【アイデンティティと開き直り】
放課後、学校を出てからその足で真っ直ぐ週三で通ういつもの英会話へ。テスト期間であれなんであれ体調不良以外でここに通うことを止めたことはない。
三階立てのビルの三階。一階に不動産、二階に心療内科、そして階段を使って三階へ上ると一気にカフェのようなお洒落な空間が広がる。
慣れ親しんだこの扉を押すと目の前に受付兼職員室。扉から内に一歩進んだ瞬間からここの共通語は英語に変わり、受付窓に顔を傾けて挨拶を飛ばすと奥にいた受付の弘美さんがこちらにやってきて出席処理をしてくれる。
ここだけではなく各所で飛び交う英語に変わらない日常を感じ安堵しながら弘美さんと談笑していると職員室の奥から講師の一人であるデイビッドが淡く甘いブラウンの瞳をより一層輝かせながらこちらにやってきて興奮気味に声をかけてきた。
「美咲!アイドルのオーディションを受けてたんだね! 」
「なにそれ! そうなの美咲? 」
「え、なんでデイビッドが知ってるの? 」
「あのリンクがプロデュースするアイドルだよ? ここに通う子で北道高校の子も何人かいるからホームページを覗いたら美咲がいたんだ! 急いで投票したよ~」
リンク氏の知名度のグローバルさに驚愕すると同時に身内のように親しい間柄の講師に認知されていた気恥ずかしさ、そして本当に世界のどこか知らないところにまで私の存在が飛んで行ってしまっていることへ少しの恐怖を抱きながら身体の中心から沸騰するような熱を感じた。
「応援してるよ! 毎日投票する! 美咲は絶対に合格するよ」
「私も!今日帰ったら見てみるね」
まごうことなきポジティブを全身に浴びながらありがとうと返すとデイビッドから流れるように握手を求められ強い力で握り締められる。私自身に向けられた純粋な好意に一匙の安心感を得て、案内されていた今日の教室へ足を進めた。
クラスが始まってからも今日の担当だったパトリシアに同じようなことを言われ、何も知らない日本人の受講生に経緯や現状を話した。
自ら英語で紡ぐそれは客観視したものに形を変えていて、話せば話すほどに幾許か楽天的になった自分が出来上がっていく。
たとえこの英会話スクールに通う全員や職員を合わせて毎日投票してもらったとしても一度の投票で百票分の力を持つ北道生の一票には及ばないしオーディション自体の規模から見ると微々たるものなのだろうけどこのビルの三階の四角い世界の中では私はトップアイドルだ。
投票結果の発表を前にして、私はオーディションを終えた先のその後のことを考えていた。
自分でも開き直ったな、と思う。
小さな世界だし今だけかもしれないけれど私をアイドルにしてくれる環境にメンタルを甘やかせてもらうことで素直に諦めを見て生活をしている。
有希と一緒にいるときに有希を中心に声を掛けられる時間も許容して隣で待っていることができるようになったし、付け足されるように掛けられる言葉にもそれとない笑顔を作ることができるくらいに成長した。
何なら今、自己PR動画を撮りたいところ。
きっと当時より上手くカメラに笑顔を向けられる。
ほんの一瞬ではあるけれどオーディションに参加して顔が知れた身。それでも私はまだ高校二年だから、あと一年もしたら一瞬だけ世界に触れた顔も皆忘れるだろう。受験の不利にはならない。むしろオーディション参加を存分に振り翳して、少しだけ夢を見ていた留学に思いっきり焦点を当てるのもいい。私が受けられる、受かる範囲の海外の大学を吟味して心を躍らせる様子を俯瞰で見ると毎日心臓マッサージをして過ごしている自分が映る。
ただ、リンク氏にプロデュースしてもらう未来が遠ざかったことだけが心残り。