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BEYOND SOUL  作者: 史邦ヒスト
東章 長安編
1/63

第1話 コタエの始まり

 哲学。それは、とても傲慢な学問である。

 絶対的な神でもない、一人間のくせに、この世界がどうとか、宇宙がどうとか、ひとがどうとか、到達できないものを到達できたかのように豪語する。とても愚かな学問である。

 だが、哲学は他の学問を常に生み出して来た。複雑な哲学は論理をはらみ、科学となる。壮大な哲学は存在観をはらみ、宗教となる。

 とても傲慢で、とても人間らしい学問である。

 たった一つの灯火を起こして歓喜したことから生まれた人間は、これからどこへ向かうのか、誰にも分からない。だからこそ、どこへだって行ける。限りなく傲慢になれる。

 すべてを超越できるのだ。


 西方せいほうのとある預言者(よげんしゃ)生誕(せいたん)して七五五年ななひゃくごじゅうごねん(とき)()った(とし)

 中華(ちゅうか)大帝国(たいていこく)(とう)第二だいに都市(とし)洛陽(らくよう)は、反乱(はんらん)火種(ひだね)()(ひろ)がる前夜(ぜんや)の、()()めた静寂(せいじゃく)(なか)にあった。


 とある民家(みんか)(おく)白髪(しらが)じりの老人(ろうじん)司馬典(しばてん)と、その(まご)司馬章(しばしょう)は、数刻(すうこく)にわたる議論(ぎろん)(すえ)疲労(ひろう)興奮(こうふん)交錯(こうさく)する部屋の中にいた。

 司馬典(しばてん)(くち)からは、優雅(ゆうが)(すみ)(かお)りに()じって、時折(ときおり)(ほのお)(くすぶ)らせたような荒々しい(いき)()れる。


 司馬典は、中華の知識人たちの中ではかなり著名な(ほのお)哲学者(てつがくしゃ)であり、彼の著作(ちょさく)世炎論(よえんろん)】は、当時(とうじ)学界(がくかい)(しず)かな、しかし(たし)かな波紋(はもん)(ひろ)げていた。

 七十(ななじゅう)()えた彼の(ひげ)(しろ)く、しかし根元(こんげん)一部(いちぶ)は、まるで(はげ)しい(ほのお)()かれたように(くろ)炭化(たんか)しており、そこから()()びることは二度(にど)となかった。

 この特異(とくい)外見(がいけん)は、彼の思想家(しそうか)としての象徴(しょうちょう)であり、周囲(しゅうい)からは奇妙(きみょう)な火炎の老人(ろうじん)として(かた)(ぐさ)にもなっていた。


 一方いっぽう(まご)司馬章(しばしょう)は、祖父(そふ)とは対照的(たいしょうてき)凛々(りり)とした黒髪(くろかみ)()っていたが、左顎(ひだりあご)には(おさな)()火傷(やけど)(あと)(のこ)る。

 その(きず)は、彼が祖父(そふ)(かた)る「()哲学(てつがく)」に(こころ)(うば)われ、(みずか)らもまた、その真理(しんり)()思索(しさく)()となった、()わば師事(しじ)(あかし)のようであった。


()()ちたぞ、(しょう)今日(きょう)はもう(やす)め」


 祖父(そふ)()う。


()ってくれ、じぃちゃん。この(ぶん)、どうしても理解(りかい)できない」


 司馬章(しばしょう)は、(ふる)びた竹簡(ちくかん)一節(いっせつ)(ゆび)差した。


万物(ばんぶつ)()(みず)()(きん)(つち)元素(げんそ)から()るという、この太古(たいこ)五行思想(ごぎょうしそう)記述(きじゅつ)。じぃちゃんは、世界(せかい)本質(ほんしつ)は『()』の一元(いちげん)であると()いたはずだ。なぜ(いま)(ほか)要素(ようそ)()()れる必要(ひつよう)がある?」


 司馬典(しばてん)は、その(くろ)()けた(ひげ)根元(こんげん)(ゆび)(かる)()でた。


(しょう)よ、お前は【世炎論(よえんろん)】の本質(ほんしつ)(わす)れておる。わしが()()は、燃焼(ねんしょう)のことではない。それは、変化(へんか)持続(じぞく)さら()()めれば、終焉(しゅうえん)始動(しどう)可能(かのう)にする純粋(じゅんすい)(ちから)概念(がいねん)…すなわち"万象(ばんしょう)原理(げんり)"じゃ」


 彼は(ふか)く、(おも)みのある(こえ)(つづ)けた。


思想家(しそうか)というものは、(みずか)らの()に完全に固執(こしゅう)しては、真理(しんり)への(みち)()ざしてしまう。五行思想(ごぎょうしそう)(まな)ぶのは、わし提唱(ていしょう)する()原理(げんり)が、いかにして(みず)(つち)といった静的(せいてき)概念(がいねん)を『(うご)かし』、世界(せかい)構成(こうせい)する原動力(げんどうりょく)となっているかを、(しめ)すためじゃ。他者(たしゃ)思想(しそう)()まれるのではない。他者(たしゃ)思想(しそう)()()れることで、その思想(しそう)構造(こうぞう)そのものを、儂の【世炎論(よえんろん)】の内部(ないぶ)に取り込み、真理(しんり)(かべ)()えてゆくのじゃ」


 司馬章(しばしょう)は、祖父(そふ)言葉(ことば)(ふか)さに(いき)()んだ。

 それは、単純(たんじゅん)学説(がくせつ)比較(ひかく)ではなく、世界(せかい)(たい)する認識(にんしき)の枠組みそのものを超越(ちょうえつ)する行為(こうい)。やはり祖父(そふ)は、他の思想家しそうかとは一線いっせんす、よい意味いみ異質いしつ存在そんざいだ。


 そとやみつつまれ、洛陽(らくよう)(ほか)民家(みんか)(あか)りを()していたが、二人(ふたり)思索(しさく)(あか)りは()えることがなかった。


 (つか)れた司馬典(しばてん)は、(ゆか)(よこ)になりながら、まるで説教(せっきょう)のようにブツブツと文句もんくを垂れながす。


「そもそも『思想(しそう)』という言葉(ことば)自体じたい()()らん。無限(むげん)(ひろ)がる()可能性(かのうせい)を、特定(とくてい)の枠組みに()()めるものでしかない。いいか、(しょう)。わしが()(しる)した【世炎論(よえんろん)】だけではなく、さらに(ひろ)(ふか)(まな)べ」


 司馬章は笑顔でうんうんと頷く。来年で十七だが、このときだけは幼い子どものようだ。


 司馬典(しばてん)は、彼の目を見て、幼い頃からの司馬章(しばしょう)との思い出の日々ことを思い出す。

 自身の仕事や趣味に関心を示し、輝いた目で見ていた七つの頃の司馬章(しばしょう)

 他の子どもたちとの関係がうまくいかずに、傷だらけで泣きながら帰ってきた九つの司馬章(しばしょう)

 司馬典(しばてん)の書籍を漁り、夜が更けるまで熱読していた十二の司馬章(しばしょう)

 そして最後に思い出したのは、とある言葉に憧れていた十五の頃の司馬章(しばしょう)の顔。


 司馬典(しばてん)は、少し間をおいて言った。


「そして、世界一(せかいいち)仙人(せんにん)となれ」


仙人(せんにん)……」


 司馬章(しばしょう)(つぶや)く。


「あぁ。それは道家(どうか)伝説(でんせつ)ではない。わしらが目指(めざ)す、(ひと)()到達(とうたつ)できる()終着点(しゅうちゃくてん)じゃ。(みずか)らの思考(しこう)()真理(しんり)そのものと融合(ゆうごう)させ、(ことわり)深淵(しんえん)辿(たど)く存在。すなわち、思超家(しちょうか)究極(きゅうきょく)姿(すがた)…」

「…思超家(しちょうか)?」

「…いや、(いま)のは()かなかったことにしてくれぃ」


 二人は、その壮大(そうだい)目標(もくひょう)(かる)会話(かいわ)のように()わし、(みじか)(ねむ)りについた。


 彼らは()(よし)もなかった。



  そのこころながれでしょうじた(ゆめ)が、世界の流れにくずされてしまうことを。



 ――――――――――――――――――――――――



 その(よる)平穏(へいおん)は、突如(とつじょ)として(やぶ)られた。


 (とう)節度使(せつどし)安禄山(あんろくざん)挙兵(きょへい)し、その反乱軍(はんらんぐん)驚異(きょうい)的な速度(そくど)洛陽(らくよう)(せま)っていたのだ。

 (わず)一ヶ月(いっかげつ)での都市(とし)陥落(かんらく)

 それは、人々(ひとびと)武力(ぶりょく)によって蹂躙(じゅうりん)される、最も原始的げんしてき暴力(ぼうりょく)(かたち)だった。


()きて!! じぃちゃん、反乱軍(はんらんぐん)だ!」


 司馬章(しばしょう)祖父(そふ)(からだ)(はげ)しく()さぶる。

 司馬典(しばてん)老体(ろうたい)(かん)じさせない俊敏(しゅんびん)さで()()きた。


老人(ろうじん)身体(からだ)(やさ)しく()すれ!何事(なにごと)じゃ!」

反乱軍(はんらんぐん)だ!()げよう!」


 二人ふたりいそいで│荷物にもつをまとめ、いえ()ようとする。

 その瞬間(しゅんかん)(するど)(おと)(とも)に、一本(いっぽん)(つるぎ)司馬章(しばしょう)身体(からだ)(あさ)()()いた。


(しょう)ッ!!」

「ぐっ…うそだろ…!?もう()たのか⁉︎」


 司馬章(しばしょう)背後(はいご)には、闇夜色やみよいろ長衣ちょうい闇夜色やみよいろの│長髪《長髪》を風になびかせた(おとこ)()っていた。

 (おとこ)(つるぎ)切先(きっさき)からは、(かす)かに()()ちている。


 司馬典(しばてん)は、その場の血生臭(ちなまぐさ)さにも(どう)じることなく、静寂(せいじゃく)(たも)ったまま(くち)(ひら)いた。


何者(なにもの)じゃ。おぬしは」




 (おとこ)冷酷(れいこく)な、感情(かんじょう)()いたような()二人(ふたり)見据(みす)える。


貴様(きさま)らのような非思超家(ひしちょうか)に、(わたし)()名乗(なの)資格(しかく)はない」

「フン……非思超家(ひしちょうか)、だと?これを()てもそう()えるか」


 司馬典(しばてん)はそう()げると、ころも内側うちがわから、彼自身かれじしん(たましい)記録(きろく)…【世炎論(よえんろん)】を、まるで(つるぎ)のように()()した。


(さっきから(なん)なんだよ…思超家(しちょうか)思超家(しちょうか)って)


 一人ひとりの青々《あおあお》しい少年しょうねん…│司馬章しばしょうだけが、話についていけない状況。


 (おとこ)表情(ひょうじょう)に、(かす)かな動揺(どうよう)(はし)った。


「貴様……まさか、あの司馬典(しばてん)か!?」


(あの司馬典(しばてん)…!? じぃちゃん、そんな│武人ぶじんにも()()られた存在(そんざい)だったのか!?)


 驚愕(きょうがく)波紋(はもん)司馬章(しばしょう)胸中(きょうちゅう)(ひろ)がる。


「そうじゃ。お前が(おも)うほど、凡庸(ぼんよう)()いぼれではないぞ」


 祖父(そふ)言葉(ことば)には、確固(かっこ)たる自信(じしん)威厳(いげん)宿(やど)っていた。


 その瞬間(しゅんかん)司馬典(しばてん)(ひだり)()(てのひら)が、(まぶ)赤色(あかいろ)(つつ)まれた。

 それは(たん)なる(ひかり)ではなく、(あつ)()びた…凝縮(ぎょうしゅく)された(ほのお)だった。


「…じぃちゃん!(なん)なんだよそれ!()()えているじゃん!」


 司馬章(しばしょう)(さけ)(ごえ)緊迫感(きんぱくかん)()()く。


「ああ。(おどろ)くのも無理(むり)はない。わしは【世炎論(よえんろん)】を(きわ)め、その思想(しそう)現象(げんしょう)として再現(さいげん)できる。…すなわち、思超(しちょう)の使い手・思超家しちょうかじゃ」


 思想しそうきわめると、それが妖術ようじゅつのように再現できる…。まったくもってありえない話だ。

 ()いた(からだ)宿(やど)る、常識(じょうしき)超越(ちょうえつ)した(ちから)を、司馬章(しばしょう)は、それが(ゆめ)(まぼろし)かと(うたが)わざるを()ない。


「イヤ、意味(いみ)かんねぇよ!だから思超(しちょう)思超家(しちょうか)?って(なに)なんだよ!!!!!どういう│仕組しく…」

「いいから(だま)って()とけ!儂の理論(りろん)が、いかにしてこの世界(せかい)(あらわ)れるか、その真髄(しんずい)()せてやる!」


 司馬典しばてん大声おおごえで、司馬章しばしょう言葉ことばさえぎる。

 その口調(こうちょう)には、戦場(せんじょう)(まえ)にした恐怖(きょうふ)はなく、ただ勝利しょうりへの確信(かくしん)だけが()められていた。


 しかし、(おとこ)二人(ふたり)(あいだ)()って(はい)った。


茶番(ちゃばん)()わりにしてもらおう。貴様(きさま)たちは、つるぎ(まえ)無力(むりょく)だ」

「フン、(ひと)生活(せいかつ)書物(しょもつ)をブッ(こわ)しといてよく()うわい。(いま)()()わった。お前の()興味(きょうみ)はない。…ここで(たお)す!」


 司馬典(しばてん)()(するど)(ひかり)(はな)った。


 (ほのお)司馬典(しばてん)左手(ひだりて)(うず)()き、まるで意思(いし)()った生物(せいぶつ)のように膨張(ぼうちょう)していく。


「よいか、(しょう)。よく()け。()(きわ)めるというのは、()現象(げんしょう)そのものと融合(ゆうごう)し、(うつ)()わることじゃ。わしは、()原理(げんり)万物(ばんぶつ)(うご)かすと確信(かくしん)し、その確信(かくしん)を、()(あらわ)す。妖術(ようじゅつ)魔法(まほう)ではない。これは、思索(しさく)(つよ)思念(しねん)()()るがす、「(おも)う」を「()えた」(ちから)…即ち思超(しちょう)じゃ」


 あり得ない(はなし)だが、その言葉(ことば)には、(みょう)納得(なっとく)のいくひびきがあった。

 司馬章(しばしょう)思索(しさく)(ふけ)(ひま)もなく、司馬典(しばてん)()(はな)ち、空気(くうき)(ふる)わせた。


「これが、│わし思超(しちょう)・【世炎論よえんろん】じゃ!」


 火炎(かえん)咆哮(ほうこう)()げ、(おとこ)()かって爆発的(ばくはつてき)(ひろ)がった。

 (おとこ)は一瞬後退(こうたい)したが、すぐにその夜空色(よぞらいろ)(そで)(ほのお)()()した。

 ただ、(ほのお)()れた(うで)には、(わず)かな()(あと)(のこ)る。


流石(さすが)は【世炎論(よえんろん)】の司馬典(しばてん)(なみ)思超家(しちょうか)とは一線(いっせん)()す」


 (おとこ)(こえ)には、(かす)かな興味(きょうみ)()ざっていた。


 しかし、(おとこ)一瞬(いっしゅん)(すき)見逃(みのが)さなかった。

 (ほのお)()えた直後(ちょくご)、彼は司馬典(しばてん)背後(はいご)(まわ)()んでいた。


「だが…いちいちまご説明せつめいしてる場合(ばあい)か?」


 (おとこ)(こえ)(つめ)たく、重厚(じゅうこう)(みみ)(なか)(とお)る。


 夜空色(よぞらいろ)()まった(おとこ)(うで)が、司馬典(しばてん)(くび)(つか)んだ。

 だが、(かれ)(どう)じることなく、余裕(よゆう)()みを()かべていた。


「このまま、わし()(つぶ)せるとでも?」


 挑発的(ちょうはつてき)言葉(ことば)(とも)に、司馬典(しばてん)周囲(しゅうい)(ほのお)(ふたた)()()がった。


炎壁(えんへき)


 炎の壁が上がる。

 男は攻撃を遮られ、動きを止めた。

 轟々と燃えたぎる炎の中、司馬典は地べたに座り、ゆっくりと呼吸した。

 男の攻撃か、この世の法則か…炎の壁は永遠に建つはずもなく、徐々に火炎は小さくなってゆく。


 (ほのお)(かべ)(なか)で、司馬典(しばてん)(まご)()かって最後(さいご)(おし)えを(つた)えた。


「いいか、(しょう)わしはもう(なが)くない。お前が(わし)の思想と思超(しちょう)を継げ」


「そんなッ…!無理だ!俺はまだ理論を理解し切れてもいない!思超(しちょう)なんて、そんな夢みたいな力……」


(しょう)!夢や幻ではない。意志があれば、できるものはできる!全ては意志の力にかかっている。信念を貫け! 不可能を超えよ!!」


 炎の壁が薄れ、男が焦燥に駆られた表情で侵入してきた。


「じぃちゃん!」


 司馬章(しばしょう)の声は、虚しく響く。


「この私を留まらせたのは流石だ、老いた思超家(しちょうか)よ!」


 男の剣が冷たい光を放ち、司馬典(しばてん)の胸を深く貫いた。

 鮮血が地面に染み込む。


「じぃちゃん!…じぃちゃん!」


 司馬章(しばしょう)の絶望の声が、焼け落ちる。洛陽(らくよう)の夜空に響き渡る。


 司馬典(しばてん)の呼吸が弱りかけたその刹那、男は次の標的である司馬章(しばしょう)へと剣先を向けた。


(ああ、俺は死ぬのか。世の本質も知れぬまま……こんなところで、全ての探究が終わるなんて……)


 仙人せんにんにもなれないなんて…


 恐怖が、司馬章(しばしょう)の心を支配する。

 男の刃が振り下ろされようとした、まさにその時。


「待て!」


 死に瀕した祖父の声が、奇跡のように響いた。


「まだ、息はあったか…」


 男は警戒しながらも、(つるぎ)を止めた。


 司馬典(しばてん)は最後の力を振り絞り、司馬章(しばしょう)に二つの書物を投げつける。


(しょう)、この二つを託す!一つは儂の著書たる【世炎論(よえんろん)】、そして…もう一つは白紙の書物じゃ!この二つを持って逃げろ!」


 血を吐きながら、彼は続けた。


「【世炎論(よえんろん)】の内容を、お前の魂の奥底まで焼き付けながら、お前の血で、もう一つの書に書き写せ!」


 それは、命を懸けた、狂気にも似た遺言。

 司馬章(しばしょう)は祖父の意思を受け取り、黙って深く、深く、頷いた。


「さァ!走れェ!!」


 司馬典(しばてん)の最後の咆哮(ほうこう)が、司馬章(しばしょう)の背中を押した。


 司馬章(しばしょう)は走った。振り向かずに、涙をこぼしながら、焼ける故郷と、最愛の祖父の死を背に駆け抜けた。


(じぃちゃん……!たった一人の、大切な祖父(かぞく)……!最後まで、俺を(すく)ってくれて……ありがとう!!!)



 ――――――――――――――――――――――――



「さて…スマンな。孫が逃げるまで待ってくれての」


 司馬典(しばてん)は、胸を貫かれながらも、男に向かって自慢げに微笑んだ。


()いぼれには容赦はしないが、ああいう"可能性(かのうせい)"には、私にも利がある…いや、あれは生かすべきだ」


 男の言葉は冷たく、無機質に響く。


 司馬典(しばてん)は、自嘲するように笑った。


「当たり前じゃ。自慢の孫だからな!」


 最後の決闘が始まる。

 男が剣を深く押し込もうとしたその瞬間、司馬典(しばてん)の腕から巨大な炎の翼が広がり、男の全身を包み込んだ。


朱雀舞翼(すざくまいよく)


 司馬典(しばてん)最期にして、最も壮麗な術。


 爆風が世界を揺さぶり、決闘は終焉を迎えた。

 全身に深い火傷を負った勝者が、燃え盛る民家を後にし、洛陽(らくよう)の西城門へと向かう。

 彼は敗者の遺体を、静かに地面に置いた。



 ――――――――――――――――――――――――



「ハァ…ハァ…!!」


 司馬章(しばしょう)は、全身の痛みに耐えながら、やっとの思いで城門にたどり着く。


 ここを…ここさえ抜ければ。


 微かな希望を抱き、力を振り絞った彼の目に、衝撃の…信じ難いものが映った。


「さっきの…!」


 そこには、全身を夜空色で包み直した男が、待ち伏せていた。


 勝者は、この男であった。司馬章(しばしょう)は祖父の死を、この男の存在によって決定的に確信したのだ。


(じぃちゃんは、コイツと…!)


 男は司馬章(しばしょう)を取り押さえ、その耳元で、静かに、冷酷に囁いた。


「私の名は天理(てんり)。正式な名は天上王真(てんじょうおうしん)理公子(りこうし)。お前の祖父を殺した者だ」


天上王真(てんじょうおうしん)理公子(りこうし)……!)


 その名を、司馬章(しばしょう)の魂は生涯忘れることはないだろう。


「言っておくが、私は単なる安禄山(あんろくざん)(ぐん)の兵士ではない。…私も、思超家(しちょうか)だ」


 彼は、司馬章(しばしょう)の持つ【世炎論(よえんろん)】を、冷酷な眼で眺めている。


「ここでお前を殺しはしない。ただ、伝えておくべきかと思ってな…」

「な、なんだ……」


 司馬章(しょう)は全身を震わせ、かろうじて声を絞り出している。


 そして、天上王真理公子てんじょうおうしんりこうしは、予想外の言葉を放った。


「…私に復讐を誓え」


「え…?」

「私を殺せるほどの強力な思超家(しちょうか)になったとき、私を殺しに来い。お前には、その血と、祖父を失った傷がある。そして、奴と同じ炎の原理を持つ【世炎論(よえんろん)】がある。真の思超家(しちょうか)は、目的という"燃料(ねんりょう)"を持たねばならない」


 男の瞳には、挑発と、未来の強敵に対する底知れぬ期待の思いが混ざっていたようにも見えた。


 天上王真理公子てんじょうおうしんりこうし天理(てんり)は去っていったが、残された言葉は司馬章(しばしょう)の心を、祖父の炎よりも激しく焼き続けた。


「復讐を誓えだと!? ふざけるなよ…!! いつか、いつか、いつか、いつか!お前を地獄の業火で焼いてやる!天上王真理公子てんじょうおうしんりこうし!!!!!天上王真理公子てんじょうおうしんりこうしィィィィィ!!!!!!」


 司馬章(しばしょう)は怒りに全身を震わせ、絶叫した。叫んで、泣いて、叫んで、泣いて、また叫んで、ただ西の方へと走り始めた。

 彼の旅は、祖父(しばてん)の遺志と、復讐の炎から始まったのだった。






 あれから三ヶ月後。


 司馬章(しばしょう)は、長安(ちょうあん)洛陽(らくよう)の間にある、戦火を免れた小さな村に身を潜めていた。


 毎晩、彼は星明かりの下で祖父の【世炎論(よえんろん)】を広げ、もう一つの白紙の書に向き合う。


 祖父・司馬典(しばてん)が語ったこと、学んだ先人の知見、そしてその魂が紡いだ思想の全てを、一字一句、脳裏に焼き付けながら記録する。そして、その筆記には、天理(てんり)に斬られたときの傷口から滲む血を用いた。


「なぜ、血で書き写すんだろう」


 司馬章(しばしょう)は、作業中、幾度となく自問した。血は生命であり、苦痛であり、そして何よりも祖父の死の記憶そのものだ。

 血は墨よりも濃く、乾けば黒に近い赤となって紙に刻まれる。単なる記録ではない。それは、司馬章(しばしょう)自身の生命をもって、祖父の思想を再観測し、自らの存在に固定する、痛みを伴う思超(しちょう)の記録だった。


 臥薪嘗胆(がしんしょうたん)


 薪の上で寝て、その痛みを忘れることなく感じ、(えつ)の制圧といった目的を果たした()王のように。

 熊の肝を舐め、その苦みを忘れることなく感じ、呉の滅亡という夢を叶えた越王のように。


 思超(しちょう)という具象化された思想を習得するには、崩れることない信念と苦難が必要なのかもしれない。


 そして、ついに彼は【世炎論(よえんろん)】の全編を写し終えた。しかし、写し終えた書物には、不思議な余白が残っていた。それは祖父の【世炎論(よえんろん)】には存在しない、意図的に空けられた空間だった。


 その瞬間、司馬章(しばしょう)は、祖父の言葉の深遠な意味を悟ったのだ。


 祖父は言った。「思想というものは、無限に広がる知の可能性を狭めるものでしかない」と。


 この余白こそが、祖父の…司馬典(しばてん)という思想家の哲学の核心だった。


 思想が全く同じ人なんて、この広い世界に一人もいない。


 【世炎論(よえんろん)】は、完全ではない。

 それは、司馬典(しばてん)が自らの生、自らの血と経験、自らの夢…いや、復讐の炎を通して獲得する、固有の認識を書き加えるための「導火線」だったのだ。


 司馬章(しばしょう)は震える指を血に浸し、その余白に、自身の思想を刻み始めた。そこには、祖父の教えを基にした、彼の新たな解釈が込められていた。


 この時、白紙だらけの書物は、血をもって埋められ、司馬章(しばしょう)の新たな旅路を告げる、炎のように熱い哲学書となった。

 彼はその書を懐に天上王真理公子てんじょうおうしんりこうしへの復讐という、巨大な目標を胸に、西の空へ向かって歩き出した。

 足を踏み出すとき、祖父のような声が脳裏を(よぎ)った気がした。忘れていた何かを思い出させるよう促している声。

 だが、今はそんなことはどうでも良かった。

 声は天の彼方へ消え、壮大な夢が炎となり、彼の道を照らす。


 第一の目的地は、長安(ちょうあん)。中華一の都。かくして、司馬章(しばしょう)の旅の第一歩は踏み出された。

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― 新着の感想 ―
最新話まで見たけど天上王真理公子ってマジで何者なんだよ…笑
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