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2-2

 飛び立つ小鳥の群れをよそに、拾った木の枝で水深を測る。目測よりも少し浅い。一番深い場所でも、凱夏の腰までしかないだろう。水温は沐浴みずあびするには冷たいが、我慢できないほどではない。


 源泉を探すと、奥の苔むした木の根本から、こんこんと湧き出る水があった。不潔な印象はなく、泉全体にかかる朝靄と相まって、神秘的な雰囲気を醸し出していた。

 その後もしばらく周囲を歩き、入念に安全を確認した凱夏は、


「よし。先に沐浴みずあびしていいぞ、黎峯」

「この変態っ! 覗き魔!」


 もう通算何度目かわからない、黎峯様のお叱りを受けた。

 ……俺は今、そこまで罵倒されるようなことを言っただろうか。


「黎峯、まるで世界のことわりのように覗き大前提で言わないでくれ。明星が誤解するだろ?」

「ああ、そうか。お前は少童しょうどう趣味だものね」

「それも違う!」


 明星が怯えてる! 怯えてるだろ!


「お、お師匠だば、おら……」

「だから違うって! お前も真に受けんな!」

「とにかく、先は嫌よ。もしも水蛇が出たらどうするのよ?」


 さらっと会話を流し、黎峯は自己主張する。

 こいつ絶対昨日こと根に持ってんなと確信しつつ、凱夏は口を開いた。


「そのへんも含めて確認したんだけどな。まあ、黎峯がいいんならいいさ。遠慮なく先に使わせてもらう。一応言っておくが、ここを離れるなよ?」

「わかってるわよ。さっさと済ませなさい」


 そっけなく告げて、黎峯はくるりと踵を返した。そのままよどみない足取りで、すたすたと森の方へ歩いてゆく。


 黎峯が草叢に腰を下ろすのを見届けてから、凱夏は木陰で衣服ふくを脱いだ。明星もとなりで裸になる。外衣コートから必要最低限の装備を抜き取ると、凱夏はじゃばじゃばと豪快な音を立てて泉に入った。これはわざと大きな音を出すことで、獣の接近を防ぐ効果がある。動物とは案外、臆病なものなのだ。


「よし。いいぞ明星。こい」


 凱夏が手招きすると、明星も泉に下りてきた。覚悟していたことだが、やはりその線は異様に細い。身体のあちこちで、くっきりと浮いた骨が痛々しかった。


「後ろを向け、明星。背中流してやる」


 そう言い、凱夏は明星を反転させた。まず頭から水をかける。その後、黒ずんだ明星の背中を凱夏は丹念に洗ってやった。手拭いで肌を擦ると、面白いくらいぼろぼろと垢が剥がれる。最後に足もとを綺麗にしておかないと、あとに控える黎峯が煩そうだ。

 凱夏がそんなことを考えた矢先に、


「お師匠、もそっどはじよっでえが?」


 明星の方から提案があった。

 要望通り、水の浅い箇所に移る。すると明星は、足もとに転がった石を拾い始めた。やや大きめの、明星の手でようやく持ち上げられる程度の石だ。それらを明星は、泉を分断するようにひたすら積み上げてゆく。


 真剣な面持ちなので、石遊びという雰囲気でもない。

 黙って様子を見ていた凱夏は、少し遅れてその意図を知った。泉の水を堰き止めるのだ。

 ほどなくして、凱夏の前には即席の水溜りが完成した。これなら汚水が流れる心配もない。


「明星、お前賢いな」

「へ?」

「想像力が豊かだ」


 そう言うと、明星は不思議そうに凱夏を見返した。


「えっど……おら、あだまわりぃよ? 字も読めねぇし、書げねし」

「俺はそういうことを言ってんじゃない。あんなの単純な暗記だ、莫迦でもできる。頭の良し悪しとは関係ねぇんだよ」

「ほうが?」

「そうだよ」


 言うと、明星は照れ臭そうに八重歯を見せて笑い、そして俯いた。

 どうも明星は、褒められると顔を伏せる癖があるらしい。それに気づいた凱夏は、この子は人に愛された経験が乏しいのだろうな、と沈鬱な気持ちで思った。


 小童こどもらしい笑顔なのに、明星の笑みは邑の小童こどもたちのそれとは、少し違う。感覚的なことなので表現が難しいのだが、明星の方がより深みがあると言うか――含蓄のある仕草をするのだ。


 そうして見方を変えてみれば、明星の人並み外れた才華はすべて、弱者の立場にっていることに凱夏は気づいた。

 例えば隠形は、悪意から身を隠す能力ちから

 鋭い洞察と配慮は、不遇を生き抜くための手段に。


(ああ、そうか)


 凱夏は唐突に理解した。

 明星とは知り合ってまだ一日だが、わかる。

明星がなりふり構わず我を張ったのは、凱夏と出会い弟子にしてくれと乞うた、あのときだけだったのだ、と。


 そこにはもちろん、自分の命の危機が迫っているという、現実的な動機もあっただろう。だが今の凱夏には、こう思えてならない。

 あれは明星にとって、人生初の――なけなしの勇気を集めた「我が儘」だったのではないだろうかと。


「顔を上げろ、明星」


 言いながら、凱夏は明星の痩せた頬を掴み、ぐいと持ち上げた。

 師の行動に戸惑う明星には構わず、


「俯くな。前を見て胸を張れ。お前には、それだけの価値がある」


 言葉が真っ直ぐ届くように。明星から眼を逸らさずに、凱夏は断言した。

 しかし言ってしまったあとで、少しばかり落ち込んだ。


 ――俯くな。前を見て胸を張れ。お前にはそれだけの価値がある。


 一言一句違わず、実は師匠の受け売りだった。

 己の語彙力のなさに、ちょっと本気で泣きたくなる。


「まあ、そういうことだ。上を向いて歩けってことだ。猫背だと背骨が曲がって、健康にも悪いしな。さあ座れ! 前を向け! 背中を流してやる!」


 一応自分で考えた言葉もつけ足し、凱夏は垢の撤去作業を再開した。我ながら凄まじい蛇足だ。師は偉大であったと痛感する。


「あーそうだ。そういや明星、お前のいたむらってどんなとこだったんだ?」


 ごしごしと背を擦り、凱夏は苦し紛れに明星に訊ねた。

 不自然な話題転換だったが、ありがたいことに明星は乗ってくれた。


「おらんどごは、邑でねぐで里で……米をつぐっで暮らすでだ」


 朗らかな口調で、明星は考え考え言葉を紡ぐ。

 そう言えば、明星の生まれを聞くのは初めてだ。案外いい質問をしたかもしれない。

 今まで切り出す機会を窺っていたことなので、ここぞとばかりに凱夏は問いを重ねた。


「里ってことは、結構小さな集落だったんだな?」

「んだ。おらの里は小っせぐで龍もいねがっだがら、いちばんえれぇのは里長りちょうさまで、あどはさまど、童女わらわめがいで……おらは、牛の世話がお役目やぐめだった」


 その説明を聞き、凱夏は明星の背で動かしていた手を一瞬止めた。

 奇妙な里だ。その話ではまるで、


「男は何してたんだ?」


 一番の働き手である、男の描写がまるでない。


「お師匠みでな大人はいねがっだよ。おらみでぇな童男おぐなは、ちっどだけいだ」


 ごく当たり前の口調で、明星は答える。


「じゃあ、お前の里の男衆は、全員出稼ぎにでも出てたのか?」

「『でかすぎ』?」


 おう返しに明星は復唱した。


「よぐわがんねけど……はずめっがらおのごは、あんまいねがっだよ?」

「そうか。そんなに男は少なかったのか。珍しいな」


 珍しいどころか、本当に明星の言った通りの里ならば、異常だ。


「お師匠の邑は、おのごのが多がったんけ?」


 そんな事情は露知らず、明星は背中越しにのんびり問いかけてくる。


「俺のいた邑は――」


 言い差して、ふと凱夏は口を噤んだ。

 俺のいた邑は、どうだったか。よく思い出せない。


「そうだな。大抵の邑は、男と女で半々ぐらいだ」


 仕方なく、当たり障りのない言葉で濁す。

 へぇー、ほうが、と明星はのどかな相槌を打った。こちらを訝る様子はない。面と向かわず、明星の背中を流していたことが幸いしたようだ。

 ほっとして凱夏は会話はなしを進めた。


「ええと、それでお前はこの森に置いてかれたってわけだな? 飢饉でやむを得ず」


 訊ねれば、明星はこくりと凱夏に頷いた。

 年が明けてからというもの、この青州せいしゅうでは厄介事が立て続けに起こっていた。


 最初の災厄は少雨だった。これが原因で旱魃となり、その数ヵ月後には大規模な蝗害こうがい──飛蝗バッタの異常発生で、農作物が全滅した。ちまたでは窃盗や物乞いが激増し、十日ほど前には青州公が急死。青州府は機能停止状態に陥る、とまさに泣きっ面に蜂状態である。


 そんな状態だったからこそ、凱夏は青州伝いに朱州へ逃げる計画を立てた、とも言えるのだが……。


(飢饉は、ちったぁ落ち着いてきたかと思ったんだけどな。甘かったか)


 特に蝗害こうがいについては、本当に酷かったらしい。多くの邑が丸ごと壊滅する飛蝗バッタの大群だったと聞く。明星の里も、その被害者だったのだろう。


「あんまり気にすんなよ、明星。青州の州都みやこも相当荒れたようだし、泣く泣く実子こどもを手放した親も多いって話だ」

「んだ。おどごは役に立だねがら、いっどうさぎに捨でられる。がたね」

「そうか。恨み言のひとつも言わないなんて偉いぞ、明星」


 言って、凱夏は明星の頭を撫でてやる。だが、その心中は穏やかではない。

 平静を装いながらも、語られる不自然な描写に凱夏は思考を巡らせた。


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