第1話 コタエの始まり
哲学。それは、とても傲慢な学問である。
絶対的な神でもない、一人間のくせに、この世界がどうとか、宇宙がどうとか、ひとがどうとか、到達できないものを到達できたかのように豪語する。とても愚かな学問である。
だが、哲学は他の学問を常に生み出して来た。複雑な哲学は論理をはらみ、科学となる。壮大な哲学は存在観をはらみ、宗教となる。
とても傲慢で、とても人間らしい学問である。
たった一つの灯火を起こして歓喜したことから生まれた人間は、これからどこへ向かうのか、誰にも分からない。だからこそ、どこへだって行ける。限りなく傲慢になれる。
すべてを超越できるのだ。
西方のとある預言者が生誕して七五五年の刻が経った年。
中華の大帝国・唐、第二の都市・洛陽は、反乱の火種が燃え広がる前夜の、張り詰めた静寂の中にあった。
とある民家の奥。白髪混じりの老人、司馬典と、その孫、司馬章は、数刻にわたる議論の末、疲労と興奮の交錯する部屋の中にいた。
司馬典の口からは、優雅な墨の香りに混じって、時折、炎を燻らせたような荒々しい息が漏れる。
司馬典は、中華の知識人たちの中ではかなり著名な炎の哲学者であり、彼の著作【世炎論】は、当時の学界に静かな、しかし確かな波紋を広げていた。
七十を超えた彼の髭は白く、しかし根元の一部は、まるで激しい炎で焼かれたように黒く炭化しており、そこから毛が伸びることは二度となかった。
この特異な外見は、彼の思想家としての象徴であり、周囲からは奇妙な火炎の老人として語り草にもなっていた。
一方、孫の司馬章は、祖父とは対照的に凛々とした黒髪を持っていたが、左顎には幼き日の火傷の痕が残る。
その傷は、彼が祖父の語る「火の哲学」に心を奪われ、自らもまた、その真理を追う思索の徒となった、言わば師事の証のようであった。
「日は落ちたぞ、章。今日はもう休め」
祖父が言う。
「待ってくれ、じぃちゃん。この文、どうしても理解できない」
司馬章は、古びた竹簡の一節を指差した。
「万物は火・水・木・金・土の元素から成るという、この太古の五行思想の記述。じぃちゃんは、世界の本質は『火』の一元であると説いたはずだ。なぜ今、他の要素を受け入れる必要がある?」
司馬典は、その黒く焼けた髭の根元を指で軽く撫でた。
「章よ、お前は【世炎論】の本質を忘れておる。わしが説く火は、燃焼のことではない。それは、変化と持続…更に突き詰めれば、終焉と始動を可能にする純粋な力の概念…すなわち"万象の原理"じゃ」
彼は深く、重みのある声で続けた。
「思想家というものは、自らの説に完全に固執しては、真理への道を閉ざしてしまう。五行思想を学ぶのは、儂が提唱する火の原理が、いかにして水や土といった静的な概念を『動かし』、世界を構成する原動力となっているかを、示すためじゃ。他者の思想に呑まれるのではない。他者の思想を受け入れることで、その思想の構造そのものを、儂の【世炎論】の内部に取り込み、真理の壁を超えてゆくのじゃ」
司馬章は、祖父の言葉の深さに息を飲んだ。
それは、単純な学説の比較ではなく、世界に対する認識の枠組みそのものを超越する行為。やはり祖父は、他の思想家とは一線を画す、よい意味で異質な存在だ。
外は闇に包まれ、洛陽の他の民家は灯りを消していたが、二人の思索の灯りは消えることがなかった。
疲れた司馬典は、床に横になりながら、まるで説教のようにブツブツと文句を垂れ流す。
「そもそも『思想』という言葉自体が気に入らん。無限に広がる知の可能性を、特定の枠組みに閉じ込めるものでしかない。いいか、章。わしが書き記した【世炎論】だけではなく、さらに広く深く学べ」
司馬章は笑顔でうんうんと頷く。来年で十七だが、このときだけは幼い子どものようだ。
司馬典は、彼の目を見て、幼い頃からの司馬章との思い出の日々ことを思い出す。
自身の仕事や趣味に関心を示し、輝いた目で見ていた七つの頃の司馬章、
他の子どもたちとの関係がうまくいかずに、傷だらけで泣きながら帰ってきた九つの司馬章、
司馬典の書籍を漁り、夜が更けるまで熱読していた十二の司馬章、
そして最後に思い出したのは、とある言葉に憧れていた十五の頃の司馬章の顔。
司馬典は、少し間をおいて言った。
「そして、世界一の仙人となれ」
「仙人……」
司馬章は呟く。
「あぁ。それは道家の伝説ではない。わしらが目指す、人の知が到達できる知の終着点じゃ。自らの思考を世の真理そのものと融合させ、理の深淵に辿り着く存在。すなわち、思超家の究極の姿…」
「…思超家?」
「…いや、今のは聞かなかったことにしてくれぃ」
二人は、その壮大な目標を軽い会話のように交わし、短い眠りについた。
彼らは知る由もなかった。
その心の流れで生じた夢が、世界の流れに崩されてしまうことを。
――――――――――――――――――――――――
その夜の平穏は、突如として破られた。
唐の節度使、安禄山が挙兵し、その反乱軍が驚異的な速度で洛陽に迫っていたのだ。
僅か一ヶ月での都市陥落。
それは、人々が武力によって蹂躙される、最も原始的な暴力の形だった。
「起きて!! じぃちゃん、反乱軍だ!」
司馬章は祖父の体を激しく揺さぶる。
司馬典は老体を感じさせない俊敏さで飛び起きた。
「老人の身体は優しく揺すれ!何事じゃ!」
「反乱軍だ!逃げよう!」
二人は急いで│荷物をまとめ、家を出ようとする。
その瞬間、鋭い音と共に、一本の剣が司馬章の身体を浅く切り裂いた。
「章ッ!!」
「ぐっ…嘘だろ…!?もう来たのか⁉︎」
司馬章の背後には、闇夜色の長衣を着、闇夜色の│長髪《長髪》を風に靡かせた男が立っていた。
男の剣の切先からは、微かに血が落ちている。
司馬典は、その場の血生臭さにも動じることなく、静寂を保ったまま口を開いた。
「何者じゃ。お主は」
男は冷酷な、感情を欠いたような目で二人を見据える。
「貴様らのような非思超家に、私の名を名乗る資格はない」
「フン……非思超家、だと?これを見てもそう言えるか」
司馬典はそう告げると、衣の内側から、彼自身の魂の記録…【世炎論】を、まるで剣のように取り出した。
(さっきから何なんだよ…思超家、思超家って)
一人の青々《あおあお》しい少年…│司馬章だけが、話についていけない状況。
男の表情に、微かな動揺が走った。
「貴様……まさか、あの司馬典か!?」
(あの司馬典…!? じぃちゃん、そんな│武人にも名を知られた存在だったのか!?)
驚愕の波紋が司馬章の胸中に広がる。
「そうじゃ。お前が思うほど、凡庸な老いぼれではないぞ」
祖父の言葉には、確固たる自信と威厳が宿っていた。
その瞬間、司馬典の左の手の掌が、眩い赤色に包まれた。
それは単なる光ではなく、熱を帯びた…凝縮された炎だった。
「…じぃちゃん!何なんだよそれ!手が燃えているじゃん!」
司馬章の叫び声が緊迫感を切り裂く。
「ああ。驚くのも無理はない。儂は【世炎論】を極め、その思想を現象として再現できる。…すなわち、思超の使い手・思超家じゃ」
思想を極めると、それが妖術のように再現できる…。まったくもってありえない話だ。
老いた体に宿る、常識を超越した力を、司馬章は、それが夢か幻かと疑わざるを得ない。
「イヤ、意味分かんねぇよ!だから思超?思超家?って何なんだよ!!!!!どういう│仕組…」
「いいから黙って見とけ!儂の理論が、いかにしてこの世界に顕れるか、その真髄を見せてやる!」
司馬典の大声で、司馬章の言葉を遮る。
その口調には、戦場を前にした恐怖はなく、ただ勝利への確信だけが込められていた。
しかし、男は二人の間に割って入った。
「茶番は終わりにしてもらおう。貴様たちは、我が剣の前に無力だ」
「フン、人の生活と書物をブッ壊しといてよく言うわい。今、気が変わった。お前の名に興味はない。…ここで倒す!」
司馬典の目が鋭く光を放った。
炎は司馬典の左手に渦を巻き、まるで意思を持った生物のように膨張していく。
「よいか、章。よく聞け。知を極めるというのは、世の現象そのものと融合し、移り変わることじゃ。儂は、火の原理が万物を動かすと確信し、その確信を、世に顕す。妖術や魔法ではない。これは、思索や強い思念が世を揺るがす、「思う」を「超えた」力…即ち思超じゃ」
あり得ない話だが、その言葉には、妙に納得のいく響きがあった。
司馬章が思索に耽る暇もなく、司馬典は火を放ち、空気を震わせた。
「これが、│儂の思超・【世炎論】じゃ!」
火炎は咆哮を上げ、男に向かって爆発的に広がった。
男は一瞬後退したが、すぐにその夜空色の袖で炎を掻き消した。
ただ、炎に触れた腕には、僅かな焦げ跡が残る。
「流石は【世炎論】の司馬典。並の思超家とは一線を画す」
男の声には、微かな興味が混ざっていた。
しかし、男は一瞬の隙も見逃さなかった。
炎が消えた直後、彼は司馬典の背後に回り込んでいた。
「だが…いちいち孫に説明してる場合か?」
男の声は冷たく、重厚に耳の中を通る。
夜空色に染まった男の腕が、司馬典の首を掴んだ。
だが、彼は動じることなく、余裕の笑みを浮かべていた。
「このまま、儂を押し潰せるとでも?」
挑発的な言葉と共に、司馬典の周囲に炎が再び舞い上がった。
「炎壁」
炎の壁が上がる。
男は攻撃を遮られ、動きを止めた。
轟々と燃えたぎる炎の中、司馬典は地べたに座り、ゆっくりと呼吸した。
男の攻撃か、この世の法則か…炎の壁は永遠に建つはずもなく、徐々に火炎は小さくなってゆく。
炎の壁の中で、司馬典は孫に向かって最後の教えを伝えた。
「いいか、章。儂はもう長くない。お前が儂の思想と思超を継げ」
「そんなッ…!無理だ!俺はまだ理論を理解し切れてもいない!思超なんて、そんな夢みたいな力……」
「章!夢や幻ではない。意志があれば、できるものはできる!全ては意志の力にかかっている。信念を貫け! 不可能を超えよ!!」
炎の壁が薄れ、男が焦燥に駆られた表情で侵入してきた。
「じぃちゃん!」
司馬章の声は、虚しく響く。
「この私を留まらせたのは流石だ、老いた思超家よ!」
男の剣が冷たい光を放ち、司馬典の胸を深く貫いた。
鮮血が地面に染み込む。
「じぃちゃん!…じぃちゃん!」
司馬章の絶望の声が、焼け落ちる。洛陽の夜空に響き渡る。
司馬典の呼吸が弱りかけたその刹那、男は次の標的である司馬章へと剣先を向けた。
(ああ、俺は死ぬのか。世の本質も知れぬまま……こんなところで、全ての探究が終わるなんて……)
仙人にもなれないなんて…
恐怖が、司馬章の心を支配する。
男の刃が振り下ろされようとした、まさにその時。
「待て!」
死に瀕した祖父の声が、奇跡のように響いた。
「まだ、息はあったか…」
男は警戒しながらも、剣を止めた。
司馬典は最後の力を振り絞り、司馬章に二つの書物を投げつける。
「章、この二つを託す!一つは儂の著書たる【世炎論】、そして…もう一つは白紙の書物じゃ!この二つを持って逃げろ!」
血を吐きながら、彼は続けた。
「【世炎論】の内容を、お前の魂の奥底まで焼き付けながら、お前の血で、もう一つの書に書き写せ!」
それは、命を懸けた、狂気にも似た遺言。
司馬章は祖父の意思を受け取り、黙って深く、深く、頷いた。
「さァ!走れェ!!」
司馬典の最後の咆哮が、司馬章の背中を押した。
司馬章は走った。振り向かずに、涙をこぼしながら、焼ける故郷と、最愛の祖父の死を背に駆け抜けた。
(じぃちゃん……!たった一人の、大切な祖父……!最後まで、俺を救ってくれて……ありがとう!!!)
――――――――――――――――――――――――
「さて…スマンな。孫が逃げるまで待ってくれての」
司馬典は、胸を貫かれながらも、男に向かって自慢げに微笑んだ。
「老いぼれには容赦はしないが、ああいう"可能性"には、私にも利がある…いや、あれは生かすべきだ」
男の言葉は冷たく、無機質に響く。
司馬典は、自嘲するように笑った。
「当たり前じゃ。自慢の孫だからな!」
最後の決闘が始まる。
男が剣を深く押し込もうとしたその瞬間、司馬典の腕から巨大な炎の翼が広がり、男の全身を包み込んだ。
「朱雀舞翼」
司馬典最期にして、最も壮麗な術。
爆風が世界を揺さぶり、決闘は終焉を迎えた。
全身に深い火傷を負った勝者が、燃え盛る民家を後にし、洛陽の西城門へと向かう。
彼は敗者の遺体を、静かに地面に置いた。
――――――――――――――――――――――――
「ハァ…ハァ…!!」
司馬章は、全身の痛みに耐えながら、やっとの思いで城門にたどり着く。
ここを…ここさえ抜ければ。
微かな希望を抱き、力を振り絞った彼の目に、衝撃の…信じ難いものが映った。
「さっきの…!」
そこには、全身を夜空色で包み直した男が、待ち伏せていた。
勝者は、この男であった。司馬章は祖父の死を、この男の存在によって決定的に確信したのだ。
(じぃちゃんは、コイツと…!)
男は司馬章を取り押さえ、その耳元で、静かに、冷酷に囁いた。
「私の名は天理。正式な名は天上王真理公子。お前の祖父を殺した者だ」
(天上王真理公子……!)
その名を、司馬章の魂は生涯忘れることはないだろう。
「言っておくが、私は単なる安禄山軍の兵士ではない。…私も、思超家だ」
彼は、司馬章の持つ【世炎論】を、冷酷な眼で眺めている。
「ここでお前を殺しはしない。ただ、伝えておくべきかと思ってな…」
「な、なんだ……」
司馬章は全身を震わせ、かろうじて声を絞り出している。
そして、天上王真理公子は、予想外の言葉を放った。
「…私に復讐を誓え」
「え…?」
「私を殺せるほどの強力な思超家になったとき、私を殺しに来い。お前には、その血と、祖父を失った傷がある。そして、奴と同じ炎の原理を持つ【世炎論】がある。真の思超家は、目的という"燃料"を持たねばならない」
男の瞳には、挑発と、未来の強敵に対する底知れぬ期待の思いが混ざっていたようにも見えた。
天上王真理公子…天理は去っていったが、残された言葉は司馬章の心を、祖父の炎よりも激しく焼き続けた。
「復讐を誓えだと!? ふざけるなよ…!! いつか、いつか、いつか、いつか!お前を地獄の業火で焼いてやる!天上王真理公子!!!!!天上王真理公子ィィィィィ!!!!!!」
司馬章は怒りに全身を震わせ、絶叫した。叫んで、泣いて、叫んで、泣いて、また叫んで、ただ西の方へと走り始めた。
彼の旅は、祖父の遺志と、復讐の炎から始まったのだった。
あれから三ヶ月後。
司馬章は、長安と洛陽の間にある、戦火を免れた小さな村に身を潜めていた。
毎晩、彼は星明かりの下で祖父の【世炎論】を広げ、もう一つの白紙の書に向き合う。
祖父・司馬典が語ったこと、学んだ先人の知見、そしてその魂が紡いだ思想の全てを、一字一句、脳裏に焼き付けながら記録する。そして、その筆記には、天理に斬られたときの傷口から滲む血を用いた。
「なぜ、血で書き写すんだろう」
司馬章は、作業中、幾度となく自問した。血は生命であり、苦痛であり、そして何よりも祖父の死の記憶そのものだ。
血は墨よりも濃く、乾けば黒に近い赤となって紙に刻まれる。単なる記録ではない。それは、司馬章自身の生命をもって、祖父の思想を再観測し、自らの存在に固定する、痛みを伴う思超の記録だった。
臥薪嘗胆。
薪の上で寝て、その痛みを忘れることなく感じ、越の制圧といった目的を果たした呉王のように。
熊の肝を舐め、その苦みを忘れることなく感じ、呉の滅亡という夢を叶えた越王のように。
思超という具象化された思想を習得するには、崩れることない信念と苦難が必要なのかもしれない。
そして、ついに彼は【世炎論】の全編を写し終えた。しかし、写し終えた書物には、不思議な余白が残っていた。それは祖父の【世炎論】には存在しない、意図的に空けられた空間だった。
その瞬間、司馬章は、祖父の言葉の深遠な意味を悟ったのだ。
祖父は言った。「思想というものは、無限に広がる知の可能性を狭めるものでしかない」と。
この余白こそが、祖父の…司馬典という思想家の哲学の核心だった。
思想が全く同じ人なんて、この広い世界に一人もいない。
【世炎論】は、完全ではない。
それは、司馬典が自らの生、自らの血と経験、自らの夢…いや、復讐の炎を通して獲得する、固有の認識を書き加えるための「導火線」だったのだ。
司馬章は震える指を血に浸し、その余白に、自身の思想を刻み始めた。そこには、祖父の教えを基にした、彼の新たな解釈が込められていた。
この時、白紙だらけの書物は、血をもって埋められ、司馬章の新たな旅路を告げる、炎のように熱い哲学書となった。
彼はその書を懐に天上王真理公子への復讐という、巨大な目標を胸に、西の空へ向かって歩き出した。
足を踏み出すとき、祖父のような声が脳裏を過った気がした。忘れていた何かを思い出させるよう促している声。
だが、今はそんなことはどうでも良かった。
声は天の彼方へ消え、壮大な夢が炎となり、彼の道を照らす。
第一の目的地は、長安。中華一の都。かくして、司馬章の旅の第一歩は踏み出された。




