第二話 かくしんぼ その2
8月26日 午前10時24分ー
雉無は木々須警察病院の5階502号室に向かっている。頭は重く、身体は水中を進むような圧力を感じていた。この2日間は眠れない日々を過ごしていたからだ。目的の病室に到着。病室前に立っている警察官に軽くお辞儀をし、ゆっくりと深呼吸をして気持ちを整える。
スライドドアを開ける手に力が入る。
ガン。
反発したドアが雉無に襲いかかる。待機中の警察官はこちらを見て、瞬きを繰り返している。
「すみません…」
俯いたままスライドドアの攻撃をかわし、病室内にスルリと入り込む。
伏せたいた顔を上げるとそこには、テレビの旅番組で見たことがあるようなホテルの一室が雉無の目に飛び込んできた。
「VIP扱いじゃん…」
一介の警察官が入院できる様なスペースではない。
窓は、はめ殺し構造になっており、光だけを取り入れ、エアコンの涼しい風が室内を循環している。
病室には似合わない高級そうなベッドに目をやった。綺麗な姿勢を保った状態で男が眠っている…。人工呼吸器や心電図モニターなどはなく、ただ男が眠っている。手首に手錠がされた状態で…。
8月25日 午前8時45分ー。
木々須警察署3階 署長室。
白で統一された一室で、窓辺を眺める女性がカップに入った紅茶に口をつける。
ゴンゴン!
ノックの仕方も知らないのかと溜息が漏れる。
「はい。どうぞ。」
「失礼します。地域課の雉無巡査。ただいま参上致しました。お呼びでしょうか?」
扉と窓辺のデスクとの間にあるソファとローテーブルを飛び越えんばかりの勢いで、雉無は署長に詰め寄る。不満と不安、怒りの混合物がこちらを見つめてくる。
「昨日はどうだった?眠れましたか?」
「留置所にお泊まりしたのは、初めての経験だったため、眠れませんでした!」
「そう。大変だったわね。」
雉無のコメカミが脈打つ。
「昨日、パトロール途中、いきなり捕まって。いきなり留置所に突っ込まれて、情報も何もなく今まで放置されてたんですけど!」
「どういうことなのかご説明頂きたいです!」
「大日署長!!」
雉無は悪びれる様子もなく、顔が赤く染め上げる。
「それはこちらのセリフです。」
大日はカップを置き、冷ややかな目を雉無に向けて続ける。
「通報があり、警ら中の隊員が木々須公園に向かう途中、フルフェイスを被り、淫らな服装の女が両手にヒールを振り回して裸足で走っているのを見つけました。」
雉無の顔がさらに赤くなる。
「分かりますね?…あなたです。」
血涙が出るのではないかと思える程、目を充血させているが、大日は続ける。
「そんな異常な行動を取る人間を捕まえて当然だと思います。しかも、勤務中のはずの!警察官の!あなたが!」
「私なら撃ちこ…」
言いかけた言葉を紅茶で流し込み、ふぅーと昂った感情をなだめた。
「いえ、今のは不適切な発言でした。」
「あの!」
「私の話は続いています。少し黙っていて下さい。」
大日の沸点もギリギリ越えない範囲を保っている。
「あなたが留置所に滞在しているのを聞いたのは、先程の事です。深夜から7時まで捜査会議に出席していました。」
「木々須公園で起きた警察官銃殺事件の捜査会議です。」
雉無の顔から血の気が引いていく…。
8月25日 午前8時05分ー。
木々須警察署 地下1階 留置所。
雉無は泥のついた自分の足をぼんやり見つめている。焼けつく地上とは違い、地下はひんやり涼しい。
「おはようございます!」
「おはよう。」
担当官のニワトリのような挨拶で雉無の意識が覚醒し始める。
ガチャ。ギーッ。
施錠されていた鉄扉の動く音が通路に反射する。
鈍い足音が近づき、雉無が滞在する個室の前で音が止む。
「どうだ眠れたか?」
見上げるとドラム缶のような体格の男が鉄格子を挟んで、前に立っている。
「岩国課長…」
雉無は男の名前を呟き、我に帰った。自身が薄汚れた淫らな格好をして、体育座りをしている自分を客観的に想像してしまったからである。
「雉無…その格好…。」
岩国はケージに入れられた可哀想なウサギでも見るかの様に視線を落としている。淫らな異性として見られているのではなく、可哀想な小動物を見るかのようだ。雉無にとって、この上ない屈辱である。
岩国は可哀想なウサギに命令を下す。
「雉無。まず道場の更衣室に行ってシャワーを浴びろ。それから制服に着替えて、署長室に行け。」
「大日署長から話があるそうだ…。」
午前8時50分ー。
木々須警察署3階 署長室。
雉無は、自分の唇が小刻みに震えているのを感じた。
さっきまで勢いで畳みかけて、昨日の事を有耶無耶にしようと考えていた浅はかな自分は消え去り、震える口から振り絞った言葉を発する。
「誰が死んだんですか…?」
「油取巡査部長です。」
「・・・」
予想だにしない名前が大日の口から飛び出してきた。
雉無の頭の中で、油取の名前が連呼する。
油取、油取、油取宗介、油取巡査部長、あぶらとり、あぶら…と…ー。
9時のチャイムが鳴る。
気づくと大日は後ろのソファに腰掛け、どうぞと手を前に出した。対面になるよう雉無を誘導する。
力なく静かに座り込む雉無を見て慰めるわけでもなく、淡々と事件の内容を掻い摘んで説明した。
「現場を見てきました。」
雉無の反応はない。ローテーブルに置かれた空のカップを見つめている。
「死亡したのは油取巡査部長で、銃撃したのは須賀巡査です。」
「・・・」
またしても予想だにしない名前を聞き、瞬時に
「どうっ…」
大日は手を大きく前に出し、雉無の言葉を制止する。
「これは私の仮説に過ぎませんが、説明します。」
「まず、油取巡査部長は暗がりに乗じて背後から須賀巡査を襲おうとしましたが、運良く須賀巡査が一撃を避け、必死に抵抗したと思われます。」
「ですが、所持していた警棒を落としてしまい、巡査部長にそれを拾われ、追い討ちをかけられたのでしょう。やむなく発砲。結果、巡査部長は右胸に命中し、失血死…。」
雉無は自身の髪を掻き回し、発狂しそうな勢いで叫ぶ。
「あいつ、ホントバカ!そんなの油取さんのイタズラに決まってる!」
「違います。」
大日は即座に否定した。
「油取巡査部長の警棒は変形していました。普通の人の力では、そうなりません。それに巡査部長の警棒の先端には、木の破片が食い込んでいました。」
だから何?という目で大日を睨みつける。
「木の幹の傷はちょうど、須賀巡査の頭の位置にあり、殺意を持って巡査を襲った事になります。」
「まだ、本人の確認は取っておりませんが、おそらく正当防衛でしょう…。」
「かっ、仮にそうだとしても、動機がありません。なんで、エリートがあんなマヌケを殺さないといけないんですか!?」
冷たい視線を向けたまま、大口は言い返す。
「質問を質問で返すようですが、あなたは昨日、あんな格好で何をしてたんですか?」
「それは!ー」
ジリジリと焼けつく屋外では蝉が大声で叫んでいた。
午前9時23分ー。
木々須警察署3階 署長室。
「これで全部です。」
大日は雉無の唇を見つめ、脳内で考えを整理するとともに、彼女の存在を否定する言葉が浮かんでいた。こんな警察官が存在していい訳がない…と。
考えをまとめ上げ、無言で立ち上がる。
「あの!」
雉無の声も虚しく、大日は背を向けたまま受話器を握り、鑑識係に内線を繋げる。
「お疲れ様です。大日です。」
受話器の向こうから疲れ切った男性の声が聞こえて来る。
「お疲れ様です…。」
「昨日の今日で申し訳ありませんが、調べて頂きたい事があります。」
疲れ切った男は、うっ…と唸った後、言葉を返そうとするが、署長はトドメを指す。
「今日中にお願いしたい事です。」
観念した男は聞き返す。
「一体何を…?」
「木々須市連続婦女暴行事件の犯人のDNAと油取のDNAが一致するか確認して欲しいんです。」
「えっ、いや、あの、それは先に油取高官の許可を…。」
「手続きと段取りは、こちらで済ませます。先に始めて下さい。科警研への連絡もお願いします。」
「それでは。」
「えっ。ーー」
続け様に、違う番号の内線へ繋げる。
「ブラック買ってきて。トールね。」
間髪入れずに、受話器を置くと一言呟いた。
「今日も帰れないわね…。」
窓辺に置いた小さな写真を少し眺めた。
ばっと後ろを向き、雉無の顔を見つめ、命令を下す。
「今日はもう帰りなさい。ひどい顔よ。あと2週間の自宅謹慎ね。明日から来なくていいわ。」
情緒的な負荷が強すぎて、雉無は立ち上がる事が出来ない。
大日はガッと雉無の腕を掴み、立ち上がらせると、そのまま扉まで引きずられ、ゴミを投げ捨てるような仕草で女性警官を廊下まで投げ飛ばした。
パンパン。
手についたホコリでも払うかのように両手をはたく。
「あっ、そうそう。明日の朝、彼の様子を見に行ってちょうだい。木々須警察病院の5階の502号室ね。私も行けたら行くわ。」
へたりこむ雉無は、そびえ立つ影に聞いた。
「えっ?誰を?」
「あなたの計画の実行犯は誰だったかしら?」
8月26日 午前11時15分ー
木々須警察病院 5階 502号室
雉無は病室内の窓際に設置されているソファに腰掛け、須賀の横顔を眺めている。
よく見れば幼さは残っているが、綺麗な目鼻立をしている。病院着の隙間から覗く鍛え上げられた体躯。2日間眠り続けているとは思えないほどに、頭髪は整っている。彼は今、どんな夢を見ているだろう?私が見せた悪夢を永遠に見せられているのではないだろう?あの時、須賀ではなく私だったら…。
須賀の眼球が左右に動き始めた。瞼の上からでもはっきりと視認できる。
雉無は思わず立ち上がり、須賀の肩を揺らす。
雉無の髪は揺り動かす度に振り子のように揺れる。
勢いに負け、ヘアピンが横たわる須賀の上にこぼれ落ちる。そんな事は、お構い無しに大声で須賀を呼ぶ。
「須賀!須賀!須賀巡査!起きろ!目を開けろ!もうそんな悪夢は見なくていい!目を開けろ!」
瞼はゆっくり動き、眼球に光を取り込む。
8月26日 午前11時23分ー
木々須警察病院 5階 502号室
「ー!…賀!…んさ!きろ!…けろ!…いい!…開けろ!」
耳元で誰かが叫んでいる…。
聞き慣れた声だ。
枯れた声が身体に響く…。
胸がざわつく。
8月26日 午後17時30分ー
木々須警察病院 地下2階 霊安所の一室
長身で端正な顔立ちの男が少し口を開けて、横たわっている。何か伝えたいのだろうか?
大日は遺体の外傷記録に目を通しながら、鍛え抜かれた長身を眺めている。須賀との面会前に念のため確認を行いたかった。
「警棒の打撃による損傷は3箇所。ひとつは喉。そしてみぞおち。最後は陰部のやや上。」
クレーターの様な円が身体の中心に沿って並んでいる。
ガチャ。
白髪の紳士が扉を開けたまま、立っている。
大日は、すかさず敬礼を行ったが、黙ったまま紳士を見つめている。
「妃君、ご苦労。」
紳士は敬礼をせず、大日の後ろで横たわる油取巡査部長を見つめている。
「つい先程まで軟禁状態だったんでね。すぐにでも、病院に駆けつけたかったんだが…。」
紳士は大日ではなく、横たわる油取に言い訳でもするかのようだ。
「承知しております。油取副総監…。」
「当初はテロではないかと情報が流れてね。SPをつけられて、自宅に軟禁状態だったよ。妻も今は泣き疲れて眠っている…。」
言葉を発しながら、息子へと近づく。
「彼はココにいるのかな?」
「彼とは誰のことでしょうか?」
関係者以外に捜査中の情報を開示する事は出来ないし、する気もない。ましてや、婦女暴行容疑がかかった警察官の父親に言えるはずもない。
「そうか…。」
疲れ切った紳士は体を屈ませ、息子の横顔をまっすぐ見つめていた。
8月26日 午後18時00分ー
木々須警察病院 5階 502号室
けたたましい猿叫を片耳で聴きながら、須賀は味気ない病院食を口にしていた。まだ手首は固定されたままだ。
ガコン。
動きの悪いスライドドアが開き、スレンダーな女性が入室してきた。
「このドア壊れているわね」
そう言いながら、大日は2人を見渡した。
「元気そうね。とても6時間前まで意識がなかったとは思えないほどに。」
「お疲れ様であります!」
ガチャ!
勢い良く手錠の繋がった腕で敬礼しようとしたが、うまくいかない。
「楽にしてていいわ。」
「あなたに確認したい事があってきたの。」
「何でありましょう?!」
「2日前の事件のことよ。」
「その前に手錠を外してやったらいいじゃないですか!」
猿が喚いている。
「あら、まだいたの?もう帰っていいわよ。」
「ここにいます!」
猿は言う事を聞かない。
すっ、と息を吸い込んだ大日は猿に命令を飛ばす。
「あなたは自宅謹慎!フルフェイス痴女はもう帰りなさい!あなたがいれば聴取の邪魔になるわ!」
「フルフェイス痴女…?」
須賀は思わず口ずさむ。
その単語に反応したのか、顔を真っ赤にして須賀を睨みつける。大日は、また雉無を掴もうとするが、スルリと避け、食べかけの病院食を持って逃げるように病室から出て行った。
「邪魔な痴女は帰ったから話を聞こうかしら。」
大日は先程まで痴女が座っていたソファに腰掛けると脚を組み、聴取の体勢を整え、須賀の顔を覗く。
「彼女が独断で婦女暴行犯を捕まえようとしていた計画は、本人から聞いています。」
「あなたが公園に到着したあたりから教えてちょうだい。」
「承知いたしました!」
手錠が甲高い音を立てる。
8月26日 午後18時10分ー
木々須警察病院 5階 502号室
須賀が当夜の説明を始め出した。
「9時少し前だったであります!私の顔目掛けて虫が突進してきました!私は虫が苦手であります!羽音を聞くだけで、パニックです!虫を回避するために体を振り回しまくりました!」
「そう。虫がいたの。」
手錠が鳴り響く室内で、大日は静かに須賀を観察する。
「体を振り回していたら、後ろから棒が飛んできたであります!びっくりしたです!パッと後ろを振り返ったら、いきなり照明も消えて、さらにパニック!持っていた警棒を振り回したであります!すると!何モノかにクリーンヒット!うめき声が暗闇に響いたであります!」
ベッドの上の器用な大立ち回りを見ながら、大日は静かに相槌をする。
「ですが!持っていた警棒を木にぶつけ落としてしまい、それを見た何モノかは私に襲いかかってきたであります!焦った私は物音がする方向に銃を発砲したであります!」
「恥ずかしながら、発砲と同時に気絶してしまいました…。」
「そう。」と答えると大日は脚を組みかえた。
「だいたい現場の痕跡の通りね。」
「ただ、少し疑問があるから聞いてもいいかしら?」
須賀は満面の笑顔で頷く。
「私ね。さっきあなたが戦った相手に会いに行ったの。それで傷を見せてもらったのだけど、正中線上に綺麗に急所を突いていたわ。喉。みぞおち。陰部の上あたりを。」
須賀は笑顔を崩さない。
「あなた、さっきは振り回したと言ったわね。突くではなく、振ると。」
「偶然で正中線3箇所全てを当てるのは不可能よ。ただ、偶然でなく故意だとしたら話は変わってくるわ。」
大日は笑顔に臆さず挑む。
「相手の体躯と動作を熟知し、思考を読み、無防備を装い、奇襲をかけ、返り討ちにする。そんな芸当ができる人間が目の前にいるなんて、思いもよらない。」
「あなた、誰なの?」
カチャリ。
須賀が腕を垂直に上げ、気持ちよさそうに大きく背伸びをする。
ベッドに繋がれた手錠の穴には、黒い針金が無惨に突き刺さっている。大日は視線を戻す。
大日は須賀と目が合ってしまった…。
8月26日 午後18時25分ー
木々須警察病院 5階 502号室
須賀は自由になった身で無機質に微笑む。
大日は目を大きく見開き、こちらを見ている。
先程までのふざけた口調をやめ、単調な言葉遣いを選び、大日の質問に応える。
「私の名前は須賀命。24歳。男性。木々須警察署地域課に配属された警察官。階級は巡査。これが質問の答えです。質問は以上ですか?」
「まだよ。まだ2日前の夜の答え合わせが出来ていないわ。」
困ったな…と手錠が繋がれていたであろう手で、整った髪を撫でる。
「では、私に対して殺人罪で逮捕と立件をしないとお約束頂けたら、お話しします。」
「そんな事は出来るわけないでしょう!」
大日は声を荒げた。
「ですが、殺人を立証する証拠は何もありません。先程のアドバイスも正式な聴取に活用させて頂きます。振るではなく突くと。あと、ボイスレコーダーを隠されているようですが、証拠には使えませんね。」
大日は、敵を見誤ったことに今更ながら気づく。
先に述べた技能を持った者の精神が未熟な筈がない…。
「どうされますか?」
選択肢は1つしか無かった。