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BEYOND SOUL  作者: 史邦ヒスト
東章 長安編
2/63

第2話 旅と友

 洛陽(らくよう)は陥落した。

 国は第二の都市を失った。

 孤独な男はすべてを喪った。


 洛陽(らくよう)長安(ちょうあん)の間に広がる道中。


 一人の青少年・司馬章(しばしょう)は道なき道をトボトボと歩いていた。

 無表情。固まった蝋燭のような顔をしている。


 ふと、目の前に一本の木が現れた。

 司馬章(しばしょう)は、その木で、ようやく腰を下ろす。

 悲鳴を抑えていた脚は、一瞬だけ悲鳴を上げ、眠るように落ち着いた。


 司馬章(しばしょう)は、腰に括り付けた袋に収まる二つの書物…祖父の【世炎論(よえんろん)】と、自らの血で書き写した【世炎論(よえんろん)】を読み比べる。


 続いて、右手を顎の高さまで挙げる。

 司馬章(しばしょう)は、【世炎論(よえんろん)】の力で火を起こそうとしていた。

 右手に力を入れること、五十秒。

 右手の上には、何も生じない。


「だめか…」


 洛陽(らくよう)を抜けて数ヶ月をかけ、彼は血の【世炎論(よえんろん)】の写しを完成させていた。

 ただ文字を移すのではなく、司馬典(しばてん)の思想を自らの思想と結合させる行為。

 だが、肝心な力…「思超(しちょう)」は、一向に彼の意のままにならなかった。


 司馬章(しばしょう)は冷たい溜め息をつき、左側の森へ歩みを進めた。


 彼は人目を避けた森の奥で、小枝と枯れ草をたくさん集めた。

 原始的に火を起こし、一度だけ額の汗を拭う。

 そして、太い木の棒の先端に布を巻く。

 起こった火は棒の先端に点火し、松明ができた。

 メラメラと燃える炎を右手で持ち上げる。

 司馬章(しばしょう)は、その右手に力を込めた。


(じぃちゃんの言う【世炎論(よえんろん)】の力…本当は、炎の流れを動かすものじゃなかったのか…?)


 司馬章(しばしょう)は、【世炎論(よえんろん)】をそう解釈する。

 自ら炎を生み出すなど、無理だと思ったのだ。


 松明を持ち上げること二百秒…。

 炎は大きさを増すこともなければ、遠くへ伸びることもない。

 いつも通り、普通の人間が持つ松明と変わらない。


「これもだめか……」


 彼は低い声で、古びた大木の根元に肩を落とした。


「結局、じぃちゃんは"仙人"か何かだったんじゃ…じゃなきゃ、俺みたいな普通の人間にも使えるはず…」


 そのとき、彼自身の脳が、「仙人」という言葉に反応した。

 今呟いた「仙人」とは道家思想における、神に近しい超人の意味だ。山奥に住み、「道」を極めた人の極致。

 一方、脳が反応したのは、「仙人」という言葉が、祖父の言った「仙人」の意味を想起させたからだ。


 祖父、司馬典(しばてん)の言った「仙人」…それは、自らの思考を世の真理そのものと融合させ、理の深淵に辿り着く存在。

 また、「思超家(しちょうか)の究極の姿」とも言っていた。

 思超(しちょう)は、対象との心の融合が必要なのではないか。

 思想を…自らの意志を理解するだけではだめなのではないか。

 司馬章(しばしょう)は、すぐに腰に括り付けていた自らの【世炎論(よえんろん)】を取り出した。綺麗な紙がペラペラと風になびき、とある記述が目に映る。


 火者、喜怒楽之父也。

 精神之祖、喜怒哀楽四端而已。

 哀也者、唯炎之不存耳。

 故火乃全精神之大祖也。


「火は、喜・怒・楽の父なり。

 精神の祖は喜・怒・哀・楽の四端のみなり。

 哀とは、唯だ炎の存せざるのみ。

 故に火は乃ち全精神の大祖なり。…か」


 司馬章(しばしょう)は意味の一つ一つを想起しながら読み上げる。

 火とは、喜・楽・怒の父である。

 精神の祖は喜怒哀楽の四要素であり、哀は炎がそこにないだけである。

 つまり、炎は全精神の祖である。…そんな意味だ。

 火炎の力を引き出すには、何か強い感情と火炎を精神の中で混同しなければならない。

 彼は、そう考えた。


 司馬章(しばしょう)は、もう一度松明を掴む。

 目を閉じ、今の自分に宿る強力な感情を引き出す。


 "怒"だ。


 たった一人の家族であった、祖父の命を奪った忌々しき思超家・天上王真理公子てんじょうおうしんりこうし

 彼に対する憎悪、復讐心…"怒"から成る多くの感情が言葉となって顕れ、彼の精神を満たす。

 憎悪の炎が込み上がってくる感覚。

 それは、心から心臓へ、そして、血を介して右腕に流れてゆく。

 松明を掴む右腕に力が入る。いよいよ、炎を操る時が来たのだ。


「ハァッ!!」


 司馬章(しばしょう)は声を上げる。


 しかし、松明の炎は全く動かなかった。

 精神を満たす憎悪の炎は、身体の中を暴れまわるだけで、実体として顕現もされない。

 司馬章(しばしょう)は肩を落とし、憎悪の炎は徐々に鎮火した。


「…まずは他の思超家の力を借りて、天理を倒すしかない…か」


 彼は疲労した身体に鞭打って立ち上がった。

 二冊の【世炎論(よえんろん)】を腰の袋に戻す。

 帯を強く締める。

 腰の汚れを払い、彼は再び西に向かって歩き出した。


 その日の夜、彼が物資を調達するために立ち寄った村で、一人の老いた行商人が、荷車を修理しながら彼に声をかけた。


「若者よ。道中、気を付けなさい。最近の道は、都にも田舎にも盗賊や人攫いがうじゃうじゃいる。特に長安へ向かう街道は、物資を狙う獣が多い」


 老商人は、世を憂いていた。

 彼は、不安の表情を浮かべて、黙々と修理を続ける。

 この国の者は皆、うすうす気づいていたのだ。

 洛陽が陥落したときから、この反乱は世を大きく乱す悲劇になる…と。


「…ありがとう」


 司馬章(しばしょう)は深く頭を下げ、再び長安への道を急いだ。


 道中、彼は幸運にも盗賊に遭遇することはなかった。

 洛陽脱出のときのように、彼は道を選び、人目を避けるように動いていたからだ。


---------------------------------------------------------------------------------------------


 彼は、時には歩き、時には運良く馬車を借り、村を出発してから五ヶ月半という月日を費やし、ついに長安(ちょうあん)に辿り着いた。

 本来、洛陽から長安(ちょうあん)までは二十日ほどの道のりだが、見知らぬ地への不安、そして何よりも唯一の家族であった祖父を失った喪失感が、幾度となく足止めさせた。

 彼は事あるごとに近くの村で腰を休め、悲しみをやり過ごす時間を必要としたのだ。


 五月中頃


 司馬章(しばしょう)は、目の前に広がる壮大な光景に、思わず立ち尽くした。


「こっ、これが……長安(ちょうあん)っ!」


 彼が目にしたのは、故郷の洛陽のそれよりも遥かに分厚く立派な城壁。

 そして、巨大な構造物の外からでも聞こえる、活気に満ちた賑やかな喧騒だった。


 この広大な都市こそが、中華の都、長安(ちょうあん)なのだ。


 彼は門番の承認を受け、巨大な城門がゆっくりと開かれていくのを目の当たりにした。

「開門ッ!」という合図に続き、扉がギィギィと重い音を立てながら開く。

 その奥には、中華の富と文化が凝縮されたような、魅力的な光景が広がっていた。


「おおおおっ!」


 司馬章(しばしょう)は、久しぶりに目にする大都市の光景に、心の底から声を上げた。

 反乱軍の攻撃は、未だ長安(ちょうあん)には直接及んでいない。

 市民たちは依然として賑やかに声を上げ、絹織物や陶器、香辛料などの数多の品々が通りを行き交っている。

 それは、かつての故郷・洛陽の、輝かしかった日々を思い出させる光景である。

 同時に、それが失われたことへの痛みを蘇らせた。


「洛陽…」


 ふと感慨に浸ったが、すぐに気を引き締めた。

 祖父の最期の言葉を胸に、彼はただ歩みを進める。


 しかし、大都市の繁栄の陰には、常に闇が潜んでいる。

 長安(ちょうあん)の治安も完璧なわけではない。

 しばらく歩くうちに、彼は、壁に塗られた泥の臭いが濃く漂う、人気の少ない路地裏に迷い込んだ。


「よぉ、若ぇの。金目のもの持ってるよな?」


 突然、三人の暴漢が目の前に立ちはだかった。

 司馬章(しばしょう)よりも二回りも大きい彼らの目は濁り、その手には荒い刃物が光っている。


 司馬章(しばしょう)は動揺を隠せなかった。

 彼は、学者肌の祖父の元で育ったため、武術はおろか、護身の経験もほとんどない。

 身体能力は人並みで、剣を持った相手に勝てる気配など微塵もなかった。


「ま、待て。そんなに金は持ってねぇって」


 必死に言い訳をする。


「んじゃ着ぐるみ剥がして帰んな!」


 暴漢の一人が嘲笑い、残りの二人が剣を抜き、彼に斬りかかろうとする。

 彼らは司馬章(しばしょう)の持つ簡素な旅装すら、金に換えようとしていた。


(ま、まずい……斬られる!)


 危機を感じたその瞬間、斬りかかろうとした二人の暴漢の顔が歪んだ。


 天理(てんり)だ。


 司馬章(しばしょう)は顔を守ることを忘れ、両手で彼らの胸に手を伸ばす。


 すると、彼の両手から、驚くべきことに大きな炎が噴き出した。

 暴漢たちの大きさと同じ炎が、暴漢たちの上半身を包み、焼き焦がした。


「熱っ!ちぃァァァアァァア!」


 二人の暴漢は悲鳴を上げる。

 刃を落として痛みに慌てふためき、地面に転がる。


 剣を抜いていないもう一人の暴漢は、これを見て後退りをする。

 一歩、二歩、三歩、転倒。

 尻もちをついてもなお、後退りは止まらない。

 彼らは驚愕に駆られ、顔面蒼白になった。


「コイツ、思超家(しちょうか)だ!逃げろ!」


 尻もちをついた暴漢が叫ぶ。


「他を当たるぞ!」


 その声が響き渡り、三人は尻尾を巻いて、闇の奥へと逃げ去った。


(………?)


 司馬章(しばしょう)は、自らが放った炎に、驚きで目を丸くした。

 あの時、いくら願っても出せなかった炎が、今この瞬間、唐突に放たれたのだ。

 その場に呆然と立ち尽くす。この危機的な状況が、彼自身の思わぬ能力の発現によって、皮肉にも解決されたのだから。


「へー。君、やるじゃん」


 その時、彼の耳に、路地裏の重苦しい空気を破る、明るい声が響いた。


 司馬章(しばしょう)が振り返ると、同い年くらいであろう青少年が、柔らかい笑顔で近づいてきた。

 背は司馬章(しばしょう)より少し低い。

 茶髪に童顔。

 薄紫の服。

 その笑顔には焦りや恐怖の色はなく、友好的な雰囲気が漂っていることが、むしろ警戒心を与えた。


「……あんたは?」


 司馬章(しばしょう)は警戒心を抱えながら訊ねる。


「僕は孫操備(そんそうび)。君と同じ、思超家(しちょうか)だ」


 青少年はさわやかな笑みを浮かべながら自己紹介をした。

 彼は路地に散らばった暴漢たちの道具を避けた後、司馬章(しばしょう)の手を優しく引っ張り、立ち上がらせた。


「よいしょっと」

「…ありがとう」


 司馬章(しばしょう)は、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 彼は、この男が同じ思超家(しちょうか)であるならば、この力の発動の意味を知っているかもしれない。

 そんな期待を抱き、核心的な質問をかけた。


「…孫操備(そんそうび)、教えてほしい。今の炎はなぜ使えた?俺は祖父から教えを受けていたが、これまでは全く炎を出せなかった」


 孫操備(そんそうび)は驚いた表情を浮かべた。


「え?自分が思超家(しちょうか)だったって知らなかったの!? いや、でも、いきなり火を出せるのは珍しいな」

「いや、思超家(しちょうか)は自分の血で書を書いたらなれると聞いたんだ。実際に写したが、その後、炎を出そうと意識を集中しても出ずに……」


 司馬章(しばしょう)は、祖父の教えの矛盾を必死に語った。


 孫操備(そんそうび)は、路地裏の壁に寄りかかり、腕を組みながらふと思い当たった様子で言った。


「その時、君は何を感じ、何を思った?」

「……何を思ったって」


 司馬章(しばしょう)が言葉を続けようとしたが、孫操備(そんそうび)は彼の言葉を遮るように、核心的な説明を始めた。


思超(しちょう)は、自分の感情と思想を一つにしないと発動しないんだ。まぁ、それ以降は普通に使えるようになるんだけどね」

「え…?」

「そう。だから、もう一度訊くよ。君は一体、何を感じ、何を思った?」


 司馬章(しばしょう)は自らの腰にかけた袋に手を当て、血の【世炎論(よえんろん)】の感触を指でなぞった。


「俺は…」


 ---------------------------------------------------------------------------------------------


 司馬章(しばしょう)は、今に至る経緯をすべて話した。

 洛陽出身であること、天理(てんり)という男に祖父を殺されたこと、祖父が思超(しちょう)書を託したこと、天理(てんり)に復讐を誓ったこと…。


「それで、奴らの顔が天理(てんり)に見えた…と」

「あぁ…」

「じゃあ、天理(てんり)に対する憎悪をきっかけに、君の精神は火と一つになった訳だ」


 何かが違う。司馬章は心の中で反論した。

 もし、そうであれば…あの時、思超(しちょう)は使えたはずだ。


「君、名前は?」


 孫操備(そんそうび)が突然訊く。


「俺は司馬章。洛陽出身の、炎を操る思超家だ」

「よろしく。僕のことは操備(そうび)でいい。そっちの方が言いやすいからね」


 操備(そうび)は子どものような無邪気さで、司馬章(しばしょう)に手を差し出し、二人は握手を交わした。



 ---------------------------------------------------------------------------------------------


 それから、司馬章(しばしょう)孫操備(そんそうび)とお互いのことについて、夕べまで語り合った。

 それぞれの生まれ、境遇、生活、思想などなど。


「やっぱり、君の祖父はあの司馬典(しばてん)だったか…」

「あぁ…」

「……僕も、あの人のことは知っていたよ。僕もまた、あの人のような思想家に憧れた。あの人と議論も交わしてみたかった」


 孫操備(そんそうび)が悲しそうにうつ向く。

 司馬章(しばしょう)はそんな彼の顔を見て、しばらく沈黙した。

 そして一息置くと、彼に向かって話を持ちかけた。


「なぁ操備(そうび)、突然だが…俺と旅に出てほしいんだ」


 司馬章(しばしょう)は、いきなり核心的な思いを口にした。


「…急になんで?」


 驚きつつも、操備(そうび)は興味深げに問い返した。


「復讐。じぃちゃんを殺した天上王真理公子てんじょうおうしんりこうしという奴は俺に、『復讐をしに来い』と伝えて去ったんだ」


 孫操備(そんそうび)の目が、一瞬にして鋭くなった。


「今すぐにでも復讐したいが、今の俺では奴に勝てない。だから、思超家(しちょうか)の仲間を集め、天上王真理公子てんじょうおうしんりこうし天理(てんり)を討つための旅に出ようと思った」


 司馬章(しばしょう)は、冷静に、しかし復讐の炎を宿した目で話した。

 操備(そうび)は終始黙って聞いていたが、口を開いたとき、その声には強い輝きがあった。


「僕を……その天理(てんり)を倒すための、危険な旅に連れて行くのか」

「俺のワガママだ。厳しい旅になる。無理して旅に誘おうとはしないよ」


 孫操備(そんそうび)は顔を上げた。彼の目が、キラリと輝きを増した。それは好奇心と、危険への強い憧れが混ざった光だった。


「その話、乗った」

「本当か!」


 彼は続けた。


「どんな危険な旅でも、どんな理由でも構わない。僕は、君の旅に同行するのを気に、この長安(ちょうあん)を飛び出し、世界に広がる、無数の(ことわり)を見つけたい」


 司馬章(しばしょう)は、初めての仲間の獲得に、安堵を感じた。

 孫操備(そんそうび)は、長安(ちょうあん)を飛び出すきっかけの獲得に、これからの旅の希望に胸をふくらませている。

 考えていることは違うが、心はどこかで一つになったような気がした。友情だろうか。


「でも、仲間を集めるって言ったけど、他にはどうするつもりなんだ?」


 操備(そうび)が尋ねる。


長安(ちょうあん)は中華最大の都。思超家(しちょうか)が必ず他に居るはずだ。まずは彼らを探し出し、協力を求めるつもりだ。自らの力だけでは、あの天理(てんり)にはどうにもならないからな」


 司馬章(しばしょう)は、冷静な目で見据えて決意を示した。


「それなら、まずは思超堂(しちょうどう)に行こう。長安(ちょうあん)思超家(しちょうか)は、必ずあそこに集まる。あそこの情報は豊富だから、良い仲間を見つけられるかもしれない」

「よし、行こう。きっと良い仲間が待っている」


 司馬章(しばしょう)は応じ、二人は路地裏から長安(ちょうあん)の中心部へと足を運んだ。


「……よろしく、操備(そうび)


「こちらこそ、司馬章(しばしょう)


 彼らの旅は今、中華最大の都・長安(ちょうあん)の片隅から始まった。

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