【ポジティブなネガティブ】
期末試験でコケてしまうとその段階で急に外されかねない。そこを危惧して私たち二年は一学期を終えるまでは試験対策に専念することにした。
夏休みから本腰を入れてアイドルになろうと。集会の翌日の昼休みに五分程集まってそう決めた。
三階立てのビルの三階。一階に不動産、二階に心療内科、そして階段を使って三階へ上ると一気にカフェのようなお洒落な空間。ここにはたとえ試験が近づいていようと週三ほどのペースで通い続けてきた。もう見慣れてしまっていてここに通うことへ緊張感なんて抱く事もとっくになくなっている。近所のコンビニに立ち寄ったときくらい気軽に無心で押していた扉だけれど、今日は少し早めに高鳴る鼓動と手汗を実感しながら、押す。
受付窓付近で事務作業をしていた弘美さんが扉の開閉音ですぐに顔を上げ、目が合った瞬間に日が昇りたての時の朝顔のような、全開の笑顔と流暢な英語で私を迎えた。
「美咲! おめでとう! 皆で毎日投票してたのよ! 」
響かせられた私の名前に、馴染みの講師や職員がわらわらと集まり出す。中にはそれほど関わりを持ったことのなかったような人も少し距離を取って、でもその一派だという雰囲気を醸しながら寄ってきていて、最近になってやたら旧友から連絡がくるようになったことへの違和感が目の前で具現化されたような気がした。
パラパラと飛ぶ喝采を一つに束ねて感謝の意を一言だけ述べる。これだけの人に見届けられながらなんてことはない出席処理を済ませると、呼吸置いて意を決す。
「弘美さん、私、一旦九月まで英会話お休みします」
眉毛を八の字にして分かったように頷く弘美さんのオーバーなリアクション。
「そうよね。これから忙しくなるものね」
「とりあえず最終審査を終えるまでは。落ちたらまた戻ってきますね」
ここに通わなくなった私はアイデンティティを一つ失うようで辞めるという勇気を持てず、結果口を突いたのは休むという曖昧なもの。
弘美さんは「美咲ちゃんはネガティブなのかポジティブなのかわからないわね」と言って八の字眉をそのままにして、軽く笑った。
それはこの陽だまりのような圧倒的な陽の空間に高頻度で通っても染まらなかった。確かに私は底抜けに明るい性格ではなく、ポジティブでいるためのネガティブな思考は持っている。多少のネガティブを忘れると、私はきっと調子に乗って、いつか足元を掬われる。
その日のクラスではすでに私はアイドルだった。
担当がこの英会話スクールで一番私の現在の活動を持て囃しているデイビッドだったからということも手伝っていたように思う。
これだけ持ち上げられると最後の最後にオーディションに落ちてここに戻ってくることへの恐れも芽生えてくるしこの規模の空間でのアイドルが日本、世界とキャパシティを広げて持て囃されることになった時に私はまだ規制としてのネガティブを持っていられるのかと様々な懸念が溢れて表面張力の状態をなんとか保ちながら、クラスの時間を過ごし切った。
得も言われぬ懸念の数々が歩く度にタプタプと揺れる。
それを溢れさせぬようになんとか帰宅するとリビングのソファに母が座り、レトルトのカップスープを飲みながらテレビドラマを見ていた。
「ただいま」と背中に声を掛けると目線はテレビに向けられたまま「おかえり」と返ってきて、その直後にスープを啜った。
「英会話、とりあえず今回でストップするって言ってきた」
だから当分月謝代いらないと付け足している最中に母はやっとこちらを振り返ると「あんたは本当に相談もなく…」と呆れたように放った。
私は両親から何かを強いられたことなんて一度もなく、一人で勝手に勉強をして勝手に日本一の進学校を目指し合格までして、勝手に短期留学を決めたり、でも勝手に英会話を止めず、そして勝手にオーディションへエントリーをした。
強いたこともなければ咎めることもなかったけれど一つ一つの事後報告にいつも呆れた顔をされてきた気がする。
それでも流石に今回は何かあるかなと構えてみたけれど「晩御飯、冷蔵庫だから温めて食べて。お母さん、今、目が離せないから」と再びテレビに向き合った母に今度はこちらが呆れた顔をする番に回っていた。意図の読めない羨望の眼差しが増えた今、母のいつだって変わらぬこれを心地良く思えている自分に驚く。
「私がアイドルになってもその冷めた感じ、貫いてね」
「アイドルになれると信じ込んで生きるとなれなかったときにその落差に絶望するんだから、なれるもんじゃないと踏んでなさいよ」
思いがけない良いポジティブなネガティブの例がこちらに飛ぶ。環境が人を作るって、まさしくだ。
冷蔵庫を開けてみるとご飯を一合半くらい使って作られたであろう大きめなオムライスが鎮座していて、アイドルの最終審査まで残った娘にこれほどの炭水化物を用意する我が母親らしさに安心して自室へ着替えに向かった。