第10話 血医学者
司馬章、孫操備、李光の三人は、王明に惨敗した。王明は「優先して殺すべき敵」の気配を理由に彼らの命を見逃し、去っていったが、司馬章は深傷を負い、操備は重傷、李光は生死不明の重体であった。
この中で唯一、明確な意識のある司馬章が、地を這いながら李光へ近づく。
「死ぬな…よ…李…光…」
「この二人の意識、俺が取り戻そうか?」
その時、地下の間の入り口近くの柱の裏から、一つの影がうっすらと現れた。
司馬章はゆっくりと顔を上げ、声の元を辿る。
柱の裏から現れたのは、乾いた血のような色の髪、純白の下着に乾いた血のような色の羽織をした青年。右目が隠れるまで伸びている前髪が僅かに揺れ、その右目がチラチラと映り込む。
「誰だ…?」
「俺は鄭回。この近くに住む医者兼思超家だ」
鄭回は階段を下ると、早足で倒れた李光のもとに駆け寄った。
そして、李光の真っ白な顔に触れる。生死を彷徨うような真っ白な顔へ。
血の流れ、心拍、呼吸の様子、その他諸々の体調を一瞬で感じ取ると、それを自分に言い聞かせたかのように頷き、彼を背負い始めた。操備もすぐに拾われ、二人を抱えて手一杯になった鄭回が、司馬章に振り向いた。
「えーっと…司馬、章?だっけか?悪いがアンタは歩いて一階の最奥にある医療室に来てくれ」
鄭回はそう言うと、二人を担いだまま地下の間を出ていってしまった。
司馬章は訳も分からず立ち上がった。自分に意識はあるが、先程の戦いで重症を追っており、歩くのも大変な状況だ。
一歩進むたびに倒れそうな身体を抑えて、司馬章はヨロヨロと医療室に向かって歩き出した。
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思超堂 医療室
思超堂の地上一階最奥にある、医学者たちの研究のための部屋。良質な絹の白い布団が並べられており、扉を除いた四方の壁には、医学薬学に使われるであろう道具や薬草が保管されている。
この部屋の扉が開き、孫操備と李光を抱えた鄭回が入室した。
彼は、李光を高い板に敷かれた布団の上に置くと、棚から厳重に密封された壺を取り出した。
「これは、ひどい毒だ」
鄭回は手元の壺を開ける。蓋を開けた先に見えるのは、真っ赤な液体。その液体が、天井の灯りを反射する。
鄭回は、中の液体が不足していないことを確認すると、自らの左腕を壺の上に差し出し、小刀で軽く傷をつけ、傷口から溢れるものを壺に注いだ。傷口からは、壺の中に入っていた液体と同じような色をしたものが流れていた。
そう、壺に入っていたのは真っ赤な血であった。
少し遅れて、司馬章が今にも折れそうな足を引きずって、医療室に入って来た。
「さっきは悪かった。さ、そこに寝てくれ」
司馬章はその通りに布団に乗る。
「アンタは意識を取り戻せたが、この二人はほぼ瀕死の状態だ。まずはこの二人から治癒させて貰うよ」
「頼んだ…」
鄭回は壺の中の血に、自分の血を混ぜた。
壺の中を十分に掻き混ぜると、その血を李光に飲ませた。
「お、おい!?何やってんだ!?」
司馬章が驚くのも無理はない。自分の血や、誰かの血を他人の身体に入れるなど、不衛生で危険極まりないことなのだから。
「安心してくれ。俺の血を混ぜた血は、どんな血でも毒にはならない」
それでも、無理なものは無理だ。身体に害があろうとなかろうと、自分の血を人の身体に入れる行為この上なく気持ち悪い行為だ。訊ねるのも吐き気がしそうだが、念のため、司馬章は彼に一つ訊ねた。
「それは…思超なのか?」
「あぁ。俺の思超は【血医学】俺の血の性質は、俺の意志で自由に変化させることができる。だから、俺の血は薬になるんだ」
鄭回が自身の思超について説明する。
少しした後、李光が目を覚ました。彼はムクっと勢いよく起き上がると、両手をまじまじと見つめた。そして、大きく息吐くと、足から飛び上がった。
「よぉぉーーしっ!李光様の復活だぜぇ!」
李光は、普段から自信過剰な人間であるが、今だけあり得ないようなはしゃぎ方をしている。
両肩を素早く十回ほど回し、首をぐわんぐわんと大振りに振り回す。
「げ、元気になり過ぎじゃあないのか…」
李光の姿に思わず開いた口が塞がらない。
鄭回は、すぐさま孫操備の眠る寝台へ移った。
「次は孫操備だ」
鄭回は、別の壺にあった血を流し込んだ。
「やはり、即回復させるためには他の血と混ぜないほうがいいな」
鄭回の血は他の血と混ぜると、治癒能力が薄まるため、回復には時間がかかる。では何故、彼は直接血を流すことが少ないのか。それは彼の血が貴重だからである。他人の血の性質を変化させることはできない。
「最近、血の量をケチったからな。ホントは李光もすぐに回復するはずだった」
鄭回は、輸血をケチったことを軽く後悔すると、壺の中の血を飲み始めた。
「「何してるんだ!?」」
司馬章と李光はドン引きした。
「いや、血の補充だよ。誰のか分からない血でも、体内であっという間に特殊な血に変化させてくれるんだ」
詳しい仕組みは不明なところが多いが、医学上、かなり便利な仕組みである。
鄭回は、血を飲み終えると、先端に小さな穴が空いた針を腕に突き刺した。
すぐに針を抜き、そのまま操備の右腕に打ち込む。
すると、李光の半分ほどの時間で孫操備が回復した。彼も、李光同様に当たりをもの凄い速さでキョロキョロと見回しながら、目を大きく開いている。
「え!?さっきまで倒れていたのに…君が直してくれたのか…!?」
鄭回は軽く頷く。
すると、操備は全身を震わせ、李光のように飛び上がった。
「幻みたいだ!でも幻じゃなかった!!君ホント最高!!」
操備は鄭回の肩を掴んで前後に大きく揺らす。
鄭回は痩せ細った身体を大きく揺らされ、今にも泡を吹きそうだ。
司馬章は「やめろ」と、操備の腕を掴んで静止させる。
「こ、この高揚感はじきに治る。李光がもうそうなっているはずだ」
泳いでいた視線を何とか留め、鄭回は李光を見つめる。
李光はその時まで上下に飛び跳ねていたが、少しすると、ハッと、我に返った。
「今、何が起こった?王明は?」
彼はもう一度、キョロキョロと当たりを見渡す。司馬章は一歩前に出て、少し俯いて言った。
「李光、俺たちは王明に敗れた。でも、この鄭回って医者が俺たちを救ってくれたんだ」
「そうか…例を言う」
李光は鄭回と固い握手を交わした。孫操備も、李光が元に戻った直後に、高揚感が治ったので、彼に続けて鄭回と固い握手を交わした。
「鄭回、君は何で僕たちを助けてくれたのか?王明が去ったとはいえ、あの場所は危険なハズだ」
「俺がタダでアンタらを助けるとでも思っていたのか?たっぷりと恩は返してもらうよ」
鄭回は悪どい笑みで左手の指で輪を作る。勿論、それが何を指しているのかは、三人も知っている。
三人の額に一気に冷や汗が走る。口が上向きに引きつったまま、石のように硬くなる。
「うーん、軽く家が建つくらいの金は貰おうかねぇ」
「ふ…普通の医者はそんなに取らねぇよ!」
「五月蝿い。命の恩人様だぞ?義理は通しましょうや…な?」
「て、鄭回さん…僕ら…子どもなんで…十七なんで…」
「ほほーん。俺と三つしか変わらないじゃあないか。二十の俺が立派な大人として食ってきてるのに、たかが三つしか変わらない君らは、まーだお父上やお母上に養って貰ってるってのかあい?」
鄭回は足踏みをして、細い束になって垂れている前髪を掻き上げる。
三人はゾッとし、その場から逃げ出そうとした。捕まって臓器を抉り取られるかもしれない。そんな恐怖が、彼らを襲う。
ケタケタとした笑みを浮かべ、鄭回が一歩ずつ迫ってくる。王明ほどではないが、別の意味でおっかない。
孫操備は、二人と顔を合わせる。一定の調子でコクコクと頷く。追い詰められた状況下であったからか、二人は即座にその意味を理解した。
操備の合図で逃げよう。
三、二、一…
((今だ!!))
三人が一斉に床を蹴る。回れ右で、扉を目掛けて飛び掛かる。
…扉は一つしかない。おまけに狭い。
飛びかかったは良いものの、その先で、三人は綺麗に衝突してしまった。頭から崩れ落ち、そのまま地に伏せる。
鄭回の足がまた一歩、歩み寄る。乾いた血の色をした闇医者の影が、彼らを覆う。
三人は、猫に狙われた子鼠のように肩を寄せ合って震える。
「「あわわわわわ…」」
鄭回の目が光る。どす黒い赤の雰囲気が漂う、痩せていて弱そうだが、何故か立ち向かえない恐怖。朱色の襟を掴み、グッと引き寄せ、臓器を抉り取るように視線を動かす。
「すすすす、すみませんでした鄭回さん…!お、お金は、後何日か、待って頂けませんか…!!」
司馬章は白目を剥き、棒読みのときの声を震えながら引き出す。襟を掴まれていない二人も、互いに仲良く抱き合って、身体を震わせる。
突然、鄭回の中身の見えない恐怖の顔が、笑顔に変わった。襟を掴んでいた手は緩み、司馬章がストンと腰から落下する。
「ハッハッハッ、嘘だよ」
「み、三日はどうでしょうか…」
「だから嘘だって」
「ふ、二日は難しゅうございます…」
「…」
「しゃ、借金してでも…」
「…全部嘘だって。君らは何一つ支払う必要はない」
かなり遅れて、司馬章がその言葉に反応した。
「…え?」
「うん」
「…そっかぁ」
三人はようやくホッとした。肩を下ろし、姿勢を崩し、空を仰ぐ。
「ただし条件がある。これを守ってくれないのなら、普通に金は取るし、君らを二度と助けはしない」
彼らはまた息を飲む。李光と操備はそっと立ち上がり、
「で、その協力してほしいことは?」
と、李光が恐る恐る尋ねた。
鄭回は、良くぞ訊いてくれたと言わんばかりに、部屋の奥にある張り紙に指を置いた。張り紙には、中華の東部を拡張した地図と、巨大な桃の木の墨画が描かれていた。それも、普通の桃の木ではあり得ない程の太い幹を有して。
「俺は"思超大樹"を求めて旅をしているのだが、それが河南道にあることが分かったんだ。しかし、道中は危なくてね、アンタらに護衛してもらいながら、安全に"思超大樹"に辿り着きたいのさ」
河南道とは、中華の東部にある山東半島一帯を管轄する地方だ。
「その"思超大樹"って何だ?」
司馬章が聞いた。
「“思超大樹”…それは三千年も昔、神仏が気まぐれで世界の各地に植えられたと伝わる五本の木のこと。五本の木はそれぞれの式の思超を生み出すキッカケとなる力を生み出したとされるんだ。俺が探しているのは"思超大樹−司質式"。司質式の思超は、その木が世界に放つ見えない力を元に発生するとも言われる」
いわば、司質式の祖となる大木である。木が蒸散で気体を放出するように、この大樹が思超に必要な力を放出しているとも解釈できる。
鄭回は続ける。
「そして、その思超大樹に生える桃の実を喰えば、食したものの精神を刺激し、思超が一段階高度なものになるらしい。俺はこの思超を進化させるために向かうんだ」
司馬章と李光は彼の発言に大きく反応した。二人は司質式の思超家だ。この者について行けば、自分たちも強くなれるかも…。そう信じた彼らは孫操備のことなどお構いなしに手を挙げた。
「その…“思超大樹”の桃の実を喰えば、思想家としても高みに登れるのか…?」
「勿論。思超の精度が増す、ということは、思想家や学者としての新たな知識が芽生えること、今ある知識に深みが増すことと同義だ」
「「行こう」」
司馬章と李光は即答した。二人の息はピッタリだった。
数学式の思超家である孫操備はヤレヤレと下を向く。
「まぁ、悪くない。長安を出たら、早速向かうのもアリだね」
孫操備はこの三人の気持ちを汲み取り、賛成を示した。
鄭回は右手を胸に当て、言い放つ。
「では、決まりだな。今日からこの鄭回も旅の一員だ!」
「え!?旅の一員…?」
三人は驚く。鄭回の探し物を手伝うかのような感覚で、同意していたからだ。まさか、こちらの旅の一員になるとは思わなかった。
「思超堂の学者たちから、話は聞いた。君ら三人は、旅をするんだってな。思超大樹を探しに行く間、だけになるが、俺も協力してくれる君らの力になろう!」
「…俺らの目的にも、協力してくれるのか?」
「そういうことだ」
李光は、腕を組み、厳しい顔をして進言した。
「俺たちは今夜、楊国忠を討ちに行く。そして、旅の目的は“天上王真理公子の打倒”。生温い旅にはならねぇぞ」
「それでもだ。君らの目的を果たしてまで、思超大樹の桃の実を得ることに価値がある」
李光は鄭回を睨む。その瞳には小さな雷が宿っている。
しかし、鄭回は表情を崩すことなく、笑みを見せる。
鄭回に折れたのか、李光は彼の肩に手を置いた。
「そんじゃ、お前にも旅に来てもらおうかね」
「よろしくな、皆」
鄭回が改めて、涼し気な顔で言った。
司馬章と操備も彼の仲間入りを認めるように頷く。
かくして、司馬章の旅に、鄭回が加わった。




