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(男が先に捨てられる? 普通は逆だぞ)
男児は成人すれば、邑にとって貴重な労働力になる。よって大抵の農邑は、食糧難に陥ると女児から切っていく。将来、力仕事が見込めない童女は、妓楼に売り飛ばすのが一番金になるからだ。
(もしかして、これが噂の女里ってやつか?)
凱夏が耳にした話では、男がその里を訪れると大変な歓迎を受けるが、最後は女に喰い殺されて死ぬとかなんとか、かなり悲惨な結末になっていた。てっきり、よくある御伽噺の類だと思っていたが。
「お師匠! 見でけろ!」
明星の歓声で、凱夏は我に返った。
足もとを見ると、透明だった水溜りが黒く変色している。明星の肌はうっすら赤みを帯びていたが、概ね綺麗な肌色に戻っていた。凱夏は背面しか洗っていないので、前は自分でやったのだろう。
(正直、まだ訊きてぇことはあるけど……)
いきなり根掘り葉掘り訊き出すのは、気が引けたのも事実だ。急ぐことはない。続きはまたの機会で良いと判断する。
「よし。先に出て衣洗ってろ」
そう言って明星を送り出すと、凱夏は手早く自分の身を清めた。
外衣に残した装備を外して服をすすぎ、手近な木の枝に引っかける。外した武具や道具は、具合を確かめつつ素肌に装着する。下衣は水気を絞り、濡れたまま身に着けた。そのうち乾くだろう。
一通り作業を終えると、凱夏は黎峯の待つ草叢に近づいた。茂みからちょこんとはみ出た、紅い裾を目印に声をかける。
「待たせたな、黎峯。もういいぞ。蛇も出なかった」
ふん、と鼻を鳴らして黎峯は立ち上がった。
振り向きざま、
「凱夏、もう一度断っておくけど」
「天地神明に誓って覗かない。明星にもよく言い含めておく」
言いかけた黎峯の先回りをする。
「よろしい」
尊大に頷き、黎峯は雅な足取りで泉に向かった。
そのまま通り過ぎようとする黎峯を見送りかけて、凱夏はあることに気づく。華奢な姫の後ろ背に、凱夏はごく小さな声で訊ねた。
「黎峯、『頸飾り』はどうする?」
「この妾が、お前のような駄僕に預けると思う?」
「ならいい。肌身離さず持っていてくれ」
短いやり取りで会話は終わる。
反対側に戻った凱夏は、姫の言いつけ通り明星に諸注意を伝えると、さっそく火おこしの準備に取りかかった。
まずは火おこしの鉄則として、下草を刈る。その後、葉のついた枝を箒のように使って落葉や小枝を取り除き、空地を作る。この中央で火を焚けば、炎が森に移る心配もないというわけだ。
さあ焚きつけをするか、と凱夏が枯れた小枝を手にしたときだった。
「凱夏。ねえ、凱夏」
泉から声がかかった。もちろん姫である。
しかも声の大きさからして、まあまあ近い。
ここでうっかり振り返ろうものなら、大目玉だ。己の品位を落としたくはないので、凱夏は前を向いたまま黎峯に応じた。
「なんだ、どうした?」
「長裙を清めたいわ」
「俺に洗えと?」
別に構わないが、今ここで出て行けば確実に痴漢呼ばわりされるだろう。
凱夏が訊ねると、泉からは露骨にこちらを見下した声が返ってきた。
「下種め。沈めるわよ変態」
そこまで言わなくてもいいと思う。
「妾の大切な長裙を、お前のような蛮民に触らせたくない。自分でやるわ。けれど、乾かす間に裸体でいては風邪を引くから、お前の外套を寄越せと言っているの。もちろん、予備の綺麗な方をよ」
黙って耳を傾けていた凱夏は、黎峯の言う「予備」のくだりで軽い衝撃を受けた。
これは万一に備え、包帯としても使えるよう凱夏が残しておいたものだ。姫の言う通り、傷口に当てることを想定しているので清潔だが、それを黎峯に伝えた憶えはない。
予備の外套の存在なぞどこで知ったのだ、この姫君は。
「どこで知ったんだ、黎峯?」
「この森に入る前、『外套の数に限りがある』と言ったでしょう、お前」
「言ったか? そんなこと」
「言ったのよ。ほとんど呟きに近かったけれど」
きっぱりとした口調で黎峯は断言する。
「けれど妾が見たところ、お前は外套を一つしか使っていないわ。本当に一枚限りなら、『数に限りがある』とは言わない。『これしかない』、そんな言い方になるでしょう」
「だとしても、その予備が必ずしも新品とは限らねぇだろ?」
「使い古しなら、昨夜お前は迷わず童に外套をくれてやったはずよ。それでも出さなかったのは、ほかに何か理由があったから。この状況下で使いもせず、荷となっても携行する理由。お前の質からして一番あり得そうなのは……止血用の傷あてかしら」
素晴らしい洞察力、そして実に的確な人物評価だ。この姫はよくものを見ている。
「なるほど。捨て眼が利くな、黎峯。見直したよ」
手放しの称賛だったが、黎峯は一顧だにせず声を尖らせた。
「世辞はいいわ。疾く――早く外套を寄越しなさい」
「つっても黎峯、今は裸だろ? 持ってっていいのか、俺?」
「良いわけなかろうがこの変態! 痴漢! 沈め‼」
口調が姫に戻った。痴漢呼ばわりはどうも回避不能らしい。
観念して、凱夏は泉におわす公主様の繊細な御心をうかがった。
「じゃあ、どうやって渡すんだ。あてずっぽうで後ろに投げりゃいいのか?」
「莫迦者、家畜の童がいるでしょう。今回、奴僕が触れるのは特別に許してあげるから、持たせてこちらへ寄越しなさい」
「……明星はいいのか?」
「は? だからそう言っているでしょう。早くなさい。寒いわ」
そうか、明星はいいのか。そうか。
釈然としないものを感じつつ、凱夏は傍らの明星に視線を移した。一連の会話を聞いていた明星はにへらっと笑い、
「おら、非人だがらな」
と、なんでもないことのように言った。
非人――人ニ非ズ、ということか。ほうほう。明星は人ではないから、恥ずかしくもなんともないと、そういうわけか。
「わかった、持たせる。その代わり今後、明星を非人や奴僕呼ばわりするのをやめろ」
硬い声で告げた凱夏に、黎峯は当然のごとく反発を示した。
「なっ、お前は誰に向かってそんな口を――」
「弱くて無力な黎峯に向かってだ。どうする?」
「……ちっ!」
露骨に舌打ちする音が聞こえる。しばしの沈黙を経て、苛立たしげな黎峯の声が返ってきた。
「いいわ。持っておいでなさい、名無し」
次第点すれすれの返事だが、許してやるか。
凱夏は明星に外套を持たせると、黎峯のもとへ送り出した。さほど時間もかけず戻ってきた明星に、一応訊いてみる。
「どうだった、姫は?」
「まっ白できらきらすてで、仙女さまみでぇだっだ」
なんのてらいもない、ほくほく顔で明星は返答する。
これだけ無垢なら敵愾心も失せるというものだ。
凱夏は笑い、中断していた焚火の準備に取りかかろうとして――呼吸を止めた。
ほんのかすかではあるが、異様な臭気を感じる。
大気に漂う、これはなんの臭いだ。
何かを、焦がしたような。
瞬間、凱夏の脳裏で閃光が弾けた。
近くにあった大木の幹に手をかける。
予備動作もなく、凱夏はその木を登り始めた。
何かに憑かれたように、幹を蹴り上げるようにして、木上へ。この森を見下ろせる場所まで、一気に上り詰める。
たいした運動もしていないのに、心臓の鼓動が速い。
得意だったはずの木登りを、生まれて初めてじっれたく思う。
気の所為ならいいと思うも、胸騒ぎは上へ登るにつれて爆発的に膨れ上がった。このときばかりは、理性よりも本能的な焦りが凱夏を突き動かしていた。
心なしか、眼に映る景色がかすんで見える。
擦りむいたように咽喉の奥が痛い。
異臭はだんだんと強くなる。懸念が像を結び、凱夏の脳内で形作られた。特大の、不吉な死神の姿だ。
唐突に、眼の前が明るくなった。
空に出た。
一面が薄い水色の空。違う。
凱夏は勢い込んで、背後を振り返った。
曇天と言うには異様な趣の雲。眼下には深緑の樹海。その境界を、蛇のように長く伸びた炎。凱夏の視界を覆わんばかりに、濁った大量の煙が空へ立ち昇っていた。
もはや疑いようもない。
火事だ。それも恐らく、自然発火ではない。
今は山火事の季節ではないし、そもそも不帰の森の火災など聞いたことがない。可能性が零とは言わないが、現状を考えるといささか出来過ぎだろう。何者かがなんらかの意図で、この森に火を放ったと見る方が妥当だ。
例えば、凱夏と公主を亡き者にせんとする、追手とか。
「くそッ!」
腹から突き上げる怒りは、意志の力で抑え込む。
今は激している場合ではない。
逃げねば。生き延びねば。
凱夏は、東から迫る火の手を検分した。厄介なのは、煙が示す火の勢いだ。蒼天の底を這うように広がり、立ち上がる煙は、すでに雲と一体化しつつある。紙に薄墨でぼかしこんだような灰色の煙が、暗緑色の森から空へ吹き出していた。