第22話 酒池肉林
_______子兎露はその日、地獄を見た。
少し前のこと____
楊国忠は『酒池肉林』と唱えて床に手を置いた。子兎露は楊国忠の思超を「気持ち悪い木を無数に生やす」と誤解していたらしく、思考は働いていなかったが、強者に驚く中型の肉食獣のような顔に変わった。
楊国忠が手を置いた点を中心に床全体が真っ赤な液体で浸かった。やがて壁の木が朽ちていき、ドロドロの血のような何かに変わる。天井は闇と化した。
ここを絵に表すなら…地獄である。
「驚くのも無理はない。こんな景色、絵でも見たことがなかろう…」
これが楊国忠の思超、『酒池肉林』である。分類は環境式(周囲の空間ごと変化させる)。まだ司馬章が見たことのない分類の思超だ。
「私の思超、『酒池肉林』は堕落の哲学。この禍々しい空間は全て、私の堕落のための犠牲たちよ」
もともと"酒池肉林"とは、古代中華王朝の有り様から生まれた四字熟語である。
殷の暴君で最後の王である紂王が、池に酒を満たし、木々に肉を掛け、男女を裸にして、その間を追いかけ回らせ、昼夜を分かたず酒宴を張ったという故事から作られた。贅沢や堕落の極みを意味するのに相応しい言葉だ。
「この力も、天理がいなければ得ることはできなかったがのぅ!」
楊国忠は堕落こそが最高の快楽だと考え、究極の堕落を追い求めていたのだ。しかし、どんなに権力を握り、どんなに富を保有しても彼の納得いく堕落に到達できない。そこで、それを超常で再現できると言った男が彼に助言を与えた。その男・天上王真理公子は楊国忠に様々な"何かを"託したことで、楊国忠は堕落の極みと感じる力『酒池肉林』を得たのだった。
『酒池肉林』の能力は空間変化。いや、空間改悪と表現してもいいだろう。彼の操る赤黒い木は「肉樹」と呼ばれており、この肉樹が彼の命令で人体を貫くことで得る養分を思超発動に備えて貯めている。思超が発動すると、肉樹の根本から屍のエネルギーを地面に送り続け、それで生じた血と酒の混合物が猫が沈むくらいの深さで地を埋め尽くし、室内を真っ赤に染める。またそこから新たな肉樹が次々と生えていく。
「ぅ゙、ウガァァァア!」
子兎魯は楊国忠に向かって獣の如く走り出した。だが楊国忠は、肉樹の攻撃を辞めさせるように手を横に伸ばしている。
子兎魯の間合いに楊国忠が入り、子兎魯の拳が突き出る。殴りであれど、並の人間なら首が飛ぶ。その拳が今、進んでいるのだ。
「…来い」
楊国忠は目前で肉樹を伸ばし、枝の先で子兎魯の拳を止めた。
「ググゥ、がアァァ!」
子兎魯はそれでも殴り続けた。楊国忠の顔だけを見て殴り続けた。その行動は、この戦いにおいて最も愚かな戦い方であると、楊国忠は頭で彼を軽蔑した。楊国忠は密かに、子兎魯の足元に肉樹の枝の先を結ばせていたのだ。
「無駄だ。お前の攻撃はすべて"肉樹"によって弾かれ、私の攻撃はすべて肉樹が執行する。理性を失ってでも戦うお前とは違い、私は楽に勝てるのだよ」
あまりにも楊国忠しか見ていない獣に憐れみを感じたのだろうか。楊国忠は一言助言した。だが、子兎魯の鏡のようにギラついた眼差しは変わらない。楊国忠は救いようのないクズを見るかのような目で子兎魯を見て、左手をサッと上げた。
その瞬間、背後から伸びた肉樹に子兎魯は背中を刺された。彼は血を吐き、攻撃の手を止め、猫背で立ち止まった。
「思う存分吸え、肉樹よ」
背中を刺した肉樹は、その傷口から血肉や生気を根のように吸収する。子兎魯の身体は痩せ、目に光をなくし、皮膚のシワが増えた。
ありったけの気力を吸い取られたのか、子兎魯は地面に大きく音を立てて倒れた。
「獣のように五感だけで戦うからこうなるのだ」
楊国忠は再度、軽蔑して吐き捨てると左手を上げ、
「では、痩せこけたこの愚か者の心臓を貫け」
と、肉樹に指示した。子兎魯は一応生きており、楊国忠は後で拷問する選択も考えたが、彼の思超に対する差別心からか、始末することを選んだ。
肉樹がじわじわと倒れた子兎魯に近づく。そして彼の胸に枝先が触れたときだった。後方からものすごい勢いで飛んできた駒に、肉樹の枝先が粉砕された。
「そこまでだ!」
楊国忠は不快そうな顔をして見上げると、南側の扉に三人の男が立っているのが見えた。諸葛允たちである。
「これ以上、好き勝手させる訳にはいかないね」
孫操備が親指で鼻の下を擦る。
「李光、立てるか」
「あぁ。立てるし戦闘もできるぜ」
指を布で巻きながら李光は答えた。流石だね。孫操備はそう伝えるように笑顔を見せると、真剣な顔に変わって楊国忠を見た。
歪んでいる…。孫操備が楊国忠を見るのは初めてだが、まるでそこら辺の悪い役人や罪人などとは次元の違う雰囲気があった。酒池肉林空間の影響ももちろんある。だが環境を解除しても同じに見えるだろう。孫操備は戦闘のことを一瞬だけ忘れ、楊国忠の"悪"と"恐怖"のことだけを考えていた。
「孫操備は李光の護衛を頼んだ!まずは私が戦おう!」
諸葛允の指示で、孫操備は今置かれている状況を思い出した。僕は何をやっているんだ、なぜ奴の悪意を考察してしまうのだろうか…。孫操備は感情の余所見をした自分を戒め、李光の前で防御の姿勢をとった。
諸葛允は、孫操備とは別の内容で余所見をしていた。それは安堵である。友の子兎魯が生きていたこと、それの安心感は楊国忠に対する怒りや恐怖、闘争心にも勝っていた。
よくやった、子兎魯。安心しろ、子兎魯。お前は負けていない…私が勝つまでは。
子兎魯にそう言い残して、諸葛允は前に進む。皇帝のいない玉座に堂々と座る楊国忠に向かって静かに歩く。襲いかかる肉樹は皆、彼の操作する駒に粉砕されていった。
「ここからは私だ!楊国忠!」
諸葛允は大きく叫んだ。
「子兎魯の敗北から何を学んだ?子兎魯が負けるならお前も負けるのだよ。殺れ」
楊国忠は相変わらず軽蔑の目で見つめている。数本の肉樹が多方面から諸葛允という一点に向かって突き進んだ。
…負けるものか。お前如きにここで死ぬものか。諸葛允は周囲の肉樹の位置を察知すると、空中に将棋台と駒を並べた。
『歩駒三十五、五列配備!』
諸葛允は台に7✕5列に駒を並べ、自身の前方に対応する巨大な駒を召喚した。最前列の七駒が肉樹の攻撃を防いで壊れたあとに、後方の三列二十一駒が諸葛允の横と後ろを狙う肉樹を急襲、粉砕した。
「すごい…楊国忠の動きを読んでいる…」
孫操備は目を輝かせた。数学式思超家は戦闘においても論理的、数的な思考を働かせなければならない。それを彼の見た中では完璧にこなしている。同じく数学式思超家である孫操備にとって、諸葛允は憧れとなっていたのだ。
「私の思超『孫子の兵法』は卓上の駒を動かすことで対応する巨大な駒を操作する能力だ。そして、左手の算盤で駒の数と動く速度の変更をする」
この場の全員は注目していなかったが、諸葛允の左手は算盤を高速で弾き続けていた。
右手もまた忙しくなる。諸葛允は次の指令を出した。
「歩駒十二、五列配備!速度全開!」
今度は12✕5列に駒を並べる。迎え撃つかのように、楊国忠も一列に肉樹を生やす。
『斜線陣!』
左の駒から順に突撃していく。楊国忠もそれをすべて打ち砕くために肉樹を右側から突き飛ばす。
「…と、見せかけて」
ここで楊国忠の想定外の言葉が出てきた。左の駒は肉樹の手前で回転し、後に続いた駒たちも前の駒の周りを回り、やがて駒たちは大きな渦を描いた。




