ミュリエル・ブランシャールはそれでも彼を愛していた
応接室に通され、涙目でこちらを睨みつけている薄い金髪の可憐な美少女――アルエット・カルネ男爵令嬢を前に、私は溜息をついた。
誰だって溜息をつきたくなるだろう、婚約者の浮気相手が乗り込んできたという、こんな状況なら。
アルエットは震える声で話しだした。
「ミュリエル様……。レナルド様を縛り付けるのは、辞めてください。彼は私を愛しているんです」
「別に、縛り付けてなどいません」
「じゃあなんで、レナルド様は最近私に会ってくれないんですか!? 無理やり結んだ婚約なんか解消するって、そう私に言ってたのに……」
令嬢らしからぬ大声を上げるアルエット。
私は再び溜息をつきながらそれに答えた。
「さあ。私にもわかりませんわ。だって、彼、もう一月も帰ってきていないんですもの」
◆◆◆
レナルド・ラグランジュは公爵家の長男で、私の婚約者だった。
私の家、ブランシャール家は、伯爵家だが建国当時からある古い家系だ。
加えて、領土から豊富に鉱石が産出されることから、国の貴族の中でも一、二を争う豊かさを誇る。
大きな力を持っているが、どこの派閥にも属さず中立を保ってきていた。
この婚約は、ブランシャール家の娘を国王派の忠臣であるラグランジュ家に嫁がせることで、ブランシャールを国王派に取り込む狙いがあった。
王命で結ばれる婚約だ。断ることなどできない。
両親は心配したが、私は喜んで承諾した。
初めて会ったときから、レナルドに恋をしてしまっていたから。
彼に初めて会ったのは、その婚約の打診がくる少し前のこと。
黒髪にアイスブルーの瞳をした、美しい少年だった。
彼は瞳に似合わず温かく優しい笑みを浮かべていった。
「はじめまして。僕はレナルド・ラグランジュ。――君に贈り物があるんだ」
彼が差し出したのは、色とりどりの小さな花束。
「噂通り可愛らしい君に、ぴったりだろう?」
そう言って得意げに笑う。
幼い私が、ほのかな恋心を抱くのには十分だった。
それから私は、ずっと彼に夢中だった。
婚約が成立し、時々彼と私は会うようになった。
初めの印象どおり優しい少年で、引っ込み思案だった私をいつも引っ張ってくれた。
その柔らかく温かな瞳に、声色に、私はどんどん夢中になっていった。
彼の家で会うときは、だいたい彼の弟、リュカも交えた三人で遊ぶことが多かった。
それはレナルドが貴族の学園に入学するまで続いた。
ブランシャール家の人間は伝統的に学園には入学しないので、私は彼の卒業を待つことになる。
それに、結婚前に少し離れる期間を設けるのも良いだろうと思ったのだ。
レナルドは学園の寮に入り、休暇にも帰ってくることは無かった。
流石に休暇には会えるだろうと思っていた私は寂しい思いをすることになった。
二年後、レナルドの卒業まで後一年というところで私はラグランジュ家に住み始めた。
レナルドの母親である公爵夫人が病を患ったため、王都にあるタウンハウスの実権を完全にレナルドに譲り、公爵夫妻は自然豊かな領地でのんびり暮らすことになったのだ。
レナルドは不在のため、実質的にこの屋敷と王都での付き合いを切り盛りするのは婚約者である私の役目となった。
まだ正式に婚姻した訳ではないのではじめは辞退したのだが、公爵夫妻は幼い頃からの付き合いである私を信頼していてくれたらしく、強くお願いされ断り切ることが出来なかった。
幸いリュカは寮には入らず屋敷から通っているので、公爵夫妻が領地に越した後も相談相手は居た。
とはいえ、どちらかというと気の弱い方だった私は、横柄なメイドにも舐められる始末で、初めはかなり苦労した。
レナルドは学園でも優秀な成績を収め、ゆくゆくは宰相の地位も手に出来るのではないかと噂されているのだという。
ならば、私も、彼の婚約者として、未来の公爵夫人にふさわしい強い人間にならなければならない。
生まれ変わったつもりで頑張ろう。
そう決意した私は、実家の両親に教えを仰ぎ、リュカに相談に乗ってもらい、おかげでなんとか一年間切り抜けることが出来た。
やや傾きかけていた財政を立て直し、横領を行っていた例のメイドは追い出した。
大変だがなんとかやっていけそうだ。
レナルドが帰ってくるまでは、そう思っていた。
◆◆◆
レナルドの卒業の日、私は浮足立つ気持ちを抑え、なんとか淑女としてふさわしい表情を作り彼を出迎えた。
久しぶりの対面だ。当然レナルドも喜んでくれるものだと思っていたのだが。
彼の口から出たのは思いもよらない言葉だった。
「裏であんなことしておいて、よく僕の前に顔を出せたね。バレてないとでも思ったの?」
彼が何を言っているのか、よくわからなかった。
あんなこと? 全く心当たりがない。
「なんのことでしょうか……? よく、わからないのですが……」
困惑して聞きかえすと、彼は笑みを浮かべて答えた。
あの頃の温かさ等欠片もない、冷たい笑みだった。
「あくまでシラを切るんだね」
そして彼は私の「悪行」を教えてくれた。
私は彼が居ない間、他の令嬢たちをいじめてやりたい放題振る舞っていたらしい。
中には辛さのあまり自殺未遂をしてしまった令嬢までいたようだ。
また、あちこちで節操なく男性と遊んでいて、とっくに乙女では無くなっているらしい。
「学園で、何人もの令嬢が君に酷い目に遭わされたと訴えかけてきたよ。君と寝たって男も大勢いる。……ミュリエルがそんな女だと見抜いていたら、婚約などしなかったのに」
私の知らない「私」の話をするレナルドは、冷めた目線をこちらに向ける。
私は努めて冷静に言い返した。
「誤解があるようですわ。一度、話し合いをする必要がありそうです」
「僕を言いくるめる気だろう? 何が正しいかは僕が判断する」
そう言って彼は自室へと帰った。
その冷たい目が、忘れられなかった。
それから彼とまともに話をすることはできなかった。あちこちで遊び歩いているらしい。
苦言を呈せば、「よく人のことが言えるね? 君の行いに比べれば可愛いものじゃない?」と冷笑される。
リュカは勿論のこと、使用人たちも私を庇ってくれたがレナルドは聞く耳を持たなかった。
「ミュリエル様はレナルド様の言うような御令嬢ではございません! 何かの間違いです!」
そう言って私を庇ってくれた庭師は、しかし翌日レナルドに屋敷を追い出された。
それ以来、彼らに私を庇わないようお願いした。職を失わせる訳にはいかない。
「人を騙すのが随分うまいんだね。体でも使ったの?」
レナルドはそう言って嘲笑した。
何が彼をこんなに変えてしまったのだろう。
人から聞いた噂を頭から信じ込むような人ではなかった筈だ。
何か、私が気に障るようなことをしてしまったのかもしれない。
もう婚約を解消してラグランジュから出ていこうかとも思ったが、そこまでは踏み切れずにいた。
私はまだ、レナルドを愛することを辞められないでいたのだ。
私を愛さない人なんか、嫌いになれたら良いのに。
朝起きたら、レナルドが元に戻ってますように。または、レナルドを嫌いになれていますように。
毎晩そう願いながら眠りについたが、その願いはどちらも叶うことは無かった。
しばらくして王家主催の夜会に招待された。
勿論レナルドには同伴を断られてしまった。
「君をパートナーにするなんて御免だね。その日は家で大人しくしてると良い」
そう言われたが、王家直々に招待されたものを欠席するわけにはいかない。
出席するつもりはあるのかと問うたが、「何故君に答えなければならない? どこで何をしようが僕の勝手だろう」と吐き捨てられてしまった。
仮にレナルドが欠席するつもりなら、ラグランジュ家として誰かが参加する必要があるだろう。
そして、夜会当日。
「ミュリエルのパートナーだなんて光栄です」
がやがやと騒がしい会場の中、レナルドより少し濃い青色の瞳を細めてリュカは笑う。
学園で私の悪い噂が流れている、というレナルドの話は本当のようで、同じ年頃の貴族達からはひそひそと遠巻きにされていた。
リュカがいなければ、この場を耐えることは出来なかっただろう。
「申し訳ございません。婚約者がいないからといって、私に付き合わせてしまい……」
そう言って謝ると、リュカは笑みを深めた。
「謝らないでください。――ミュリエル、なんで僕にまだ婚約者がいないか、考えたことはありますか?」
「勿論、ありますよ。リュカはどこを取っても申し分ない素晴らしい男性なのに、なんで婚約しないんだろうって。実際、打診はたくさん来ているのではなくて?」
「ふふ。こんなに素敵な女性が近くにいたら、どんな女性も見劣りしてしまうんですよ」
「あら、リュカったら、お上手ですね」
リュカの冗談に思わず笑みが溢れる。
しかし、それはすぐに凍りつくことになった。
レナルドが入場してきたのだ。私ではない女を侍らせて。
レナルドにしなだれかかる薄い金髪の可憐な美少女は、アルエット・カルネ男爵令嬢だ。
確か、彼女も学園に通っていた筈。
……吐き気がこみ上げてくるのを感じた。
どうしてなの。なんで、私以外の女とそんなに親しそうにしているの。
そう叫びだしたい気持ちを抑え、努めて冷静に振る舞う。
ただでさえ、レナルドが婚約者以外の女をパートナーとして伴っていることで会場がざわざわとしているのだ。
これ以上周りの人間から好奇の目で見られたくなかった。
「兄さん……何を考えているんだ……」
隣でリュカが低い声で呟く。
そして震えている私の手を強く握り、優しく私に囁いた。
「……目立たない所へ行きましょう。今は関わらないのが一番です。家に帰ってから問い詰めれば良い」
「ええ、そうですね……」
そうして彼らに背を向け、息を整えて歩きだしたその時。
背後から鈴を転がすような声が響いた。
「あら? ミュリエル様ではございませんか!」
そう言ってぱたぱたと走ってくる音がする。
――アルエットの声だ。
私は聞こえなかったフリをしてそのまま歩みを進めた。
「おい、アルエットが話しかけているだろう。わざとらしく無視するなんて、本当に嫌味な女だな」
レナルドの声に、私は思わず足を止めた。
「ミュリエル?」
そう言って心配そうにリュカが私の顔を覗き込む。
「……大丈夫です」
そう答え、私は彼らの方を振り向いた。
「御機嫌よう。レナルド、アルエット様。レナルドはてっきり欠席するものだと思っていました」
そう言うと、レナルドは眉をひそめた。
「僕は欠席するなどと一言も言っていないが? 君のパートナーになることは断ったけどね。ふん、わざわざリュカにお願いしてまで夜会に出席するなんて。そこまでして男漁りがしたかったのか?」
「違います! 私は、ラグランジュ家として――」
「君はまだラグランジュじゃないだろう? それなのに、これ見よがしに屋敷を仕切って。挙句の果てにはリュカや使用人たちまで誑かすなんてね。少しは控えめで可愛らしいアルエットを見習ったらどうだ?」
私は唇を噛み締めた。
言い返したかったが、これ以上何かを言えばはしたなく叫んでしまいそうだった。
公衆の面前で淑女らしからぬ振る舞いをする訳にはいかない。
震えている私をリュカが抱き寄せた。
「申し訳ありませんが、ミュリエルの調子が良くないようです。僕たちはここで退室させていただきます」
そう言って私の肩を抱いたまま、王城を後にした。
レナルドが出席するのなら、私達が帰っても問題はないだろう。
馬車の中で私を慰めてくれるリュカの言葉を聞きながら、「大丈夫」「ありがとう」と繰り返すことしかできなかった。
◆◆◆
その夜、私はぼんやりと窓から外を眺めていた。
私を嫌っているのは分かっていたし、他に女が居るんだろうとも薄々思っていた。
しかし、やはり実際に他の女と居るのを見るのは辛い。
私の何がいけなかったんだろうか。どうすれば良かったのか。レナルドと一緒に、学園に入学していればこんな思いをせずにすんだのかもしれない。
ネガティブな気持ちがぐるぐると渦巻く。
馬車が屋敷へと入ってくるのが見えた。レナルドが帰ってきたのだろう。
……いつまでもこんな気持ちでいたら、ますますレナルドに嫌われてしまうかもしれない。
私は気持ちを切り替えようと大きく深呼吸した。
今後、婚姻してレナルドと一生一緒に居るのだ。どこかで誤解を解くチャンスはあるだろうし、一緒に居ればいずれわかってくれるだろう。
そう、信じたい。
部屋の外が騒がしくなったと思うと、乱暴に扉が開け放たれ誰かが入ってきた。
振り向くと、そこに居たのはやはりレナルドだった。
「ちょっと勝手すぎるんじゃないか? ミュリエルがあの場にいたせいで騒ぎになってしまったじゃないか。君が来なければ恥をかかずにすんだのに」
あんまりな言い分に目眩がした。
「……そもそも、私をパートナーにしていただいていれば、騒ぎにはなりませんでした。例え私が出席していなかったとしても、婚約者である私を伴っていないとなれば少なからず噂の的にはなったでしょう」
レナルドは何も答えず、ただ苛ついたように溜息をついた。
そして一枚の紙を取り出し、私に見せつける。
それが何か理解した瞬間、私は時が止まったかのような錯覚を覚えた。
「それは……婚約解消届……?」
「君がそういう態度だと、僕にも考えがあるということだ。ほら、署名して」
「ど、どうして……」
「いいから早くしろ!」
レナルドに声を荒げられ、私は鼓動が早鐘のように打つのを感じた。
彼は穏やかな声で私に囁いた。
「いいかい? これはただの保険だよ。君が大人しくしていれば、僕はこれを出さない。今は署名してもらうだけだ。……僕を愛しているなら、署名できるよね?」
抵抗したが、結局根負けして署名してしまった。
――レナルドに婚約解消を迫られた。
その事実が衝撃的で、半ば茫然自失となってしまった私は強く拒否することができなかったのだ。
満足そうに出ていくレナルドの後ろ姿を見ながら、私はただ涙を流していた。
ああ――何故私は、彼のことを嫌いになれないのだろう。
会いたくないと思っていても、いざ顔を合わせればどこか浮足だって平静ではいられなくなってしまう。
何度裏切られても愛を期待し続けてしまう。なんと愚かな生き物なのだろうか。
悔しくて、惨めで。私はその日、枕を濡らしながら眠りについた。
◆◆◆
ふらふらと覚束ない足取りで歩く。
誰もが寝静まった深夜の館は、耳が痛い程の静寂が支配していた。
私は、まっすぐにレナルドの部屋へと向かう。
遠慮なく扉を開け放つと、彼は私を待っていたかのようにこちらを向いて立っていた。
「そろそろ来ると思ったんだ」
――何故?
「僕に謝りに来たんだろう? もう差し出がましい行いはしないと。だって、君には僕しかいないんだからね」
――いいえ。
レナルドは怪訝な顔をして、そして私が握りしめているものに気づいたのか大きく驚愕に顔を歪ませた。
「な、何をするつもりなんだミュリエル。そんなことをしても何の解決にもならないぞ。わかった、話をしよう――」
――いいえ。いいえ。
私は貴方を愛することを止められない。
でも、もうこの苦しみには耐えられない。
貴方がかつて私に向けていた柔らかい笑みを、他の女には見せているのかと思うと許せない。
縋り続けることしかできない自分が惨めで辛い。
なら、貴方が、レナルドが私の世界からいなくなればいい。
そして私は、右手に握ったナイフを大きく振りかぶって、そして――
そこで、ベッドから飛び起きた。
「ゆ、夢……?」
全身から大量の汗をかいていたようで、ぐっしょりと濡れて気持ち悪い。
そうだ、夢だ。あんな恐ろしいこと、私に出来る筈がない。
――本当に?
しかし明朝、レナルドに会うことは出来なかった。
夜の間にまたどこかへ出かけてしまったのだろうか。
使用人に尋ねてみたが、口を揃えて出かけるところは見ていないという。
しかし、屋敷中どこを探しても彼を見つけることが出来なかった。
誰にも見つからないようにこっそり女の所に行ってしまったのだろうか。
……だとしても、暫く待てば、きっと帰って来るだろう。
しかし、次の日も、その次の日も。
私はレナルドに会うことは出来なかった。
忽然と姿を消してしまったのである。
そして一月が経ち、レナルドの浮気相手であるアルエットが私の元へと訪れた。
何故かレナルドはアルエットの元へも通ってはいないらしい。
私にわざわざ文句を言いに来たようだが、私に言われてもどうすることも出来ない。
そもそも婚約者である私の元へそんな文句を言いにくるのは流石にちょっとどうかと思う。
……が、私はそんなことよりも、レナルドが彼女の前にも姿を見せていないという事実が気にかかって仕方がない。
アルエット嬢にお帰りいただいた後、私は一人不安に駆られ溜息をついた。
……あれは、本当に夢だったのだろうか?
私は、本当にあの夜レナルドを手にかけてしまったのではないだろうか。
リュカも使用人たちも、どちらかと言えばレナルドよりも私に協力的だった。
もしかすると、誰かが、レナルドの死体をどこかに隠してしまったのでは?
「ミュリエル? どうしたんですか?」
客が帰ったというのに応接室から出てこない私を心配したのだろう。
リュカが気づかわしげに声をかけてきた。
その顔は、声色は、いつかの日のレナルドのように柔らかく優しいもので。
必死に抑えてきた感情を溢れさせるには、十分だった。
「わ、私が……レナルドを殺してしまったのでしょうか?」
「ミュ、ミュリエル? 何故そんなことを思ったんですか?」
「わたくし、夜会の後、レナルドの部屋で、彼を、ナイフで……。夢だと思っていたんです! でも、彼はあの日から姿を消してしまった。本当に、あれは夢だったの? 夢だと思い込みたかっただけで、本当は――」
突然泣き出した私を見て、リュカが焦ったように私を抱きしめた。
その温かな体温に安心感を覚え、そしてそれがより私の罪の意識を苛む。
「リュカは……私を庇っているのではないですか? たまに、レナルドの気配を感じる時があるんです。姿は見えないのに。彼は、魂だけになって彷徨っているのでしょうか? わたくしは、貴方の兄を、レナルドを、この手で――」
「ミュリエル」
そう言ってリュカは私の頭を優しく撫でる。
「大丈夫です。そんなことありません。全部悪い夢ですよ。――少し、疲れてしまっているようですね。この屋敷に来てからずっと頑張っていましたから、仕方ありませんよ。少しブランシャールに帰って、ゆっくりしてはどうでしょう。大丈夫です。僕がなんとかしておきます」
私は泣きながら応接室から退室し、そのままラグランジュの屋敷を後にした。
◆◆◆
ミュリエルが出ていった部屋の中、リュカは大きく溜息をついた。
そして、アルエットが出ていった後、すぐに入室していた人物に話しかける。
「これが、彼女を蔑ろにした結果だよ。満足かい――兄さん」
レナルドは、リュカの問いかけには答えず悄然とした様子で佇んでいる。
リュカは言葉を続けた。
「兄さんを憎めなかったミュリエルは、彼女の世界から兄さんを消してしまった。そうして心を守っているんだろうね。いないものとして扱われる気分はどう?」
「違う、こんなことを望んでいた訳じゃない……。ただ僕は、僕を頼っていた頃のミュリエルに戻ってほしかっただけなんだ……」
「だから、学園でミュリエルの悪い噂を流したのかい? 家の財産を使い込まれている、などと。……兄さんに取り入ろうとした者たちが嘘を膨らませて、どんどん尾ひれがついていく様は本当に胸糞が悪かったよ」
レナルドはリュカの方を見ようともしない。
ただ、独り言のように呟いた。
「……会えない時間が長引けば、卒業して一緒に住むことになった時、ミュリエルはもっと僕に執着してくれると思ったんだ。でも、ミュリエルがラグランジュで上手くやっていると聞いて、不安になった。……ミュリエルが孤立すれば、また僕を頼ってくれると思った。冷たい態度を取る僕に必死に縋ってくる姿を見て愛おしくなった」
「最低だね」
「もっと僕だけを見てほしかった。嫉妬して欲しかった。婚約解消を持ち出せば、もっと従順になってくれると思ったんだ。……あんな風になるなんて思っていなかった。あれから、どんなに話しかけても、触れても全く反応してくれなくなった」
リュカは心底軽蔑した表情を浮かべた。
「兄さんが彼女の心を壊したんだ。……さっきこの部屋に入ってきて、ミュリエルに縋り付いて泣く兄さんと、それに全く気づいていないミュリエルを見て、僕は本当に胸が苦しくなったよ。……兄さんが無理やり書かせた婚約解消届は、既にブランシャールに届けてある。全ての事情を知ったブランシャール伯は、然るべき判断を下すだろう。ああ、勿論うちの両親にも全て知らせてある。随分怒っていたみたいだよ」
ぎり、と歯噛みしたレナルドを見て、リュカはなぜか笑みを浮かべた。
ミュリエルには見せない、冷たい笑みだった。
「ミュリエルを苦しめた兄さんは許せないが、感謝している面もあるんだ。ブランシャールとラグランジュの婚姻は王命だ。兄さんが問題を起こしてくれたおかげで、ミュリエルと結婚するのは僕になるだろう。――幼い頃に諦めた初恋を成就させてくれて有難う、兄さん」
◆◆◆
レナルドと婚約解消が成立した二年後、ミュリエルはリュカと結婚し、ミュリエル・ラグランジュとなった。
ブランシャール家の娘の悪意ある噂を広め、周りを混乱させたとしてレナルドはラグランジュ家後継者の座を降ろされ、辺境の遠縁である男爵家に養子に出された。
彼の愛人であったアルエットはレナルドについて行こうとしたが、レナルド自身に激しく拒否された。
屋敷の前で口汚く罵り合う様が噂となり、アルエットは嫁ぐ先を見つけるのに苦労することになった。
婚約解消以降、ミュリエルは時折誰かを恋しがるような表情で遠くを見つめる様になった。
そういう時、彼女が誰を想っているのか、リュカは勿論気づいたが、あえてそれに触れるようなことはしなかった。
何年でも、何十年でも、彼女の心が癒えるのを待つつもりだった。
やがて時間の経過とともにミュリエルがそういった様子を見せることは減り、長男が産まれる頃にはその癖は無くなった。
ミュリエルとリュカは穏やかに愛し合うようになっていた。
そして、彼女の世界にレナルドが現れることは、二度と無かった。