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BEYOND SOUL  作者: 史邦ヒスト
東章 長安編
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第1話 コタエの始まり

__「哲学」面白いと考える者、つまらないと考える者、イメージは様々だろう。

 どんなにこの世の仕組みや人間の本質について考えたところで、自分の生活に役立つことはほとんどない。はっきり言って、生産性のない学問である。


 しかし、これだけは言えよう。

 "哲学が人間を創り上げてきた"と。

西暦756年、唐の第二の都市・洛陽(らくよう)


 とある民家に、ひとりの白髪混じりの祖父、司馬典(しばてん)とその孫、司馬章(しばしょう)が住んでいた。司馬典はその名に恥じぬ炎の哲学者であり、彼が著した著作『炎論(えんろん)』は広く知られていた。七十を超えた彼の髭は白く、根元からはまるで炎で焼かれたかのような黒い部分が見え隠れしており、そこから髭が伸びることはなかった。周囲からは不思議な老人として語り草になっていた。


一方、孫の司馬章は祖父とは異なり、凛々とした黒い髪を持っていたが、左(あご)には火傷の痕があった。幼少の頃に祖父が語った哲学に心を奪われ、彼もまた、哲学者の道を志していた。


この二人は、火という概念にまつわる哲学について日々語り合っていた。


「今日はもう寝ろ、章」


祖父が言う。


「待って、じぃちゃん。この文の意味を教えて」


司馬章は祖父に問いかける。


「ふむ、これは太古の五行思想(ごぎょうしそう)じゃな」


「五行思想?」


「そう、万物は火・水・木・金・土の元素から成り立っているという考えなんじゃ」


「そんな…じぃちゃんは世界の本質が火だと言ってたのに、他の要素を受け入れるの?」


司馬典は優しく答えた。


「章、思想家というものは、自らの考えだけに固執していては真理には辿り着けぬ。他の思想を受け入れ、深く考えることで真理に近づくのじゃ」


外はすでに闇に包まれ、周りの家々はことごとく消灯していた。二人は数時間にわたって書物に没頭していた。


疲れた司馬典は、床に体を倒し、まるで説教をしているかのように愚痴をこぼした。


「そもそも“思想”というものは気に入らん!無限に広がる考えを狭めるものでしかない。いいか、章、(わし)の得た知識だけではなく、もっと広く学び、世界一の仙人(せんにん)になれ」


仙人とは、中華に多くの信者や学者を抱える大宗教・道教(どうきょう)において、神に近い存在として信じられる伝説的な存在である。司馬典もまた、そのような存在に憧れ、若いころは数々の山を登り巡る日々を送っていた。


「仙人…」


と、司馬章は呟く。


「あぁ、人の頭脳の終着点じゃ」


二人は軽い会話を交わし、眠りについた。


しかし、平穏な夜は突如として破られた。反乱軍が洛陽に攻めてきたのである。反乱軍を率いる節度使(せつどし)安禄山(あんろくざん)が挙兵し、わずか一ヶ月でこの都市にたどり着いたのだ。


「起きて!!じぃちゃん!」


司馬章は祖父の体を揺らした。


「老人の身体を優しく揺すれ!何事じゃ!」


司馬典が声を荒げた。


「反乱軍だよ!アイツらがここを攻め落としている!逃げよう!」


急いで荷物をまとめて家を出ようとしたその瞬間、司馬章の身体を一本の剣が浅く切り裂いた。


「章ッ!!」


「痛…もう来たのか⁉︎」


気がついた時には手遅れだった。反乱兵と思われる男が、血を滴らせた剣を持って司馬章の背後に立っていた。


司馬典は冷静に口を開く。


「何者じゃ。お主は。」


非思超家(ひしちょうか)に名乗る資格はない…」


その男は冷酷な目で祖父と孫を見る。


「フン…これを見てもか?」


 司馬典はそう告げると、まるで宝物のように『炎論』を取り出した。


「貴様…あの司馬典か!?」


(あの司馬典!? じぃちゃん、そんなに有名人だったのか!)


驚愕の波紋が心に広がる。


「そうじゃ。お前が思うほど、凡人じゃないぞ」


祖父の言葉には力が宿っていた。


 突然、司馬典の左手が赤い炎に包まれた。


「じぃちゃん!何だよそれ!燃えているじゃん!」


司馬章の叫び声が夜空に響く。


「ん、ああ。驚くのも無理はない。儂は炎を操れるのじゃ」


老いた体に宿る奇跡の力を司馬章は信じることができずにいる。


「イヤ、意味分かんねぇよ!」


「いいから黙って見とけ!やり方を見せてやるから!」


その口調には確固たる自信が込められていた。


 しかし、そんな二人を嘲笑(あざわら)うように、男が我慢の限界を迎えた。


「茶番は終わりにしてもらおう」


「フン、人の生活を壊しといてよく言うわ。今、気が変わった。お前の名に興味はない。ここで倒す!」


司馬典の目が鋭く光る。


 火は渦を巻き、まるで生き物のように大きくなる。


「章、よく聞け。哲学を極めれば、その哲学を妖術や魔法のように再現することができる」


あり得ない話だが、深い意味を持つ言葉。司馬章が考える暇もなく、司馬典は火を放ち、空気を震わせる。


「こんなふうにナァ!!」


その声は噴火の如く響いた。いや、噴火のように響いたのは手から放たれた火炎が立てる音であった。


 火を浴びた男は一瞬後退したが、すぐに腕で掻き消した。


「これが、"思超(しちょう)"じゃ」


司馬典の力が証明される瞬間だった。


 だが、男は隙を見て司馬典の背後に回った。


「説明してる場合か?」


男の声は冷たく、重厚に耳の中を通る。


 男は夜空色に染まった腕で司馬典の首を掴んだ。だが、司馬典は動じることのない余裕の表情だ。


「このまま、押し潰せるとでも?」


挑発的な言葉と共に、司馬典の周囲に炎が舞い上がる。


"炎壁(えんぺき)"


 炎の壁の中で、司馬典は孫に向かって最後の教えを伝える。


「いいか、儂はもう長くない。お前が儂の思想と思超を継げ」


「そんなッ!俺、思想は理解できても、思超は無理だ!そんな夢みたいなこと…」


「章!夢や幻でも、意思があれば、できるものはできる」


その声には絶望と希望が入り交じる。


やがて炎の壁が薄れ、男が侵入してきた。


「じぃちゃん!」


「この私を留まらせたのは流石だ、老いた思超家(しちょうか)よ!」


男の剣が光を放つ。司馬典は斬り裂かれ、血が地面に染み込む。


「じぃちゃん!じいちゃん!」


章の叫び声が絶望を響かせる。司馬典の呼吸が弱りかけたとき、男は次に司馬章へと向かった。


(あぁ、俺は死ぬんだ。火の本質も知れぬまま…こんなところで…)


恐怖が心を支配する。


 男の刃が振り下ろされようとしたその時。


「待て!」


死んだはずの祖父の声が。


「まだ息はあったか…」


司馬典は二つの巻物を章に投げつけた。


「章、二つの巻物を託す!一つは『炎論』、もう一つは白紙の巻物じゃ!この二つを持って逃げろ!そして、炎論の内容を頭に焼き付けながら、お前の血でもう一つの巻物に書き写せ!」


それは命を懸けた遺言だった。


 章は祖父の意思を受け取り、黙ってうなずいた。


「さァ!走れぇ!!」


司馬典の最後の叫びが響く。


 章は走った。振り向かずに、涙をこぼしながら、焼け落ちる故郷を背に駆け抜けた。


(じいちゃん……!たった一人の、大切な…じいちゃん…!最期まで、俺を(たす)けてくれて……ありがとう!!!)


________________________


「さて…スマンな。孫が逃げるまで待ってくれての」


「老いぼれには容赦ないが、ああいう"可能性"には、私にも利がある」


男の言葉は冷たく響く。


 司馬典は最後の力を振り絞って笑った。


「当たり前じゃ。自慢の孫だから!」


 決闘の最終幕が始まる。


「これで終わりだ!」


 "朱雀舞翼(すざくまいよく)" 司馬典最期の大技。 彼の腕から巨大な炎の翼が広がり、男を包み込む。 爆風が世界を揺さぶり、決闘は終焉を迎える。 火傷を負った男が洛陽の城門に向かい、敗者の遺体を静かに地に置いた。


「ハァ…ハァ…!!」


 司馬章はやっとの思いで城門にたどり着く。ここを抜ければ、助かるという微かな希望を抱き、力を振り絞る。


「さっきの…!」


 だが、そこには男が待ち伏せていた。章は祖父の死を確信する。


(じいちゃんは…)


 男は章を取り押さえ、耳元で囁く。理公子(りこうし)


「私の名は天理(てんり)。正式な名は”天上王真(てんじょうおうしん)理公子(りこうし)。貴様の祖父を殺した者だ」


(天上王真理公子……!)


「ここで貴様を殺しはしない。ただ、伝えておくべきかと思ってな。」


「な、なんだ」


 司馬章は震えていた。彼の心から出たのは想定外の言葉だった。


「私に復讐を誓え」


「え…?」


「私を殺せるほどの強力な思超家になったとき、私を殺しに来い」


男の瞳には挑発と期待の思いが混ざっていた。


 天理は去っていったが、残された言葉は章の心を焼き続ける。


「復讐を誓えだと!? ふざけるなよ…!! いつか、いつか、いつか、いつか!お前を地獄に送ってやる!天上王真理公子!!!!!」


 司馬章は怒りに全身を震わせ、叫んだ。叫んで、叫んで、また叫んで、西の方へ走り始めた。


__彼の旅は、復讐の炎から始まった。

あれから三ヶ月後、


 司馬章は、長安と洛陽の間にある小さな村で、炎論の書き写しを行っていた。彼は、祖父が語った秘教、学んだ先人の知見、そしてその魂が紡いだ思想の全てを、星明かりが降り注ぐ夜空の下、脳裏に焼き付けながら記録した。


「なぜ、血で書き写すんだろう」そう自問しながらも、章はついに炎論を書き終えた。しかし、写しの炎論には不思議な余白が残っていた。


 その瞬間、彼は悟ったのだ。


__思想が全く同じ人なんて、この広い世界に一人もいない。


 その余白は、各々の心が持つ思いを、自分の手で書き加える場所だった。章は血を指に塗り、余白に自身の思想を刻み始めた。そこには、祖父の教えを基にした彼自身の解釈が込められていた。火は、司馬章の新たな旅路の始まりを告げるかのようだった。

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