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BEYOND SOUL  作者: 史邦ヒスト
東章 長安編
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第2話 旅と友

 洛陽(らくよう)長安(ちょうあん)の間に広がる、秋の荒涼とした道中。


 司馬章は、腰に括り付けた袋に収まる二つの巻物…祖父の真筆『炎論(えんろん)』と、自らの血で書き写した『炎論』を、意識するたびに安堵と重圧を感じた。彼の旅は、知識の探求であると同時に、祖父から継承した思超(しちょう)という名の、未知の…それも人智を超えた世界への旅だった。


 数ヶ月をかけ、彼は血の『炎論』の写しを完成させた。その行為は、ただ文字を移すのではなく、典の思想を自らの生命と結合させる行いだった。だが、肝心な力は、一向に彼の意のままにならなかった。


 彼は人目を避けた森の奥で、幾度も試みた。深く呼吸を整え、心の火の原理を観測し、左手を空へと突き出す。祖父が示した、あの圧倒的な火炎を脳内で再現する。


 しかし、手のひらに現れるのは、空虚な風だけだ。


「自然に出るものではないのか……」


 彼は声を荒げ、古びた大木の根元に肩を落とした。

「結局、あれは祖父の遺した、特殊な訓練によるものだったのか。思想を力に変えるなど、やはりただの幻想、あるいは、インチキだったのか」


 絶望と、裏切られたような感情が、章の心を刺した。もし思超の力が幻想であれば、天上王真(てんじょうおうしん)理公子(りこうし)への復讐という、唯一彼を突き動かす目的も、ただの虚無に帰してしまう。


 しかし、諦念の中、彼の心には一つの確固たる決意が芽生えていた。


「この俺に残された道は一つ。他の思超家の力を借りて、天理を倒すしかない…か」


 彼は決意を新たにし、疲労した身体に鞭打って立ち上がった。祖父は、彼に復讐の目的を与え、そのための理論を遺したが、手段は自ら見つけろと言っているようだった。彼は、一刻も早く同志を集めるために身支度を整えた。


 その時、彼が物資を調達するために立ち寄った村で、一人の老いた行商人が、荷車を修理しながら彼に声をかけた。


「若者よ、道中、気を付けなさい。最近の道は、都にも田舎にも盗賊や人攫いがうじゃうじゃいる。特に長安へ向かう街道は、物資を狙う獣が多い」


 老商人の言葉には、乱れた世の重みが宿っていた。反乱より少し前から、唐の国全体が混乱に陥り、何もかも腐り切った現実に、章は背筋を寒くした。


「ありがとうございます」


 章は深く頭を下げ、再び長安への道を急いだ。


 道中、章は幸運にも盗賊に遭遇することはなかった。これは、彼が道を選び、人目を避けるように動いていた、彼の生存本能のなせる技だった。


---------------------------------------------------------------------------------------------


 彼は、時には歩き、時には運良く馬車を借り、村を出発してから三ヶ月という月日を費やし、ついに長安に辿り着いた。本来、洛陽から長安までは二十日ほどの道のりだが、見知らぬ地への不安、そして何よりも唯一の家族であった祖父を失った喪失感が、彼の心を幾度となく足止めさせた。彼は事あるごとに近くの村で腰を休め、悲しみをやり過ごす時間を必要としたのだ。


 水無月(六月)の一日目。


 司馬章は、目の前に広がる壮大な光景に、思わず立ち尽くした。


「こっ、これが……長安!」


 彼が目にしたのは、故郷の洛陽のそれよりも遥かに分厚く立派な城壁と、その巨大な構造物の外からでも聞こえる、活気に満ちた賑やかな喧騒だった。


 この広大な都市こそが、中華の心臓部、長安なのだ。


 彼は門番の承認を受け、巨大な城門がゆっくりと開かれていくのを目の当たりにした。「開門ッ!」という合図に続き、扉がギィギィと重々しい音を立てながら開く。すると、その奥には、世界の富と文化が凝縮されたような、魅力的な光景が広がっていた。


「おおおおっ!」


 章は、久しぶりに目にする大都市の光景に、心の底から声を上げた。反乱軍の攻撃は、未だ長安には直接及んでいない。市民たちは依然として賑やかに声を上げ、絹織物や陶器、香辛料などの数多の品々が通りを行き交っている。それは、かつての故郷・洛陽の、輝かしかった日々を思い出させる光景であり、同時に、それが失われたことへの痛みを蘇らせた。


「かつての故郷を思い出すと、何とも言えない気持ちになるな…」


 章はふと感慨に浸ったが、すぐに気を引き締めた。祖父の最期の教えを胸に、彼はただ歩みを進める。


 しかし、大都市の繁栄の陰には、常に闇が潜んでいる。長安の治安が完璧なわけではない。しばらく歩くうちに、彼は、壁に塗られた泥の臭いが濃く漂う、人気の少ない路地裏に迷い込んだ。


「よぉ、若ぇの。金目のもの持ってるよな?」


 突然、三人の暴漢が目の前に立ちはだかった。彼らの目は濁り、その手には粗末な刃物が光っている。


 司馬章は動揺を隠せなかった。彼は、学者肌の祖父の元で育ったため、武術はおろか、喧嘩の経験もほとんどない。身体能力は非常に低く、剣を持った相手に勝てる気配など微塵もなかった。


「ま、待て。そんなに金は持ってねぇって」必死に言い訳をする。


「んじゃ着ぐるみ剥がして帰んな!」


 暴漢の一人が嘲笑い、残りの二人が剣を抜き、彼に斬りかかろうとする。彼らは章の持つ簡素な旅装すら、金に換えようという魂胆だった。


(ま、まずい……斬られる!)


 危機を感じたその瞬間、運命のいたずらが起こった。司馬章は顔を守るために、反射的に両腕を突き出した。


 すると、彼の左の手のひらから、驚くべきことに赤い炎がほとばしり出た。その火花は瞬時に凝縮された熱を持ち、暴漢たちの手に握られた刃の柄を焼き焦がした。


「熱っ!ちぃ!」


 暴漢たちは悲鳴を上げ、刃を落として痛みに慌てふためく。彼らは驚愕に駆られ、己の手に負えない事態だと認識し、顔面蒼白になる。


「コイツ、思超家(しちょうか)だ!逃げろ!」


 一人の暴漢が叫ぶ。


「他を当たるぞ!」


 その声が響き渡り、三人は尻尾を巻いて、闇の奥へと逃げ去った。


(………?)


 司馬章は、自らが意図せず放った炎に、驚きで目を丸くした。あの時、いくら願っても出せなかった炎が、今この瞬間、彼の『死への拒絶』という強烈な感情と、『自己防衛の意思』という目的の火花によって放たれたのだ。


 彼は、その場に呆然と立ち尽くした。この危機的な状況が、彼自身の思わぬ能力の発現によって、皮肉にも解決されたのだから。


「へー。君、やるじゃん」


 その時、彼の耳に、路地裏の重苦しい空気を破る、明るい声が響いた。


 司馬章が振り返ると、同い年くらいであろう、黒い装束の少年が、柔らかい笑顔で近づいてきた。その笑顔には焦りや恐怖の色はなく、友好的な雰囲気が漂っていることが、章に安心感を与えた。


「……あんたは?」


 司馬章は警戒心を抱えながら訊ねる。


「僕は孫操備(そんそうび)。君と同じ、思超家だ」


 青年はさわやかな笑みを浮かべながら自己紹介をした。彼は路地に散らばった暴漢たちの道具を一瞥した後、司馬章の手を優しく引っ張り、立ち上がらせた。


「よいしょっと」


「ありがとう」司馬章は、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 彼は、この少年が同じ思超家であるならば、この力の原理を知っているかもしれないという期待を抱き、核心的な質問を続けた。


「孫操備、教えてほしい。今の炎はなぜ使えた?俺は祖父から教えを受けていたが、これまでは全く炎を出せなかった」


 孫操備は驚いた表情を浮かべた。


「え?自分が思超家だったって知らなかったの!? いや、でも、いきなり火を出せるのは珍しいな」


「いや、思超家は自分の血で書を書いたらなれると聞いたんだ。実際に写したが、その後、炎を出そうと『意識』を集中しても出なくて……」


 司馬章は、祖父の教えの矛盾を必死に語った。


 孫操備は、路地裏の壁に寄りかかり、腕を組みながらふと思い当たった様子で言った。


「その時、書いた思超書はどこにやった?」


「……えっと、ここに来る前に泊まった宿の、近くの机に置いてきたけど……」


 司馬章が言葉を続けようとしたが、操備は彼の言葉を遮るように、核心的な説明を始めた。


「思超は、自分の書いた思超書、つまり思想の記録を常に携帯し、身体に密着させていないと使えないよ」


「え!?(何でそれを一言も言わなかったんだよ、じいちゃん!)」


 司馬章は、心の中で天を仰ぐように叫んだ。祖父の炎論には、その使用条件に関する記述は一切なかった。典は、章に自力でその原理を発見させることを意図したのだろうか。


「君の腰に巻いてる袋の中に、その血で書いた「思超書(しちょうしょ)」があるだろう。今、君は思超書を身に着けているから、咄嗟の危機で思超を使えたが、もしそれを腰から外してしまったら、何も使えなくなってしまうんだ」


 司馬章は自らの腰にかけた袋に手を当て、血の『炎論』の感触を指でなぞった。


「そうだったのか……。思想は、ただ脳裏にあるだけでは不完全で、「物」と「意思」が伴って初めて、世界に干渉する力になる……へぇ…スゲェな!!」


 彼は、思超の原理の根源に、祖父が提唱した『活動の原理』の具現化があることを理解した喜びで声を上げた。


---------------------------------------------------------------------------------------------


「君、名前は?」


「俺は司馬章。洛陽出身の、炎を操る思超家だ」


「よろしく」


 孫操備は子供のような無邪気さを漂わせて、章に手を差し出し、二人は握手を交わした。


「なぁ操備(そうび)、突然だが…俺と旅に出てほしい」


 司馬章は、長安に着いたばかりの青年に対し、いきなり核心的な思いを口にした。


「急になんで?」


 驚きつつも、操備は興味深げに問い返した。


「復讐。俺は天上王真理公子という男に祖父と故郷を奪われた。奴は俺に、復讐をしに来い、と伝えて去ったんだ」


(天上王真理公子……反乱軍の思超家か)孫操備の目が、一瞬にして鋭くなった。


「今すぐにでも復讐したいが、今の俺では奴に勝てない。だから、志を同じくする思超家の仲間を集め、天理を討つための旅に出ようと思う」


 司馬章は、冷静に、しかし復讐の炎を宿した目で話した。孫操備は終始黙って聞いていたが、口を開いたとき、その声には強い輝きがあった。


「僕を……天理を倒すための、危険な旅に連れて行くのか」


「俺のワガママだ。厳しい旅になる。無理して旅に誘おうとはしないよ」


 操備の目が、キラリと輝きを増した。それは好奇心と、危険への強い憧れが混ざった光だった。


「その話、乗った」


「本当か!」


 彼は続けた。


「どんな危険な旅でも、どんな理由でも構わない。僕は、この世界に広がる、思超が織りなす真の理を見てみたいんだ」


 司馬章は、初めての仲間の獲得に、安堵と喜びに胸がいっぱいになった。二人は、互いに目標を共有する仲間となり、これからの旅の希望に胸をふくらませた。


「でも、仲間を集めるって言ったけど、他にはどうするつもりなんだ?」操備が尋ねる。


「長安は世界最大の都。思超家が必ず他に居るはずだ。まずは彼らを探し出し、協力を求めるつもりだ。自らの力だけでは、あの天理にはどうにもならないからな」


 司馬章は、冷静に現実を見据えて決意を示した。


「それなら、まずは思超堂に行こう。長安の思超家は、必ずあそこに集まる。あそこの情報は豊富だから、良い仲間を見つけられるかもしれない」


 と操備が提案した。


「よし、行こう。きっと良い仲間が待っている」司馬章は応じ、二人は路地裏から長安の中心部へと足を運んだ。


「……よろしく、孫操備」


「こちらこそ、司馬章」


 彼らの炎を巡る壮大な旅が、今、中華最大の都・長安の片隅から始まった。

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