第21話 道家と無為自然
司馬章たちが魏匠と衝突する少し前、長安の王宮では楊国忠が皇帝、貴妃と何やら話していた。その周りでは宦官や官僚がバタバタと慌てて逃げる準備をしていた。
「陛下、貴妃様。この長安は先発隊の奇襲によって、大きな損害を受けています。ここも危険となる前に、長安から脱出し、蜀へお逃げください」
楊国忠が頭を下げて申し上げる。その顔は、国忠の名にふさわしい、忠誠心のある顔だった。
「そ、そうじゃな。早いとこ、ここを出ねば」
唐の皇帝、玄宗が震えた声で辺りを見渡した。あんなにも溺愛していた安禄山がどうして反乱を起こしたのか、若い頃の自分の治世で過去最高まで栄えた国がどうして荒廃しつつあるのか。それらを知らぬまま捕まるわけにはいかなかった。
玄宗は完全に逃げることしか考えていなかった。だが、楊貴妃が逆に楊国忠に質問した。
「国忠どの。それでは、国忠どのからお逃げください。反乱軍の狙いは国忠どのであるはず。なぜ、我々が先に脱出する必要があるのですか?」
その通りである。もとはといえば、安禄山と楊国忠の対立がきっかけでこのようなことになったのだ。安禄山自身、玄宗と楊貴妃に恨みはなく、反乱を"逆賊の楊国忠を討つ"という名目で起こしているのだから、楊国忠を優先して狙うはずだ。
楊国忠は一瞬、血管が顔に浮かんだ。
(ああああ!玉環の野郎…相変わらず勘が鋭い女だ…!奴がガキの頃に馬鹿になる教育でもしてりゃよかったなァ!)
だが楊国忠は表情を見られないように顔を更に下げると、ポロポロと涙を流した。
「…国忠どの?」
「ゔ、ゔおおおおおお!」
楊国忠が突然、号泣した。玄宗も楊貴妃も周りの官僚も皆、戸惑っている。
「貴妃様は私をお疑いになるのですか!?貴妃様が幼い頃より、従兄弟としてあらゆることを恐れ多くも教育してきた立場ゆえ、少々悲しく思いまする!」
「な、みっともないぞ楊国忠。国の宰相ともあろうお前がこんな…」
さすがの玄宗も今回ばかりは楊国忠に異を唱えた。だが、国の皇帝を目の前にしても彼の涙は止まらない。
「楊国忠どの、わたくしはそんなつもりは…」
「いえ、致し方ありません。私の疑いを持つような行動が悪いのです!長年、貴妃様のお側でお仕えした身にも関わらず、貴妃様のことを何一つ理解できない私は天下一の愚か者にございまする!」
「貴妃や、もうやめないか。揚国忠の言う通りに逃げようぞ」
玄宗もそんな楊国忠を哀れに思い、楊貴妃に疑いをやめるように諭した。
「…え、えぇ。ごめんなさいね、楊国忠どの」
楊貴妃も困惑しながら頭を少し下げる。このとき、楊国忠の目に涙は全くなく、むしろ誰にも知られないようにニヤついていた。
そう、楊国忠は楊貴妃の従兄弟にして教育係であったことをいいことに、彼女の同情を招いたのだ。
(チッ、玉環の野郎…ガキのときに読書なんてさせるんじゃなかったわ。こんな勘の鋭い女になるとは…)
玉環とは、楊貴妃が玄宗の妻になる前の名である。幼い頃より、従兄弟の楊国忠が読書や琵琶の稽古を徹底させた教育を行ったことで、皇族に一目置かれるほどの教養を得た。
だがこの男、楊国忠は楊貴妃のことなどどうでもよかったのだ。彼が楊貴妃の教育係になったのは、彼女を華やかに育てたい訳でもなく、楊家当主から頼まれた訳でもない。彼女を利用して自分がのし上がるためである。そのために洗練された教育を行ったのだ。
楊国忠は楊貴妃からの疑いが晴れたと感じると、部下に扉を開けさせ、扉の向こうにある馬車を指さした。
「では、馬車のご用意ができて降りますので、長安西門から蜀へお逃げください…」
彼の瞳には、玄宗も楊貴妃も映っていない。戦火の中で王座に座り、死にゆく愚民を嘲笑う自分の姿のみが映っていた。
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玄宗と楊貴妃が僅かな宦官・近衛兵を連れて馬車で長安を脱出した。
楊国忠は危機的状況にあるのにも関わらず、ニコニコしながら残った官僚たちに喋った。
「さあ、次は官僚のそなたたちもだ。急いでゆくと良い」
官僚たちは喜びの歓声をあげる。
「おお!我々の脱出の用意もしてくださったのですか!」
「もちろんだ。あなた方はこの国の柱。この老いぼれにできることはいくらでもしよう」
官僚たちは楊国忠に頭を下げると、皆キョロキョロと当たりを見渡した。
「さぁ、すぐに参れ」
「あ、あの宰相どの…ちなみに馬車は…」
「…………あの世行きのな」
突然、室内の柱がすべて赤黒い木に粉砕され、部屋が赤黒い木に覆われてしまった。同時に官僚たちの鼻に侵入したのは 血の匂い。
「ど、どういう御冗だんっ…」
次の瞬間、天井、床、前後左右から高速で伸びてきた赤黒い木が官僚たちの身体をすべて突き刺した。
官僚全員が死んだと確信すると、楊国忠の笑顔は消え去った。
「そなたらには安禄山を潰すための、私の養分になって貰うぞ」
だが、一人だけ意識があったようだ。彼は途切れそうなカラカラの声を必死に上げて言い放つ。
「だ、誰か助け…」
最後の官僚は「て」を言い終える前に天井から伸びた赤黒い木に貫かれて死んだ。その死に顔が、楊国忠をより喜ばせる。
「ハハハ!一人も生かして帰さぬわ!あのジジィの皇帝も恩知らず女も!直に私が殺ってくれるわ!」
そのとき、部屋に一人の青年が突入した。彼は部屋を塞ぐ赤黒い木を打ち破ると、驚愕の光景を目にし、吐き気を催した。
「こ、これは!?」
十数名の文官の屍、それを踏んで不服そうな顔を浮かべる楊国忠、ミミズのようにウネウネと動き屍を屠る赤黒い木。青年の視界に映るすべてが不快そのものだった。視界だけではない。鼻を研ぎ澄ませば香る血と酒が混ざった匂い、屍の上を飛ぶハエの羽音、今踏みしめている赤黒い木の泥のような柔らかさ…彼はすぐに五感すべてを失ってしまいたい気分になった。
「何をしにきた、子兎魯」
楊国忠が子兎魯という男を睨む。
「これ全部…お前がやったのか!?」
子兎魯は、かつての楊国忠の部下である。と、いっても、理由は諸葛允と同じだ。思超堂の維持のために楊国忠の下で働いていた。だがかつての部下とはいえ、上の人間に対する"お前呼び"は楊国忠の血管を少々暴れさせた。
「お前呼びとは…やはり反旗を翻すのは本当だったようだな」
「当たり前だ!思超を悪用し、無関係の人間を傷付けるお前に従うなんてごめんだね!」
子兎魯はそう反論すると、大きく深呼吸をした。
『無為自然・動』
次の瞬間、子兎魯は一歩で楊国忠に大きく近づき、二歩目で勢いをつけて手持ちの小刀を楊国忠に振り下ろした。赤黒い木が床から伸びて、小刀を弾いたことで楊国忠は斬られなかったが、彼は子兎魯の強みを改めて思い出した。
(『無為自然・動』か…この空間でよくそんな思超を使おうと思ったものだ)
『無為自然・動』とは、子兎魯の思超名である。中華を代表する諸子百家・道家はその祖である老子の、知や欲をはたらかせず、自然に生きることをよしとした"無為自然"の考えを奉じた者たちだ。老子は千年ほど前の人間なので、現在は無為自然にも様々な解釈が存在する。子兎魯は無為自然を「人は大切なときに考える力を放棄し、五感だけを使って生きていくべきである」と捉えた。このような子兎魯なりの無為自然の解釈が、『無為自然・動』を生み出した。
能力は、「思考の放棄」。放棄した思考の分だけ五感が研ぎ澄まされるため、反射神経などを活かして野性的に戦うようになる。文明が進んだこの世界では一見弱そうに見えるが、1対1の戦いにおいては優れた思超なのだ。
このときの子兎魯の速度、特に反応速度は楊国忠を大きく上回っていた。楊国忠が繰り出す木の攻撃を全てかわしている。
「だが子兎魯…貴様は私の思超を知らない。貴様の強みが弱みに変わる瞬間を思い知れ」
楊国忠は床に手を置き、思超の名を唱えた。
………『酒池肉林』




