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BEYOND SOUL  作者: 史邦ヒスト
東章 長安編
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第1話 コタエの始まり

 哲学は、人間の営みの中で最も生産性のない学問である、という俗論がある。生活の糧を生まず、武器にもならず、ただひたすらに、世界の仕組と人間の本質を問う。

しかし、立ち止まって考えれば、これほどまでに人間の精神の輪郭を決定づけ、文明の基層を築いてきた思索はない。

これだけは言えよう。

哲学こそが、人間という存在を創造したのだ。と。

 西方せいほうのとある預言者(よげんしゃ)生誕(せいたん)して七五五年ななひゃくごじゅうごねん(とき)()った(とし)中華(ちゅうか)大帝国(たいていこく)(とう)第二だいに都市(とし)洛陽(らくよう)は、反乱(はんらん)火種(ひだね)()(ひろ)がる前夜(ぜんや)の、()()めた静寂(せいじゃく)(なか)に|あった。


 とある民家(みんか)(おく)白髪(しらが)じりの老人(ろうじん)司馬典(しばてん)と、その(まご)司馬章(しばしょう)は、数刻(すうこく)にわたる議論(ぎろん)(すえ)疲労(ひろう)興奮(こうふん)交錯(こうさく)する空間(くうかん)に|いた。司馬典(しばてん)(くち)からは、優雅(ゆうが)(すみ)(かお)りに()じって、時折(ときおり)(ほのお)(くすぶ)らせたような荒々(あらあら)しい(いき)()れる。


 司馬典は、その()(はじ)じぬ(ほのお)哲学者(てつがくしゃ)であり、彼の著作(ちょさく)炎論(えんろん)』は、当時(とうじ)学術界(がくじゅつかい)(しず)かな、しかし(たし)かな波紋(はもん)(ひろ)げていた。七十(ななじゅう)()えた彼の(ひげ)(しろ)く、しかし根元(こんげん)一部(いちぶ)は、まるで(はげ)しい(ほのお)()かれたように(くろ)炭化(たんか)しており、そこから()()びることは二度(にど)と|なかった。この特異(とくい)外見(がいけん)は、彼の思想家(しそうか)としての業火(ごうか)象徴(しょうちょう)であり、周囲(しゅうい)からは奇妙(きみょう)老人(ろうじん)として(かた)(ぐさ)に|なっていた。


 一方いっぽう(まご)司馬章(しばしょう)は、祖父(そふ)とは対照的(たいしょうてき)凛々(りり)とした黒髪(くろかみ)()っていたが、左顎(ひだりあご)には(おさな)()火傷(やけど)(あと)(のこ)る。その(きず)は、彼が祖父(そふ)(かた)る「()哲学(てつがく)」に(こころ)(うば)われ、(みずか)らもまた、その真理(しんり)()思索(しさく)()となった、()わば師事(しじ)(あかし)だった。


()()ちたぞ、(しょう)今日(きょう)はもう(やす)め」


祖父(そふ)()う。


()ってくれ、じぃちゃん。この(ぶん)、どうしても理解(りかい)できん」


司馬章(しばしょう)は、(ふる)びた竹簡(ちくかん)一節(いっせつ)(ゆび)さした。


万物(ばんぶつ)()(みず)()(きん)(つち)元素(げんそ)から()るという、この太古(たいこ)五行思想(ごぎょうしそう)記述(きじゅつ)。じぃちゃんは、世界(せかい)本質(ほんしつ)は『()』の一元(いちげん)であると()いた|はずだ。なぜ(いま)(ほか)要素(ようそ)()()れる必要(ひつよう)が|ある?」


 司馬典(しばてん)は、その(くろ)()けた(ひげ)根元(こんげん)(ゆび)(かる)()でた。


(しょう)よ、お前は『炎論(えんろん)』の本質(ほんしつ)(わす)れている。わしが()()は、燃焼(ねんしょう)のことではない。それは、変化(へんか)持続(じぞく)さら()()めれば、終焉(しゅうえん)始動(しどう)可能(かのう)にする純粋(じゅんすい)(ちから)概念(がいねん)、すなわち『万象(ばんしょう)原理(げんり)』だ」


 彼は(ふか)く、(おも)みの|ある(こえ)(つづ)けた。


思想家(しそうか)というものは、(みずか)らの()固執(こしゅう)しては、真理(しんり)への(みち)()ざしてしまう。五行思想(ごぎょうしそう)(まな)ぶのは、わしが提唱(ていしょう)する()原理(げんり)が、いかにして(みず)(つち)といった静的(せいてき)概念(がいねん)を『(うご)かし』、世界(せかい)構成(こうせい)する原動力(げんどうりょく)となっているかを、証明(しょうめい)するためだ。他者(たしゃ)思想(しそう)()まれるのではない。他者(たしゃ)思想(しそう)()()れることで、その思想(しそう)構造(こうぞう)そのものを、わしの『炎論(えんろん)』の内部(ないぶ)()()み、再定義(さいていぎ)することで、真理(しんり)精度(せいど)(たか)めることで、じゃ」


 (しょう)は、祖父(そふ)言葉(ことば)(ふか)さに(いき)()んだ。それは、単純(たんじゅん)学説(がくせつ)比較(ひかく)ではなく、世界(せかい)(たい)する認識(にんしき)枠組(わくぐ)みそのものを拡張(かくちょう)する行為(こうい)だった。


 (そと)(やみ)(つつ)まれ、洛陽(らくよう)(ほか)民家(みんか)生活(せいかつ)(あか)りを()していたが、二人(ふたり)思索(しさく)(ひかり)()えることがなかった。


 (つか)れた(てん)は、(ゆか)(よこ)になりながら、まるで説教(せっきょう)のように嘆息(たんそく)する。


「そもそも『思想(しそう)』という言葉(ことば)自体じたい()()らん。無限(むげん)(ひろ)がる()可能性(かのうせい)を、特定(とくてい)枠組(わくぐ)みに()()めるもので|しかない。|いいか、(しょう)。わしが()(しる)した『炎論(えんろん)』だけではなく、さらに(ひろ)(ふか)(まな)べ。そして、世界一(せかいいち)仙人(せんにん)となれ」


仙人(せんにん)……」


 (しょう)(つぶや)く。


「あぁ。それは道教(どうきょう)伝説(でんせつ)ではない。わしらが目指(めざ)す、(ひと)()到達(とうたつ)できる認識(にんしき)終着点(しゅうちゃくてん)じゃ。(みずか)らの思考(しこう)世界(せかい)構造(こうぞう)そのものと一体化(いったいか)させ、万物(ばんぶつ)原理(げんり)直接(ちょくせつ)的に制御(せいぎょ)できる領域(りょういき)。すなわち、思超家(しちょうか)究極(きゅうきょく)姿(すがた)だ」


思超家(しちょうか)?」


「…いや、(いま)のは()かなかったことにしてくれ」


 二人は、その壮大(そうだい)目標(もくひょう)(かる)会話(かいわ)のように()わし、(みじか)(ねむ)りについた。彼らは()(よし)もなかった。その目標(もくひょう)が、今宵(こよい)()(ほのお)試練(しれん)として()(まえ)(あらわ)れることを。


 その(よる)平穏(へいおん)は、突如(とつじょ)として(やぶ)られた。


 (とう)節度使(せつどし)安禄山(あんろくざん)挙兵(きょへい)し、その反乱軍(はんらんぐん)驚異(きょうい)的な速度(そくど)洛陽(らくよう)(せま)っていたのだ。(わず)一ヶ月(いっかげつ)での都市(とし)陥落(かんらく)。それは、人々(ひとびと)武力(ぶりょく)によって蹂躙(じゅうりん)される、|最も原始的(げんしてき)暴力(ぼうりょく)(かたち)だった。


()きて!! じぃちゃん、反乱軍(はんらんぐん)だ!」


 司馬章(しばしょう)祖父(そふ)(からだ)(はげ)しく()さぶる。(てん)老体(ろうたい)(かん)じさせない俊敏(しゅんびん)さで()()きた。


老人(ろうじん)身体(からだ)(やさ)しく()すれ!何事(なにごと)じゃ!」


反乱軍(はんらんぐん)だ!()げよう!」


 いそいで荷物(にもつ)を|まとめ、(いえ)()ようとしたその瞬間(しゅんかん)(するど)(かぜ)(とも)に、一本(いっぽん)(つるぎ)(しょう)身体(からだ)(あさ)()()いた。


(しょう)ッ!!」


「ぐっ…もう()たのか⁉︎」


 司馬章(しばしょう)背後(はいご)には、闇夜(やみよ)(いろ)(まと)った長衣(ちょうい)()(おとこ)()っていた。(おとこ)(つるぎ)切先(きっさき)からは、(かす)かに()(しず)いている。


司馬典(しばてん)は、その場の血生臭(ちぶさく)さにも(うご)じることなく、静寂(せいじゃく)(たも)ったまま(くち)(ひら)く。


何者(なにもの)じゃ。おぬしは」


 (おとこ)冷酷(れいこく)な、感情(かんじょう)色彩(しきさい)()いた()二人(ふたり)見据(みす)える。


貴様(きさま)らのような非思超家(ひしちょうか)に、(わたし)()名乗(なの)資格(しかく)はない」


「フン……非思超家(ひしちょうか)、だと?これを()てもそう()えるか」


 司馬典(しばてん)はそう()げると、書棚(しょだな)から、彼自身の(たましい)記録(きろく)たる『炎論(えんろん)』を、まるで宝物(たからもの)のように()()した。


(さっきから(なん)なんだよ…思超家(しちょうか)思超家(しちょうか)って)

 (おとこ)表情(ひょうじょう)に、(かす)かな動揺(どうよう)(はし)った。

「貴様……まさか、あの司馬典(しばてん)か!?」

(あの司馬典(しばてん)!? じぃちゃん、そんなにも()()られた存在(そんざい)だったのか!)

 驚愕(きょうがく)波紋(はもん)(しょう)胸中(きょうちゅう)(ひろ)がる。

「そうじゃ。お前が(おも)うほど、凡庸(ぼんよう)()い|ぼれではないぞ」

 祖父(そふ)言葉(ことば)には、確固(かっこ)たる自信(じしん)威厳(いげん)宿(やど)っていた。

 その瞬間(しゅんかん)司馬典(しばてん)(ひだり)()(てのひら)が、(まぶ)赤色(あかいろ)(つつ)まれた。それは(たん)なる(ひかり)ではなく、(あつ)()びた、凝縮(ぎょうしゅく)された(ほのお)(ちから)だった。

「じぃちゃん!()んなんだよそれ!()()えているじゃん!」

 (しょう)(さけ)(ごえ)緊迫感(きんぱくかん)()()く。

「ああ。(おどろ)くのも無理(むり)はない。わしは『炎論(えんろん)』を(きわ)め、その思想(しそう)物理現象(ぶつりげんしょう)として再現(さいげん)できる。すなわち、思超(しちょう)じゃ」

 ()いた(からだ)宿(やど)る、常識(じょうしき)超越(ちょうえつ)した(ちから)司馬章(しばしょう)は、それが(ゆめ)(まぼろし)かと(うたが)わざるを()ない。

「イヤ、意味(いみ)かんねぇよ!だから思超(しちょう)思超家(しちょうか)?って(なに)なんだよ!!!!!」

「いいから(だま)って()とけ!|わしの理論(りろん)が、いかにしてこの世界(せかい)(あらわ)れるか、その真髄(しんずい)()せてやる!」

 その口調(こうちょう)には、戦場(せんじょう)(まえ)にした恐怖(きょうふ)はなく、ただ哲学的(てつがくてき)確信(かくしん)だけが()められていた。

 しかし、(おとこ)二人(ふたり)(あいだ)()って(はい)った。

茶番(ちゃばん)()わりにしてもらおう。書物(しょもつ)は、(つるぎ)(まえ)無力(むりょく)だ」

「フン、(ひと)生活(せいかつ)知識(ちしき)(こわ)し|といて|よく()うわ。(いま)()()わった。お前の()興味(きょうみ)はない。ここで(たお)す!」

 (てん)()(するど)(ひか)(はな)った。(ほのお)(てん)左手(ひだりて)(うず)()き、まるで意思(いし)()った生物(いきもの)のように膨張(ぼうちょう)していく。

(しょう)、よく()け。()(きわ)めるというのは、世界(せかい)認識(にんしき)そのものを支配(しはい)し、()()えることだ。わしは、()原理(げんり)万物(ばんぶつ)(うご)かすと『確信(かくしん)』し、その確信(かくしん)を、()(あらわ)す。妖術(ようじゅつ)魔法(まほう)ではない。これは、深遠(しんえん)なる思索(しさく)(つよ)思念(しねん)()()るがす、「(おも)う」を「()えた」(ちから)思超(しちょう)じゃ」

 あり得ない(はなし)だが、その言葉(ことば)には、(みょう)納得(なっとく)のいく(ひび)きが|あった。司馬章(しばしょう)思索(しさく)(ふけ)(ひま)もなく、司馬典(しばてん)()(はな)ち、空気(くうき)(ふる)わせた。

「これが、わしの思超(しちょう)じゃ!」

 火炎(かえん)咆哮(ほうこう)()げ、(おとこ)()かって爆発的(ばくはつてき)(ひろ)がった。(おとこ)は|一瞬後退(こうたい)したが、すぐにその夜空色(よぞらいろ)(そで)(ほのお)()()した。ただ、(ほのお)()れた(うで)には、(わず)かな()(あと)(のこ)った。

流石(さすが)は『炎論(えんろん)』の司馬典(しばてん)(なみ)思超家(しちょうか)とは一線(いっせん)()す」(おとこ)(こえ)には、(かす)かな興味(きょうみ)()ざっていた。

 しかし、(おとこ)一瞬(いっしゅん)(すき)見逃(みのが)さなかった。(ほのお)()えた直後(ちょくご)、彼は司馬典(しばてん)背後(はいご)(まわ)()んでいた。

説明(せつめい)してる場合(ばあい)か?」

 (おとこ)(こえ)(つめ)たく、重厚(じゅうこう)(みみ)(なか)(とお)る。

 夜空色(よぞらいろ)()まった(おとこ)(うで)が、(てん)(くび)(つか)んだ。だが、(てん)(うご)じることなく、余裕(よゆう)(わら)みを()かべていた。

「このまま、わし()(つぶ)せるとでも?」挑発的(ちょうはつてき)言葉(ことば)(とも)に、(てん)周囲(しゅうい)(ほのお)(ふたた)()()がった。

 “炎壁(えんへき)

 (ほのお)(かべ)(なか)で、司馬典(しばてん)(まご)()かって最後(さいご)(おし)えを(つた)えた。その(こえ)は、(ほのお)轟音(ごうおん)に|かき()されまいと、(たましい)(すべ)てを()めた(さけ)びだった。

「|いいか、(しょう)わしはもう(なが)くない。お前が(わし)思想(しそう)思超(しちょう)()げ」

「そん|なッ!無理(むり)だ!俺はまだ理論(りろん)理解(りかい)()れてもいない!思超(しちょう)なんて、そんな(ゆめ)みたいな(ちから)……」

(しょう)(ゆめ)(まぼろし)ではない。意思(いし)があれば、|できるものは|できる!(すべ)ては意思(いし)(ちから)に|かかっている。信念(しんねん)(つらぬ)け!」

 (ほのお)(かべ)(うす)れ、(おとこ)焦燥(しょうそう)()られた表情(ひょうじょう)侵入(しんにゅう)してきた。

「じぃちゃん!」

 (しょう)(さけ)びは、(むな)しく(ひび)く。

「この(わたし)(とど)まらせたのは流石(さすが)だ、()いた思超家(しちょうか)よ!」

 (おとこ)(つるぎ)(つめ)たい(ひかり)(はな)ち、司馬典(しばてん)(むね)(ふか)(つらぬ)いた。鮮血(せんけつ)地面(じめん)()()む。

「じぃちゃん!じいちゃん!」

 (しょう)絶望(ぜつぼう)(さけ)びが、()()ちる洛陽(らくよう)夜空(よぞら)(ひび)(わた)る。

 (てん)呼吸(こきゅう)(よわ)り|かけたその刹那(せつな)(おとこ)(つぎ)標的(ひょうてき)である(しょう)へと剣先(けんさき)()けた。

(ああ、俺は()ぬのか。世界(せかい)本質(ほんしつ)()れぬまま……こんな|ところで、(すべ)ての探求(たんきゅう)()わるなんて……)

 恐怖(きょうふ)が、司馬章(しばしょう)(こころ)支配(しはい)する。

 (おとこ)(やいば)()()ろされようとした、まさにその(とき)

()て!」

 ()(ひん)した祖父(そふ)(こえ)が、奇跡(きせき)のように(ひび)いた。


「まだ(いき)はあったか…」(おとこ)警戒(けいかい)しながらも、(つるぎ)()めた。


 司馬典(しばてん)最後(さいご)(ちから)()(しぼ)り、(しょう)(ふた)つの巻物(まきもの)()げつけた。


(しょう)、この(ふた)つを(たく)す!(ひと)つはわしの著書(ちょしょ)たる『炎論(えんろん)』、そして|もう(ひと)つは白紙(はくし)巻物(まきもの)じゃ!この(ふた)つを()って()げろ!」


 ()()きながら、彼は(つづ)けた。


「『炎論(えんろん)』の内容(ないよう)を、お前の(たましい)奥底(おくそこ)まで()()けながら、お前の()で、|もう(ひと)つの巻物(まきもの)()(うつ)せ!」


 それは、(いのち)()けた、狂気(きょうき)にも()遺言(ゆいごん)だった。


 (しょう)祖父(そふ)意思(いし)()け取り、(だま)って(ふか)く、深く、(うなず)いた。


「さァ!(はし)れぇ!!」


 司馬典(しばてん)最後(さいご)咆哮(ほうこう)が、(しょう)背中(せなか)()した。


 (しょう)(はし)った。()()かずに、(なみだ)を|こぼしながら、()ける故郷(こきょう)と、最愛さいあい祖父(そふ)()()()()けた。


(じいちゃん……!たった一人(ひとり)の、大切たいせつ祖父(そふ)……!最期(さいご)まで、俺を(すく)ってくれて……|ありがとう!!!)


「さて…|スマンな。(まご)()げるまで()ってくれての」


 (てん)は、(むね)(つら)かれながらも、(おとこ)()かって微笑(ほほえ)んだ。


()いぼれには容赦(ようしゃ)ないが、ああいう『可能性(かのうせい)』には、私にも()がある」


 (おとこ)言葉(ことば)(つめ)たく、無機質(むきしつ)(ひび)く。


 司馬典(しばてん)は、自嘲(じちょう)するように(わら)った。


()たりまえじゃ。自慢(じまん)(まご)だからな!」


 決闘(けっとう)最終幕(さいしゅうまく)(はじ)まる。(おとこ)(つるぎ)(ふか)()()もうとしたその瞬間(しゅんかん)(てん)(うで)から巨大(きょだい)(ほのお)(つばさ)(ひろ)がり、(おとこ)全身(ぜんしん)(つつ)()んだ。


 “朱雀舞翼(すざくまいよく)”。


 司馬典(しばてん)最期(さいご)にして、最も壮麗(そうれい)(わざ)


 爆風(ばくふう)世界(せかい)()さぶり、決闘(けっとう)終焉(しゅうえん)(むか)えた。全身(ぜんしん)(ふか)火傷(やけど)()った勝者(しょうしゃ)が、()(さか)民家(みんか)(のち)にし、洛陽(らくよう)城門(じょうもん)へと()かう。(かれ)敗者(はいしゃ)遺体(いたい)を、(しず)かに地面(じめん)()いた。


「ハァ…ハァ…!!」


 司馬章(しばしょう)は、全身(ぜんしん)(いた)みに()えながら、|やっとの(おも)いで城門(じょうもん)に|たどり()く。ここを()ければ、(たす)かるという(かす)かな希望(きぼう)(いだ)き、(ちから)()(しぼ)った。


「さっきの…!」


 だが、そこには、全身(ぜんしん)夜空色(よぞらいろ)(つつ)(なお)した(おとこ)が、()()せて|いた。勝者(しょうしゃ)は、この(おとこ)であった。(しょう)祖父(そふ)()を、この(おとこ)存在(そんざい)によって決定的(けっていてき)確信(かくしん)した。


(じいちゃんは、この(おとこ)と…)


 (おとこ)(しょう)()(おさ)え、その耳元(みみもと)で、(しず)かに、しかし冷酷(れいこく)(ささや)いた。


「私の()天理(てんり)正式(せいしき)()天上王真(てんじょうおうしん)理公子(りこうし)。貴様の祖父(そふ)(ころ)した(もの)だ」


天上王真(てんじょうおうしん)理公子(りこうし)……!)


 その()を、(しょう)(たましい)永遠(えいえん)(わす)れることは|ないだろう。


っておくが、私は(たん)なる安禄山(あんろくざん)(ぐん)兵士(へいし)ではない。私も、思超家(しちょうか)だ」


 彼は、司馬章(しばしょう)()つ『炎論(えんろん)』を、冷酷(れいこく)(まなこ)(なが)めている。


「ここで貴様(きさま)(ころ)しはしない。ただ、(つた)えておくべきかと(おも)ってな」


「な、なんだ……」


 (しょう)全身(ぜんしん)(ふる)わせ、|かろうじて(こえ)(しぼ)()した。


「私に復讐(ふくしゅう)(ちか)え」


「え…?」


「私を(ころ)せるほどの強力(きょうりょく)思超家(しちょうか)に|なったとき、私を(ころ)しに()い。お前には、その()と、その(きず)がある。そして、(やつ)(おな)(ほのお)原理(げんり)()つ『炎論(えんろん)』がある。(しん)思超家(しちょうか)は、目的(もくてき)という『燃料(ねんりょう)』を()たねば|ならん」


 (おとこ)(ひとみ)には、挑発(ちょうはつ)と、未来(みらい)強敵(きょうてき)(たい)する底知(そこし)れぬ期待(きたい)(おも)いが()ざっていた。


 天理(てんり)()っていったが、(のこ)された言葉(ことば)(しょう)(こころ)を、祖父(そふ)(ほのお)よりも(はげ)しく()(つづ)けた。


復讐(ふくしゅう)(ちか)えだと!? ふざけるなよ…!! いつか、いつか、いつか、いつか!お前を地獄(じごく)業火(ごうか)()いてやる!天上王真理公子てんじょうおうしんりこうし!!!!!」


 司馬章(しばしょう)(いか)りに全身(ぜんしん)(ふる)わせ、絶叫(ぜっきょう)した。(さけ)んで、()いて、(さけ)んで、()いて、また(さけ)んで、ただ西(にし)(ほう)へと(はし)(はじ)めた。(かれ)(たび)は、祖父(そふ)遺志(いし)と、復讐(ふくしゅう)(ほのお)から(はじ)まったのだった。

 あれから三ヶ月後。


 司馬章は、長安と洛陽の間にある、戦火を免れた小さな村に身を潜めていた。彼は、祖父から託された命題を忠実に実行していた。


 毎晩、彼は星明かりの下で真筆の『炎論』を広げ、もう一つの白紙の巻物に向き合う。


 彼は、祖父が語った秘教、学んだ先人の知見、そしてその魂が紡いだ思想の全てを、一字一句、脳裏に焼き付けながら記録した。そして、その筆記には、自らの左顎の傷口から滲む血を用いた。


「なぜ、血で書き写すんだろう」


 章は、作業中、幾度となく自問した。血は生命であり、苦痛であり、そして何よりも祖父の死の記憶そのものだ。


 血は墨よりも濃く、乾けば漆黒に近い赤となって紙に刻まれる。この行為は、単なる記録ではない。それは、司馬章自身の生命をもって、祖父の思想を『再観測』し、自らの存在に固定する、痛みを伴う思超の記録だった。臥薪嘗胆。薪の上で寝、その痛みを忘れることなく感じ、越の制圧といった目的を果たした呉王のように。熊の肝を舐め、その苦みを忘れることなく感じ、呉の滅亡という夢を叶えた越王のように。思超という具象化された思想を習得するには、崩れることない信念と苦難が必要なのかもしれない。


 そして、ついに彼は『炎論』の全編を写し終えた。しかし、写し終えた巻物には、不思議な余白が残っていた。それは真筆の『炎論』には存在しない、意図的に空けられた空間だった。


 その瞬間、章は、祖父の言葉の深遠な意味を悟ったのだ。


 祖父は言った。「思想というものは、無限に広がる知の可能性を狭めるものでしかない」と。


 この余白こそが、典の哲学の核心だった。


__思想が全く同じ人なんて、この広い世界に一人もいない。


『炎論』は、世界を観測するための、完成された「枠組み」ではない。それは、章が、そして未来の継承者が、自らの生、自らの血と経験、自らの復讐の炎を通して獲得する、固有の認識を書き加えるための「導火線」だったのだ。


 章は震える指を血に浸し、その余白に、自身の思想を刻み始めた。そこには、祖父の教えを基にした、彼の新たな解釈が込められていた。


 火は、破壊の原理であると同時に、再生と変容の原理である。復讐の炎は、やがて、彼自身の『炎論』を完成させるための、自己確立の炎へと昇華するだろう。


 白紙の巻物は、血をもって埋められ、司馬章の新たな旅路を告げる、炎のように熱い哲学書となった。彼はその巻物を懐に抱き、世界の真理と、天上王真理公子への復讐という、二つの巨大な目標を胸に、西の空へ向かって歩き出した。

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