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飛び立つ小鳥の群れをよそに、拾った木の枝で水深を測る。目測よりも少し浅い。一番深い場所でも、凱夏の腰までしかないだろう。水温は沐浴するには冷たいが、我慢できないほどではない。
源泉を探すと、奥の苔むした木の根本から、こんこんと湧き出る水があった。不潔な印象はなく、泉全体にかかる朝靄と相まって、神秘的な雰囲気を醸し出していた。
その後もしばらく周囲を歩き、入念に安全を確認した凱夏は、
「よし。先に沐浴していいぞ、黎峯」
「この変態っ! 覗き魔!」
もう通算何度目かわからない、黎峯様のお叱りを受けた。
……俺は今、そこまで罵倒されるようなことを言っただろうか。
「黎峯、まるで世界の理のように覗き大前提で言わないでくれ。明星が誤解するだろ?」
「ああ、そうか。お前は少童趣味だものね」
「それも違う!」
明星が怯えてる! 怯えてるだろ!
「お、お師匠だば、おら……」
「だから違うって! お前も真に受けんな!」
「とにかく、先は嫌よ。もしも水蛇が出たらどうするのよ?」
さらっと会話を流し、黎峯は自己主張する。
こいつ絶対昨日こと根に持ってんなと確信しつつ、凱夏は口を開いた。
「そのへんも含めて確認したんだけどな。まあ、黎峯がいいんならいいさ。遠慮なく先に使わせてもらう。一応言っておくが、ここを離れるなよ?」
「わかってるわよ。さっさと済ませなさい」
そっけなく告げて、黎峯はくるりと踵を返した。そのまま澱みない足取りで、すたすたと森の方へ歩いてゆく。
黎峯が草叢に腰を下ろすのを見届けてから、凱夏は木陰で衣服を脱いだ。明星もとなりで裸になる。外衣から必要最低限の装備を抜き取ると、凱夏はじゃばじゃばと豪快な音を立てて泉に入った。これはわざと大きな音を出すことで、獣の接近を防ぐ効果がある。動物とは案外、臆病なものなのだ。
「よし。いいぞ明星。こい」
凱夏が手招きすると、明星も泉に下りてきた。覚悟していたことだが、やはりその線は異様に細い。身体のあちこちで、くっきりと浮いた骨が痛々しかった。
「後ろを向け、明星。背中流してやる」
そう言い、凱夏は明星を反転させた。まず頭から水をかける。その後、黒ずんだ明星の背中を凱夏は丹念に洗ってやった。手拭いで肌を擦ると、面白いくらいぼろぼろと垢が剥がれる。最後に足もとを綺麗にしておかないと、あとに控える黎峯が煩そうだ。
凱夏がそんなことを考えた矢先に、
「お師匠、もそっど端よっでえが?」
明星の方から提案があった。
要望通り、水の浅い箇所に移る。すると明星は、足もとに転がった石を拾い始めた。やや大きめの、明星の手でようやく持ち上げられる程度の石だ。それらを明星は、泉を分断するようにひたすら積み上げてゆく。
真剣な面持ちなので、石遊びという雰囲気でもない。
黙って様子を見ていた凱夏は、少し遅れてその意図を知った。泉の水を堰き止めるのだ。
ほどなくして、凱夏の前には即席の水溜りが完成した。これなら汚水が流れる心配もない。
「明星、お前賢いな」
「へ?」
「想像力が豊かだ」
そう言うと、明星は不思議そうに凱夏を見返した。
「えっど……おら、頭わりぃよ? 字も読めねぇし、書げねし」
「俺はそういうことを言ってんじゃない。あんなの単純な暗記だ、莫迦でもできる。頭の良し悪しとは関係ねぇんだよ」
「ほうが?」
「そうだよ」
言うと、明星は照れ臭そうに八重歯を見せて笑い、そして俯いた。
どうも明星は、褒められると顔を伏せる癖があるらしい。それに気づいた凱夏は、この子は人に愛された経験が乏しいのだろうな、と沈鬱な気持ちで思った。
小童らしい笑顔なのに、明星の笑みは邑の小童たちのそれとは、少し違う。感覚的なことなので表現が難しいのだが、明星の方がより深みがあると言うか――含蓄のある仕草をするのだ。
そうして見方を変えてみれば、明星の人並み外れた才華はすべて、弱者の立場に拠っていることに凱夏は気づいた。
例えば隠形は、悪意から身を隠す能力。
鋭い洞察と配慮は、不遇を生き抜くための手段に。
(ああ、そうか)
凱夏は唐突に理解した。
明星とは知り合ってまだ一日だが、わかる。
明星がなりふり構わず我を張ったのは、凱夏と出会い弟子にしてくれと乞うた、あのときだけだったのだ、と。
そこにはもちろん、自分の命の危機が迫っているという、現実的な動機もあっただろう。だが今の凱夏には、こう思えてならない。
あれは明星にとって、人生初の――なけなしの勇気を集めた「我が儘」だったのではないだろうかと。
「顔を上げろ、明星」
言いながら、凱夏は明星の痩せた頬を掴み、ぐいと持ち上げた。
師の行動に戸惑う明星には構わず、
「俯くな。前を見て胸を張れ。お前には、それだけの価値がある」
言葉が真っ直ぐ届くように。明星から眼を逸らさずに、凱夏は断言した。
しかし言ってしまったあとで、少しばかり落ち込んだ。
――俯くな。前を見て胸を張れ。お前にはそれだけの価値がある。
一言一句違わず、実は師匠の受け売りだった。
己の語彙力のなさに、ちょっと本気で泣きたくなる。
「まあ、そういうことだ。上を向いて歩けってことだ。猫背だと背骨が曲がって、健康にも悪いしな。さあ座れ! 前を向け! 背中を流してやる!」
一応自分で考えた言葉もつけ足し、凱夏は垢の撤去作業を再開した。我ながら凄まじい蛇足だ。師は偉大であったと痛感する。
「あーそうだ。そういや明星、お前のいた邑ってどんなとこだったんだ?」
ごしごしと背を擦り、凱夏は苦し紛れに明星に訊ねた。
不自然な話題転換だったが、ありがたいことに明星は乗ってくれた。
「おらんどごは、邑でねぐで里で……米を作っで暮らすでだ」
朗らかな口調で、明星は考え考え言葉を紡ぐ。
そう言えば、明星の生まれを聞くのは初めてだ。案外いい質問をしたかもしれない。
今まで切り出す機会を窺っていたことなので、ここぞとばかりに凱夏は問いを重ねた。
「里ってことは、結構小さな集落だったんだな?」
「んだ。おらの里は小っせぐで龍もいねがっだがら、いちばん偉ぇのは里長さまで、あどは姉さまど、童女がいで……おらは、牛の世話がお役目だった」
その説明を聞き、凱夏は明星の背で動かしていた手を一瞬止めた。
奇妙な里だ。その話ではまるで、
「男は何してたんだ?」
一番の働き手である、男の描写がまるでない。
「お師匠みでな大人はいねがっだよ。おらみでぇな童男は、ちっどだけいだ」
ごく当たり前の口調で、明星は答える。
「じゃあ、お前の里の男衆は、全員出稼ぎにでも出てたのか?」
「『でかすぎ』?」
鸚鵡返しに明星は復唱した。
「よぐわがんねけど……初めっがら男は、あんまいねがっだよ?」
「そうか。そんなに男は少なかったのか。珍しいな」
珍しいどころか、本当に明星の言った通りの里ならば、異常だ。
「お師匠の邑は、男のが多がったんけ?」
そんな事情は露知らず、明星は背中越しにのんびり問いかけてくる。
「俺のいた邑は――」
言い差して、ふと凱夏は口を噤んだ。
俺のいた邑は、どうだったか。よく思い出せない。
「そうだな。大抵の邑は、男と女で半々ぐらいだ」
仕方なく、当たり障りのない言葉で濁す。
へぇー、ほうが、と明星はのどかな相槌を打った。こちらを訝る様子はない。面と向かわず、明星の背中を流していたことが幸いしたようだ。
ほっとして凱夏は会話を進めた。
「ええと、それでお前はこの森に置いてかれたってわけだな? 飢饉でやむを得ず」
訊ねれば、明星はこくりと凱夏に頷いた。
年が明けてからというもの、この青州では厄介事が立て続けに起こっていた。
最初の災厄は少雨だった。これが原因で旱魃となり、その数ヵ月後には大規模な蝗害──飛蝗の異常発生で、農作物が全滅した。ちまたでは窃盗や物乞いが激増し、十日ほど前には青州公が急死。青州府は機能停止状態に陥る、とまさに泣きっ面に蜂状態である。
そんな状態だったからこそ、凱夏は青州伝いに朱州へ逃げる計画を立てた、とも言えるのだが……。
(飢饉は、ちったぁ落ち着いてきたかと思ったんだけどな。甘かったか)
特に蝗害については、本当に酷かったらしい。多くの邑が丸ごと壊滅する飛蝗の大群だったと聞く。明星の里も、その被害者だったのだろう。
「あんまり気にすんなよ、明星。青州の州都も相当荒れたようだし、泣く泣く実子を手放した親も多いって話だ」
「んだ。男は役に立だねがら、いっどう先に捨でられる。仕方ね」
「そうか。恨み言のひとつも言わないなんて偉いぞ、明星」
言って、凱夏は明星の頭を撫でてやる。だが、その心中は穏やかではない。
平静を装いながらも、語られる不自然な描写に凱夏は思考を巡らせた。