んだ。言葉を選ぶのにも時間がかかる。数秒の沈黙から、竜隋は察して言った。
「…済まなかった。先生は、洛陽に住んでいたな」
獄中とは言え、王宮の地下だ。反乱の発生に慌ただしく戸惑う宮仕えの者たちの声から、洛陽の惨状は知ったのだろう。
竜隋は、まるで亡国の王女のような、何か喪失感のある顔をしていた。しかし、その瞳には涙は出て来ない。
彼の心は、強かった。




